野田理一 年譜
(野田理一研究家 高井儀浩 編)
1907年(明治40年) |
11月1日、蒲生郡岡山村(現近江八幡市)で生まれる。幼時、日野町日田の野田家の養子となる(父、恒蔵)。養家は、酒造業を営む近江商人、野田一族の有力な分家であった。地元の日野小学校を経て、大津市の膳所中学校(現膳所高校)に進む。 |
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1927年(昭和2年) |
20歳 | 関西学院高等部文学部英文科入学。T.Sエリオットに傾倒して詩作を始め、寿岳文章に師事してダンテに親しむ。英文科の先輩、竹中郁等が寄稿していた詩の同人誌に参加。この同人誌のメンバーには特高警察に尾行される者もいた。絵画や音楽を愛好する一方、演劇に熱中、築地小劇場に出かけたりもする。 |
1931年(昭和6年) | 24歳 | 関西学院高等部文学部英文科卒業。 |
1934年(昭和9年) | 27歳 | 式場隆三郎編『バーナード・リーチ』所収のリーチの文章を、寿岳等とともに訳出。 |
1935年(昭和10年) | 28歳 | 詩集『願はくは』出版。『願はくは』は寿岳文章が設立した出版社・向日庵から「向日庵私家本」として刊行。120部限定の和紙による美麗な装幀。当時の野田の住所は「津市羽所町」(奥付による)。鈴鹿市に酒蔵と店舗を構える「十一屋野田商店」の経営に参加していた。
後に抽象の画家として大成する浅野弥衛と知り合ったのは1933年ころではないかと考えられている。以後、浅野に大きな影響を与え続け、画家浅野弥衛誕生、成長の礎となった。 |
1937年(昭和12年) | 30歳 | 雑誌『世代』7号(6月発行)に、詩「バザー」掲載。以後、38年(昭和13年)8月発行の11号から41年(昭和16年)12月発行の18号まで、毎号、詩やエッセイを寄稿。『世代』は昭和11年4月に第1号発行、『日本近代文学大事典』によると「法政大学教授であった片山敏彦を中心に、同大学卒業の原田勇、大野正夫が編集……。反文壇的、反時流的な高度の文学雑誌で、野上豊一郎夫妻など一部の支持があったが、時局の逼迫、応召などにより廃刊のやむなきにいたった。」(藤原定による記述)という雑誌であった。執筆者には、片山敏彦、野上豊一郎・弥生子夫妻に加え、草野心平、竹山道雄、谷川徹三、河盛好蔵、長谷川四郎、花田清輝、高橋義孝、山之口獏など錚々たる文学者が名を列ねる。表紙や挿絵に使われているのはピカソやデュシャン、アルプやミロなどの前衛芸術からアンジェリコ、デューラー、ロダン、ギリシャ彫刻、中国古代壁画、仏教美術等多岐にわたる。
戦前から戦後にかけては養家の酒造業の経営に参加したが、1951年に経営の一線から退いて日野に戻り、以後生涯を日野で過ごす。 |
1952年(昭和27年) | 45歳 | 『荒地詩集1952』に「『危機』からの合唱」以下13編の詩が掲載される。以後、58年まで毎年の『荒地詩集』に複数の詩編が掲載される。53年刊『詩と詩論第1集』、54年刊『詩と詩論第2集』(いずれも荒地出版社)、57年刊『荒地詩選』にも多くの詩が収録される。
詩誌『詩学』(昭和27年4月号)に詩「地図」、同誌(昭和28年3月号)に詩「遅れた論理」、詩誌『歴象』14号(中野嘉一主宰。昭和29年6月発行)に詩「雨の衣装」、『詩学』(昭和33年7月号)に詩「状態の物質性」掲載。 |
1961年(昭和36年) | 54歳 | 『浅野弥衛・鈴木清二人展』(3月5日から11日)のリーフレットにエッセイ「浅野氏の個展」寄稿。 |
1963年(昭和38年) | 56歳 | 『詩学』(5月号)に詩「人間は理解者であり媒体である」掲載。
50~60年代にかけて、地元の演劇の活動に参加。大津絵の作品を自らが描き始めたのは60年代後半からと考えられる。現代美術についての評論を62年に『美術論集1』、64年に『美術論集2』として刊行(いずれも私家本)。 |
1971年(昭和46年) | 64歳 | 詩集・美術論集『記録』刊行(9月湯川書房刊。限定120部)。
70年代中心に、地元の俳句の活動に参加、句会の選者を務めたりする。近くの北原洋裁学校や本誓寺(檀家寺)で茶会を催したり、日野高校の茶道部を指導したりするなど、茶道にも熱心に取り組む。また、日野東中学校の美術の臨時講師を務めたり、地元の小中学校教師向けの美術研究会で講演したりする。 |
1972年(昭和47年) | 65歳 | エッセイ集『日野椀の転生』刊行(3月30日湯川書房刊。限定120部)。 |
1973年(昭和48年) | 66歳 | 日野小学校同窓会機関誌『日溪』創立100周年記念号の表紙をデザイン、表紙裏にその説明文を寄稿。『季刊銀花第15号』(9月30日発行)に「日野椀の転生」掲載(「湯川書房の好意により本誌に掲載」と補記あり)。『季刊銀花第16号』(12月30日発行)に「十二神将像について」掲載。
『浅野弥衛・中島幹夫2人展』(11月20日~30日。名古屋桜画廊)リーフレットにエッセイ「浅野弥衛 卵のメタフォア」寄稿。 |
1974年(昭和49年) | 67歳 | 『季刊銀花第20号』(12月30日発行)に「氏郷・日野椀・宗和椀」掲載。
詩集『非亡命者』刊行(発行月日記載なし。私家本。限定200部) |
1975年(昭和50年) | 68歳 | エッセイ集『氏郷追悼そのほか』刊行(「75年秋印刷・刊行」とのみ記載。発行月日記載なし。私家本。限定350部)。 |
1976年(昭和51年) | 69歳 | 『花祭り(天野茂典超個人誌)』に詩3編(「アアのメドレー」「オーデンへのオード」「石油オー!」)発表。詩集・エッセイ集『アアの共同体』刊行(発行月日記載なし。限定300部)。エッセイ集『1.修二会(お水取り)2.謎のモナ・リザ』刊行(発行月日記載なし)。 |
1978年(昭和53年) | 71歳 | エッセイと画集『大津絵・大津絵』刊行(5月1日書肆季節社刊。限定120部)。
『季刊湯川第3号』(10月発行)に「大津絵への前言」掲載(『大津絵・大津絵』冒頭文「大津絵の歴史に在るもの」と同文)。 |
1979年(昭和54年) | 72歳 | エッセイと画集『大津絵覚書』刊行(7月書肆季節社刊。限定200部)。 |
1980年(昭和55年) | 73歳 | 詩集『対応』刊行(5月5日書肆季節社刊。限定222部)。
『野田理一詩画展』(6月 京都・山田画廊)。 |
1981年(昭和56年) | 74歳 | エッセイ『大津絵要目』刊行(9月刊。私家本。限定100部)。 |
1983年(昭和58年) | 76歳 | 詩集『ドラマはいつも日没から』刊行(3月1日思潮社刊)。鮎川信夫著「解説にならない解説」を跋文として収録。『歴象』100号(7月10日発行)に詩「間をおくらせるメリスマ」掲載。
『野田理一 復元大津絵展』(6月22日~7月8日 京都・梁画廊)。 |
1984年(昭和59年) | 77歳 | 『文学界』7月号に詩「夜が振向く」掲載。詩誌『季節6号』(駒木幸雄主宰。12月20日発行)に詩「歩行者の幻想構造」掲載。 |
1985年(昭和60年) | 78歳 | 詩集『夜が振り向く』刊行(9月1日思潮社刊)。エッセイ集『古い手帖とその時代』刊行(ギャラリー・プチ・フォルム刊。発行月日記載なし。限定350部)。 |
1986年(昭和61年) | 79歳 | 『郷土の名詩・西日本編』(小海永二編、大和書房刊)に「木への祝福と追悼」掲載、注釈を書く。『現代詩読本・さよなら鮎川信夫』にエッセイ「追想―書簡の温もり」寄稿(文末に「1986・10月28日」の日付あり)。 |
1987年(昭和62年) | 80歳 | 2月22日、肺炎のため逝去。 |