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美術館 > コレクション > 所蔵品解説 > 前田寛治 《赤い帽子の少女》 1928年 解説

前田寛治 《赤い帽子の少女》 1928年

 前田寛治(1896-1930)

赤い帽子の少女

1928(昭和3)年 

油彩・キャンバス

117×90.9cm  

 

 前田寛治《赤い帽子の少女》 1928

 

 前田寛治の作品の周りは騒がしくない。そこに差し掛かると空気は少し冷たく、そして重くなる。景気良く、いっそ軽薄に明るい作品の並ぶ中に持っていけば、彼の作品の艶を消した寡(か)黙ぶりは、なんだかセザンヌを思わせるのが不思議だ。
 色の使い方もうまくはなく、むしろ不器用に近いだろうが、振り返ってみると、実はこの色は前田でしか見られない。色の豊かさをいったん殺すことで色を生かしている。心の底へゆっくりと時間をかけて降りていく色。こんな芸は他のだれにもできなかった。そこに気がつくと、冷たい色と見えたのは表面にすぎないことも分かり出す。「剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)仁に近し」。そういう仁の人・前田のぬくもりこそ、この作品を「花」にしている、隠れた実である。 (東俊郎 中日新聞 1991年5月10日) 


 油絵の仕上げのいったいどこで筆を置くかということは普通、あまり気付かないが、画家の大きな才能の一つである。たとえば、前田寛治は、けっして絵を描き過ぎなかった。
 ある時点を越えて描きこめば、描くほど説明する部分が増える。人物なら人物の沈黙の中に充実していた存在感というべきものを冗舌なおしゃべりに換えてしまうからだ。表現することは、だから表現しないこと。
 そういう表現の機微をたぶん、前田はよく知っていたのだろう。その結果として彼の作品のどれも、一見、無愛想な外観をとることになった。もっくりした体つきが、帽子その他の当時としてはバタくさい道具だてとやや不調和に見える「赤い帽子の少女」にしてもそう。
 ひと口にいうなら強い絵である。音楽にたとえるなら、どんな楽器を使ってもいいし、ありとあらゆる変奏に耐えてなおその元の形を失うことなく、イデーを伝えるバッハのそれに似るか。絵の具の変色とともに古びる絵と、対照的にかえって新しくみえてくるのが彼の絵の手柄で、地上のすべてを根こそぎにす大風一過に現れた硬い岩盤の硬質の美しさ。 (東俊郎 中日新聞 1988年1月23日) 


 絵の題名が連想させても不思議でなかろう華やかさは、この作品には認められない。帽子の赤にしてからが、輝きわたるというよりは、むしろ沈みこむ感が強い。地塗りが白ではなく濃い褐色なので、光が反射せず吸いこまれてしまうのだ。画面の下半ではさらに、黒に近い暗色が重ねられている。
 帽子の赤とは異なる赤茶の衣服の部分は、明色をのせたさらにその上に置かれている。すばやいが周密で平坦な筆致は、やはり手早くかげをつけた首の肉付けと対比される。髪の部分は厚塗りに筆の尻でくぼみを入れ変化を加えている。色面を主とした左に開く構図を、右下で紋様風の点と線がひきしめるだろう。
 少女の目鼻だちはぼかされており、からだつきも角ばらない。面的な絵の具の置きかたとあいまって、作品全体にぼんやりとしたふくらみがもたらされている。他方それは、先に記したように、描くことに変化をつけることによって単なる曖昧さに終わらずにすむのだが、そこではじめて、柔らかなふくらみとひろがりが芯あるものとして、作品の主眼となるだろう。(石崎勝基)サンケイ新聞1989年6月25日 


 赤い帽子の少女は、最初の一瞥(べつ)では未完の感じがし、重い色調と筆触の粗さが、少女という主題が持つ詩情性を押し流しているように見える。
 親近感を寄せることを拒むような、ちょっと通好みというか。おそらくそれは、画面が予想以上に画家の理知的な精神によって考え抜かれ、構築されているからで、その知的なものが絵具のかたまりとなって、われわれの前に立ちはだかる。
 画面を構築するという造形思考を、前田は1923年から2年半のパリ留学中に体得し、自分の理論を形成した。
 一 (対象を説明的に描写せず、触感によって)質感を得る。
 二 (透視図法だけに頼ることなく)質感を得る。
 三 (一、二を満たして全体の統一した)実在感を表す。
 帰国後、前田は理論に則して制作を実験的に繰り返す。本作は、それがクライマックスに達したと思われる1928年に描かれた。
 前田の狙いは、赤いワンピースにつつまれた少女の表現にある。体の凹凸や服の皺(しわ)などの細部の描写は省略され、彼女の体躯(たいく)は大きな一つの固まりとしてとらえられている。
 赤い絵具の広がりは、まず最初に絵具そのものであり、そして服の質感になり、また体の量感となる。この塗りは、前田の理論の実践が、新たな展開を始めたことを告げ、だから、前田の早過ぎる死がいっそうくやまれる。1930年、前田は33歳で世を去っている。(桑名麻理 2000年11月23日中日新聞)

 

 

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