三重の仏教美術―彫刻・絵画を中心に

毛利伊知郎

今回の「三重の美術風土を探る―古代・中世の宗教と造型」展には、主として三重県内に伝来した仏教及び神道関係の作品を展示することとした。この地方には、神宮(伊勢神宮)という、宗教史上重要な神道の拠点があり、一方で、大和・山城という古代・中世の日本の中心地に近いという地理的条件もあって、古い由緒を持ち、独特の信仰形態を示す社寺が各地に見られる。そうした社寺に遺された作品は、一見何の相互閑係もないようであるが、制作された基層では相通じる特徴を持ち、この地方の歴史的環境・風土と密接に結び付いて、ある種の共通する性格を内包している作品も少なくないようである。無論、これらの文化遺産は、そうした地域的な視点からのみでなく、広い視野の下、日本美術史の流れの中で、中央で制作された作品と比較対照しながら、理解される必要もある。本稿では、出品作品に沿いつつ、未出品の重要な作品にも触れながら、三重県内の仏教美術について、上記の事柄を念頭に置き、彫刻・絵画を中心に、時代を追って紹介することとしたい。

この地方の仏教美術の遺品で、最も時代の遡るのは、やはり各地の寺院址から発見された白鳳・奈良時代の(せん)仏と押出仏であろう。現在までに、三重県内からは6か所の寺院址や古墳から(せん)仏・押出仏が発見されている。我国で(せん)仏の出土地が多いのは、周知のように、現在の奈良県・大阪府というかつての畿内の地域であるが、出土地の数では、三重県は大阪府に次ぐ数となっている。これには、伊賀・伊勢というこの地域が、奈良に近く、寺院造営に当たって、中央からの影響を強く受けていたということと、都から神宮への通路に当たり、要人の往来も盛んで、古くから寺院造営が盛んに行われていたらしいという事情が先ず想起される。詳しい出土状況や伝来を知ることの出来ない作品も少なくないが、(せん)仏制作の多様性を知ることのできる珍しい遺品もあり、古代地方寺院における堂内荘厳の様相を知るうえで、貴重な資料を提供している。

この地方出土の(せん)仏のうち、現在最も注目されているのは、名張市・夏見廃寺出土の(せん)仏であろう。夏見廃寺は、決め手となる文献史料に乏しく、従来から創建年代に異説があり、文献面から造営事情を解明するのは困難な状況にあるが、昭和59年度から、名張市教育委員会を中心に行われている発掘調査は、この寺院の全体像を明らかにする上で重要な多くの成果をおさめている。

その最も顧著な事例は、金堂と塔を中心とする寺域が確認され、更に講堂跡と考えられる遺構も発見されたことである。出土品には、おびただしい数の(せん)仏や、土器・瓦類がある他、最近になって、丈六仏のものと推測される塑造の螺髪や塑像断片も発見されている。詳しい造営経過は依然不明であるが、発掘結果からは、金堂が7世紀後半に建てられ、10世紀頃まで存続したらしいこと、また塔も8世紀初頭には建立きれ、やはり10世紀頃に廃絶したらしいことが推定されるという。

出土品で、美術史的にまず注目されるのは、大量の(せん)仏である。(せん)仏は、殆どが金堂周辺区域から出土しており、塔の周囲からは全く発見されなかったという。これにより、(せん)仏は、専ら金堂の荘厳に使用され、塔内荘厳には用いられなかったものと推察されている。

(せん)仏個々の解説は、出品作品解説に譲ることとするが、出土品中には「甲午年□□中」と判読される銘文のある断片もあり、この銘から、年代に関して曖昧な点の多かった当寺の造営年次として、694年という一つの目安が与えられることになったことは、特筆に値する。

7世紀後半は、中央のみならず、地方でも寺院造営が盛んに行われた時期である。この夏見廃寺のほか、額田廃寺、智積廃寺、天華寺(てんげいじ)廃寺なども、多少の前後はあっても、やはり7世紀後半から8世紀初頭にかけて造営された寺院であると思われる。現在の一志町・嬉野町は、この時期の寺院址が多いところで、薬師寺(藤福寺)や天華寺からは、(せん)仏も発見されている。特に、近年発掘調査の行われた一志郡嬉野町の天華寺廃寺からは、全国的にも珍しい六角形に近い菱形(せん)仏が出土しており、夏見廃寺と共に大和から伊勢へ通じるこの地域の古代寺院の一つとして注目される。

奈良時代に入り、天平13年(741)2月24日の聖武天皇の詔によって諸国に国分寺・国分尼寺が建立されることになると、伊勢・志摩・伊賀三国にも同寺が設けられることになった。伊賀国分寺は、現在の上野市西明寺町に、また伊勢国分寺は鈴鹿市国分町にある。堂宇は、既に無く、現地には土壇が残り、瓦が若干出土しているのみで、往時の様は偲ぶべくもない。志摩国分寺は、志摩半島の中ほど、阿児町国府にあり、現在は、天台宗に属する寺院となっている。しかし、同寺にも奈良朝の遺品は皆無で、やはり古瓦が残るにすぎない。
 奈良時代の美術工芸品は、前記の(せん)仏類と古写経を除けば、この地方には殆ど見ることが出来ないが、現在岐阜市・美江寺所蔵の天平時代の乾漆十一面観音立像が、かつて三重県内の寺院に伝えられていたことを付記しておく。また、奈良時代後期の寺院として、天平宝字7年(763)、満願禅師によって開かれた多度神宮寺の存在を忘れることは出来ない。

現在の多度神社の西方に位置したという多度神宮寺は、現在では殆ど痕跡を遺していないが、往時の様は延暦7年(788)の「神宮寺伽藍縁起(へい)資財帳」から偲ぶことができる(この資財帳は、巻末に延暦20年の年紀があるが、最近の研究では、この年紀は延暦7年を20年と書き改めたものとする説が有力である)。それによると、当寺には、仏堂3宇のほか、東・西の三重塔、僧房4宇、鐘台などが建ち並び、板障子に描かれた「釈迦浄土図」や「金泥弥勒菩薩像」、「阿弥陀浄土図」など多くの仏像・仏画が堂内を荘厳していたものと考えられる。当寺の遺品は、殆ど残っていないが、今回出品の「金銅五鈷鈴」は神宮寺跡からの出土品である。
 奈良時代に聖武天皇の勅願によって開創されたという寺伝を持つ寺院は各地に多いが、そうした寺院の中で、奈良・東大寺二月堂の修二会と似通った行法の修正会を伝える島ヶ原村・観菩提寺(正月堂)や、やはり二月堂修二会の松明調進を行う名張市・一ノ井地区の松明講などの存在は、古代からの伊賀国と大和国との強い結付きを推察させる。

この地方でも、奈良時代末から平安時代初期になると、数点の彫刻が、各地に伝えられている。亀山市・慈恩寺の阿弥陀如来立像、前記の島ヶ原村・観菩提寺の十一面観音立像、白山町・常福寺の千手観音立像、松阪市・朝田寺の地蔵菩薩立像、薬師寺の薬師如来坐像などが、その代表作である。

慈恩寺の阿弥陀立像は、技法的には奈良時代の本心乾漆像の系統に属し、塊量感豊かな造形を持徽とする作品で、衣文の表現などに、部分的に乾漆を用いて、中央作の像とはかなり異質な作風を示している。一方、観菩提寺像や朝田寺像、薬師寺像は、純粋の木彫像である。中でも観菩提寺の十一面観音立像は、2mを越す巨像で、大きな目鼻と、厚い口唇を持つ彫りの深い容貌が、神秘的な雰囲気を漂わせる雑密系彫刻で、制作年代や個性豊かな作風が、近年議論の的となっている。また、松阪市では、近年行われた『松阪市史』刊行に伴う調査で、数多くの古仏が確認されたが、朝田寺の本尊・地蔵菩薩立像や薬師寺の本尊・薬師如来坐像は、同市の仏像の中では最も時代の遡る像である。このほか、制作時期は10世紀頃まで下がるが、多気町・普賢寺の普賢菩薩坐像も、唐伝来と思われる古い図像形式を示す珍しい作例である。

平安時代も9世紀後半から10世紀頃になると、彫刻の遺品も次第に多くなる。ただ、この時期の作と考えられる像には、後述する11・12世紀のような在銘作品がなく、文献史料にも欠けるため、詳しい制作年代の明らかでない像が多く、以下で述べる年代観も推測の域を出ない。

この時期の作品として、先ず注目される像は、志摩町の和具観音堂に伝わる銅造如来坐像であろう。小像ながら、力強い造形表現を示すこの像は、石川県・伏見寺の阿弥陀如来坐像とともに、平安時代前半を代表する数少ない小金銅仏の作例として有名である。本像の伝来など詳細は不明であるが、同寺には、他にも平安時代中・後期の木造十一面観音立像や、丈六像のものと思われる木造仏頭などの古仏が伝わっており、志摩の国分寺からもさほど遠くない、この地域での古くからの信仰を偲ぶことができる。
 また、松阪市・朝田寺の木造僧形坐像も、やはり9世紀後半から10世紀にかけての作と考えられる古像である。朝田寺は、廷暦15年(796)空海による開創と伝えられる古寺で、本尊の木造地蔵菩薩立像は、「朝田の地蔵」として現在も多くの信仰を集め、上記のように9世紀前半にまで遡る平安初期木彫像として知られている。現在同寺の書院に安置されるこの僧形坐像は、痩身の老僧形で、本尊の地蔵菩薩像よりは若干時代は下ると思われるが、一木彫戌の素朴な技法と、悔渋味を湛えた古様な表現は、本像が9世紀に遡ることを示していると考えられる。

本展には出品できなかったが、玉城町・田宮寺の木造十一面観音立像と津市・光善寺の木造薬師如来及両脇侍像、青山町・宝厳寺の十一面観音立像も、この時代の作として注目される。田宮寺は、神宮の法楽寺として長徳年間(995−999)に荒木田氏長神主によって創建された寺院である。同寺には、殆ど同じ像容を示し、仕上げの若干異なる等身大の十一面観音立像2体が残るが、そのうち漆箔の施された像は、胸から腹部にかけての肉づきも力強く、両脚を覆う裳には翻波式衣文も見られるなど、その表現は古様で、当寺創建時に遡る可能性も持った作品である。また、津市の西郊に位直する光善寺の薬師如来及両脇侍像も、比較的古い作風の像で、ボリューム感のある体躯や衣文の表現には平安初期彫刻の特徴が認められるが、温和な顔貌や裳先の処理には、やや時代の下る表現も見られ、9世紀後半から10世紀頃の作と考えられる像である。10世紀前後の天部像としては、鈴鹿市・神宮寺の二天立像を忘れることが出来ない。鈴鹿市の神宮寺は、寺伝では、天平20年に行基が伊奈冨神社に堂塔を建立したことに始まると伝えられ、明治の神仏分離によって同社から別れた。この寺には、平安彫刻の遺品が多く、この持国天・多聞天立像のほかにも、平安後期の薬師如来立像、深沙大将立像などがあり、現在、広島県・耕三寺所蔵の釈迦如来立像も元は同寺に伝来した像である。

この二天像は、頭部から足下の邪鬼まで、両腕や天衣の大部分も含めて、楠の一木から彫成した像で、二像とも、鐙兜を着けて、右手を腰に、左手を屈臂した動きの少ないポーズを取って邪鬼上に立つ。素朴な造像技法や、抑制された体躯の表現、持国天像の左袖部分に見られる翻波式衣文などの特徴から見て、造立時期は9世紀後半から10世紀前期に遡るものと考えられる。

鈴鹿市には、この神宮寺の他にも、古い仏像彫刻の残る寺院が多く、平安時代後期の千手観音立像のある真言宗智山派の林光寺(鈴鹿市神戸)や、鎌倉時代末頃の二王像のある府南寺(鈴鹿市国府町)、鎌倉時代の真宗系肖像彫刻である善然上人坐像を伝える太子寺などの古寺が点在するが、鈴鹿市南西部に位置する妙福寺も平安彫刻の宝庫として注目される。

妙福寺は、真言宗東寺派に属し、寺伝では、天平年間に行基がこの地で阿弥陀・薬師二像を刻み、後に空海が開眼供養したことに始まるという。現在、同寺の仏壇には、本尊薬師如来を納める厨子を挾んで、その両脇に平安時代後期の半丈六の大日如来像2体と釈迦如来坐像1体、未指定の観音坐像1体が所狭しと安置されている。また、やはり平安時代にまで遡ると思われる破損した一木造の像が3体残っている。

そのうち2体の大日如来坐像は、三重県に残る平安時代密教系彫刻の代表的作例として注目すべき像である。2体とも、金剛界の大日如来で、現状殆ど素地を呈し、胸前で智挙印を結んで結跏趺坐し、両者殆ど同じ像容と作風とを示す。仏壇向かって右の像の方が、法量がわずかに小さく、脚部の表現などに、やや力強さに欠けるところがあるが、やせた胸部の肉付けや、浅い衣文の表現などから、両像とも、11世紀後半から12世紀頃の制作と思われる。

これらの妙福寺の仏像については、もと堂山徳昌院の像で、天正年間に当寺に移されたという寺伝がある他、詳細は明らかでないが、伊勢地方における本格的な造仏として、その意義は大きい。

平安時代後期の仏像は、頻内各地に数多く残り、この時期の盛んな造仏活動の様を偲ぶことができる。造立年代の判明する在銘像もこれまで数点見出されており、上野市・西音寺の薬師如来坐像(承保3年・1076)、津市・四天王寺の薬師如来坐像(承保4年・1077)、度会町・正法寺の十一面観音立像(天永年間・1110−13)、二見町・明星寺の薬師如来坐像(久安元年・1145)、上野市・仏土寺の阿弥陀如来坐像(承安2年・1172)などの諸像をあげることができる。

そのうち、今回出品されている明星寺の薬師如来坐像は、もと神宮八か寺の一つであった三津定泉寺に伝来した像で、整った像容を示す優品である。銘文から神宮神主家の荒木田氏・度会氏らによる造像であることが知られ、神宮神官と仏教との結付きを示す作例としても貴重である。

ところで、平安彫刻が集中的に残る地域として、旧伊賀国に当たる、上野市・名張市とその周辺地域を忘れることはできない。東方の布引山地をはじめ、周囲を山で囲まれた伊賀国は、古来、大和や山城との結付きが密で、気候風土のみならず、文化的にも伊勢国とは、かなり趣を異にしている。この地域には、真言宗の寺院が多いが、本展では、上野市の勝因寺、市場寺、蓮徳寺、西光寺と、名張市の弥勒寺(いずれも真言宗)に伝来の平安彫刻を展示した。この他にも、上野市では仏勝寺、念仏寺、常福寺、長隆寺、仏土寺といった諸寺院に、優れた平安彫刻を数多く見ることができる。

そのなかでは、平安後期の定朝様になる阿弥陀如来坐像と華靂な切金文様も美しい四天王立像の優品を伝える上野市の市場寺と、やはり平安後期の十一面観音立像、聖観音立像、薬師如来坐像、弥勒如来坐像と、室町期の等身大の役行者像を安置する名張市の弥勒寺が、この地域の仏像彫刻の宝庫として注目される。また、本展には出品されていないが、上野市・常福寺の五大明王像は、周丈六の不動明王坐像を初めとする5躯が完存する大作である。その規模は、平安初期の京都・東寺の五大明王像に次ぐものであり、平安時代後期の五大明王像の優品として価値は高い。また、仏土寺本尊の半丈六の阿弥陀如来坐像は、基本的には定朝様の像であるが、顔貌の表現などには、鎌倉彫刻に一歩近づいた、力強く張りのある肉付けがなされており、承安2年(1172)という造立年次と発願者が銘文から知られる、この地方における基準作である。

この地方の平安時代の仏教美術を概観していく上で、上記の木造彫刻と並んで、平安後期に流行した経塚関係の遺品を逸することはできない。伊勢・伊賀地方では、有名な伊勢朝熊山の経塚群や小町経塚、漆経塚など40近い経塚遺跡が知られており、出土品にも優品がおおい。経塚出土の遺品は、多くが、経筒・鏡・経巻をどの工芸・書跡類であるが、その中には絵画あるいは彫刻資料として見ても興味深い作品が少なくない。

たとえば、鏡面に阿弥陀三尊来迎図を線刻によって表現した朝熊山第三経塚出土の線刻阿弥陀三尊来迎鏡像2面は、末法の世に経典を書写・埋納し、弥勒下生の時まで伝えられることを本意とした、経塚造営の仏教思想史的変遷をたどる上で貴重な遺品であるばかりでなく、平安後期から鎌倉初期にかけての来迎図の展開を見る上でも、興味ある資料ということができる。

また、小町経塚出土の華麗な線刻文様が表された瓦製光背と台座は、かつては法華経を初めとする大量の瓦経と共にこの経塚に埋納された、胎蔵界諸仏・曼荼羅諸尊に付属していたと推察されるものである。残念ながら、仏像本体は、現存しないが、平安後期の光背形式や装飾文様を知るうえで貴重な遺品である。
 これら伊勢の経塚造営には、神宮神官も参画していたことが銘文から判明する。平安時代も中・後期になると、神宮神官も仏教に接近し、自らの氏寺や仏像造立を行っていたことはよく知られているが、この神宮神官の仏教信仰は、伊勢地方の仏教美術を見る上でも忘れることのできない事柄である。

ところで、朝熊山経塚群第三経塚や小町経塚が造営された12世紀後半から13世紀初頭にかけての時期は、古代から中世への過渡期という、歴史上大きな変革の時代に当たる。美術史では、この時期を藤末鎌初とも呼び、新たに中国宋代美術の影響も及んで、平安後期の優美で古典的なスタイルに代わって、力強さに満ち、現実感を伴った写実的な新しい様式が創造されるなど、各分野で様々な変化を見ることができる。

この藤末鎌初の時期に属する作品を出品作の中から二・三あげると、例えば、彫刻では、顔面の肉付けに鎌倉彫刻の写実的な表現に近い特徴の見られる明星寺の薬師如来坐像(久安元年・1145)や金剛証寺の地蔵菩薩立像があり、また金工品では、当時の来迎図の展開をたどる上で絵画資料としても貴重な金剛証寺の線刻阿弥陀三尊来迎鏡像(平治元年・1159)をあげることができよう。更に、絵画では、藤原仏画の名残りをとどめる西来寺の阿弥陀来迎図が、この時期の作と考えられる。

西来寺の阿弥陀来迎図は、蓮華座上に半跏倚坐し、来迎印を結ぶ正面向きの阿弥陀如来と、観音・勢至菩薩及び地蔵菩薩が来迎する様を表す。図像形式や着色技法などには、平安後期の華麗な来迎図の余風を遺しているが、硬直化した装飾文様や暗く沈んだ色彩などに、鎌倉絵画へと一歩近づいた感覚も認められて、おそらく平安末から鎌倉初期頃の保守的な傾向の強い作品ということができる。

この西来寺の阿弥陀来迎図の他に、本展には、この地方の寺院に伝来した鎌倉から室町時代にかけての仏教絵画が20点程展示されている。それらは、仏伝関係・浄土教絵画・密教絵画・高僧伝絵などのようなジャンル別に配列されているが、そのうち特に注目される作品としては、釈尊の生涯を表した仏伝図の代表的な遺品の一つである桑名市・大福田寺の釈迦八相成道図、この時代に数多く制作された浄土宗の祖・法然の絵伝の中でも、掛幅形式の大作である勢和村・西導寺の法然上人絵伝、託磨派の画師・託磨栄賀の落款を持つ四日市市・大樹寺の仏涅槃図などをあげることができる。

そのうち、大福田寺の釈迦八相成道図は、下天から涅槃に至るまで釈迦八相の様々な事跡から合計25の場面が選ばれて、それらが大和絵的な山水表現の間に巧みに配されている。制作年代は明らかでないが、古様な自然景観の表現形式から見て、鎌倉時代前期に遡る可能性もある作品であり、我国に現存作品の少ない仏伝図の遺品として貴重である。

また、西導寺の法然上人絵伝は、浄土宗の祖・法然(1133−1212)の80年にわたる生涯を大画面2幅に描きあげた大作である。法然の伝記は、鎌倉時代から室町時代にかけて、絵巻形式と掛幅形式による絵伝が数多く制作されたが、本図は掛幅形式になる法然絵伝の代表作である。各幅とも、名称を記した短冊形の銘札が各場面に着けられているが、伝記のストーリーが、画面向かって右下隅から始まることは共通する。各場面の配列は不規則で、機械的な配置はなされていないが、最近の研究により、各場面の関連性を考慮した巧みな場面構成のなされていることが明らかにされた。第1幅には、鞋生から出家をへ、浄土門に入り、大仏殿での説法に及ぶまでの37場面が表され、また第2幅には聖覚の説法から配流を経て、臨終・納骨起塔までの26場面が描かれている。本図には、法然の伝記テキストとの関係や制作年代など、多くの問題が含まれているが、鎌倉時代後半の法然伝絵の大作として、重要な作品である。

また、南北朝時代の絵画作品で、筆者が判明する珍しい例が四日市市・大樹寺の仏涅槃図である。この作品には、画面左横に「託磨法眼栄賀筆」という落款があり、南北朝時代に活躍した託磨(摩)派の画家・託磨栄賀の作であることが知られる。託磨派は、鎌倉時代から活躍を始めた絵仏師の一派で、肥痩を交えた線描、寒色系の色彩を多用する描法を大きな特徴とし、中国宋代の新しい画風を積極的に摂取した画派であった。栄賀の詳しい事跡は明らかでないが、本図の他にも、「釈迦三尊及十六羅漢図」(京都国立博物館)や「十六羅漢像」(藤田美術館)などの仏画、水墨画法による「布袋図」、「普賢菩薩像」(フリアギャラリー)などが残っており、仏画だけでなく水墨画も描いた幅広い技量の持ち主であったことが知られている。本図は、詳しい伝来や、制作年代は明らかでないが、南北朝時代の託磨派の遺品として貴重な作品である。

その他、桑名市・十念寺の仏涅槃図と当麻曼荼羅図は、鎌倉末から南北朝時代の作と考えられる佳品であり、青山町・滝仙寺の大成徳明王像も鎌倉時代の、県内に残る数少ない密教絵画の優れた遺品である。さらに、白山町・成願寺の仏涅槃図は、南北朝時代の作であるが、平安絵画の復活を思わせる明るく温雅な色彩と、流麗な線描とを特徴とする優れた出来栄えの涅槃図である。この成額寺は、天台東盛宗に属し、真盛関係の文書も数多く所蔵している。同宗の祖・真盛(1443−95〉は、伊勢国一志郡に生まれ、伊賀国西蓮寺に没したといわれる僧で、当寺を初めとして、県内には天台真盛宗の寺院が多い。本展出品寺院にも、前記の藤末鎌初の阿弥陀来迎図を所蔵する津市・西来寺や、平安後期の毘沙門天立像を安置する安濃町の善福寺、成願寺に近い白山町の常福寺などがあり、この地方の仏教美術を概観する上で、天台真盛宗の寺院は忘れることのできない存在となっている。

ところで、中世以降のこの地方の仏教美術を見る上で、県内各地に点在する真宗寺院に残る仏像・仏画を忘れることはできない。三重県内には、津市一身田の専修寺(せんじゅじ)を本山とする、真宗高田派の寺院が多く、本展にも、本山を初めとする高田派の寺院から多くの寺宝が出品されている。それらの作品は、大きくは他の作品と同様、鎌倉・室町という中世仏教美術の枠内にあるものであるが、真宗寺院に生まれ、伝来したことによる共通する特徴を持っている。

真宗高田派本山専修寺は、寺伝では、親鸞が善光寺で感得した一光三尊仏を安置するために建立した下野国高田の専修寺に淵源を持つという。室町時代後期に、真宗高田派10世真慧が伊勢地方に布教を行った際、この一身田に道場を造ったが、当初、「無量寿院」と呼ばれたこの寺が、中世の兵火や教団内紛によって荒廃した下野国専修寺に代わって、高田派の本拠地となり、寺名も専修寺と称するようになったという。当寺は、現在も如来堂・御影堂を中心とする広大な寺域を有し、周囲には末寺・町屋などが配され、その周囲には濠が巡らされるという、典型的な寺内町の形態を遺している。

専修寺には、寺宝も多く、絵画では書信上人絵詞伝、阿弥陀三尊像2幅、歌仙絵3幅、また親鸞自筆といわれる「西方指南抄」や「三帖和讃」などの親鸞関係文書、更には延応2年(1240)在銘の但馬法橋慶俊作の阿弥陀如来立像、南北朝から室町頃の作になる親鸞聖人坐像などの仏像も残っている。

出品作品の内、書信上人絵詞伝は、絵巻形式になる親鸞伝絵で、鎌倉時代後期の永仁3年(1295)12月に完成したことが奥書から知られる。親鸞の伝絵は、本願寺第三世・覚如(1270−1351)が撰述し、康楽寺派の画家・浄賀に描かせた永仁3年作の2巻本が最初で、この初稿本を同年暮に写したのが、専修寺本である。詞書は、覚如の筆になり、絵は大和絵の伝統を基礎にしながらも、漢画的な手法も導入して、力強い画面に仕上げている。絵師の名は明らかでないタゞ、おそらく康楽寺派系統の画家の筆になるものと思われる。

また、本展には、高田派寺院から、津市の上宮寺、四日市市の善教寺の寺宝を展示しているが、上宮寺には、室町時代の親鸞聖人絵伝2幅と、聖徳太子絵伝6幅が伝来する。親鸞聖人絵伝は、真宗寺院ならではの作品であり、また聖徳太子絵伝も、真宗寺院にしばしば見られる聖徳太子信仰を反映した作品である。親鸞が、京都六角堂に参籠した際、聖徳太子の示現を得たことや、常陸国稲田御坊に聖徳太子像を安置したことなどから、真宗寺院では聖徳太子に対する信仰が盛んで、聖徳太子像や、聖徳太子絵伝を所蔵する寺院も多い。こうした真宗寺院における太子信仰を示す作品としては、他に真宗高田派の津市・厚源寺や、安濃町・松原寺に伝来の南北朝から室町期の聖徳太子像(聖徳太子2歳像)をあげることができる。

上記の作品のうち上宮寺の聖徳太子絵伝は、室町時代も後期の作と考えられるが、保存状態も良好で彩色も美しく、誕生から崩去に至る聖徳太子の50年にわたる生涯が6幅に描き出されている。6幅は、場面の数を抑えて、ゆとりある画面構成を示す第1・2・5幅と、やや繁雑な構成を示す残り第3・4・6幅とに大別できるが、各幅とも下から上に向かって、年代順に配された各場面を細密画風に丁寧に描き上げ、上下の場面区画を明瞭にするため、各所に帯状のすやり霞を用いている。また、本図の各所に描かれた画中画はバラエティーに富み、中世障屏画の貴重な資料を提供している。

本図は、聖徳太子絵伝としては、とくに古様な作ではないが、真宗寺院に伝わる太子絵伝として、図様の上でも、愛知県・上宮寺本や福井県・称名寺本と近い関係にあり、中世の真宗寺院における聖徳太子絵伝の制作状況を考える上で貴重な作品である。

この地方の中世美術を見る上で、上述の真宗高田派寺院と並んで忘れることのできない寺院に、大山田村の新大仏寺がある。新大仏寺は、寺伝では後鳥羽上皇の開創と伝えるが、実際には治承4年(1180)平重衡の南都焼打ちによって、大きな損害を受けた東大寺の復興大勧進職として活躍した俊乗坊重源が、建仁2・3年(1202・3)頃に伊賀別所として創建したと考える説が有力である。伊賀国は、古くから大和国との関係が深く、また豊かな森林に恵まれているため、平安時代の後期から、東大寺、輿福寺、伊勢の神宮などの荘園が各所に営まれた。新大仏寺のある富永も、東大寺の荘園であり、垂源がこの地に伊賀別所を置いたのも、こうした東大寺と伊賀国との関係によるものと考えられている。

当寺の往時の様は、重源の『南無阿弥陀仏作善集』から偲ぶことができるが、現在も快慶作の頭部を持つ阿弥陀如来坐像や、俊釆坊重源の肖像などの仏像、板彫及び水晶製の五輪塔など、重源ゆかりの品々が数多く残っている。

なかでも、俊乗上人坐像は、鎌倉時代肖像彫刻の優れた遺品として、古来有名な作品である。重源の肖像は、東大寺像を初めとして数体残っているが、本像は、それらの中でも精彩に富む1体で、腹前で両手を組み、口を固く結んで、意志的な視線を投げかける老僧の姿は、並々ならぬ存在感を持っている。この像が、何歳頃の重源を写した像であるかについては異説があるが、いずれにしても、鎌倉彫刻の写実的表現が典型的に現れた像ということができる。

また、当寺本尊の如来坐像は、首から下の体躯は江戸時代の仏師祐慶の手になる補作に代わっているが、その頭部は、内部に仏師名、結縁者名などが墨書されており、これにより重源が主宰して、仏師快慶一門が制作に当たったことが知られる。垂源の『南無阿弥陀仏作善集』によると、伊賀別所には、宋様の丈六阿弥陀三尊来迎像が安置されたことが知られるが、この阿弥陀三尊は、江戸時代までに中尊頭部を除いて失われた。造立当初は、本展にも出品の、専修寺所蔵の高麗時代の阿弥陀三尊像と似通った像容を示して、現存する兵庫県・浄土寺の阿弥陀三尊像と同様、かつては堂内に偉容を誇っていたものと推察される。

その他の遺品で注目されるものとしては、かつて阿弥陀三尊像が安置されていた、獅子の浮彫りのある石造須弥壇をあげることができる。この須弥壇には、中尊台座の側面に十余体の獅子の像と樹木、人物像などが高浮彫りによって表されているが、いずれも中国風の新しい図様を示しており、おそらく重源周辺にいた中国宋代の石工・伊行末たちの手になると思われる作品である。

真宗高田派の専修寺と、重源開創になる新大仏寺伝来の作品以外に、この地方の中世美術を概観する上で、逸することのできないものとして、例えば彫刻では、伊勢市・久昌寺の阿弥陀如来立像(承久3年・1221)、四日市市・善教寺の阿弥陀如来立像及び像内納入品(仁治2年頃・1241)、四日市市・観音寺の地蔵菩薩坐像(正応2年・1289)と慈恵大師坐像(観応2年・1351)、伊賀町・万寿寺の地蔵菩薩坐像及び像内納入品(貞治3年・1364)などの在銘作品をあげることができる。

伊勢市の久昌寺には、平家落人伝説が伝えられており、平知盛による開創といわれ、本尊の阿弥陀如来立像は、藤原彫刻の遺風を保った鎌倉初期の優美な作風の像である。また、善教寺や万寿寺の像内納入品中の、大量の摺仏は、中世仏教版画の貴重な遺品でもあると同時に、当時の篤信者の日常的な作善の有様を伝える資料でもあり、また善教寺の藤原実重の20年近い作善日記は、願主の信仰生活のみならず、当時の宗教界の状況を詳しく伝えている。

本展の展示作品は、一部の例外を除いて、上記の作品が造られた南北朝時代で給わっている。この頃になると、仏教美術の中心は、禅宗美術へと移り、旧来の仏像・仏画には形式化の目立つ作品が多くなるのは、周知の事柄である。残念ながら、この地方の寺院には、禅宗美術の優れた遺品は殆ど見当たらない。

三重の仏教美術を展望しようとした本稿も、この南北朝をもって終えるのが妥当であろう。その特色を一口で述べることは、筆者の筆に余るが、神宮神官の参画した伊勢志摩地方における平安時代の造寺造仏や、神宮と深い関係にある金剛証寺の存在、あるいは大和との密接な繋りを示す伊賀地方の諸寺院など、この地方ならではの特色ある事象が思い浮かぶ。伊勢志摩の海岸地帯と伊賀の山陵地帯という、対照的な地理的環境とも対応して、特色ある仏教美術がこの地に生まれたことは、銘記される事柄ではあろう。

(もうり・いちろう 三重県立美術館学芸員)

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