図版・解説  (6,7,10,12,13,18,23,28〜50)

毛利伊知郎

6 ◎阿弥陀三尊像
  絹本著色 掛幅装 1幅
  縦88.3 横43.3 鎌倉時代 13C.
  津市 専修寺



 真宗高田派本山専修寺に伝来した、鎌倉時代の阿弥陀三尊像で、中尊の阿弥陀如来は、天蓋の下、二重円光背を背にして、袈裟と大衣・裙を着け、両手を胸前に置いて、説法印を結び、右足を外に結伽趺坐する。

 台座は、豪華な六角七重蓮華座で、3羽の鳥が上框から上部を支えるという珍しい形式を示す。台座正面には雲に乗った供華台が描かれ、また阿弥陀の裙の裾は蓮華座に懸かって、いわゆる裳懸座をなしている。

 両脇侍を見ると、向かって右の観世音菩薩は、丈高い宝冠・胸飾・腕釧など種々の装身具で荘厳し、条帛・天衣・裙を着けて、左手を胸前にあげて開敷蓮華を持ち、腰を僅かに捻って直立する。また、向かって左の勢至菩薩も、観音像と殆ど同じ像容を示し、右手を屈背して、やはり蓮華を捧げ持って蓮華座上に立っている。

 三尊とも、細い墨線で輪郭を描き出し、大衣や裳など着衣の文様には切金を多用して豪華な雰囲気を盛り上げているが、その表現は大振りで、工芸的な性格が強い。色彩は、肉色を始めとして、赤色や褐色系の、中間色を多く用いているのが特徽的である。

 中尊や脇侍の容貌は、鼻筋の通った理知的な表情を示しており、繁雑とすら思える脇侍の着衣や装身具の表現とも考え合わせると、本図の成立には、中国宋代仏画の影響も想定できる。
7 ◎阿弥陀三尊像
  絹本著色 掛幅装 1幅
  縦168.5 横92.4 高麗 13C.
  津市 専修寺



 この阿弥陀三尊像は、かつては中国元時代の作ともいわれ、近年では朝鮮半島高麗時代の作といわれる、異色の作品である。

 画面一杯に殆ど余白を設けず、円形の頭光を負った三尊を大きく表すが、中尊は袈裟と赤色の大衣をまとい、下半身に裳を着けて、踏み割り蓮華座のうえに立つが、右手は垂下して、第1指と第3指とを相捻じた印を結び、左手は胸前にあげて、第1指と第4指とを相捻じるという珍しい印相を示している。また両脇侍も、菩薩像特有の着衣と装身具とを着け、やはり踏み割り蓮華座上に直立するが、向かって右の観世音菩薩は、右手を肩先にあげて、第1指と第3・4指とを相捻じ、左手は胸前で水瓶を祷っているら勢至菩薩の姿は、左半分が中尊の背後に隠れているが、右手は胸前にあげて、第1指と第3・4指とを相捻じた印相を示す。

 低く平らな中尊の肉髻や、円文を中心とした大振りな大衣の文様、大形で豪華な脇侍像の宝冠、透明感のある長い天衣などは、高麗仏画の特徴に共通するものであり、本図は中国仏画の図像にならった高麗時代の作とみてよいものと思われる。

 鎌倉時代の仏師快慶が中国絵画を参考にして制作したという兵庫県・浄土寺の丈六の阿弥陀三尊像の形式が、本図と酷似していることも既に指摘されているが、こうした三尊の姿は、宋代仏画との図像的影響閑係が想定され、更には我国団鎌倉時代に流行した宋風の彫刻にも影響を及ぼしている。
10 普賢延命菩薩像
   絹本著色 掛幅装 1幅
   縦75.2 横37.3 鎌倉時代 14C.
   松阪市 継松寺



 継松寺は、高野山真言宗に属し、寺伝では天平年間、行基が建立した寺院に淵源を持つといわれ、岡寺とも通称されて、本尊の如意輪観音は、厄除観音として、現在も多く人々の信仰を集めている。当寺には、曽我蕭白を初めとする近世絵画の他、鎌倉時代から室町期の仏画が数多く蔵されるが、この普賢延命菩薩は、それらの中でも、最も古い遺品の一つである。

 本像は、延命を祈る、密教の普賢延命法の本尊として安置される像で、この種の画像は、平安時代後期以降、数多く制作された。その図像には、真言系の、4頭の白象に乗る2臂像と、天台系の、1身3頭の白象に乗る2臂像とがあり、本図は後者の系統に属す。ただ、白象の上に天王像を配する図像は真言系のものであり、本図の成立には鼻言系の偶像の混入が認められる。

 更に胸飾・腕釧・臂釧など種々の装身具で荘厳し、右手に金剛杵、左手に金剛鈴を持って、右足を外に結伽趺坐する。菩薩の坐る台座は、群象上に立つ、1身3頭6牙の白象上の蓮華座で、白象の頭上には、天王像3体が立っている。

 描法を見ると、菩薩の肉身は白色に塗り、謹直な墨線で輪郭を描き、着衣などには彩色を施した上、金泥も用いて文様を表している。また、現状では剥落が著しいが、持物や装身具には裏箔の使用されていた痕跡を認めることができる。

 本図の制作年代は明らかでないが、暗く冷ややかな色感や、理知的な菩薩の容貌、彩色法などからみて、鎌倉時代後期の作と考えられる。
12 大威徳明王像
   絹本著色 掛幅装 1幅
   縦117.9 横63.0 鎌倉時代 13C.
   名賀郡 滝仙寺



 滝仙寺は、寺伝では、天正7年(1579)に、この地方の豪族三河守保義の弟宥海による開創といわれ、現在、真言宗豊山派に属している。

 大威徳明王は、阿弥陀仏の教令輪身として、忿怒の相を現して一切の毒蛇悪龍を降伏する明王であり、大威徳法の本尊として、また五大明王の一尊として描かれ、平安時代後期以降の遺品が何点か残っている。本図の大威徳明王は、海上を駆ける水牛の背に、火(えん)光を負い、3足で立つ3面6臂6足の像で、右手には、宝剣・棒を、また左手には法輪・戟を執り、両手で弓矢をつがえる。また、周囲には、白馬・犬・虎・獅子の背に乗り、弓矢や槍を構える4人の眷属童子が配される。

 明王の肉身は、濁群青で描かれ、墨線で輪郭をくくっている。明王の頭髪や、水波などは金泥で表し、弓の弦や矢、檜などには切金が使われ、法輪・剣などには裏箔も認められる。墨線は、打ち込みが強く、肥痩のある線で、こうした線描や、渋い色彩などには鎌倉絵画の新しい傾向を見ることができる。明王を中心とした五尊は、画面左から右に向かって、飛ぶようなスピード感を持って表現されているが、画面構成にも破綻がなく、この地方に残る数少ない密教絵画の遺品として貴重な作である。本図の伝来や制作年代などの詳細は明らかでないが、渋い色感や速度感のある図様などから見て、本図は鎌倉時代中期頃に遡る可能性もあると思われる。
13 如意輪観音像
   絹本著色 掛幅装 1幅
   縦91.0 横33.6 高麗 13C.
   名賀郡 滝仙寺



 この如意輪観音は、幅一尺ほどの絵絹を用いた小品であるが、高麗時代の作とも思われる異色の一本である。

 如意輪観音は、如意宝珠と法輪によって、衆生の苦を済度し、願いをかなえる観音として、我国では最も古くから信仰された変化観音の一つで、奈良時代以降、彫刻・絵画などで数多く造像された。その図像には、二臂の半跏像もあるが、平安時代以後の密教尊像としては、六臂像が一般的である。

 本像は、如意輪観音通例の1面6臂像で、二重円光背を背に、右手に如意宝珠・数珠、左手に関敷蓮華・法輪などを執り、右膝を立て、右第1手を頬に当てた思惟の姿を示して、丈高い岩座上に坐している。岩座の下には、合掌礼拝する童子が表されている。観音の肉身は、黄色に塗り、金色の衣には金泥で文様を描き出している。

 本図の伝来や制作年代については、殆ど明らかでないが、本像の面長で、くせの有る容貌や、繁雑なまでに文様の表された厚手の衣などは、我国の作とは思われない、独特の特徴を示している。あるいは高麗時代頃の作になり、朝鮮半島から渡来した作品である可能性も強いと考えられる。
18 親鸞聖人絵伝 
   絹本著色 掛幅装 2幅
   各縦103.7 横79.9 室町時代 14C.
   津市 上宮寺



 津市の中心部、旧寺町の一角に位置する上宮寺は、創建等について異説があり、寺史の詳細は明らかではないが、中世以降、真宗高田派に属している。戦災により、伽藍は全焼したが、真宗寺院特有の聖徳太子絵伝6幅と、この親鸞聖人絵伝2幅(いずれも室町時代の作)が伝存している。

 本図は、2幅からなる親鸞伝絵で、第1幅には、出家営道から信心争論までの6場面が、また第2幅には、稲田興法から大谷廟堂に至る6場面が描かれている。場面の区画には、3段ほどの水平に延びるすやり霞が用いられ、各場面には、場面説明のための短冊形銘札が着けられているが、現状、第2幅の一部を除いて銘文は殆ど剥落している。画面各所に生じた剥落のため、図様の鮮明でない部分も少なくないが、各幅とも画面下部から上方に向かって、場面は描かれ、当初は表装も描表装であったと思われる。

 画風は、輪郭線を活かした、謹直な筆使いを示し、各場面を大きく描く、比較的ゆとりのある画面構成がなされている。又、第1幅に見られる、彩色の虎図や樹下遊戯図などは、中世の画中障屏画としても興味深い。本図の制作年代は明らかでないが、室町時代中期を下らない作と考えられる。

 親鸞の伝絵は、絵巻形式によるものの他、本図のような掛幅形式の作品も数多く制作された。それらは、信徒の前で絵解を行うために用いられ、本図のような2幅本の他、3幅本、4幅本など、各種の異本が残っている。

第一幅

第二幅
23 紺紙金銀泥阿惟越致遮経 巻下
   巻子装 1巻
   天地25.8
   平安時代 12C.
   桑名郡 徳蓮寺



 多度町の徳蓮寺は、真言宗東寺派に属し、寺伝では、弘仁年間、空海がこの地で虚空蔵菩薩を刻んだことに遡るという。

 この紺紋金銀泥阿惟越致遮経は、伝来の詳細は明らかではないが、保存状態も良好で、平安時代後期12世紀を中心に流行した、見返絵を持つ紺紙金銀泥経の貴重な遺品の一つである。

 本経巻見返絵は、二重円光背を負い、説法印を結んで右足を外に結跏趺坐する釈迦如来を中央に、その両脇に柄香炉を持った2比丘形像を、その周囲には、計9人の声聞・菩薩像を表し、釈迦の背後から上方にかけては天蓋・菩提樹があって、全体としては、釈迦説法図となっている。図は、金・銀泥を併用して描かれており、諸尊の衣に見られる柔らかな線描や、樹木・土坡の表現などには、巧みな画技を見ることができる。

 また、経巻部分は、銀泥で罫線を引き、一行17字詰めで、一行置きに金泥・銀泥を交互に用い、謹直な書体で書写している。紙幅約49.5センチの料紙を18紙継いで、全長約850センチに及び、巻首から巻末まで完備している。

 本経の正確な書写年代は明らかでないが、見返絵の画風や書風などからみて、永久5年(1117)から元永2年(1119)の間に制作され、藤原清衡によって中尊寺経蔵に奉納された紺紙金銀泥一切経、いわゆる中尊寺経のうちの清衡経に属するものと考えられる。
28 ◎獅(こう)文金銅象験鍬形
   鉄製 1面
   総高 16.2
   平安時代
   鳥羽市 八代神社



 伊勢湾口に浮かぶ神島は、古くは「歌島」・「亀島」とも呼ばれた、周囲約4km、標高170mの小島で、伊勢湾に出入りする水路である伊良湖水道と、西国と東国とを結ぶ船舶の行き交う遠州灘とに臨む、海上交通の要衝に位置している。神島は、距離的には伊良湖岬に近いが、古来、伊勢志摩地方との結び付きが強く、現在も鳥羽市に属している。

 神島は、神聖な島として、古くから漁民や舟人たちの信仰を集め、また伊勢の神宮に近いということもあって、現在、この島の項上近くに錬座する八代神社には、今回出品された数多くの貴重な遺品が伝来している。八代神社は、明治40年にそれまで島内にあった山神社・神明社など13社を合祀したもので、これら大量の遺品が、いかなる経緯によって、八代神社に集められたものか、また、それ以前には、どのような状態にあったのか、詳細は全く不明である。

 内容は、鏡・陶器・馬具・祭祀用具・経塚遺物など種々様々で、時代的にも古墳時代から鎌倉・室町時代までの広範囲に亙り、対馬海峡・玄界灘に浮かぶ沖ノ島の祭祀遺物と共に、美術工芸史上、きた宗教史上、重要な意義を持っている。

 この鍬形は、NO.29の祭祀遺物とは別に、早く昭和38年に重要文化財に指定された品である。鍬形とは、兜の正面に立つ、偉容を示すための装飾板であるが、本品では、左右に立ち上がる鍬先が欠損しており、正しくは鍬形台と称すべきものである。厚手の鉄板を使用し、下部周縁には補強と装飾のための銅板がはめ込まれ、表面には口を大きく開き、眼を瞋らせた、獅(こう)文が金銅象嵌によって表されている。髭や眉などの細部に至るまで、細線を用いた細工が施され、鬼神に似た怪異な容貌を見ることができる。こうした武具を神社に奉納する例は、他にもしばしばみることが出来るが、本品の伝来は、他の遺品同様明らかでない。本品の制作年代は、古様な表現から見て、平安時代後期と考えられる。
29  ◎勢神島祭祀遺物 
    鳥羽市 八代神社



 現在、「伊勢神島祭祀遺物」の名称で、八代神社に所蔵される品々は、銅鏡64面を中心に、紡績具、太刀、馬具、陶器頬、経塚遺物などからなり、総点数は、約100点に上っている。これらは、長年、強い潮風の吹きつける島の神社に神宝として保管されていたため、塩害による損傷が著しかったが、昭和58年に修復処理が施されて、一括重要文化財に指定された。

 遺物の中心となる鋼鏡64面は、時代的には古墳時代の画文帯神獣鏡から、奈良時代の唐鏡、平安・鎌倉・室町時代の和鏡に至るまで、種々様々な形式が含まれており、なかには文様の不鮮明なものもあるが、金工史上、重要な資料ということができる。

 主要なものにつき、若干紹介を試みると、まず画文帝神獣鏡は、中国六朝時代のスタイルになるもので、同じ鏡は、全国で十数面発見されている。この地方では、三重県明和町の神前山古墳、亀山市の茶臼山古墳などを初めとして、数例が発見されていて、伊勢湾と三河湾沿岸の東海地方における古墳時代の文化を特徴づける鏡でもある。

 また、奈良時代に盛行した唐鏡には、伯牙弾琴鏡、双鸞(さん)猊八花鏡、海獣葡萄鏡と、小型の海獣葡萄鏡6面、飛禽草花八稜鏡などがある。

 伯牙弾琴鏡は、鏡背文様が中国春秋時代の琴の名手・伯牙の故事に基づく図様と見られることから、この名がつけられた。向かって左に、琴を弾く高士、右に鸞鳥、上部に蓮池を表し、周縁には銘文が記される。本鏡は、残念ながら、図様が鮮明でなく、同種の鏡による複製品と見るのが妥当である。この種の鏡は、三河湾に面した愛知県幡豆町からも出土しており、古代における三河地方と神島との関係を推察させる遺品でもある。

 飛禽草花入稜鏡は、同形・同文のものが2面あるが、両者とも内外2区に、それぞれ波状唐草文と飛禽4羽とを表している。文様の表現も鮮明で美しく、精巧な出来栄えを示している。

 平安時代も10世紀後期以降に現れる、いわゆる唐式鏡は、十数面見ることができる。そのほとんどが、瑞花双鸞発八稜鏡で、いずれも鸞鳥と瑞花とを相称的に配する形式であるが、各鏡によって瑞花や鸞烏の表現に変化も認められ、唐式鏡が次第に和鏡へと変容していく過程の一端を見ることができる。

 薄手の造りと、繊細優美な草花や鳥禽文様を特徴とする平安時代後期の和鏡も、十数面含まれる。なかでも、花枝と双鳥とを、無駄を省いた斬新な左右相称的構図におさめた花枝双鳥鏡や、全面に笆を表した、双鳥文鏡は、いわゆる多度鏡に近いもので、平安後期の繊細な美音織を感じとることができる作例である。

 その他、笆尾花双鳥文鏡は、重量感のある厚手の造りになるが、写生的な図様構成を特徴とし、立体表現への指向も認められる。これらの鏡は、年代的には鎌倉時代以降に下るものと考えられるが、こうした鎌倉時代以降の鏡は、神島の遺物中には、他に流水山吹双鳥文鏡、松枝鳥文鏡、松喰鶴文鏡など数面を見ることができる。

 鋼鏡以外で、注目される遺品には、神宮古神宝との関係で興味深い金銅(かせ)と()の紡績具がある。()は、鋳鋼製であるが、神宮古神宝中の品とは異なり、中間に突起のある柱の先端に四支を設けている。いずれも平安時代に遡る古様な形態を示している。神島が神宮に近いことから、神宮古神宝と何等かの閑係があることも推測されるが、伝来などは一切明らかでない。

 その他、奈良三彩小壺、緑釉瓶子、小形子持高杯・片口(わん)などの灰釉陶器等々の、奈良時代から平安時代頃の陶器類や、銅製経筒の蓋や青白磁合子などからなる平安時代後期頃と推察される経塚関係の遺品もあって、神島の祭祀遺物は、遺品の種類や信仰の性格の面でも、複雑な様相を呈している。文献史料に欠けるなどの困難な条件もあって、これらの遺品に関する詳細な研究は、従来あまり行われておらず、その全体像の解明は今後の課題である。


文献

 矢島恭介「志摩半島八代神社の鏡」『MUSEUM』26 昭和28年。
 大西源一「志摩神島八代神社の古袖宝」『国学院雑誌』56−2 昭和30年。
 亀井正道「志摩神島八代神社神宝の意義」『石田博士頌寿記念東洋史論叢』昭和40年。
 景山春樹「伊勢の神島」『近畿文化』390 昭和47年。
 伊達宗泰「神島八代神社画文帯神獣鏡について」『近畿文化』395 昭和47年。
 弓場紀知「神体島発掘16 伊勢湾に浮かぶ神体島神島」『日本美術工芸』563 昭和60年。

(左)1.画文帯神獣鏡(径20.79)
  (中)4.伯牙弾琴鏡(径17.05)  
(右)8.海獣葡萄鏡(径10.81)

(左)16.飛禽草花八稜鏡(径9.20)
(中)17.瑞花双鸞八稜鏡(径9.56)
(右)19.瑞花双鸞八稜鏡(径11.31)

(左)21.瑞花双鸞五花鏡(径10.08)
(中)23.瑞花双鸞八稜鏡(径11.05)
(右)32.草花双鸞五花鏡(径9.01)

(左)35.花枝双鳥文鏡(径8.06)
(中)36.水草双鳥文鏡(径10.05)
(右)40.草葉双鳥文鏡(径10.01)

(左)41.笆双鳥文鏡(径8.96)
(中)48.秋草飛蝶双鳥文鏡(径10.50)
(右)53.芦花双鳥飛禽文鏡(9.70)

(左)54.笆尾花双鳥文鏡(径9.10)
(中)55.山吹双鳥文鏡(径9.51)
(右)59.松喰鶴文鏡(径8.47)
  
(左)65.金銅(かせ)@ 横軸長15.9 縦軸長8.7
(中)66.金銅(かせ)A 横軸長22.2 縦軸長14.0
(右)67.金銅() 高19.3
  
(左)70.銅轡鏡板 1対(長20.1 長20.6)
(右)83.陶器残欠(2) 緑釉瓶子(高10.7)

(左)85.陶器残欠(4) 三彩小壺(口径2.7)
(右)86.陶器残欠(5) 三彩小壺(口径3.4)
  
(左)87.陶器残欠(4) 小型子持高杯(口径7.5)
(右)95.経塚遺物(1)湖州鏡(径13.4〜13.6)

98.経塚遺物(4)青白磁合子(高3.8)
30 ◎銅鏡
   30面のうち5面
   平安時代 11−12C.
   桑名郡 多度神社



 奈良時代に開創された多度神宮寺の故地である多度神社の境内から、江戸時代の明和7年(1770)に、鋼鏡30面と剣1口、陶器15個、銭貸1枚が発見され、その後、経筒の断片も発掘されたことから、かつてこの地に経塚が営まれたことが知られるようになった。

 出土品の中では、30面に上る銅鏡が、平安時代の種々様々な形式のものを含み、山形県羽黒神社の神池から発見された羽黒鏡に対して、多度鏡とも称されて、我国の金工史上貴重な遺品としてよく知られている。今回は、30面のうち典型的な形式のもの5面を展示することとした。1の瑞花双鳳文八稜鏡は、30面のうち最も華麗な文様と鏡形とを示す鏡の一つである。瑞花と鳳凰とを二つずつ左右相称的に配する瑞花双鳳文は、奈良時代に流行した唐花双鸞文から生まれた文様とされ、この文様の鏡は、唐鏡と和鏡との中間に位置する鏡という意味で、一般に唐式鏡と呼ばれている。瑞花双鳳文形式は、永延2年(988)や寛弘4年(1007)在銘の鏡が現存することから、10世紀後半から11世紀前半にかけて成立したものと考えられている。なお、多度神社には、同形式の鏡が他に1面所蔵されている。

 2の瑞花鴛鴦文五花鏡は、多度神社に3面ある五花鏡のうちの1面で、鏡形が五花鏡である点と、表された鳥が鳳凰から鴛鴦に変わっている点とを除くと、1の八稜鏡にかなり近い形式の鏡である。鳳凰という中国の想像上の鳥が、鴛鴦という、日本人にも親しみある実際の鳥に変化している点は、平安時代中・後期における和鏡の成立過程を探る上でも、また当時の美術全般に見られる和様化の一例としても、興味深い。

 3の蝶鳥文六稜鏡は、径8.9センチと、やや小振りの鏡で、多度鏡のうち唯一の六稜鏡である。可憐な2羽の鳥と2匹の蝶とが、鈕を巡って飛ぶように表されており、図様構成は簡素で洗練されている。モティーフを相称的に配す造形感覚は唐式鏡のそれと近いが、表現は柔らかく、おそらく11世紀後半頃の作と思われる。

 4の瑞花鴛鴦文円鏡も、唐鏡から和鏡への展開過程に生まれた形式のものと思われる。本鏡は、鏡背には殆ど空間を残さず、内区には華麗な瑞花文と翼を広げた鴛鴦とを配し、また周縁部には連続する波状唐草文様を表している。文様表現も鮮明で美しく、華やかな雰囲気を持つ作品である。

 5の山吹菊花蝶鳥文円鏡は、典型的な和鏡の一つである。鏡背には、平安朝の貴族たちに愛された山吹・蝶・烏などの花鳥モティーフが小さな円形の中に巧みに配されるが、内区と外区とを区切る界圏は、殆ど意識されずに図様構成がなされており、平安時代後期の和鏡の特徴が強く認められる。

@瑞花双鳳文八稜鏡(径12.3)

A瑞花鴛鴦文五花鏡(径11.4)

B蝶鳥文六銭鏡(径8.9)

C瑞花鴛鴦文鏡(径11.4)

D山吹菊花蝶鳥文鏡(径11.2)
31 ◎金銅五鈷鈴
   銅造鍍金
   高16.0
   平安時代 11C.
   桑名郡 多度神社



 伊勢平野の北端、養老山地の南にそぴえる多度山(標高403.3m)は、古来、神聖な山岳として多くの信仰を集めてきたり同山の麓には多度神社が鎮座するが、同社は天津彦根命を祭り、伊勢の神宮に対して、北伊勢大神宮とも称される由緒ある神社である。この地には、早く天平宝字7年(763)、満願禅師によって、神宮寺が開かれたこともあって、同社には仏教関係の遺品が数多く伝存している。

 この五鈷鈴は、神宮寺跡から出土したものといわれるもの。五鈷鈴は、五鈷杵などの金剛杵と並ぶ代表的な密教法具で、修法の際、これを振り鳴らして仏心を歓喜・驚覚させるのに用いる。我国には平安初期以来の作例が多く残っているが、本晶は平安時代も後期の作と考えられる遺品である。全体に、簡素な造りで、鈴の部分には鈕帯を2か所に配し、五鈷の束には単弁の蓮華文を表すのみであるが、気品ある美しい形態を示し、表面の鍍金も良く残って、往時の輝きを失っていない。
32 ●朝熊山経ケ峰経塚出土品 
   平安時代 11−12C.



 伊勢市の東南、内宮(皇大神宮〉の背後にそびえる朝熊山(朝熊ヶ岳・標高553m)は、古来、伊勢志摩地方で、神聖視されてきた霊山である。同山の中腹に位置する金剛証寺は、寺伝では、欽明天皇の頃、暁台上人によって草創され、その後天長2年(825)に弘法大師空海が入山して、本尊福威智満虚空蔵菩薩を祈り、勝峰山兜率院金剛証寺と称したといわれる。長く真言密教の道場であったが、室町時代初期に鎌倉建長寺の東岳和尚による再興がおこなわれて以来、臨済宗の寺院となった。

 神宮と至近距離にあり、また朝熊山がこの地方を代表する霊山であるという事情から、金剛証寺を中心とする当山の信仰は、複雑な様相を呈しているが、これら経塚群からの出土品は、この地方における平安時代後期の阿弥陀来迎・弥勒下生信仰の盛行を物語っている。

 朝熊山経ヶ峰経塚群は、金剛証寺の背後、標高540mの経ヶ峰の東西約16m、南北約34mの東斜面に営まれたもので、第1号から第17号に至る合計43基の経塚からなっている。遺物出土の沿革は、明治5・6年頃、承安3年在銘の陶製経筒が暴風雨による倒木の下から発見され、その後、昭和34年、伊勢湾台風による倒木整理作業中に、第2号経塚の銅製経筒や青白磁合子などが発見された。更に、翌35年にも、第3号経塚の平治元年在銘銅製経筒、線刻阿弥陀三尊来迎鏡像などが出土し、37年から38年にかけて発掘調査が行われて、平安時代から室町時代に至る43基の経塚が確認され、数多くの埋納品が発見された。38年には、第1号・2号・3号経塚の埋納品が、国宝に指定され、44年には、経塚群が国史跡に指定されている。

 展示作品は、国宝に指定されている第1号経塚・第2号経塚・第3号経塚からの出土品である。そのうち、美術品として最も注目されるのは、第3号経塚出土の4面の鏡像であろう。第3号経塚は、経塚群の南端に位置し、昭和35年、伊勢湾台風による倒木整理中に発見された。出土した経筒と経巻の一部に記された銘文によって、この経塚は、伊勢国度会郡山田郷の常勝寺において、比丘尼真妙が勧進となり、平治元年(1159)8月14日如法経を書写し、翌15日に勝峰山に埋納奉安したものであることが知られる。また、銘文には、多くの結縁者や執筆僧の名前も記されており、これによって、経塚経営に参画した人々の階層なども知ることができる。

 鏡像4面のうち、方形の阿弥陀三尊来迎鏡像は、表面に雲の上から斜めに来迎する阿弥陀三尊像が、蹴彫によって表されている。中尊は、雲をなびかせて、二重円光背を背にし、第1指と第2指とを捻じた来迎印を結び、眉間から2条の光明を放って、蓮華座上、に半跏趺坐する。また、観世音菩薩は、雲上で、蓮台を捧持して、跪坐し、勢至菩薩は、合掌して、やはり雲上に坐する。向かって右には遠山や懸崖、水辺の景が表され、虚空には、蓮華が舞っている。鏡背面には、左方に荒磯の松樹2本が配され、上空には松喰鶴2羽と千鳥数羽が表されている。

 また、円形の阿弥陀三尊来迎鏡像にも、前者と近似した阿弥陀三尊来迎図が線刻されるが、本図では、向かって右に往生者の屋舎が表される点が大きく異なる。鏡背文様は、下方の花卉と、左右の鳥、上方の雲とを円環的に配したもので、鏡形式としては、多度式に近いものである。

 周知の通り、経塚の経営は、元来、末法の世にある人々が、未来の弥勒下生の際には、その説法の場に合することを願うのが本意であるが、ここでは阿弥陀浄土への往生を願う浄土教信仰が主眼となっている。また、方形鏡に表された来迎図は、本図に近い形式を示す石川県・心蓮社の阿弥陀三尊来迎図(12世紀頃の作〉の存在からも知られるように、平安時代後期の来迎図のスタイルを伝えるものであり、一方の円鏡の来迎図は、往生者の屋舎が表されるなど、鎌倉初期の来迎図の形式に近く、これらの鏡像線刻図は、来迎図の展開をたどる上での、絵画資料としても貴重な作例である。

 線刻阿弥陀三尊鏡像は、表面中央に定印を結んで蓮華座上に結跏趺坐する阿弥陀如来坐像を、両脇には合掌する勢至菩薩と左手に蓮華を持った観世音菩薩が表され、正面には供花台が配される。また、鏡背は、楓の技を鈕を中心にシンメトリカルに配し、その間に、蝶・鳥・蜻蛉を表している。

 線刻阿弥陀如来鏡像は、鏡表面全面に二重円光背を負い、蓮華座上に、定印を結んで結跏趺坐する阿弥陀如来坐像が線刻されている。鏡背は、蜻のため文様は判然としないが、水辺のあやめや鳥の文様が認められる。

 これらの鏡は、最後の線刻阿弥陀如来鏡像が青銅製であるのを除き、他の3面はいずれも白銅製である。また、納入状況については、最後の鏡が経筒の底,経巻の下に鏡面を上に納められていたといい、他の白銅製3面は、経筒と外筒との間の空間に、鏡面を内側にして立てられていたという。

 これら4面の鏡は、線刻の技術も巧みで、優れた出来栄えを示しており、金工品としてだけでなく、絵画資料としても貴重な作品である。鏡像以外の出土品としては、経塚からしはしば発見される合子の作例である中国宋代の景徳鎮系の青白磁合子や、開結経2巻と法華経8巻に般若心経など3巻を加えた経巻13巻などが注目される。

 また、史料的には、承安3年(1173)在銘の陶製経筒や平治元年(1159)在銘の銅製経筒及び同年の奥書を持つ『法華経』などが、この朝熊山経塚群造営の背景を探る上で、興味深い資料を提供してくれている。例えば、承安3年在銘の経筒によると、如法経を奉納したのは、「伊勢大神官権禰宜正四位下荒木田神主時盛」であるという。また、『法華経』巻第三の奥書には、やはり神宮神官をつとめていた度会家の人々の名前を数多く見ることができるが、神官がこうした経塚造営に参加した例は、全国的に見ても他に例が無いようである。伊勢の神宮が古くから、仏教と結び付いていたことは、よく指摘される事柄であるが、平安時代になると、神宮神官の中には、自らの氏寺を建立する者も現れるようになった。中でも、荒木田氏と度会氏の名は、度々史料に現れ、この朝熊山経塚だけでなく、小町経塚出土の瓦経にもその名が見られる。また、本展に出品されている二見町・明星寺の薬師如来坐像の造像記にも、両氏の名前が記されるなど、平安時代から鎌倉時代にかけての、神宮神官たちによる熱心な仏教信仰の有様を知ることができる。神道と仏教の接近は、神宮だけに限定されない、我国独自の現象であるが、この朝熊山経塚群も、平安時代後期に神宮神官が参画した経塚として、経塚の歴史上、また神宮神官の性格を考える上で重要な意義を持っている。


文献

 石田茂作「伊勢朝熊山経塚」『立正考古』18 昭和36年。
 保坂三郎「鏡像考」『国華』841 昭和37年。
 小玉道明「伊勢市朝熊山経塚群について」『三重の文化』33 昭和38年。
 奥村秀雄「埋経と往生思想─朝熊山経塚出土の線刻阿弥陀三尊来迎鏡像をめぐって」『MUSEUM』223 昭和44年。
 石田茂作『伊勢市朝熊山経塚遺跡と石塔群』昭和47年。
 
(左)@第一経塚出土経筒
陶製1口、高32.7、承安(173)
    (右)A第二経塚出土経筒(1)
     銅製1口、高26.8 

C第二経塚出土 藤花双鶴鏡
銅製 1面、径11.4

D第二経塚出土 草花双鳥鏡残欠
銅製 1面、径6.6

E第二経塚出土 青白磁合子
3個、径5.1

G第三経塚出土 法華経 巻第一
絵本墨書 巻子装 13巻のうち
天地24.2、平治元年(1159)

H第三経塚出土 法華経 巻第三
絵本墨書 巻子装 13巻のうち
天地24.2、平治元年(1159)

I第三経塚出土 法華経 巻第八
絵本墨書 巻子装 13巻のうち
天地24.2、平治元年(1159)

J第三経塚出土 観普賢経
絵本墨書 巻子装 13巻のうち
天地24.2、平治元年(1159)

K第三経塚出土 線刻阿弥陀三尊来迎鏡像
白銅製1面、縦20.0 横14.7

L第三経塚出土 線刻阿弥陀三尊来迎鏡像
白銅製1面、径12.9

M第三経塚出土 線刻阿弥陀三尊来鏡像
白銅製1面、径10.8

N第三経塚出土 線刻阿弥陀三尊来鏡像
青銅製1面、径10.8

O第三経塚出土 堤子
銅製1口、高25.7

P第三経塚出土 外筒
土製1口、径25.7
33 小町経塚出土瓦経
   土製 1面
   縦24.6 横30.3 承安4年(1174)
   東京 個人蔵

34 ◎小町経塚出土光背
   土製 1個
   総高26.3 平安時代 12C.
   東京国立博物館

35 小町経塚出土五輪塔地輪部
   土製 1個
   高13.0 平安時代 12C.
   奈良国立博物館



 伊勢市内には、前記の朝熊山経ヶ峰経塚群の他に、数か所の経塚が確認されている。そのうち、比較的数多くの遺品が知られているのが、この小町経塚である。小町経塚は、外宮にほど近い高倉山の北西、「天神山」と呼ばれた江戸時代以来の大規模な墓地の南側の丘上に位置する。昭和37年頃には、その場所も確認されていたが、現在は墓地造成のために遺跡は失われている。この経塚からは、江戸時代以来、数多くの瓦経と瓦製の光背・台座など仏像の一部と思われる遺品が発見され、その中には承安4年(1174)の年紀を伴う遺品もあって、この地方における重要な経塚の一つとされている。

 小町経塚出土の瓦製光背は、周縁部に火(えん)を有する二重円光背で、展示品以外に承安4年(1174)の年紀を持つ完形品が他に1面あり、また残欠となったものが2面知られている。また、これら光背と関係ある出土品として、瓦製台座も伝来している。

 出土の光背は、全体的には蓮弁形の挙身光で、二重円光と周縁の火(えん)とから成る。頭光は、八葉の蓮華で、その周囲に二重の圏帯を作り、その内区には八弁の小花文1列を巡らし、外区には、飛雲と胎蔵界大日如来の五大呪のうちの3字を配する。また、身光部は、中心部を丸くくり抜き、その周囲に二重の圏帯を設けて、内区に小花文、外区に飛雲と五大呪の残りの2字を表している。更に、光脚部には二重蓮弁五葉を、周縁には火(えん)を表している。本品では、殆ど欠損しているが、当初は、下部に(ほぞ)を作り出して、台座に差し込んでいたらしい。

 小町経塚出土の光背には、いずれも表面に、梵字が記されている。本品のそれは、上記のように胎蔵界大日如来の五大呪であり、これによって本光背が大日如来像のためのものであったことが推察される。また、承安4年在銘の光背には、金剛界阿弥陀如来、成身会西方阿弥陀如来を囲む「法・利・因・語」四菩薩、成身 会内供養四菩薩の種字が刻まれており、これにより阿弥陀如来像の光背であったと考えられている。このように小町経塚では、当初から瓦経の埋納とともに、仏像奉納も行われたことが知られる。その尊像構成の詳細は不明であるが、光背に表された種字や、後述する瓦経の銘文、また出土した瓦経に含まれる理趣経・大日経・金剛頂経などの密教経典の存在を考慮すると、造立された仏像は金剛・胎蔵両界の大日如来を中心とする密教系諸尊であったと考えられる。

 次に承安4年在銘の瓦経(妙法蓮華経巻第六)は、その銘記から小町経塚造営の状況を知ることができる重要な遺品である。それによると、小町経塚は、沙門西観が願主となり、金剛仏子遵西が勧進となって、三河国渥美郡伊良湖郷万覚寺において、法華経・無量義経などを書写し、胎蔵界五仏・菩薩像などを造顕して、極楽往生と慈尊三会に値遇できることを願って、経塚を営んだものという。この銘文からは、単に小町経塚造営の経緯が知られるだけでなく、伊勢地方で経塚造常に参画していた僧侶や世俗階層の動向、更には瓦生産上の伊勢志摩と混美半島との関係をも知ることができるなど、興味深い内容を持っている。朝熊山経塚群と共にこの経塚が重要な意味を持つ所以でもある。


文献

 奥村秀雄「伊勢地方における埋経─渥美半島との関係において」『MUSEUM』167 昭和40年。
 奥村秀雄「伊勢小町塚出土の瓦経─早大会津記念室蔵」『考古学雑誌』53−2 昭和42年。
 水野敬三郎他『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代造像銘記篇』昭和46年 中央公論美術出版。
 和田年弥「伊勢小町塚経塚の研究」『三重考古』3 昭和55年。
 難波田徹「瓦経の規格性─大日寺と小町塚の瓦経を例として」『MUSEUM』366 昭和56年。

(33) 表


(33) 裏


(34)


(35)
36 漆経塚出土品 
   平安・鎌倉時代
   一志郡 美杉村漆区 
   Lは個人蔵



 漆経塚は、三重県の中ほど、美杉村下多気の漆地区に近い、高所山(標高772m)の南東山麓に営まれた経塚群で、昭和9年頃に地区の人々による発掘が行われて、多くの埋納品が発見されたが、遺跡の詳しい状況などは明らかでない。埋納品には、今回出品の銅鏡・合子・経筒の他、古銭(皇永通宝)や刀子などの鉄製品が含まれている。また、永仁6年在銘の線刻毘沙門天鏡像は、昭和9年に発掘された品ではないが、やはり漆経塚の埋納品であった可能性が強い遺品である。

 埋納品のうち中心となるのは、12面出土した鋼鏡である。これらの鏡は方鏡1面を除いて、他は全て円鏡で、材質は(1)の唐草双鳥鏡と(10)の梅樹飛雀鏡が白銅製になり、残り10面は青銅製である。これらの鏡は、いずれも面径10センチ前後の小形の鋼鏡で、永く土中にあったために緑青がひどく、また一部破損したりして、鏡背文様の図様が鮮明でないものも少なくない。

 その中では、鏡背に山吹・藤・菊などの花木・草花に飛雀などをあしらった文様を表す和鏡が10面と、最も多い。これらの和鏡は、文様構成もやや大振りで、立体的な表現も一部に認められるなど、平安時代末から鎌倉時代の鏡背文様に近い特徴が認められる。漆経塚は、造営された年代や願主などは一切明らかでない。これらの銅鏡は各鏡によって若干差はあろうが、文様表現の特徴から見て、おそらく平安時代末葉から鎌倉時代前期にかけての作と見て、大過ないものと考えられる。

 また、白銅製の唐草双鳥方鏡は、これらの中にあっては、古株な文様が表されており、他の和鏡に比べて、年代的にも遡るのではないかと思われる。更に、湖州六花鏡は、緑青のために判読し難いが、鋳銘の記された長方形の粋が設けられており、我国にも数多く将来されている、中国南宋代に湖州(浙江省呉興)で制作された、いわゆる湖州鏡の遺品である。

 上記の鋼鏡と伝来を異にする、線刻毘沙門天鏡像は、鏡面緑に鎌倉時代後期の永仁6年(1298)の線刻銘がある、鏡像の基準作である。鏡面には、周縁に火(えん)のある頭光を負い、右手に戟、左手に宝珠を持った毘沙門天立像を配し、その上部には中央に「十一面」の文字と梵字、右に「昆沙門」、左に「大黒天神」の文字が、それぞれ線刻されている。また、鏡背文様は、洲浜に双雀をあしらっており、文様の間には「道祖
 銘文や、鏡面・鏡背に記された文字は稚拙で、鏡背文様もやや鈍重な印象を免れ難く、鏡面線刻も図様の鮮明さに欠けるところがあるなど、この地方で制作された可能性の強い作品である。鏡背の「道祖神」の字句は、民間宗教の混入を窺わせ、本鏡像の特異な性格を示唆している。このように、本鏡像は、年代の判明する作品としてだけでなく、仏教と民間宗教との混交した性格を持つ遺品として、興味深い。


文献

 小玉道明「三重県一志郡美杉村漆経塚群とその埋納品」『三重の文化』38 昭和43年。
   
(左)@唐草双鳥方鏡 銅製(縦9.1横8.8)
(右)A山吹飛雀鏡 銅製(径10.6)

(左)B蘆生飛鶴鏡 銅製(径10.7)
(中)C草花双雀鏡 銅製(径10.5)
(右)D松藤飛散鶴鏡 銅製(径10.2)

(左)E水草飛雀鏡 銅製(径11.7)
(中)F秋草飛雀鏡 銅製(径10.4)
(右)G菊花飛雀鏡 銅製(径11.0)

(左)H鴛鴦草葉鏡 銅製(径10.6)
(中)I梅樹飛雀鏡 銅製(径8.8)
(右)J橘枝双雀鏡 銅製(径8.3)
   
(左)K湖州六花鏡 銅製(径10.2)
(中)L線刻毘沙門天鏡像 銅製(径10.0)
(右)永仁6年(1298)

M白磁合子 3個
(1)径3.9 (2)径5.0 (3)径5.5
 
(左)N経筒 銅製 (高27.2)
(右)O経筒 陶製 (高33.3)
37 ◎板彫五輪塔 
   木造 1面
   総高58.0 建仁3年(1203)
   阿山郡 新大仏寺

38 五輪塔
   水晶製 1個
   総高7.0 鎌倉時代 13C.
   阿山郡 新大仏寺



 新大仏寺は、寺伝では建久7年(1196)、後鳥羽天皇の勅願により開創されたといわれるが、実際には鎌倉時代初期に東大寺復興の大勧進職にあった俊乗坊重源がこの地に開いた伊賀別所に始まる。その創建時期については、異説もあるが、一般には建仁2・3年(1202・03)頃とされている。創建当所の仏堂は失われ、本尊の阿弥陀如来立像も江戸時代に坐像に改作されてしまったが、当寺には、今もなお重源上人と関係ある彫刻・工芸品などが数多く残り、この地方を代表する中世寺院の一つとなっている。

 五輪塔は、重源上人の信仰を特徴づける遺品の一つであり、当寺だけでなく、重源開創になる他の別所にも五輪塔は多い。五輪塔とは、地・水・火・風・空の宇宙の5元素を五大と称し、これを台形(地)、円形(水)、三角形(火)、半円形(風)、宝珠形〈空)に形象化したもので、重源関係の五輪塔は、火輪が一般的な四角錐ではなく、三角錐になった三角五輪塔である点が特徴的である。

 板彫五輪塔は、カヤ材らしい1枚板から五輪塔の形を作り出し、表面には、一千体余りの仏像を浮彫りし、各輪中央に大日如来法身真言の梵字を表している。また、裏面には水輪の半ばから上に宝篋印陀羅尼の梵字真言を線刻し、その下方に銘文(別掲参照)が刻まれる。これによって、本塔は元来、千仏を紙や地面などに押印するための、いわゆる「印仏」であったことが知られる。

 一方の、水晶製五輪塔は、当寺本尊の胎内に納められていたと伝えられる品で、形式としては三角五輪塔に属する。透明な白水晶を用い、地・水・火輪部を一材から彫出し、風・空輪部は別材製とする。現状は、最上部の空輪部が後補のものに変わっているが、山口県・阿弥陀寺のものと並ぶ水晶五輪塔の代表的遺品である。


文献

 小林 剛「印仏─摺仏についての─考察」『美術史』40 昭和36年。
 石田茂作編『日本の美術77 塔─塔婆・スツーパ』 昭和47年 至文堂。
 岡崎譲治「重源関係の工芸品」『仏教芸術』105 昭和55年。
 伊東史朗「新大仏寺と重源上人」『月刊文化財』221 昭和57年。
 伊東史朗「板彫像の再検討」『仏教芸術』150 昭和58年。

(37)
表          裏



(38)
39 ◎黒漆厨子
   木造 1基
   総高22.9
   文明12年(1480)
   名張市 福成就寺



 福成就寺は、名張市の中央部近くに位置し、真言宗室生寺派に属する。寺伝では、空海の弟子・道昌による創建と伝えるが、創建や寺史については、不明な点が多く、平安時代に当地にあったという壬生寺の後身ではないかとする説も考えられている。当寺には、この厨子の他、境内に鎌倉時代・正応6年(1293)在銘の石造十三重塔が残り、当寺の古い由緒を伝えている。

 この黒漆塗厨子は、総高20センチ余りの小形の厨子であるが、底面に記された墨書銘によって、文明12年(1480)に、東寺・崇福寺などに伝来の、僧舜海が感得した仏舎利を納めるために、造立されたことが知られる。

 構造を見ると、下部の方形須弥座と、その上部の扉付き宮殿部とから構成きれ、内部には舎利を約めるために、蓮台上に置かれた火(えん)付きの金銅製宝珠を設けている。表面には、黒漆が塗られるが、須弥座連子部などは緑色に塗る。また、二つの扉の内側には、向かって右に不動明王坐像を、向かって左に、愛染明王坐像をそれぞれ描いている。

 釈尊の遺骨である仏舎利に対する信仰は、我国でも、古くから盛んであったが、鎌倉時代に入ると、南都における戒律復興の機運に応じて、舎利信仰が前代に比して一層盛んとなり、数多くの舎利厨子が、南都を中心に制作されるようになった。この福成就寺の厨子も、そうした鎌倉時代以降の、南都を中心に流行した舎利信仰を反映した遺品ということができる。
 
40 ◎双鳳鑑 (瑞花双鳳八稜鏡)
   白銅製 l面
   径31.2 平安時代llC.
   伊勢市 金剛証寺



 現在、金剛証寺に蔵される双鳳鑑(瑞花双鳳八稜鏡)は、もと神宮の神宝であったが、撤下後、内宮の神官をつとめた荒木田家に伝えられ、正長元年(1428)、荒木田守房によって、当寺の雨宝童子像に奉納されたものであるという。

 本鏡は、白銅製になる大形の瑞花双鳳八稜鏡で、直径は30センチを越える。鏡背には、鈕座から瑞花2茎がしなやかな、淀みない曲線を描いて伸び上がり、翼を広げ、尾を伸ばした鳳凰が相称的に配されている。また、外区には、雲文に近い瑞花文が表されている。文様は、八稜形の中に、殆ど余白を残すことなく、見事な空間構成を示して配され、鋳出も精密になされている。円弧を描く鳳凰の姿や、空間を占める瑞花の形には、装飾的な感覚が強く認められ、唐鏡から和鏡への展開過程に生まれた、いわゆる唐式鏡の典型的な文様構成を示している。

 在銘作品により、こうした唐式鏡は、10世紀後半から11世紀前半頃にかけて成立したものと考えられており、本鏡も平安時代11世紀頃の作と考えられる。

 また、本鏡は、上記のように、元は神宮に伝来した神宝の鏡であり、神宮の内宮にほど近く、創建当初から神仏習合的な性格を強く帯びていた当寺と神宮との深い関係を知る上でも、貴重な資料ということができる。
41 ◎古神宝顆 
    伊勢市 神宮司庁



 一般に伊勢神宮と呼ばれる神宮は、皇太神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)、及び両宮に付属する多くの別宮・摂社・末社・所管社を合わせた総称で、伊勢市内に広大な神域を占めている。神宮の正殿は、一般に神明造と呼ばれ、桁行三間、梁間二間の切妻造、平入りの高床式の神殿であるが、『太神宮諸雑事記』によると、持続4年(690)の皇大神宮、及び同6年〈692)の豊受大神宮の第1回遷宮以来、中世の一時期を除いて、ほぼ20年毎の式年遷宮が現在に至るまで行われている。

 遷宮の際には、両宮の正殿・宝殿などに加えて、別宮・摂社などの社殿も造替される他、各社の調度・神宝・装束なども新調される習わしになっている。

 今回出品の古神宝類には、明治2年(1869)6月、新宮御門造営の工事の際に発掘された、皇太神宮に調進された古神宝の一部と、寛正3年(1462)、別宮伊雑宮に調進され、伝来した古神宝とが含まれ、武器、武具、紡績具、調度、装身具などからなる。

 太刀や剣などの武器は、神宮のみならず、奈良・春日大社など他の神社の古神宝においても、大きな比重を占めるが、皇太神宮の遷宮の際には、玉纒横刀(たままきのたち)1柄・須我流横刀(すがりのたち)1柄・雑作横刀(くさぐさのたち)20柄を宝殿物として調進することが、『皇太神宮儀式帳』に記されている。

 玉纒横刀は、鞘に5色の玉を格子状に纒ったことから、この名が生まれた。出品の玉纒横刀2口の内、その一は、総長130センチに及ぶ長身の刀で、刀身に殆ど反りはない。鞘及び刀身は、腐損しているが、柄頭胄金・縁・口金・鐔・勾金・俵鋲・飾目釘前後足金物などの金具が残っている。いずれも金銅製で、魚々子地に宝相華文を線刻している。その形式は、奈良時代頃の儀仗的な性格の強い唐様外装にならうものであるという。詳しい制作年代は、明らかでないが、平安時代末から鎌倉時代前期ころと考えられる。また、やや小振りの横刀は、やはり損傷が著しいが、各所に唐草文様を表した金具が残り、古式を伝えている。制作時期は、その一の横刀よりも下り、室町時代前期の作になる。

 雑作横刀は、現在3口が残る。前記の玉纒横刀と同様、朽損が著しいが、各所の金具頬は現存する。3口、それぞれ制作時期を異にするが、その中では、その一の総長99.0センチのものが、最も古様で、金具にも文様を表さず、刀身も細身の直刀で、素朴な造りを示し、制作年代は平安時代末から鎌倉時代に遡るという。また、他の2口は、刀身にやや反りを持たせており、年代も室町時代に下るという。

 その他の武器には、鉄製の鉾がある。鉾は、中国殷代にまで遡る古い起源を持つ武器で、我国でも、古墳時代からの遺品が残り、長く儀仗用の威儀具として尊重された。神宮では、皇大神宮の24竿の他、荒祭宮・月読宮・滝原宮などで、数多くの鉾が調進される。出品の鉾は、前述の横刀と同じ伝来を持ち、腐損が甚だしいが、両鎬造で、鎬筋に幅広の樋を刻み、中空の鏑に差し込む構造となっている。鎌倉時代の作とされる。

 神宮古神宝には、上記の武器の他、紡織具が含まれている。機織りは、人間の生活とも深くかかわる技術であり、神々が着用する神聖な着物を織るための貴い道具として、紡織具は、神宝の中でも重要な位置にある。出品の紡織具は、寛正3年(1462)、別宮伊雑宮に調進されたものといわれ、鎌倉時代から室町時代頃の作になるという。

 金銅 (たたり)は、一般には糸がもつれないように、繰るための道具とされるが、神宮では、そうした用途の  を「絡(そ)」と称し、この品は麻や繭綿などを掛けて、糸を紡ぐために用いた道具と考えられている。鋳鋼製になり、方形台座に立った柱に五支を造り出している。こうした は、他に福岡県・沖ノ島や三重県鳥羽市・神島の八代神社伝来の先端が四支のものが知られている。

 金銅高機(たかはた)は、銅板と棒とが組み合わせられた織機具の雛形で、経糸を懸けて、織成中の状態に造られている。金銅高機架(たな)は、この高機付属の台で、角棒を組んで造られている。
 これら紡織具は、中世の作であるが、その形式は古代の形を伝えており、紡織史の上でも貴重な遺品ということができる。
 鏡も、神宮神宝の重要な品の一つであるが、古神宝に含まれる鏡は、室町時代の牡丹文八稜鏡で、平安時代以来の和鏡形式になるものである。面径30センチを越す、大形の鏡で、下方から伸び上がる2茎の牡丹から構成される大振りの牡丹文が鏡背全面に表されている。なお、本展に出品されている、金剛証寺所蔵の双鳳鑑も、かつて神宮の神宝であったと伝えられている。

 3帖にわたって貼付された装束類の布帛179片は、寛文年間から明治2年に至る問の、装束頬の御料をあつめて貼ったものである。錦・綾・綿などの裂地に表された文様は、古代からの伝統的な染織文様の集大成として、貴重な資料となっている。


文献

 神宮徽古館編『御神宝特別展―第60回神宮式年遷宮記念』昭和48年。
 福山敏男他『神宮―第60回神宮式年遷宮』昭和50年 小学館。
 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館編『伊勢神宝と考古学』昭和60年。
 『第61回神宮式年遷宮記念 伊勢神宮御神宝展』昭和61年 サンケイ新聞大阪本社。


@玉纒横刀 金具金銅
縦長130.5 鎌倉時代

A玉纒横刀 金具金銅
縦長118.0 室町時代

B雑作横刀 金具金銅
総長99.0 室町時代

C雑作横刀 金具金銅
総長95.5 室町時代

D雑作横刀 金具金銅
総長135.0 室町時代
  
(左) E鉾身(鏑付) 鉄製 1口
身長43.3 鎌倉時代
(右) F() 銅製 鍍金 1基
総高34.0 室町時代

G高機(杼付) 銅製 鍍金 1基
全長30.7 室町時代

H高機架 銅製 鍍金 1基
全長34.0 室町時代

I牡丹文八稜鏡 銅製1面
径30.3 室町時代

J御裳束神宝御料布帛本様(1) 江戸時代
(五色大五〈か〉紋錦)縦12.4 横42.4
(五色大五〈か〉紋錦)縦12.3 横42.6

K御裳束神宝御料布帛本様(2) 江戸時代
(大牡丹紋錦)縦21.4 横41.9

L御裳束神宝御料布帛本様(3) 江戸時代
(鶺鴒紋錦)縦11.6 横41.9
(黄地小車紋錦)縦11.4 横41.6
(倭紋錦)縦11.8 横41.7
42 ◎扁額 木造 3面
   文永ll年(1274)
   鈴鹿市 伊奈冨神社

43 額田廃寺出土(せん)製如来坐像
   縦9.6 奈良時代 7C.
   個人蔵

44 額田廃寺出土(せん)製如来坐像
   縦6.1 奈良時代 7C.
   個人蔵

45 額田廃寺出土銅造天部立像
   縦5.9
   個人蔵



 鈴鹿市の西部、稲生町の伊奈冨神社は、中伊勢地方を代表する、古い由緒の神社で、今珂出品の神像や扁額を初めとして、数多くの文化財を所蔵している。また、境内は、広大な林に囲まれ、中でも「七島の池」と呼ばれる庭園は、神社庭園の古例として、県の名勝に指定されている。

 中国や日本では、古くから寺院の門や神社の社殿、あるいは楼閣などに、その建物の名称を記した額を掲げる習慣があった。伊奈冨社伝来の書体を異にする扁額3面は、古く当社にあった、大宮・三大神・西宮の三社それぞれの社殿に懸けられていたものである。裏面に記された銘文により、鎌倉時代後期の文永11年(1274)に、藤原経朝によって原字が書かれたことが知られる、年代の判明する数少ない扁額である。額面には、「正一位稲生大明神」という文字が、1行4字、2行にわたって書かれており、書体を異にするものが、3面伝来している(草書体の額のみは「一」を「弌」と記す)。

 ヒノキの一枚板を用い、周囲には、繰形のある額縁を設けている。文字は陰刻とし、当初、文字の部分には金箔が置かれ、また他の部分は漆塗りとしていたが、長年、社殿に懸けられていたために、現在では、殆ど剥落して、素地を現している。

 筆者の藤原経朝(1215−76)は、藤原行成を祖とする書の流派、世尊寺流の第9代に当たり、和様の書を代表する世尊寺流の流派名が生まれたのは、この経朝の時であったという。3面とも、それぞれに風格のある堂々とした筆になり、書跡としても優れた作品であるが、古代・中世における、伊奈富神社に対する盛んな信仰の一端を知る資料としても貴重な遺品である。

 額田廃寺は、桑名市の西部、員弁川に臨む丘陵地にあったが、現在、宅地開発のために遺構は破壊されている。昭和39年に、発掘調査が行われ、伽藍配置が法隆寺式であったことが判明し、出土した山田寺式および川原寺式の軒丸瓦などから、7世紀後半に造営された寺院であったと推定されている。

 これらの3点の(せん)仏と金銅仏は、発掘調査がされる以前の、江戸時代後期から明治頃にかけて、現地の住民によって採集されたものである。

 1の如来坐像は、近年新たに紹介された像。全体に摩粍が著しく、細部の像容は鮮明でないが、円形の頭光を負い、大衣を偏袒右肩にまとって結伽趺坐し、右手は膝前に置き(あるいは降魔印か)、左手は腹前に安ずる。また、両脇に菩薩立像らしきものを表す。この種の像は、他に類例がないが、体躯の造りなどは、南法華寺出土の独尊如来倚像(せん)仏に近く、かなり写実的な表現がなされている。

 2の如来坐像は、宝珠形の頭光を負い、衣で覆われた両手を腹前に安じて結跏趺坐する。この像も全体に摩滅が著しく、顔貌など細部の表現は明らかでない。本像は、大きさや像容が、夏見廃寺出土の独尊(せん)仏に近く、千仏表現の一部をなしていたものと思われる。

 3の天部立像は、かって火中したため、表面が焼けただれ、両手先も失われているために、尊名も明らかではなく、制作時期が上記の(せん)仏と同じ時代のものかどうかも判然としない。左腕を上げたポーズから見て、四天王像のうちの一体であったのかもしれない。


文献

 額田廃寺発掘調査会編『額田廃寺発掘調査概要』昭和40年。
  
(左) 42(1)縦77.3 横52.
(右) 42(2)縦77.0 横53.91

42(3)縦77.3 横53.0
  
(43)           (44)

(45)
46 智積廃寺出土(せん)仏
  (大)縦8.0 (小)縦3.5
   奈良時代 7C.
   四日市市教育委員会



 智積廃寺は、四日市市の中心から西へ約8kmの地点にある。この2点の(せん)仏は、昭和28年、農道建設工事の際、「高塚」と呼ばれる小高い場所から多くの瓦類とともに、発見されたものである。方形三尊(せん)仏断片は、上部が半分以上失われているために、全体の図様は判然としないが、右脇侍は水瓶を持った右手を垂下し、左手を胸前に挙げて、蓮華座上に直立する。中尊は、方形の宣字形台座に坐するが、衣の一部は台座前面に懸って、いわゆる裳懸座をなしている。台座前面の蓮華座上に置かれた足は、左足と思われるが、もしこれが左足ならば、中尊は半跏倚坐、あるいは交脚倚坐の像となり、本像は他に例を見ない特異な方形三尊(せん)仏の作例ということになる。しかし、この足先部の表現はやや鮮明さに欠ける所があり、中尊を半跏倚坐の像と断定することは、現在のところ差し控えたい。

 もう一方の方形如来坐像は、前掲の額田廃寺出土像と同じ形式の独尊(せん)仏で、円形の頭光を負い、定印を結んで結跏倚坐する。

 2点とも、表面には金箔が残存しており、かつては全面が金色に荘厳されていたものと考えられる。

 智積廃寺は、昭和42年から翌年にかけて発掘調査が行われ、南北に並ぶ3宇の建物の遺構が検出され、160余点にのぼる瓦頬が発見された。同寺の詳しい造建年代や伽藍配置は判明していないが、出土品からみて7世紀末から8世紀前期にかけて造営されたものと思われる。


文献

 四日市市教育委員会編「四日市市埋蔵文化財調査報告書 第3集 智積廃寺発掘報告書』昭和43年。
47 鳥居古墳出土品
   奈良時代 7−8C.
   三重県立博物館



 鳥居古墳は、愛宕山古墳とも呼ばれ、津市の中心部からさほど遠くない、安濃川を望む丘陵地にあり、昭和38年に発掘調査が行われた。これらの押出仏と(せん)仏とは、横穴式石室内の石棺右横の土中に埋納されていたもので、発見時には上下不揃いであったり、裏返しの状態のものもあったりしたことから、完形の押出仏が何等かの意図をもって埋納されたのではなく、後世のある時期に、伝世していた押出仏が損傷したために、古墳の開口部からまとめて投げ込まれたものではないかと推定されている。

 押出仏は、修復作業の結果、10面と同残欠1括が取り出され、また吉祥天立像を表した(せん)仏1面が出土している。

 1の一光三尊像は、蓮弁形光背の形に切り抜いた銅板に、天蓋の下の如来立像と合掌して直立する菩薩像、その上部に左右2体ずつの化仏を、また光背周縁部には、魚々子タガネによる3条の連珠文帯を表している。発掘の際に左下半部が切り落とされてしまったが、表面には現在でも鍍金が良く残り、出土品中では最も注目される遺品である。

 中尊は、大きさや形が唐招提寺伝来の押出如来像と同じこと、また脇侍像は法隆寺献納押出三尊像の左脇侍像、当麻寺奥院の押出三尊像の左脇侍像と同型同大であることが指摘されており、幾つかの原型を組み合わせて造られる押出仏の制作背景を知る上でも貴重な作例である。

 2・3の如来立像は、2体とも頭部と足元が失われているが、同型同大で同一の原型から造られたものと思われる。偏袒右肩に衣をまとい、左手は屈臂して胸前に挙げ、右手は体側に沿って垂下する。本像は、唐招提寺伝来の押出如来立像と同じ形式・大きさを示していることが既に指摘されている。従って、1の一光三尊像中尊と同じ原型から鎚起されたものと考えられる。

 4の如来坐像も、像容か比較的鮮明な遺品で、大衣を通肩にまとい、腹前で定印を結んで、八角框座上に結跏趺坐する。向かって左には、脇侍菩薩の一部が残っているので、元来は三尊像であったと思われる。ふっくらとした顔貌や肉付きの良い体躯は、本像の制作時期が7世紀末か8世紀に入ることを示している。

 5の菩薩立像は、宝珠形の頭光を負い、左手を胸前に挙げ、右手は垂下するポーズをとって、反花座上に直立する。本像と同一の作例は、他には紹介されていないが、胸から腹部にかけての抑揚を表す作風は、1の一光三尊像脇侍像に比べて、一歩進んだ表現を示している。

 6・7の千体仏の、6の像は現状上下に7列の千仏が残っている。また、7の像は、中央に二仏並坐像が表され、その周囲に千仏が現状計9体認められる。二仏並坐像は、2像とも右手・施無畏印、左手・与願印を結んで、結跏趺坐する。また、衣の裾は、台座前面に懸かって、いわゆる裳懸座を成している。周知のように、二仏並坐像は、『南無妙法蓮華経』「見宝塔品」に基づく図像であり、我国の著名な作例には、長谷寺伝来の千仏多宝塔銅板があるほか、中国古代の石窟寺院には数多くの造像例を見ることができる。鳥居古墳からは、千仏表現のある押出仏が計4面出土しているが、これらの千仏は、二仏並坐像を取り囲む形で表されていた可能性が大きい。千仏を形成している如来坐像には、天蓋を持った大形の像と円形の頭光を負った小振りの像との、二つの形式を認めることができる。

 これら押出仏の伝来や、これらの像が当初どのような尊像構成を成していたのかは、明らかでない。発掘時に、小さな鋼釘や蝶番、あるいは木片などが伴出していることから推測すると、法隆寺伝来の玉虫厨子に見られるように、かつては厨子の内部などに打ち付けられていたのかもしれない。詳しい制作時期も明らかにし難いが、如来坐像や吉祥天立像(せん)仏の様式から判断して、7世紀末から8世紀前半頃の作と思われる。

 最後の吉祥天立像(せん)仏は、下半身の部分が殆ど失われているが、唐招提寺伝来の押出吉祥天立像と極似した形制を示しており、押出仏と(せん)仏との相関関係を知る上で、貴重な作例である。『金光明経』などに説かれる吉祥天は、福徳を司る女神として、奈良時代に多くの信仰を集めた。本像も、そうした奈良時代における吉祥天信仰を反映した遺品と言うことができる。


文献

 青木繁夫・西川杏太郎「金銅押出仏の修復処置一三重県津市愛宕山古墳出土」『保存科学』15 昭和51年。
 西川杏太郎「津市愛宕山古墳から出土した押出仏」『仏教芸術』108 昭和55年。
 
(左)@一光三尊仏 銅板 鍍金 縦29.6
(右)A如来立像 銅板打出 鍍金 縦20.0
 
(左)B如来立像 銅板打出 鍍金 縦24.5
(右)C如来坐像 銅板打出 鍍金 縦14.2
 
(左)D菩薩立像 銅板打出 鍍金 縦16.0
(右)E千体仏 銅板打出 鍍金縦16.0
 
(左)F千体仏 銅板打出 鍍金 縦32.5
(右)G(せん)製吉祥天立像 縦20.6
48〜50 夏見廃寺出土品


 夏見廃寺は、近鉄名張駅の東方約1kmの丘陵地に位置する。同寺は、昭和21年・22年の両年、京都大学考古学研究室による調査が行われ、(せん)仏・瓦などが出土すると共に、金堂・塔などの遺構が検出されて、注目されるようになった。その後、当寺の創建年代に関して、毛利久氏と藪田嘉一郎氏とを中心とする論争があったが、決め手となる文献史料に欠けることもあって、結論の出ないまま現在に至っている。昭和59年から3年にわたって、名張市教育委員会による発掘調査が新たに行われた結果、(せん)仏を中心とする遺品が数多く発見され、塔・金堂・講堂などの伽藍配置も確認されるに至って、最近、再び注目を集めている。

 最近の調査では、(せん)仏は、その全てが金堂周辺の地域から出土しており、塔の周辺からは全く発見されていない。また、昭和21・22年の京都大学による調査の際に、やはり金堂の回りから、壁面に並べられた状態の(せん)仏も発見されている。このことから、当寺では、(せん)仏は金堂内壁の荘厳に使用されていたと推察されている。

 夏見廃寺出土の(せん)仏は、現在、戦後間もなく発掘されたものが京都大学、奈良国立博物館、三重県立博物館に、また最近の出土品は名張市教育委員会にそれぞれ所蔵されている。更に、当寺出土と言われる作品が、藤井有鄰館と唐招提寺とに伝えられている。

 出土した(せん)仏は、大形(せん)仏、方形三尊(せん)仏、独尊(せん)仏(3タイプ)、連坐(せん)仏の4種に大別することができる。大形(せん)仏は、京都大学に所蔵される説法印の如来及び左脇侍像の断片と、最近出土した多くの断片が主要なものである。

 この大形(せん)仏の出土品は、その多くが小さな断片で、当初の像容を復元することには困難が伴うが、法隆寺伝来の(せん)製阿弥陀五尊像が類似例として想定される。この五尊像は、大きな天蓋の下に、説法印を結ぶ阿弥陀如来倚像と二比丘、観音・勢至の二菩薩立像とを表し、念持仏として造立された像であると考えられる。ただ、夏見廃寺の出土断片には、法隆寺像には見られない眷属像などの頭部も含まれていることから、当初は、七尊あるいは九尊といった多尊形式の阿弥陀説法図であった可能性が大きい。

 方形三尊(せん)仏も、完形品は無く、断片のみの出土であるが、復元では縦21.3cm、横13.8cm、厚1.5cmの大きさで、中尊は、二重円光背を背に、大衣を偏袒右肩にまとい、両手を腹前で組んで、方形宣字座上に腰を下ろした如来倚像で、両脇に蓮茎を有する蓮華座上に直立し、合掌する菩薩立像を配する。また、背後には菩提樹が、上部には豪華な天蓋が表され、その両脇には飛天が配される。この構図は基本的には奈良の橘寺や川原寺から出土した方形三尊(せん)仏と同じものであるが、天蓋や後屏の文様が、一段と複雑化し、華麗になっているのが特徴的である。

 独尊(せん)仏には、上部に天蓋が表された像、宝珠形頭光と二重蓮華座の表された大形の像、円形頭光のみを持つ小形の像の3種類がある。また、これに似たもので、独尊(せん)仏を連続して表す連座(せん)仏も発見されている。これらは方形三尊(せん)仏などの周囲に貼り付けられて、一種の千仏表現を構成していたものと考えられる。

 このように、夏見廃寺出土の(せん)仏は、多彩な内容を示し、古代寺院における(せん)仏表現の有様を考える上で、興味う来い資料を提供している。しかし、これら出土品は、断片が殆どで、完形のものが非常に少ないために、当初の尊像構成、仏堂内での配置等を復元するには、困難が伴う。特に、大形(せん)仏断片は、(せん)仏遺品の中では、群を抜く大きさで、当初は阿弥陀如来倚像を中心とする多尊形式の阿弥陀説法図を構成していたと想定されるが、類品に乏しいこともあって、詳しい尊像構成や安置方法など、不明な点も多く残っている。

 これら(せん)仏の制作年代は、従来から7世紀後半頃と考えられてきたが、最近、「甲午年□□中」と判読される銘文を持つ断片が出土したことから、その制作時期として、694年という一つの目安が得られることになった。


文献

 毛利久「薬師寺縁起の一記文と夏見廃寺」『史迹と美術』215 昭和26年。
 薮田嘉一郎「夏見寺について」『史迹と美術』235 昭和28年。
 村田円次郎「夏見寺私見」『史迹と美術』243 昭和29年。
 京都大学文学部編『京都大学文学部博物館考古学資料目録 第2部』昭和43年。
 名張市教育委員会編『夏見廃寺 第一次発掘調査 概要』昭和60年 名張市遺跡調査会。
 名張市教育委員会編『夏見廃寺 第二次発掘調査 概要』昭和61年 名張市遺跡調査会。
 大脇潔「(せん)仏と押出仏の岡原型資料―夏見廃寺の(せん)仏を中心として」『MUSEUM』418 昭和61年。
  
48-@夏見廃寺出土方形三尊(せん)仏残欠
縦23.2 奈良時代7C. 奈良国立博物館
  
(左)48-A夏見廃寺出土独尊(せん)仏
各縦6.5 奈良時代7C. 奈良国立博物館
(右)48-A夏見廃寺出土独尊(せん)仏
各縦2.8 奈良時代7C. 奈良国立博物館

(左)49-@夏見廃寺出土大型(せん)仏断片
光背・宝瓶 縦8.5 奈良時代7C. 名張市教育委員会
(右)49-A夏見廃寺出土大型(せん)仏断片
脇侍頭部 縦9.0 奈良時代7C. 名張市教育委員会
  
(左)49-B夏見廃寺出土大型(せん)仏断片
仁王形 頭 縦5.5 奈良時代7C. 名張市教育委員会
(右)49-C9-B夏見廃寺出土大型(せん)仏断片
仁王形 胸 縦5.5 奈良時代7C. 名張市教育委員会

49-D9-B夏見廃寺出土須弥壇
縦4.5 奈良時代7C. 名張市教育委員会
  
(左)49-E夏見廃寺出土方形三尊(せん)仏断片
復元縦21.3 奈良時代7C. 名張市教育委員会
(右)49-F夏見廃寺出土独尊(せん)仏
各縦6.5 奈良時代7C. 奈良国立博物館
     
(左)49-G夏見廃寺出土独尊(せん)仏
各縦2.8 奈良時代7C. 奈良国立博物館
(中)49-H夏見廃寺出土連座(せん)仏
縦4.4 奈良時代7C. 奈良国立博物館
(右)49-I夏見廃寺出土連座(せん)仏
縦3.7 奈良時代7C. 奈良国立博物館

(左)50-@夏見廃寺出土(せん)製如来倚像
縦9.4 奈良時代7C. 三重県立博物館
(右)50-A夏見廃寺出土(せん)製三尊仏断片
縦9.5 奈良時代7C. 三重県立博物館
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