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みえの文化びと詳細

地域 伊賀地域
名前 菅生 和光

無題
第20回三重県文化賞・大賞ご受賞の菅生和光さん

プロフィール  指揮者、作曲家、クラリネット奏者など、長年にわたり様々な方面で活躍している音楽家・菅生和光さんは、昭和17年に上野市(現・伊賀市)に生まれ、地元の小中学校から県立上野高校を経て、昭和36年に三重大学学芸学部音楽科(現・教育学部音楽教員コース)に入学しました。菅生さんは同大学を卒業後、大正大学とその大学院に進学し、合計で8年間の学生生活を送りましたが、その間も音楽指導者としての実績を積み上げています。三重県初の市民バンドとして今も活動する「上野バンドアカデミー」(現・伊賀シンフォニックアカデミー吹奏楽団)を設立したのも、大学生だった昭和41年のことでした。同バンドの指導は現在まで54年の長きにわたり続いています。菅生さんは学生時代から音楽家・音楽指導者としての頭角を現していました。

 学業を終え、三重県立木本高校に音楽教諭として赴任し同校吹奏楽部の顧問となると、同部は初出場した県コンクールで2位となり、翌年には小編成で優勝しました。そして、その後に赴任した名張高校、名張桔梗丘高校、上野高校でも各吹奏楽部を東海大会の常連に導くなど、長く部活動指導者として目覚ましい成果を上げました。

 また、県立高校教諭としての音楽活動とは別に、伊賀市初の管弦楽団「伊賀コミュニティオーケストラ」や、「ワコーズウインドオーケストラ」の設立も行い、市民の音楽活動の充実にも貢献しました。それらは、上述の伊賀シンフォニックアカデミー吹奏楽団と併せて、学校で音楽を学んだ人が、卒業して社会人となった後も、音楽から離れることなく演奏活動を続けられる場となっています。

 さらに、東海吹奏楽連盟の常任理事や三重県吹奏楽連盟の副理事長などの要職を歴任し、三重県の吹奏楽の普及に貢献しています。加えて、吹奏楽の指導・指揮以外にも、県内を中心に様々な社歌・校歌・園歌などの作曲、ピアノコンクール・コンサートの立ち上げ、地域の和太鼓集団の設立など、幅広い音楽活動を行ってきました。

 これらの活躍により、昭和54年に「日本吹奏楽指導者協会」優秀指導者賞、平成4年に「全日本吹奏楽連盟」役員表彰を受賞しました。

 そんな菅生さんの功績として最も重要なものに挙げられるのが、三重県で開催された「第30回国民体育大会(昭和50年)」や「第31回全国植樹祭(昭和55年)」において、主任指揮者として式典音楽隊を指導・指揮し、式典の成功に大きく貢献したことです。これら二つの式典では、三重県内の音楽関係者の総力が結集され、三重県の音楽文化の質の高さを全国に示すことに成功しました。菅生さんは、間違いなく、その最大級の功労者の一人です。

(国体音楽については、「みえの文化びと」園田幸男さんのページもご参照ください。https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/bunkabito/asp/detail.asp?record=251)

 これらの三重の音楽文化の発展に対する長年の功績により、令和3年、菅生和光さんは、三重県文化大賞を受賞しました。


記事  指揮や作曲で活躍する菅生さんの、本来の専門はクラリネットです。今もクラリネット奏者として舞台に上がります。クラリネットを専攻した三重大学で吹奏楽団に所属し、抜きんでた能力を示して4年時に指揮者となりました。ただし、1年時には管弦楽団(オーケストラ)と合唱団にも所属していました。オーケストラでは1年生で指揮者に選ばれたそうです。三重大学の吹奏楽団、オーケストラ、そして合唱団といえば、どれも三重を代表する楽団で、同じ大学内とはいえ掛け持ちは驚きです。しかも、どこもが菅生さんを欲しがり、争奪戦が起きました。結果としてクラリネットの縁で吹奏楽が活動の中心となり、一生の音楽活動の軸になりますが、音楽家の卵時代から菅生さんには広い視野がありました。

 菅生さんは、三重大在籍中から、夏休みには東京の親戚の家から東京藝大などの夏期講座を受講し、日本を代表する音楽家たちに学びました。また、アメリカなどの最新の楽譜を探し求め、三重の音楽仲間に送りました。今とは比べ物にならないほど情報が限られていた時代、都内でも入手困難な最新音楽を三重にもたらし、三重の音楽レベルを向上させました。そして、楽譜探しを通じて、当時の最高峰の音楽家と親交しました。「そのとき出会った人たちのおかげで今の自分がある」と菅生さんは言いますが、その出会いをもたらしたのは、間違いなく菅生さんの才覚と視野の広さです。

 三重大卒業後、大正大学に学士入学しました。専攻は仏教学です。倫理学と哲学を研究し、修士号まで取得しました。その分野でも完全に専門家です。音楽家として異色の経歴に思えますが、菅生さんは「音楽も哲学も、どちらも人の心と深い関係があり、ここで学んだことは今に大きく役立っています」と。菅生さんの視野は音楽以外にも及びます。

 都内で学問研究をしていた時期も、週末には、東京の音楽家と親交し、最新の音楽の情報を三重に送り、さらに三重の音楽団体を指導しました。大学院修了後、指導教授から研究者を目指すよう勧められましたが、菅生さんは三重で音楽指導者となる道を選びます。

 数年後、指導者として華々しく活躍していた菅生さんは、三重で開催される国体の式典音楽を作り上げる活動に参加します。後に「音楽国体」と絶賛された大会の準備のため、白子高校吹奏楽部の指導者だった園田幸男さんを中心に、若い音楽指導者たちが結集しました。その多くの音楽家の中から、園田さんは菅生さんを主任指揮者に指名しました。「学校を出たばかりの自分が諸先輩を差し置いて」と固辞する菅生さんを、園田さんは「君がやらないで誰がやれるのか!」と叱責したそうです。園田さんは後に菅生さんを「私の理想の音楽を体現する音楽家」と評します。菅生さんの技量と見識を誰よりも見抜いていました。説得された菅生さんは、スタンドの高い場所からバンド全体を見渡す立場となり、先輩や恩師に指示を出しましたが、菅生さんに不満を持つ人はいませんでした。その立場に就けてくれた園田さんについて、菅生さんは「見つけてもらって、力を引き出してくださった」と語ります

 園田さんと菅生さんが目指したのは、その国体限りの音楽ではなく、今後の三重の音楽文化の礎を作ることでした。その成果である矢代秋雄さん作曲の式典音楽は、今も若者に受け継がれています。残念ながらコロナ禍で中止となった令和3年の「とこわか国体」「とこわか大会」でも再び演奏されることが決まっていました。ただ、県内での普及と裏腹に、楽譜として出版されていないため、全国に知られていないのが残念だと菅生さんは言います。その出版が菅生さんの今の目標の一つです。

 そして、菅生さんには、管弦楽、ピアノ、合唱などと比べると、吹奏楽が芸術音楽としての市民権を十分に得ていないという問題意識があります。学校の部活動では花形の吹奏楽も、プロの演奏家のレベルでは後塵を拝していると。吹奏楽を今以上に成熟した音楽文化に育てることも、菅生さんの今の目標の一つです。

 さらに、菅生さんには、吹奏楽と他の楽器をミックスし、ジャンルを固定しない音楽を作っていく目標があります。ベートーベン生誕250周年だった令和2年、ピアノに加え、ヴァイオリンや合唱と吹奏楽が同じ舞台でベートーベンの曲を演奏する音楽会を開催しました。令和3年には同じ構想で筝やリコーダー、チェンバロを加えバッハを演奏する企画を立てています。

 これらの目標も、菅生さんの視野の広さと深く関わるように感じます。その視野はジャンルの垣根を飛び越えます。菅生さんのコンサートのプログラムは、有名な書家や画家の作品で飾られています。様々な文化人との交遊の賜物です。菅生さんは、その広い視野はすべて人とのつながりの中で得たと語ります。誰もが菅生さんのことを必要とするようです。


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自ら設立したオーケストラの前で指揮をする菅生さん
無題
オーケストラの前で(上)、また、娘さんとともに(下)、自身の専門楽器であるクラリネットを演奏する菅生さん
問い合わせ先 音楽工房 風音

518-0625
三重県名張市桔梗が丘5-6-34

電話・FAX 0595-66-2236
e-mail kazuyosi@e-net.or.jp
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取材機関 三重県環境生活部
文化振興課
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登録日 令和03年9月8日

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