「終活」怠けたおかげ?父偲ぶ
井上隆邦
今年の正月は、亡父の遺品整理に明け暮れた。その作業もようやく峠の九合目まで到達し、少しばかりほっとしている。遺品の整理で一番困ったのは、蔵書の扱いだった。父が一つ一つ集めたものだけに、廃棄する気分にもなれない。
いったんは我が家で引き取ることも考えたが、物理的に無理だった。寄贈先にと関係の研究所や大学にも当たったが、どこもスペースに余裕が無く、この話も実現しなかった。
思い悩んだ末の結論が、古本屋へ持ち込むことだった。古本屋であれば、さらに人の手に渡る可能性もあると考えたのだ。どの古本屋に持ち込むか、選定には慎重を期した。選んだ先は、東京・神田神保町の老舗。父が生前、足しげく通った店でもあった。
古本屋の店員は、持ち込んだ蔵書を一冊ずつ丁寧に確認してくれたが、本の中身には余り関心を示さなかった。結局、二束三文で引き取ってもらった。
蔵書を整理している最中に「終活」という言葉が頭をよぎった。人生が終わる前に身の回りを整理しておくことだ。確かに理屈はその通りなのだが、実践するとなると簡単なことではない。特に、蔵書の整理ともなればなおさら厄介だ。一冊一冊に思い出が詰まっており、また自分の来し方とも深く結びついているので、とかく判断に迷う。
父を偲ぶ恰好の機会となったのはこの正月。蔵書の一冊を手にした折、書き込みの入ったページに目が留まり、元気だった頃の父の姿が脳裏をかすめた。こうした機会に恵まれたのも、父が「終活」を怠けた(?)お蔭かもしれない。他界して六年。月日の経つのは早い。
(朝日新聞・三重版 2012年3月31日掲載)