本多清秋
俳人伝
本多清秋
名は忠永。叙爵して上総守に任じた。伊勢神戸藩主。父の忠統は倚蘭子と号し、徂徠に儒学を修め、諸侯中希有の篤学者と称された。清秋は宝暦七年十一月十九日襲封、俳諧を旨原に学びて長月庵・丁々窩・宇喜寿老人・老俳仙など号した。大阪城代であった時住吉に遊び、古い橋板の水底に埋もれているのを得て、文台をつくり、旨原に文を草させたことなどがある。宝暦十年三十七歳で隠居し、天明四年九月十五日六十一歳で薙髪して随翁と号し、江戸高輪桂坂の下屋敷に移った。当時、清秋の風雅は宮中に聞こえて短冊を徴されたことがあり、一門に俳諧愛好者多く、また隠居の身の心易く、教えを請う者は導き需める者には点をして与えた。追福集『ひとめぐり』に「門葉数千人、皆会其意」など見えている。当時諸侯で俳諧に学ぶ者は、みなこの老俳仙に教えをうけた。松平不昧の男露滴斎、不昧の弟雪川などは殊に親しかった。享和三年六月雪川の没後、清秋は『為楽庵雪川句集』『為楽庵雪川文集』を編集刊行した。文化七年の『那谷之歌仙』の編は旨原の三十三回忌追福集で、一門の俳句・連句を収め、清秋は「三十三とせおもへば忌も望の雪」と追壊した。
文政六年には『十二歌仙』の著もあり、稿本で伝わるものに寛政九年稿『ひけし壷』がある。文化十四年五月十七日「雨はれて蓮に真如の月夜かな」の一句を辞世として没した。年九十四。法号、桂徳院殿前総州刺史仁誉清秋随翁大居士。墓所は深川の霊岸寺。小祥忌に其香と露滴斎とも共編『ひとめぐり』が出された。
関連人物・史跡等
◆襲封(しゅうほう)・・・諸侯が領地をうけつぐこと
◆薙髪(ちはつ)・・・頭髪を剃る事
◆篤学(とくがく)・・・学問に熱心な事、広く知識のある事