みえの文化びと詳細
地域 | 伊賀地域 |
---|---|
名前 | 杉森 正美
|
プロフィール | ・劇団「上野市民劇場」代表 ・上野芸術文化協会 会長 ・三重県民文化祭「演劇のつどい」実行委員長 ・三重県平成文化賞受賞 ・文部科学大臣表彰 その他多数の賞を受賞 |
記事 |
《文化芸術に捧げたこれまでを振り返る》 今年、劇団「上野市民劇場」が創設60年。上野芸術文化協会が創設30年を迎える。設立当初から関わり、双方のトップとして今尚活躍中の杉森さんにこれまでを振り返ってもらい話を聞いた。 《人生の師との出会い》 11歳で終戦を迎える。 「荒廃した国民の生き様、文化をこれからしっかりしたものにしていかないといけない。」小学5年生の杉森少年にこう語った担任の先生が、書家の故・榊莫山さん。この先生との出会いが杉森さんをつくっていく。 たとえば書道の時間。「鳥」という字の最初の一画について「これはなんやと思う?これはなぁ鳥のとさかや。」という具合に漢字は中国から来たもの。そのものの形を表している。中国の文化について・・。など莫山先生の授業は面白く、教えるというより体験させることを重視する。「それによって文化の本質を教えてもらった。」と杉森さんはしみじみ語る。 日本には日本の芸術があるし、それを大事にすること。つまりそれはふるさとを大事にすること。という莫山先生は終生、ふるさとの言葉伊賀弁でとおした。 小学5,6年という多感な時期に莫山先生に出会えたこと、これは自分の宝。という。 《上野で市民劇団》 上野高校2年のとき、上野高校演劇部OBが作る「上野演劇グループ」の手伝いに入る。昭和29年、組織的に運営していこうと「劇団上野市民劇場」をスタートさせる。当時の代表は本職が大工さん。大道具はお手のもの。リヤカーにくくりつけ引っ張って公演会場である町の小さな集会所や公民館などに駆けつける。衣装も手作り。 自分の仕事と劇団の掛け持ちの慌しい日々、自分が何を目指して走っているのかわからなくなる中、自分を突き動かした言葉がある。「ここに泉あり」 《ここに泉あり》 戦後の荒廃の中で文化を通した復興を目指して創設された、現・(財)群馬交響楽団。1955年、「群響」をモデルに制作された映画のタイトルが「ここに泉あり」。さめた世の中で人々を癒し元気を取り戻す活動をする群響の心意気を表したこの言葉に、「伊賀の人々にとっての心の泉になろう」と杉森さんの心が決まった。 《地元密着型の演劇》 上野市産業会館が建ち、演劇鑑賞会ができて大きな作品も手掛けた。新しいホールで、市民が「どんなことをするのか」と楽しみにしてくれ、たくさんの観客が足を運んでくれた。演じることから退き、演出や脚本を一手に引き受けていた杉森さんは、東京からくる演劇だけが演劇ではないと、あえて地元の人たちの生き様や民話劇など地域に密着した創作劇を手掛けた。 が、それも長続きせず団員も一人減り二人減りで劇団の存続自体も危ぶまれるようなときがやってきた。 《新しい演劇》 その危機を救ったのが、白血病の患者さんに骨髄を移植するドナーの登録募集をする「勇気の会」伊賀支部を知ったことだった。この活動を自分たちにできる「演劇」で幅広く知ってもらおうと脚本「華」を書いた。骨髄移植をテーマにした演劇は全国で唯一。各地を駆け回った。 自分たちのめざす演劇は、うれしくおかしく笑わせればいいものではなく、そこに主張がないといけない。「華」を通して団員の心にこの思いが浸透した。 《これから》 紆余曲折を越え60年を迎えた今年は1年間にわたり記念事業を展開する。 第一弾は日本人の近未来を予測した喜劇(詳細は下記)。続いてあたためている一つはオペラを狂言にするというもの。「オペラ「愛の妙薬」を狂言の言い回しでやったらおもしろいやろ」と76歳の杉森さんの目は輝く。 莫山先生の言葉「国民の生き様・文化をしっかりしたものにしていかないといけない」を60数年たった今も心に刻み実践中である。 上野市民劇場 創設60周年記念事業第1弾 「約束だけ」公演 平成23年6月4日(日) 蕉門ホール 詳しい問い合わせは 090−3567−3297 杉森正美さんまで 仲間と 公演の様子 |
問い合わせ先 | 090−3567−3297 |
ホームページ | |
取材機関 | 伊賀県民センター |
登録日 | 平成23年3月23日 |