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ムンク、エドヴァルド むんく

生没年

1863-1944

出身国

ノルウェー

記事

ひるういんどno.53(1996.3) 桑名麻理 「エドヴァルト・ムンク 《月光》-マイアー=グレーフェ・ポートフオリオから(館蔵品から)」
「ムンク《その翌朝》」 子ども美術館Part2 こわいって何だろう? 1997.7
学校美術館尾鷲市展パンフレット(2004.6) p.9

略歴

1863年  ノルウェーのロイテンに、軍医クリスティアン・ムンクを父に、ラウラを母に生まれる。

1864年  クリスティアニア(現在のオスロ)ヘ移住する。

1868年  母ラウラは結核で死亡する。

1877年  姉ソフィエが結核により死亡する。

1880年  工業専門学校を退学して、芸術家を志望する。

1881年  王立美術工芸学校に入学する。
       初めてグループ展に出品する。

1889年  クリスティアニアで110点の作品による個展を開催するが、酷評された。
       パリに出る。
       父72歳で死亡する。

1892年  ベルリン美術家協会から招待され、個展を開いたところ、大きな非難を受け、個展を一週間で中止する。
       しかし、この事件によってムンクの名前が知れわたり、以後各地で個展を開催するようになる。

1894年  版画を初めて制作する。

1895年  評論家ユリウス・マイアー・グレーフェが8枚組の銅販画集を出版する。
       石版画「叫び」をパリのルヴュー・ブランシュに掲載する。

1896年  ベルリンからパリへ移住する。初めての多色石版および木版を制作する。

1897年  このころ、トゥラ・ラルセンと出会う。各地のサナトリウムで休養する。

1902年  ベルリンで「生命のフリーズ」シリーズを展示する。

1908年  このころ、神経衰弱とアルコール中毒に陥り、コペンハーゲンの精神病院に入院する。

1911年  このころ、ケルンの分離派展に名誉客員として招待され、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらと並び称される名誉を得る。

1930年  眼疾を得、制作が妨げられる。

1937年  ナチスにより「退廃芸術」と決めつけられる。

1944年  死亡する。

館蔵作品

作品名 制作年 材料 寸法
マイヤー・グレーフェ・ポートフォリオ 1894~95 エッチング、 ドライポイント・紙
病める少女(マイヤー・グレーフェ・ポートフォリオより) 1894年 エッチング、 ドライポイント・紙 35.7×27.0
窓辺の少女(マイヤー・グレーフェ・ポートフォリオより) 1894年 エッチング、ドライポイント・紙 20.0×14.3(イメージサイズ)
クリスティアニア・ボヘーム I (マイヤー・グレーフェ・ポートフォリオより) 1895年 エッチング、 ドライポイント・紙 20.5×28.3
月光 1895年 エッチング、 ドライポイント・紙 30.8×25.4(イメージサイズ)
その翌朝(マイヤー・グレーフェ・ポートフォリオより) 1895年 エッチング、ドライポイント・紙 19.2×27.5
差し向い(下宿での逢引き)(マイヤー・グレーフェ・ポートフォリオより) 1895年 エッチング、ドライポイント・紙 20.3×30.9
二人:孤独な人たち(マイヤー・グレーフェ・ポートフォリオより) 1895年 エッチング、ドライポイント・紙 15.7×21.2(イメージサイズ)
アッシュ博士の肖像(マイヤー・グレーフェ・ポートフォリオより) 1895年 エッチング、ドライポイント・紙 24.7×17.4(イメージサイズ)
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