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『歿後20年 中谷泰展』 もうひとつの見どころ

田中善明

 松阪市出身の洋画家・中谷泰。この画家の作品について、日ごろから気になっていたことがあります。それは、作品に見られる軽快な筆づかいや、少し漫画のような人物像の捉え方が、いったいどこから生まれたのだろうかということです。この趣向は天性のものなのかもしれませんが、誰かの影響か、もしくは何か特別な経験があるはずだとも思っていました。油絵だけでなく銅版画やリトグラフ(石版画)も中谷泰は手掛けていましたが、点数的にはほんの僅かで、版画の仕事が油絵の仕事にそれほど作用したとは思えません。それが今から約4年前、たまたま古書店の目録を開けてみますと中谷泰が描いた童話の原画が売られていて、ようやく合点がいきました。しばらくして、ご遺族から油絵作品とともに資料類をまとめて預かることになりましたが、そのなかにも新聞の挿絵や多くのカット集が含まれていました。

 おそらく1988(昭和63)年に当館で開催された中谷泰展では、そういった童話の挿絵類を描いていたことをこの画家は語らなかったのだと思います。漫画に近い軽快な線で描いた挿絵類はだいたい1950(昭和25)年代前後に発表されていますが、この時期は中谷泰だけに限らず、彫刻家の佐藤忠良や画家の脇田和、森田元子など多くの芸術家が絵本の挿絵を手掛けています。終戦後まもなく大変な時期、美術展覧会は早々に復活を遂げましたが、一方で芸術家として生計を立てることは相当の苦労があったはずで、戦前に春陽会賞や文部省美術展覧会で特選を受賞するなど世の評価が高かった中谷泰でさえも生活が楽ではなかったことは容易に想像できます。

 このような挿絵類の仕事を紹介したのは誰なのか、はっきりとしたことはわかりませんが、1942(昭和17)年頃から師事した画家・木村荘八である可能性は高いでしょう。木村は永井荷風の代表作『ぼく(注:サンズイに墨)東綺譚』の挿絵を描いたことでも有名で、画家としての仕事と同じ程度にまで挿絵の仕事に価値を置いていた人です。また、木村は中谷の生活安定を思って、絵具の検査員の仕事を紹介したり、中谷の画会の発起人を務めたりしていた人でもあります。10月12日に行われた座談会で、中谷泰のご長男は、ランドセルを木村荘八から贈られたものだとおっしゃっていました。突然挿絵の仕事を振られても、すぐに対応できるわけではなく、ある程度の素養があったことは確かで、その片鱗は、戦前に描かれた小さな板絵の軽快なタッチを見ても理解できます。しかし、表現が一層軽快になったのは、この挿絵の仕事が大きかったように思います。今回の展覧会のポスターになった母子像の作品から、雨後に工場の前で水たまりを避けて歩く作業員の姿かたちに至るまで、挿絵の仕事で培った軽快な表現が、何とも言えない親しみやすさを絵の世界にもたらしているようです。

(友の会だより93号、2013年11月30日発行)

 

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