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一志町 かさつきじぞう
笠着き地蔵
天台真盛宗の開祖「真盛上人」ゆかりの里、一志町。
今も残る「笠着き地蔵」には、
幼い頃の真盛上人にまつわる、こんなお話が残されています。

お話を聞く

 嘉吉(かきつ)三年いうから、今から五百年以上も前やで、えらいむかしのことや。
 大仰(おおのぎ)の上出(かみで)に男の子が一人生まれたんや。
 この子はな、お腹におるときに、お母さんがお地蔵(じぞう)さんから宝(たから)の珠(たま)を授(さず)けられるありがたい夢をみたもんで、宝珠丸(ほうじゅまる)、言う名前がつけられたそうな。
 宝珠っちゅうのは宝の珠という意味や。
 宝珠丸は大変かしこい子でな、坊(ぼう)さんにしたらどうや、ということになった。
坊さんになるには、子どものころから寺できびしい修行(しゅぎょう)をせんならん。
宝珠丸が七つになったある日のことや。お父さんは、宝珠丸に
「寺で、坊さんになる修行をせい。りっぱな坊さんになるまで家に帰ってきてはならんぞ」
と、きつう言い聞かせたんや。
用語説明
嘉吉(かきつ)三年
1443年(室町時代)

大仰の上出
一志町大仰上出



 そやけどまだ子どもやもの、宝珠丸はお母さんと別れるのがつろうて、泣き出してしもた。お父さんは怒(おこ)ってな、半分おどすつもりで
「言うことをきかん子は、川へすててこい」
と言うたんやて。言われた下男(げなん)はそれを本当やとおもいこんでな、宝珠丸を家にあった笠(かさ)に乗せて権現淵(ごんげんぶち)にすててしもたんや。
 すると不思議なことにどこからともなく紫色(むらさきいろ)のめでたい雲がむくむくとわいてきて、笠ごと宝珠丸を包んでな、雲出川の流れに逆(さか)ろて上へ上へと押し上げていってな、地蔵淵(じぞうぶち)の岩で止まったんやと。
 ちょうどその時、光明寺(こうみょうじ)の盛源(せいげん)っちゅう坊さんが通りかかったんや。すると、どこからとものう、ありがたい念仏が聞こえてくるやないか。
「誰(だれ)が念仏を読んでおるのやろ」
と声をたよりに川を見てみると、かわいい子どもが笠に乗ったままお経(きょう)を読んでおる。
 
権現淵
一志町石橋の付近

光明寺



   
 坊さんは、小さい子どもがお経を読んでおるもんでびっくりなさって
「こりゃ、御仏(みほとけ)が子どもの姿(すがた)でこの世にあらわれなさったのかも知れん」
と喜んで、その子ども、宝珠丸を拾い上げてな、自分の寺へ連れて言って育てたんやと。
 それで、宝珠丸が流れ着いた淵(ふち)の大岩に、地蔵さんを刻(きざ)んだそうや。
 この地蔵さんは、宝珠丸が笠に乗って流れ着いたもんで「笠着き地蔵(かさつきじぞう)」と呼ばれるようになったとか、流れに逆ろて流れ着いたもんで「さかつき」、それがいつのまにか「かさつき」になったんやとか言われとる。
 宝珠丸は、大きいなってから京都の比叡山(ひえいざん)に登ってな、そこで一生懸命(いっしょうけんめい)坊さんになる修行をしたんやて。
 それで、立派な坊さんになってな真盛上人(しんせいしょうにん)と呼ばれるようになったんやと。
 それから真盛上人は、全国各地を歩いて御仏の教えを説いて回ってな、仏教を広めるのに力を尽くして、明応(めいおう)四年に伊賀上野(いがうえの)の西蓮寺(さいれんじ)で亡くなられたそうや。
 今もな、大仰の雲出川のそばの岩にはな、笠着き地蔵さんのお姿が、はっきりのこっておるのやで。
 
笠着き地蔵

 
比叡山
京都府と滋賀県の境にある山で、古来より王城鎮護の霊山(おうじょうちんごのれいざん)として知られ、天台宗総本山延暦寺(えんりゃくじ)がある。
 
真盛上人
天台真盛宗を開き、大津市西教寺などを再興した人
 
明応(めいおう)四年
1495年(室町時代)
 
賀上野の西蓮寺
今の上野市三田にある



読み手:鈴木 真理子さん