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美術館 > 展覧会のご案内 > 企画展 > 2014 > 三重県立美術館-三重県立美術館-岡田文化財団設立35周年記念 コレクション展 出品リスト

岡田文化財団設立35周年記念 コレクション展

あこがれとしてのヨーロッパ フランス近代絵画を中心に

 

 岡田文化財団からの初めての寄贈は、1981年のシャガール(1887~1985)の《枝》でした。以来35年間、画家の円熟期に描かれたこの作品は、当館の顔として多くの方

々から愛されてきました。

 

 また、モネ(1840~1926)の2作品には、海と山を舞台にした夕暮れの景色が表されています。同じような時間を描いていても、光の反射という視点から見れば、両者が見る人に与える印象はまったく異なります。また、デュフィ(1877~1953)の大胆な線と色の戯れからは、自らのフィルターを通すことによって描く対象を再構成する意味が読み取れます。

 

 寄贈作品には、19世紀後半から20世紀にかけてフランスで活躍した作家の作品が多くあります。印象主義や象徴主義、フォーヴィスムにシュルレアリスムなど、それまで

 

の美術理論や制度からの脱却を目指したモダンアートの精神は、日本の近代美術にも大きな影響を与えてきました。

 

 長くあこがれの対象であったフランスの近代美術は、日本の芸術家たちが何を手本としてきたかを考える上で大きな示唆を与えてくれます。

 

 

出品リスト

作者名 生没年 作品名 制作年 材料 寸法(cm)
ゴヤ・イ・ルシエンテス、フランシスコ・デ 1746-1828 アルベルト・フォラステールの肖像 1804年頃 油彩・キャンバス 45.9×37.5
モネ、クロード 1840-1926 橋から見たアルジャントゥイユの泊地 1874年 油彩・キャンバス 62.0×81.0
ルノワール、オーギュスト 1841-1919 青い服を着た若い女 1876年頃 油彩・キャンバス  42.9×31.0
モネ、クロード 1840-1926 ラ・ロシュブロンドの村(夕暮れの印象) 1889年 油彩・キャンバス 73.9×92.8
ドガ、エドガー 1834-1917 裸婦半身像 1891年頃 コンテ、赤チョーク・紙 43.0×50.0
ルオー、ジョルジュ 1871-1958 キリスト磔刑 1939年頃 油彩・紙(キャンバスで裏貼) 62.7×47.1
デュフィ、ラウル 1877-1953 黒い貨物船と虹 1949年頃 油彩・キャンバス 38.0×46.1
シャガール、マルク 1887-1985 1956-62年 油彩・キャンバス 150×120
シャガール、マルク 1887-1985 版画集「サーカス」 全38点 1967年 リトグラフ・紙 42.0×32.0, 42.0×64.0
ミロ、ジョアン 1893-1983 女と鳥 1968年4月11日 油彩・キャンバス 100×65.6

 

 オーギュスト・ルノワール(1841-1919)

 

 《青い服を着た若い女》

 

 1876 年頃|油彩・キャンバス|42.9×31.0cm

 

1875年の春、ルノワールはモンマルトルの丘の上に建つ庭つきの家を借りました。この頃、畑や風車のあるこの町に、代々製粉業を営んでいた主人が田舎風のダンスホールを開きました。倉庫のような建物に楽隊の舞台があり、客は庭園でダンスを楽しむという雰囲気が気に入り、ルノワールは制作を始めます。

本作は、この時期に描かれた肖像画。題名が示す青い色調は、この時代のルノワールを特徴づける色彩です。正面を見据える少女の端正な顔は、小さな筆触を丹念に並置して描かれています。濃い色のリボンが結ばれた白い襟によって、彼女はより鮮明に画面に定着されています。粗い筆致の処理も完成作品と見なす態度はまさに印象主義的といえるでしょう。

 

 

 クロード・モネ(1840-1926)

 

 《橋から見たアルジャントゥイユの泊地》

 

 1874 年|油彩・キャンバス|62.0×81.0cm

 

普仏戦争の混乱を避け欧州に居を転々としたモネは、1871年の暮れに祖国に戻ると、パリ近郊のアルジャントゥイユを制作の地と定めました。ここでの7年間が印象主義の画家としての彼を育んだといっても過言ではありません。近代化の波がいまだアクセントとして景色を彩るに留まっているこの地で、170点余りもの作品を描きました。

プティ・ジュヌヴィリエの入り江は毎夏週末に開かれるヨットレースで賑わっていました。水面に反射する短い夏の黄金の光は、さながら繻子織りのごとき輝きを見せています。即興的に、しかしながら細心の注意を払って運ばれた筆遣いは一秒として同じ顔を見せない景色を効果的に演出しています。

 

 

 エドガー・ドガ(1834-1917)

 

 《裸婦半身像》

 

 1891年頃|コンテ、赤チョーク・紙|43.0×50.0cm

 

19世紀後半のフランスで活躍し、バレエの踊り子や浴女を描いた絵で知られるドガの素描。簡潔な手法で描写された裸婦の習作ながら、一瞬の動きが生き生きと捉えられ、今にも動きだしそうなほど、確かな存在感が与えられています。

ドガは、一般には印象主義の画家の一人として日本に紹介されていますが、彼の興味は他の印象派の画家たちとはかなり異なっていました。風景よりも人物や馬を、光よりも動きをとらえることにその関心は注がれ、競馬場やバレエの主題を好みました。

ドガの作品はしばしばカメラがとらえたスナップショットにたとえられますが、ドガの卓越した素描力は、スナップショット的な一瞬にすら、古典絵画のような永遠性を与えているといえるでしょう

 

 

第2章 自然と人間 日本の近代絵画

 

 明治時代の幕開けとともに西洋の様々な知識や技術がもたらされ、専門的知識を持った外国人教師も多数来日しました。《沼の落日》を描いたフォンタネージ(1818~1882)もその一人です。彼は、工部美術学校(現在の東京大学)で教鞭を執り、多くの画家たちを指導しました。

 当時の日本人画家たちは油彩画という新しい表現技法の特性を掴もうと努力しましたが、「歴史画」を頂点に置く西洋的な絵画思想については、十分に馴染んだとは言えません。「歴史画」のように声高な主張をする主題よりも、身近で親しい対象に日本人画家たちは共感を示したのです。

 

 四季の移ろいが顕著で、変化に富んだ景色に恵まれた日本では、自然は克服するものではなく、私たちの生活に寄り添うものでした。和田英作(1874~1959)の《富士》や須田國太郎(1891~1961)の《信楽》では、人々の営みさえも風景に溶け込むように描かれています。藤島武二(1867~1943)の《大王岬に打ち寄せる怒濤》のような一見荒々しい作品でも、その核心となっているのは様式化された形と色彩が生み出す調和であると言ってよいでしょう。 

 

出品リスト

作者名 生没年 作品名 制作年 材料 寸法(cm)
フォンタネージ、アントニオ 1818-1882 沼の落日 1876-78年頃 油彩・キャンバス 39.5×61.0
和田英作 1874-1959 富士 1909(明治42)年 油彩・キャンバス 53.3×72.9
藤島武二 1867-1943 大王岬に打ち寄せる怒濤 1932(昭和7)年 油彩・キャンバス 73.3×100
須田國太郎 1891-1961 信楽 1935(昭和10)年 油彩・キャンバス 72.6×116
梅原龍三郎 1888-1986 霧島 1936(昭和11)年 油彩・キャンバス 65.0×80.3
安井曾太郎 1888-1955 荒川風景(寄居附近) 1945(昭和20)年 水彩、鉛筆・紙 24.2×35.0
長谷川利行 1891-1940 裸婦 制作年不詳 水彩・紙 33.4×24.8
小清水漸 1944- 作業台 水鏡 1981(昭和56)年 シナ合板、ウレタン塗装、水 H40.0×W145×D110
松本薫 1952- FROM 90゜ TO 90゜ 1981(昭和56)年 ステンレス・スティール 47.0×39.0×14.0
中村晋也 1926- Miserere XIV 1998(平成10)年 ブロンズ H135×W50×D75

  

 藤島武二(1867-1943)

 

 《大王岬に打ち寄せる怒濤》

 

 1932(昭和7)年|油彩・キャンバス|73.3×100.4cm

 

1928(昭和3)年、昭和天皇の学問所を飾る油彩画制作の委嘱を受けた藤島は、その作品の主題を「旭日」と定め、意に適った景色を見出すべく10年にわたる取材旅行を行いました。その過程で、かつて尋常中学校助教諭として勤めていた三重の地を再び訪れ、大王岬でこの作品を描きました。

 

「東洋とか西洋とかという観念を撤回し」「西洋臭味を離れたものを描く」ことに心をくだいていた藤島が、同じ構図の作品を試作してから描いたという本作は、第13 回帝国美術院美術展覧会に出品された藤島の代表作といっていいでしょう。色彩の調和、線の

 

リズム、構図や筆の勢いといった直接的な技法と、画家の精神性としての生動を見事に結実させた作品です。

 

 

 須田國太郎(1891-1961)

 

 《信楽》

 

 1935(昭和10)年|油彩・キャンバス|72.6×116cm

 

色づき始めた山並みを背に、家々が立ち並ぶ陶器の郷・信楽ののどかな風景が、褐色を主体とした質朴な色彩と重厚な筆使いによって描き出されています。

作者は、京都の洋画界で昭和前期に一時期を画した洋画家須田國太郎。京都帝国大学で美術史を研究する一方、関西美術院でデッサンを学び、バロック絵画に強い魅力を感じて、終生、西洋の模倣に終わらない、東洋と西洋が融合した油彩画を追求しました。

須田の作品は、堅固なリアリズムの精神に裏打ちされ、光と影の対比を巧みに生かした風格ある画風を示しています。本作は、そうした須田の芸術が最も高揚した時期に制作された風景画の一つです。

 

 

 第3章 ほとばしる絵筆 あふれでる言葉 村山槐多と関根正二 

 

 大正時代は、近代化の光と闇が凝縮された十数年でした。文明開化と富国強兵という明治以来の目標が一応の完成を見たとき、人々の心にあったのは欧米の列強に肩を並べたことへの達成感と、そのために失ったり形を変えてしまったりしたものへの喪失感でした。そのような世情に敏感に反映して、感受性豊かな若者たちは自らの内なる声を作品の中に表現しました。ここでは、関根正二(1899~1919)と村山槐多(1896~1919)を取り上げましょう。

 福島県白河出身の関根正二は、弱冠16歳で第2回二科展に初入選し、将来を嘱望されました。また、第5回二科展に3点の油彩が入選して樗牛賞を受賞しますが、放浪の旅をくりかえした後、スペイン風邪がもとで20歳でこの世を去ります。

 

 また、村山槐多は京都の旧制中学を卒業した後、画家を志して上京します。18歳のとき第1回二科展に入選、その作品を横山大観が購入するなど華々しいデビューを飾りました。しかし、モデルの女性への失恋などから自暴自棄な生活へと陥り、何度も喀血した後22歳の生涯を終えます。

 

 岡田文化財団から寄贈された二人の作品は、ほとんどがスケッチ帖などに描かれたものです。発表を前提にしていない私的な領分に属するものと言っていいでしょう。途切れたり重ねられたりした線は、決して完成されること無いが故に、「天才」と称された二人の画家のいつまでもさめない情熱を表しているかのようです。 

 

出品リスト

作者名 生没年 作品名 制作年 材料 寸法(cm)
村山槐多 1896-1919 詩『紫の天の戦慄』1 1914(大正3)年 墨・紙 23.1×31.7
村山槐多 1896-1919 詩『紫の天の戦慄』2 1914(大正3)年 墨・紙 23.1×31.7
村山槐多 1896-1919 石仏 

 

*裏:着物の女と女の顔
1915(大正4)年 鉛筆・紙 22.8×14.2
村山槐多 1896-1919 路傍の石神 

 

*裏:左向きの女の顔
1915(大正4)年 鉛筆・紙 22.9×14.1
村山槐多 1896-1919 しゃがんだ男 1915(大正4)年 インク、水彩・紙 22.8×14.0
村山槐多 1896-1919 癩者と娘等 1915(大正4)年頃 インク・紙 14.4×22.5
村山槐多 1896-1919 両手を開いた裸婦立像 

 

*裏:顔と風景
1915(大正4)年頃 鉛筆・紙 21.2×16.5
村山槐多 1896-1919 交接 1915(大正4)年頃 インク・紙 21.2×16.5
村山槐多 1896-1919 座る裸婦 1915(大正4)年頃 インク・紙 22.0×16.7
村山槐多 1896-1919 右手を胸にした裸婦立像 

 

*裏:両手を胸の前にした裸婦立像
1915(大正4)年頃 インク・紙 21.1×14.5
村山槐多 1896-1919 詩『つばき』 

 

*裏:座った裸の男
1917(大正6)年 インク・紙 15.8×21.2
村山槐多 1896-1919 詩『深夜の耳』 1917(大正6)年 インク・紙 19.9×15.3
村山槐多 1896-1919 詩『どうぞ裸になって下さい』 1917(大正6)年 インク・紙 16.7×20.9
村山槐多 1896-1919 三人の人物 1917(大正6)年頃 水彩・紙 124.0×30.0
村山槐多 1896-1919 立っているピエロ 

 

*裏:詩(5-53)
1918(大正7)年 木炭・紙 20.3×14.5
村山槐多 1896-1919 踊るピエロ 1918(大正7)年 鉛筆・紙 20.3×14.5
村山槐多 1896-1919 両手を胸の上に置いた裸婦立像 1918(大正7)年 鉛筆・紙 21.3×14.5
村山槐多 1896-1919 裸婦立像

 

*裏:女の顔
1918(大正7)年 鉛筆・紙 22.3×14.4
村山槐多 1896-1919 男の顔 

 

*裏:人物(3人)
1918(大正7)年 墨・紙 20.1×15.3
村山槐多 1896-1919 詩(わたしはなにだろう・・・) 

 

*裏:詩(赤いびろうど・・・)
1918(大正7)年 インク・紙 16.7×20.9
村山槐多 1896-1919 詩(血が私の口から滴り・・・) 1918(大正7)年 鉛筆・紙 16.7×20.9
村山槐多 1896-1919 詩(自ら私は腕を見、足を見る・・・) 

 

*裏:詩1(くだく男)詩2(風に吹かれて草木は・・・)
1918(大正7)年 鉛筆・紙 16.6×21.0
村山槐多 1896-1919 詩(火花の様に飛んではねて・・・) 1918(大正7)年 インク・紙 14.5×20.0
村山槐多 1896-1919 詩(勝て勝て勝て・・・) 1918(大正7)年 インク・紙 14.6×20.0
村山槐多 1896-1919 詩(ぶどうの房のごとく・・・) 1918(大正7)年 インク・紙 15.2×20.0
村山槐多 1896-1919 詩(どこで生れ、いつ生れ・・・) 

 

*裏:詩(真赤な幕を引くと・・・)
1918(大正7)年 インク・紙 16.8×20.9
村山槐多 1896-1919 詩(桜の花が咲いた・・・) 1918(大正7)年 インク・紙 17.0×20.9
村山槐多 1896-1919 詩(私は死を怖れない・・・) 1918(大正7)年 インク・紙 17.0×21.0
村山槐多 1896-1919 詩(ほんとの事はただ一つ・・・) 1918(大正7)年 インク・紙 16.7×20.9
村山槐多 1896-1919 詩『宮殿指示』(蜜蜂が数萬御殿へ・・・) 

 

*裏:詩『宮殿指示』(みなさま御覧なされ・・・)
1918(大正7)年 インク・紙 16.4×21.2
村山槐多 1896-1919 詩(走る走る走る・・・) 

 

*裏:詩(世界がかきくもる・・・)
1918(大正7)年 インク・紙 16.4×21.1
村山槐多 1896-1919 詩(運命は美しい布だ・・・) 

 

*裏:詩(物はこまの様に・・・) 
1918(大正7)年 鉛筆・紙 15.5×23.5
村山槐多 1896-1919 詩『曇りし日の数分』  1918(大正7)年 鉛筆・紙 16.5×21.0
村山槐多 1896-1919 詩『木と空と』  

 

*裏:詩(私はそっとつぶやいた)
1918(大正7)年 鉛筆・紙 16.5×21.0
村山槐多 1896-1919 9月20日 日記 

 

*裏:船の人
1918(大正7)年 鉛筆・紙 16.1×20.1
村山槐多 1896-1919 詩『わが命に』 1918(大正7)年 鉛筆・紙 17.0×20.9
村山槐多 1896-1919 短歌 2首 

 

*裏:詩(藝術を作り藝術の悦楽に・・・)
1919(大正8)年 鉛筆・紙 16.4×21.1
村山槐多 1896-1919 詩『死の遊び』 

 

*裏:(着衣モデル)
1919(大正8)年 インク・紙 16.8×21.2
村山槐多 1896-1919 裸婦 制作年不詳 水彩、鉛筆・紙 102.0×42.0
村山槐多 1896-1919 ピンクのラブレター 制作年不詳 墨、水彩・紙 23.4×31.7
村山槐多 1896-1919 稲生氏へのラブレター1 制作年不詳 インク・紙 23.0×32.0
村山槐多 1896-1919 稲生氏へのラブレター2 制作年不詳 インク・紙 23.0×32.0
関根正二 1899-1919 野娘 

 

*裏:棒を持つ男
1917(大正6)年 インク・紙 22.5×14.4
関根正二 1899-1919 横顔 

 

*裏:子供の顔
1917(大正6)年 インク・紙 22.5×14.4
関根正二 1899-1919 立てる男 

 

*裏:少年の顔
1918(大正7)年 インク・紙 22.5×14.4
関根正二 1899-1919 ねている人 1918(大正7)年 インク・紙 14.4×22.5
関根正二 1899-1919 関根正二小品画会案内原稿 

 

*裏:顔(五つ)
1918(大正7)年 墨、鉛筆・紙 11.0×18.5
関根正二 1899-1919 天使(断片) 1918(大正7)年頃 油彩・キャンバス 17.3×36.1(残存部分),59.1×44.7(イメージ部分),60.3×45.8(パネル)
関根正二 1899-1919 顔と手<スケッチブックより> 1919(大正8)年 インク・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 顔(二つ) 1919(大正8)年 鉛筆・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 横顔<スケッチブックより> 1919(大正8)年 インク・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 画稿(断片) 1919(大正8)年頃 クレヨン、鉛筆・紙 13.9×21.5
関根正二 1899-1919 顔(三つ)<スケッチブックより> 1919(大正8)年頃 インク・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 帽子を冠った男<スケッチブックより> 1919(大正8)年頃 インク・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 スケッチ<スケッチブックより> 1919(大正8)年頃 鉛筆・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 手(二つ)<スケッチブックより> 1919(大正8)年頃 鉛筆・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 手(一つ)<スケッチブックより> 1919(大正8)年頃 鉛筆・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 女と座す女<スケッチブックより> 1919(大正8)年頃 鉛筆・紙 18.3×28.5
関根正二 1899-1919 包帯の男<スケッチブックより> 

 

*裏:スケッチ
1919(大正8)年頃 インク・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 裸婦群像習作<スケッチブックより> 

 

*裏:絵具
1919(大正8)年頃 鉛筆、インク・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 顔<スケッチブックより> 

 

*裏面:笛を吹く男のいる習作
1919(大正8)年頃 木炭・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 顔<スケッチブックより> 1919(大正8)年頃 鉛筆・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 三人(野原) 

 

*裏:立てる女と群像
制作年不詳 インク・紙 18.3×28.5
関根正二 1899-1919 足(二つ) 

 

*裏:合掌する男
制作年不詳 鉛筆・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 走る女と表紙下絵 

 

*裏:『文章世界』表紙下絵
制作年不詳 鉛筆・紙 23.5×15.5
関根正二 1899-1919 裸婦 

 

*裏:顔
制作年不詳 鉛筆・紙 22.5×14.4
関根正二 1899-1919 登っている男 

 

*裏:顔
制作年不詳 鉛筆・紙 18.5×11.0
関根正二 1899-1919 木と男 

 

*裏:裸体
制作年不詳 鉛筆・紙 18.5×11.0
関根正二 1899-1919 雑誌表紙習作 制作年不詳 インク・紙 28.0×18.3
関根正二 1899-1919 顔と立てる人 制作年不詳 インク・紙 23.5×15.5
関根正二 1899-1919 制作年不詳 インク・紙 28.5×18.3
関根正二 1899-1919 手 

 

*裏:風景断片
制作年不詳 インク・紙 18.3×28.5
関根正二 1899-1919 男とメモ 

 

*裏:接吻
制作年不詳 鉛筆、インク・紙 23.5×15.5
関根正二 1899-1919 立てる人 

 

*裏:少女立像
制作年不詳 鉛筆、インク・紙 23.5×15.5

 

 村山槐多(1896-1919)・関根正二(1899-1919)

 

 スケッチ帖他

 

村山槐多は大正8(1919)年2月に22歳で、関根正二は同年6月に20歳でこの世を去りました。槐多は京都府立第一中学校在校中から回覧雑誌に詩文や絵画を発表しはじめ、18歳で第1回二科展に入選、他方、関根正二も16歳で二科展入選を果たし、19歳の時に《信仰の悲しみ》等で樗牛賞を受賞するなどして早熟ぶりを発揮していました。

人々は才能豊かな二人の死を深く悼んで語り継ぎ、2人は個性的な表現が盛んに試みられた大正美術の象徴的存在として並び称され、その生涯と才能は一種の伝説となっています。

 

今回ご紹介する2人の素描やスケッチ、村山槐多の詩の原稿は、彼らと親交があった画家で後に美術商に転じた瀬津伊之助が収集していたものです。

 

村山槐多の作品群には、自身の理想を追い求めながらも、思うようにならない青年期の希望と絶望、生と死を巡る感情が複雑に交錯した心持を見て取ることができます。

 

一方、関根正二の、画面中央の断片のみが残った油彩画《天使》や、鉛筆やペンによる素描類には、関根芸術の一つの源泉でもあったルネサンス絵画への関心が示されています。ふたりの素描を見るだけでも、両人が全く異なる個性の持ち主であったこととともに、大正期美術の多様性を容易に理解することができるでしょう。

 

 

 第4章 曾我蕭白と宇田荻邨

  

 本展の締めくくりとなる第4章では、三重とゆかりの深い曾我蕭白(1730~1781)と宇田荻邨(1896~1980)による絵画を中心にご覧いただきましょう。

 独創的なスタイルで評価の高い江戸時代の画家・曾我蕭白は、京の商家に生まれ、伊勢地方や播州(兵庫県)に滞在し、多くの作品と逸話を遺しています。播州の旧家に伝えられた《松に孔雀図》と《許由巣父図》は、水墨技法を駆使して描かれた秀作で、制作地に加えて制作年が推定できる貴重な作品です。

 

 松阪出身の日本画家・宇田荻邨は、京に出て清澄な京洛風景を描き続けました。《巨椋の池》、《竹生島》、《祇園の雨》は、いずれも荻邨の画業で重要な意味を持つ作品です。中でも、アメリカの収集家のもとにあった《祇園の雨》は戦後の代表作で、洗練された祇園の風情を感じさせます。寄贈作品には、荻邨の画室に遺されていた大量の下絵や写生帖も含まれています。これらは、制作の過程を伝えるだけでなく、すでに失われた本画を知る手がかりともなる貴重な資料でもあります。また、画家の素顔を伝える下絵や素描類は、絵画作品としての魅力も十分に備えているといえるでしょう。

 

 

出品リスト

作者名 生没年 作品名 制作年 材料 形式 寸法(cm)
曾我蕭白 1730-1781 許由巣父図襖  4面 1767(明和4)年頃 紙本墨画 襖 4面 各172×86.0
曾我蕭白 1730-1781 松に孔雀図襖  4面 1767(明和4)年頃 紙本墨画 襖 4面 各172×86.0
宇田荻邨  1896-1980  風景寫生集 1914(大正3)年      
宇田荻邨 1896-1980 南島寫生 1915(大正4)年      
宇田荻邨  1896-1980 動物寫生 1915(大正4)年      
宇田荻邨 1896-1980 海女(下絵) 1915(大正4)年 淡彩・紙   150×59.5
宇田荻邨 1896-1980 波切風景(下絵) 1915(大正4)年頃 紙本墨画淡彩   166×58.0
宇田荻邨 1896-1980 夜の一力(下絵) 1919(大正8)年 淡彩・紙   139×140
宇田荻邨 1896-1980 花畑(下絵) 1923(大正12)年 淡彩・紙   143×140
宇田荻邨 1896-1980 巨椋の池 1924(大正13)年 絹本着色 2曲1隻 194×165
宇田荻邨 1896-1980 淀の水車(下絵) 1926(大正15/昭和元)年 淡彩・紙   196×179
宇田荻邨 1896-1980 竹生島 1932(昭和7)年 絹本着色 2曲1隻 165.0×180.2
宇田荻邨 1896-1980 御塩殿(下絵) 1944(昭和19)年 淡彩・紙   94.0×107
宇田荻邨 1896-1980 祇園の雨 1953(昭和28)年 絹本着色   97.9×117
宇田荻邨 1896-1980  花鳥寫生集 制作年不詳      
宇田荻邨 1896-1980 伊勢神宮寫生 制作年不詳      
宇田荻邨  1896-1980 芹生風景 制作年不詳      
宇田荻邨 1896-1980  寫生帖 制作年不詳      
宇田荻邨  1896-1980 寫生帖 制作年不詳      
宇田荻邨 1896-1980 寫生帖 制作年不詳      
安田靫彦 1884-1978 鈴屋翁 1932(昭和7)年 絹本着色 軸装 47.5×56.0(全体:149.5×77.5x7.1)

 

 《松に孔雀図》

 

 《許由巣父図》

 

 1767( 明和4)年頃|紙本墨画|各172×86.0cm

 

 曾我蕭白は、京都に生まれ、各地を遍歴しました。伊勢地方にも何度か訪れ、三重県内で多くの作品を手がけました。一方で、播州地方にも少なくとも2度にわたって滞在し、制作をおこなっていたことが知られています。

 

《松に孔雀図》、《許由巣父図》は、播州地方遊歴時に描かれた襖。現在は改装修理され各々独立した状で保管されていますが、元来、表裏を成しており、高砂の旧家に描かれた後に親戚の家で保管されていました。落款、作風から判断し、1767(明和4)年、蕭白38 歳頃に描かれた作であると考えてよいでしょう。

 

《松に孔雀図》は、墨の濃淡と筆致の使いわけにより、老松、孔雀各々の質感が巧みに表現されている秀作で、蕭白の水墨画を代表する作品のひとつです。一方の《許由巣父図》には、帝尭が自分に帝位を譲ろうというのを聞いて、耳が汚れたと潁川で耳を洗う許由と、そんな汚れた耳を洗った川の水を自分の牛に飲ませることはできないと牛を牽いて帰った巣父の姿が描かれています。理想の高士としてしばしば絵画化された伝統的画題を扱っているにもかかわらず、蕭白の描く高士は卑俗な笑みさえ浮かべています。このような高士の表情は蕭白画の特徴のひとつで、古典を洒落のめす機知と滑稽、卑俗さが姿をのぞかせています。

 

  

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