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美術館 > コレクション > 所蔵品解説 > 香月泰男 《芒原》 1968年 解説

香月泰男 《芒原》 1968年

香月泰男(1911-1974)

芒原

1968(昭和43)年 

油彩・キャンバス

91.1×60.7cm 

 

 一面にすすき尾花の咲き乱れる野は、我々にとっても最も親しい秋の風景の一つである。香月のこの作品も、そうした秋の野をきわめて禁欲的な抑えた手法で描いており、抽象化されてはいるが、伝統的な感性にもなじみ深い作品といえよう。
 月夜であろうか。静かな夜の闇の中にすすきの穂がかすかな光を帯びて風になびいている。一面にそこはかとない微光が闇を透かして満ちている、穏やかな光景である。
 しかし、この背後にはもう一つ、全く別の世界が隠されてはいないだろうか。香月は、シベリア抑留を体験し、帰国後「シベリア・シリーズ」として知られる、戦後の美術史にきわめて重い意味を持つ作品群を残している画家である。「芒原」はこのシリーズが一区切りを迎えた直後に描かれている。それを思うとき、この静かな野原は、「芒々」、さらには「亡」の意味さえはらんだ厳しい荒野の相克を呈してくるようにお思われるのである。(土田真紀)サンケイ新聞1990年10月14日  


  香月泰男には「シベリヤ・シリーズ」と題された特異な作品群がある。これははじめからシリーズものとして発想されたのではなかったが、1967年(昭和42)に画集『シベリヤ』をまとめるにあたって、はっきりと意識されるにいたった。
 昭和20年から22年までのシベリヤでの収容所生活の、惨苦にみちたできごとの思い出を描いたもので、1947年(昭和22)の『雨(牛)』から死の年まで、およそ60点をかぞえる。
 この「シベリヤ・シリーズ」の期間はまた香月が、イエローオーカーの下地に、方解末をぬりかさね、その黄色のうえに、油で溶いた木炭の粉末の黒で図をえがくというマチエールをもっぱら愛用した時期にちょうどかさなっている。
 だから古瀬戸の肌のような黄色と、水墨画の黒の色に似た黒をつかった絵といえば、すぐシベリヤ・シリーズとおもうけれど、たとえばこの1968(昭和43)年作の『芒原』はシリーズにははいっていなくて、しかもそれに共通した雰囲気をもっている。帰国したのちの香月が見たどこか日本の風景なのだろうか。(東俊郎)サンケイ新聞1992年4月5日


 1942年、香月は32歳のときに応召し、満州(現在の中国東北区)の戦地に赴いた。香月は1936年に東京美術学校西洋画科を卒業、在学中から国画展に出品し、1940年には同会同人に推挙された。この間1939年に「兎」を第3回文部省美術展覧会(文展)に出品して特選を得ている。ようやく画家としての見通しがひらけはじめた矢先、突然の中断が応召という不測の形で襲ってきたのである。
 1945年の敗戦を、香月は満州の奉天(現在の瀋陽)で迎えている。そしてそのままシベリアに送られ、翌々年1947年まで同地の収容所に抑留されることになる。
 この過酷なシベリア抑留体験は、戦後の香月の画作に深い画想とモチーフを与え、いわゆる「シベリア・シリーズ」を生んだ。この「芒原」もおそらくこの苦しい体験と無関係には生まれなかったであろう。(山口泰弘)125の作品・三重県立美術館所蔵品 1992年 


   この絵はどこか特定の場所を描いたものではない。現代の胸中山水。しかし、一九四三(昭和十八)年に召集され配偶された旧満州のハイラルや、敗戦後に抑留されたシベリアの秋から冬にかけての記憶の中の風景が画因となっているのは確かである。チンギス・ハーンを生んだ中国大陸北辺の乾燥地帯の厳しい自然条件を生きる哀感は、今から千五百年前、既に「天蒼蒼、野芒芒、風吹草低見牛羊」と詩がうたっている。天は暗く青く、野はどこまでも広がっている。風が吹いて草がなびくと、その間から遠く牛や羊が見える、と。香月の絵では人間はおろか、牛も羊も見えない。およそ生き物の気配を絶った、がらんとした空虚さは、その非人情にむしろ、同化できるものなら同化したい画家の心でもあった。
(東俊郎)中日新聞2002年11月25日 

 

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