「人の一句」入賞句 総評
神楽果て神々人に戻りけり
八百万の神の在す国、日本。日本人は古くから様々な神を信じ、生活に隣り合うところで奉って来た。掲句は宮中のものではなく、“里神楽”であろう。高千穂の夜神楽では村人が古くから伝わる面を付けて舞う。伊邪那
岐(いざなぎ) 、伊邪那美命(いざなみのみこと)も和合のあと面を取れば、農作業で真っ黒に日焼けした男達で、観客の笑いを誘う。朝になる頃には、酒の酔いも手伝って神々も普通の人間になる。人もまた神なりやと思う逆説が嬉しい。(中原道夫氏)日盛
りや牛舎に牛のゐる暗くらさ暑い夏の一日の中でも最も日差しが強く感じられる午後、極まる暑さに生きもののすべてが声をひそめ、野山を渡る風さえも絶えた、そんな時間帯が日盛りである肥育のための多頭飼育であろう。物音のない牛舎に繋がれている牛達の存在が、「牛のゐる暗さ」である。人間の都合のために生かされている悲しみ、いわば、存在そのものの暗さを「日盛り」が際立たせた、そんな現代の憂愁をも伝える一句である。(三重県俳句協会)
吊ればすぐ富士の風来る軒風鈴
富士の裾野の集落らしい光景である。一軒家の軒先には大きくのびのびとした富士山が聳えている。その軒に風鈴を吊るや否や、涼しい風が富士山から吹いて来たのである。風鈴はすぐその風に応えてりんりんと鳴り響いたに違いない。この句で軒風鈴を吊るや否や、それを待っていたとばかりに富士山が風を送ってくるように詠んだところが佳い。新鮮な自然の息吹が感じられ、気持ちの明るくなる句である。
(有馬朗人氏)
夏の夜いつもの猫と目をあわす
この「いつもの猫」は作者の飼っている猫ではない。どこかに飼われている猫なのか、それとも野良猫なのか、とにかくいつも出会う猫なのだ。ああ、またあのネコだ、そう思うとおのずと目があう。
夏の夜、闇のなかでその猫の目がキラリと金色に光る。だから嬉しかったとも、怖かったとも書かれていない。書かれていないところを察する妙味がある句だ。(宇多喜代子氏)
斑猫に逢ってしばらくして人に
「切れ」のない一元的叙述型の句だが、言外に山中を行く“気概”が感じ取れる。それは瞬間を詠うことで力を得る俳句のセオリーとは逆の、“しばらくして”と時間の経過を書く“例外”にある。しばらくしなければ人にも会わないような山中であること。そこで出合った“斑猫”、“道おしえ”である。作者としても、このまま行けば良さそうだ―の感触、安堵のようなものを感じたに違いない。セオリー盲信では生まれなかった句。(中原道夫氏)
魯山人の造りし大器椿咲く
この句を一目見た時にぱっと魯山人の椿の絵柄が華やかに浮かんだ。大きな器に真っ赤な椿が恰もにこやかにこちらを向いている、それも今咲いたが如く艶やかな表情なのである。魯山人の椿は単刀直入に心を捉える魅力があり私はとても好きである。それと人と云うテーマを何なく品良く詠み挙げられた一句に心を奪われた。人と云ふ一字が成程云はれてみれば魯山人である事にも感心した。作者がどんな方か今改めておめでとうと申し上げたい。(星野椿氏)
大南風干されて締まる命綱
初夏から盛夏へかけて吹く南寄りの風が「南風」その中でも風力が強いのが「大南風」で順風、海女などの海の作業にとっては明るく、歓迎すべき風と言える。
そんな一日の作業を終えた海女達が、海女小屋で暖を取る時間に、明日の作業のために干されてある命綱であろう。海女と獲物を入れる桶を結ぶ綱は、その存在を知らす文字通りの命綱だ。吹き渡る大南風に乾いて白く締まる綱の微妙な質感を把えて生命感のある作。(三重県俳句協会)