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美術館 > コレクション > 所蔵品解説 > 中西夏之 《白いクサビ-日射の中で》 1987年 解説

中西夏之 《白いクサビ-日射の中で》 1987年

 中西夏之(1935- )

白いクサビ-日射の中で》 全6点

1987(昭和62)年 

銅版・紙

各51.5×63.0cm    

 

 私たちは絵画作品に接する際、色彩、線、形、画面構成など平面的な要素に目を向けて、その作品の意味や特性を考えることが少なくない。確かに二次元的な視覚芸術としての絵画というものを考えるとき、こうした見方は当然のことである。また、さらに突き詰めて絵画の二次元性とは何か、そこに具現される作り手の行為はどのような意味を持つのかなど、絵画そのもののありようを考える見方もあろう。
 中西夏之は現代日本の絵画界を代表する画家の一人。彼は一九六〇年代以降、パフォーマンスも含めて既成の絵画表現の枠に収まりきらない活動を展開し、その姿勢は近年も変わることがない。
 彼の作品は、しばしば美しい色彩と清潔な画肌、自在な線の動きと変化に富む画面構成などによって私たちの心をとらえる。だが同時に、中西作品はそうした視覚的快感を放射しながらも、絵画作品そのものの意味に迫ろうとする画家の強い意志をも私たちに伝えているのである。(毛利伊知郎)中日新聞2003年3月24日  


 

 目の前に白い紙だか布を置き、鉛筆かペン、あるいは筆を押しつける。紙なり布は、手の圧力にこたえ、へこむか弾力を伝えるか、つるつるしているか、厚い薄い等、いずれ何らかの反応を示すだろう。白い紙なり布は決して、幾何学的な平面などではない。だから絵をかくという営みも、描き手が中性的な平面にイメージを投射するにとどまらず、手と紙なり布との、具体的なやりとりから生じるものであるはずだ。
 この画面はそのように、相手の反応を確かめながら、一つ一つ刻み目を入れていったのではないだろうか。その結果生まれたのは、何らかのイメージというより、働きかけられることでかえってあらわになる、紙の白い広がりにほかならない。 (石崎勝基・中日新聞1997年4月4日)  



 アクアティントによる、濃淡が微妙に変化する細粒状のひろがりは、左右だけでなく、中央部の白と白のすきまにも認められるので、全画面を埋めていることになろう。そこに、白い線が幾本も交差して、網をなす。
 網の目は決して規則的ではなく、手の動きを感じさせるに十分な弾力を示している。しかし同時に、連なりゆえ各々の動静は中和される。線一本、ひとつの形ではなく、ひろがり全体が問題なのだ。
 網の線はそれぞれ、幾度かなぞられた束である。合間の白は地の灰色とは別で、光りのしずくがにじむとも見える。このように分節された網部を、上下左右八つの白のかたまりが、そこから飛び出す線ゆえの衛星めく自転によって、地から区切り、かつ仲介するだろう。
 ドライポイントの抵抗感ある線に傷つけられ、紙のひろがりは皮膜と化して反応し、脈打つ。一枚の平面が外なる手の働きかけによって、平面に即するかぎりでの空間に変容しようとしているのだ。その時あらわになるのは、しかし実のところ、図柄ではなく、変容の基体である空白のひろがりにほかなるまい。(石崎勝基)サンケイ新聞1991年4月28日 

 


 


 網状の部分を中央にのせつつ、紙面は左でグレー、右で白のひろがりに二分されている。三以上なら安定をもたらしたかもしれない。しかし二は対立の数だ。グレーは後退、白はせりだすが、分裂するわけにもいかず、両すくみの状態にある。
 網部を囲む細長い豆がたは、左で縦、右で構と対比されており、地の左右の対立を横滑りさせている。いずれの豆がたにも黒い同形が直交する。これは旋回を暗示するだろう。のたうつ線はその飛沫か。ところで、黒は左のグレーより濃いので、後者を穿って、さらに下の層があることがわかる。
 網部もまた、紙面のひろがりそのものに起伏を作りだす。網の線は幾度もなぞられており、起伏が、紙面をはさんで、手前と奥へのぎりぎりのずれとして生じたことを示している。豆がたの周囲の線は、その鋭さゆえ、紙面上を動くと同時に、紙面に切りこむものでもある。
 ここであらわにされているのは、紙面の空白に手が働きかけた結果、雲母のように、相重なる層が剥離するさまにほかならない。(石崎勝基)サンケイ新聞1991年6月16日 

 

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