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美術館 > 展覧会のご案内 > 企画展 > 2014 > 特集展示 生誕100年浅野弥衛 ―描線の詩学―2014.10.1-2014.12.21

特集展示 生誕100年浅野弥衛 ―描線の詩学― 作品解説 

 

 

01   自宅にはめ込まれていた窓に旧制中学時代の浅野が描いた1枚。浅野が亡くなった後、改築する際に取り外したが、記念にと思い大切に残されていた。中心に多肉植物を描き、その上を形象化された雲が流れ行く。どこか南国風で、そして古い仏画のようなのどかさを感じさせてくれる。
02   画面左上にYAE.ASANO.1951と微かに見えることから、年記のある浅野の作品では最も古いものの1枚。大小様々の四角が、重なり合ったり、ひしめき合ったりして配置され、画面上部には星座を思わせる点と線のつながりが踊る。まるでどこか異国の街並みのようであり、あるいは忘れ去られたロボットたちの語らいを描いたかのようにも見える。後の浅野の作品にみられるように、線そのものの力や勢いを前面に押し出すというよりも、形と構成に力点が置かれており、浅野の出発点を探る上で貴重な1枚である。
03  白と黒で構成された、モダンでスタイリッシュな、従来の浅野の作風とは異なる厚塗りによる色彩が灯された1枚。宙に漂う有機的な形態は、ジョアン・ミロの1920年代の絵画を想起させる。20代のころから親しくしていた詩人の野田理一の蔵書の中には、海外から輸入した画集が多数含まれており、それらは浅野が海外の美術の動向に触れるきっかけを作った。50年代中頃の浅野の作品には、ミロやクレーなどの、外国の作家の影響が色濃く出ている。
06  額の裏に浅野の特徴的な文字で「浅野弥衛 作」「祝 新築落成」「贈 鈴鹿信用金庫」と筆で書かれ、1954年12月16日の鈴鹿市旧市庁舎の落成を記念して送られたものと推測される。パウル・クレーを思わせる、多彩な直線と繊細な色彩が美しい。07の作品と額の仕様が同じことから(07はオリジナルの額の複製)、作品のすぐ縁に白を置き、装飾を排し、グレーに緑の線が彫りこまれたこの形を、浅野が好んでいたことが分かる。
07  本展初公開。鈴鹿信用金庫(鈴鹿信用組合から改組)の代表理事を勤めていた頃の浅野が知人に贈った貴重な1枚。画面右下に「YAE.ASANO.-54」とあることから、浅野の最初期の油彩画の1枚と確認された。鈴鹿市所蔵の《点と線》に通じる、線の奏でるリズムと、線によって囲まれた色面のハーモニーが特徴的。茶を基調とした暖かみのある色彩は浅野の作品において極めて珍しい。
08  「作品は作品自身が語る以上のものでも以下のものでもない」と考えた浅野は、作品に題を付けぬまま完成としたり、《作品》のように特定の事物を参照しない、抽象的な名前を与えたりすることが多かった。

しかしながら、1950年代後半の作品には、例外的にタイトルを持つものが存在する。本作はその代表ともいうべき1枚。何か危険を知らせるかのような不穏な赤に、線がぎこちなく走る。画面中央、上から下から押し込まれるような形の中に穿たれた2つの円はまるで目のように、画面下に伸びる放射状の直線はつぐまれた口のようにも思えてくる。それは「それは閉ざされている(ママ)」という言葉と相まって、全体として警句のような効果を醸し出す。

野田理一研究家の高井儀浩氏によれば、野田の著作の中に「それは閉されている」と題された詩があるという(初出『世代』18号(1941年12月20日発行))。浅野の画業初期における、浅野と野田との関係の深さが垣間見られる作品。

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本展のための調査で所在が明らかになった作品。

画面右下に「YAE.ASANO.1955」とあり、1955年制作と分かる。また額裏に第15回美術文化展(1955年)の出品票が貼られていることから、従来の浅野の展覧会歴を書き換えることにもなった。1955年は、浅野の父弥吉が没した年。弥吉は北伊勢上野信用金庫の前身の鈴鹿信用組合の創立者のひとりで、浅野自身も本作制作当時、その代表理事を務めていた。父と、そして自らにゆかりの深い同社へ寄贈した経緯には、特別な思いがあったに違いない。

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2008年2月、鈴鹿市甲斐町にあるJA鈴鹿の倉庫で発見され、話題となった1枚。倉庫の中を整理していた職員が見つけ出した。その職員は、浅野の孫の友人で遊びに来ると浅野のアトリエに何度となく上がり、浅野の姿や言葉、時に浅野に促されてその作品に「触れた」思い出を鮮明に覚えていたという。子どもも分け隔てなくアトリエに招き入れ、絵について語って聞かせたという、浅野の人柄を偲ばせるエピソードがもたらした発見である。 

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浅野が生涯唯一描いた自画像。一般的な「自画像」からはほど遠く、円の中に直線や曲線が飛び跳ね、絡まり合うのみである。この密集する線の塊は、しかしながら、他の浅野作品のような、洗練や軽快さとは無縁で、どこか底知れぬ力の予感を秘めた重さを醸し出す。それはあたかも小さな隕石のような存在感である。浅野にとって自らは、そのような内的エネルギーの充満した個体としてイメージされていたのかもしれない。 

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1969年から1970年にかけて、白地に黒い点が規則的に置かれた作品群が現れる。いわゆる「たがやし」シリーズである。浅野によれば、「農夫が、無心に天気のことだけ考えながら手でウネを作るのと同じ境地で、絵具の固くならないうちに掘ってゆく、まるで農夫が畑を耕すように」描くことだと言う。大地のおおらかさを感じさせる作品として浅野の作品の中でも好む人が多い。浅野は、晴れた日には必ず夕日を見、寝る前には畑に出て夜空を仰ぐこと好み、「例え星が出ていなくても雲の向こうは満点の星空」と語ったという。「抽象画家」浅野にとって、自然は直接的なモティーフでなかったかもしれないが、もっと深い交感が確かにそこにはあったに違いない。

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1970年代半ばから後半にかけて、浅野の白地の「ひっかき」に引かれた線が、極限まで抑制される方向へと変化した。最小の要素で構成された作品は、それゆえ潔さを感じさせ、禁欲的とも表すことができる。それゆえこの時期の作品を、禅の精神に通じるものと評価する声があるのも頷けよう。浅野には、本作に似たモティーフで「霧の林」と題された版画が存在する。霧に煙る木立とくれば、真っ先に思い出されるのは、長谷川等伯の《松林図屏風》であろう。あるいは浅野の脳裏を、等伯の松林に吹く風が掠めていたのかもしれない。

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外国への輸送に使う木箱に、オイルスティックで描いた作品。小さな芽や花のつぼみが並んでいるようにも見えるが、ある日同じモティーフを見た浅野の孫が「アリンコ」みたいだと言ったことを、浅野はいたく喜んだという。箱の側面だけでなく、底面にも、そして内側にもびっしりと描き込まれ、無理な体勢を強いられてもなお乱れることなく一心に描き続けた浅野の意欲と集中力に脱帽する思いである。

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これまでの浅野の作品と異なり、80年代後半から90年代初頭の白地の「ひっかき」には、小さなモティーフの集合体のような作品が多く見受けられる。それらは一見ノートの隅の落書きのような、漫画的でユーモアに富んだ画面にも受け取れるが、子細に確認していけば、意味や形になる直前の叫びのような荒々しさも見えてくる。それは例えば、滅亡した古代文明の象形文字のようにも、偶然発見された洞窟に残された壁画のようにも見え、私たちに眠る太古の記憶が呼び覚まされたかのような感覚を与えてくれる。

 

  

野田理一と浅野弥衛

 

野田理一は、詩人としての顔以外に、批評家、さらにコレクターとしても特異な存在であった。その関心の所在は多岐にわたり、国内外の膨大な書籍を所有し、同時代の海外の美術をいち早く購入したかと思えば、故郷滋賀ゆかりの大津絵を自ら描いたり、日野椀の研究にも力を注いだりした。1987年2月に野田が亡くなった後、遺族が日野町立図書館にその蔵書の一部が寄贈された。野田理一研究家の高井儀浩氏が、2013年6月から2014年1月までの7ヶ月半をかけて整理を行った結果、その全貌が明らかになった。

寄贈された野田旧蔵の書籍は、総数1,490冊。内訳は和書1,103、洋書176、図録・画集130、辞書類12、カタログ・雑誌42、楽譜27となっている。特に浅野との関係で注目すべきは、洋書の画集である。最も多い作家はクレーの7冊、ピカソが6冊、シャガール5冊、ダリ3冊と続く。浅野の言葉や現存する作品からは、ピカソやシャガール、ダリからの影響が色濃く表れていないことから、浅野は野田が提供する情報を、取捨選択した上で受容していたと推測される。

「野田さんとの出会いは、私が二十歳頃のことです」と述懐する浅野は、その画業の最初期における導き手として、「私に、新しい絵画の世界を、ひらいてくださったのは、詩人の野田理一さんだといっても過言ではありません。」(「インタヴュー 浅野弥衛」『美術読本』no.1、1986年1月)のように、野田の名前を常に挙げる。しかしながら一方で、「初めて外国の画集で抽象の世界をのぞいたとき「驚きはなかった。能、カブキはシュールなものだし、床の間の違いダナのアンバランスだってそうだ。日本に昔からあったんや」というのが実感だった」。(「洋画家浅野弥衛氏(訪問)」『中日新聞』、1971年3月13日(夕))とも述べるなど、そこには、野田に対する微妙な対抗心だけでなく、西洋文化に対峙することで立ち現われる、日本というものへの意識の芽生えも感じられる。浅野は、野田の背中をただやみくもに追いかけるのではなく、ある時は疑問を呈し、ある時は反発しながら、自らの指針とすべきものを磨き上げていったと言えるだろう。絵を描くことを自らの道と定めるまでの過程において、野田の存在は大きく、常に参照点としてあったに違いない。 

 

野田理一 年譜

 

野田理一と音楽

 

 文学だけでなく、美術、演劇、音楽と、あらゆる芸術に造詣が深かった野田は、浅野に未知の世界をいくつも広げて見せた。明確に意識されなくともそれらは、澱となって沈殿し、浅野の中で醸成されていった。

以下に引用する言葉は、そのことを象徴するものである。命が危険に晒されるまさにそのただ中で、浅野は出征前に野田と聞いたベートーヴェンを思い出す。

 第2次大戦が始まる前、東京の芸大に、マンフリット・グルリッドというドイツ人の指揮者が教授としていて、その人が、名古屋に来てベートーヴェンの第九を聞かすというので、野田さんが、「召集が来るかもしれないから、これだけは、聞きましょう」といって、無理矢理、つれていかれたものです。それから二、三日して応召になり、しばらくした終戦の前年、日本の敗戦が濃くなってきた頃でした。フィリピンに渡る船上、いつ魚雷がドシーンとうちこまれるかわからないような状態の時に、私は甲板に出て、空を見て寝転がっていました。そんな時、ふっと、「ベートーヴェンの第九をもう一度聞いてみたいな」と思ったのです。音楽を聞いてみたいなと思ったのは、あれが最初にして最後です。(「インタヴュー 浅野弥衛」『美術読本』no.1、1986年1月) 

 

浅野と道具

 

 白と黒の画面を自らの作風の神髄とした浅野は、パレットも白と黒の2枚を用意した。白色には特にこだわりがあり、2種類の白い絵具を混ぜて調合し、黒も艶のない乾いた黒を好んだ。「ひっかき」技法にとって大事なのは下地作りであるとし、虫がとまったら台無しになるからと、夏場は窓を閉め切った中で汗にまみれて制作を行った。下地を引っかく道具は多彩で、様々な太さの鉄筆や、時に牛乳瓶のふたを開ける針を利用することもあった。

 

スケッチブック

 

浅野が残したスケッチブックには、植物や身近な人物のデッサンも多数残されている。それらを見れば、浅野が抽象的な形や線だけでなく、確かなデッサン力を持っていたことがよく分かる。

浅野の作品は、子どもの落書きのようだと言われることが多いが、この「子どもの落書き」のごとき「無心な線」を得ようとして、いかに浅野が鍛錬を重ねていたかということも、同時にスケッチブックは教えてくれる。何度も何度も繰り返しひかれた線は、次第に癖や偏りから自由となり、浅野が求める線へと近づいていくのだ。

必見は、個展の芳名録の余白に手すさびに描いたデッサンである。構えない素顔の浅野を垣間見せてくれるようで興味が尽きない。

 

桜画廊

 

桜画廊は、1961年、名古屋・栄町の文天堂ビルの3階にあった文天堂画廊を引き受ける形で出発した。1967年に場所を移して伏見ビル5階を拠点と定めてからは、画廊主の藤田八栄子(1910-1994)が亡くなるまでの34年間、現代美術専門の画廊として、中部圏の若手作家を紹介に力を入れ、画廊と言えばデパートや貸画廊が主流の時代に、名古屋だけでなく、全国的にみても異彩を放ち続けた。

浅野が藤田と知り合ったのは、開廊前、まだ藤田が画材店「桜画房」を営んでいた頃(1952-1960)のことである。以降二人の親交は続き、桜画廊での浅野の初めての展覧会は1961年5月に岡田徹との二人展で、初めての個展はそれから13年後の1974年11月に行われた。以降浅野は1993年までほぼ毎年のように同画廊で個展を開き、桜画廊の中心的画家となった。 

 

浅野弥衛と『北斗』

 

 同人雑誌『北斗』は、1949年(昭和24年)9月1日創刊。木全圓壽・清水信・井澤純・川島學の4名の同人で出発した。途中1953年4月~1955年3月の間、一時誌名を『群蜂』に変更したが、現在に至るまで70年近くの間欠号なく発行され、2007年にはその功績を称え、「平成十九年度名古屋市芸術奨励賞」が送られた。

 第10號までの『北斗』の表紙は、単色の地に太字で白く抜かれた「北斗」の文字が占めるだけであったが、第11號からは図版入りとなり、現在までその方針は踏襲されている。

浅野が『北斗』にカットを描く経緯について、清水は同誌上で以下のように書く。

「十號までの北斗の表紙の字は井澤が書いた。うまいへたは問題外で、これはいいものだと思ふ。カットは三號から入れたが、八號で浅野彌衛、九號で鈴木武と統一するまでは雑然としたものだった。」(清水信「人工天文台」『北斗』第10號、1950年)

実際には、浅野のカットは第4號(1949年)の、清水の原稿に添える形で登場する。また、初めて浅野のカットが表紙を飾ったのは、第12號(1950年)で、「カットについて」という文章も寄せている。第16號(1950年)や、1960~63年に発行された号の同人名簿には浅野も名を連ね、『北斗』の初期同人の一人であったことが確認できる。

浅野が手がけたカットは、個展などで発表される前衛的な画風とは異なり、人物や魚や植物など具体的な形象を表そうという志向が感じられる。『北斗』では、浅野は自らの絵の選択やレイアウトについて口を挟まず、すべて編集部に委ねていたという。浅野以外にも数名がカットを描いていたが、最も多く、そして最も長く用いられているのが浅野のカットである。

 

北斗610号 

 

2014年9月1日発行の『北斗』第六一〇號は、「特集 浅野弥衛 生誕百年」。浅野が『北斗』のために描いたカット集や、詳細な年譜とともに、浅野を身近で見続けた清水信、衣斐弘行の原稿に加え、『北斗』同人らも文を寄せている(ミュージアムショップで取り扱い中)。

 

 

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