富士塚信仰をご存じであろうか
井上隆邦
富士塚をご存じであろうか。富士山を模した築山で、江戸期には江戸市中に数多く造られ、神・仏として崇められた。その多くが神社・仏閣の境内に築かれた。大店の息子が「僕も富士山がほしいよ」と親を困らせた逸話が残るくらいだから、人気のほどが伺える。
広重の浮世絵「名所江戸百景」にも、富士塚をテーマとした2作品がある。いずれも遠景には本物の富士山が、手前には富士塚が配置されている。富士信仰が庶民の間に浸透していた証であろう。
「東京路上博物誌」によれば、富士塚を考案したのは植木屋、藤四郎だという。藤四郎は、富士信仰の教祖的な存在である食行身禄(しょくじき・みろく)の後継者だといわれている。
最近、身禄の生涯を纏めた本をいただいた。実に興味深い内容だったが、身禄が旧美杉村(現・津市三杉町)の出身であることを知るに及んで、一層好奇心を刺激された。
つらく、苦しい少年時代を過ごした身禄は十三歳で江戸に出奔。ここで一介の油行商人から身を起こし、巨万の富を築いている。伊勢商人の代表格だった三井高利の遺産八万一千両に対して、身禄が築いた財産は五万八千両だったというから、半端な金額ではない。
ところが、身禄は還暦を機に「物欲は煩悩の所産」であるとして、すべての財産を放棄。その三年後には富士山の七合目で断食、即身成仏している。実に壮絶な最期だ。
身禄にまつわる本(私家版)をくださったのは元県教育長の田川敏夫さんだ。近々、田川さんを誘って、美杉にある身禄生誕の地を訪れたいと考えている。
(朝日新聞・三重版7月21日掲載)