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美術館 > コレクション > 所蔵品解説 > ルドン 《アレゴリー》 1905年 解説

ルドン 《アレゴリー - 太陽によって赤く染められたのではない赤い木》 1905年

 ルドン、オディロン(1840 フランス -1916)

アレゴリー-太陽によって赤く染められたのではない赤い木

1905年 

油彩・キャンバス

46×35.5cm

 

 ルドン《アレゴリー》 1905

 

 ヴィーナスの誕生を想起させる大きな貝殻の中に立つ裸体の青年。そばには、聖母マリアに似て、頭からベールをかぶった婦人が寄り添っている。右側には大きな樹木が、不気味な発光体のように、ただならぬ赤い色を輝かす。
 「キリストとマリア」、「殉教の聖者」、あるいは「古代の神話」というふうに、この主題の意味についてはさまざまな推測がなされているが、なお依然としてなぞである。
 十九世紀の象徴主義は、古代中世の伝統的な図像表現からは逸脱して、象徴といっても、明白な意味を示すものではない。いわば意味ありげに、奇怪な雰囲気をぼんやりと暗示する。
 赤という色は、十九世紀中葉以降に流布されていたフレデリック・ポータルの「象徴的色彩」という書物では、戦争と破壊を意味するという。確かにこの絵画は、不吉な何ものかを、強烈な色彩によって仄(ほの)めかす。
 かつて、アメリカ合衆国のボルティモア美術館が所蔵していた一点である。 (中谷伸生 中日新聞 189年4月1日掲載)

 


 

 普通『アレゴリー』と呼ばれているルドンのこの作品には、別にもうひとつ奇妙な題名があって、それによれば、この絵は「太陽によって赤く染められたのではない赤い木」ということになる。子どもにとって嘘(うそ)ではない大人になると嘘になるのは心理の発達によるとしても、芸術の誕生は実はこの先にしかない。子どもは芸術を生きるので芸術をつくっているのではない。嘘を嘘として利用したところに生まれる美の真実。古代人はそのことを十分知っていたので、原始人の絵を子どもの絵と無神経に比べる現代人のごう慢はそこで間違えているのだ。
 緑色の太陽があっていいように、赤色の樹木もあっていいのだ、という美の法則を西洋美術はルネサンス以後すっかり忘れていた。忘れていた大事なことを思い出すのはいいことだ。そういう仕事を十九世紀の世紀末になって再び始めた一人がこのルドンなのである。 (東俊郎 中日新聞 1995年6月9日掲載)

 


 

 

 アレゴリーとは、ある事物を直接的に表現するのではなく、他の事物にょって暗示的に表現する方法を指す。この場合、二者間には明白な関連性はなく、表象はあくまでも暗喩(あんゆ)的であり、代替的である。それ故、力点は「いかに」よりも「何を」伝えようとしているかに置かれるきらいがある。
 本作の場合も、多種多彩な主題が割り当てられてきた。美しい裸体の青年とベ-ルをかぶった女性の組み合わせとくれば、真っ先に思い浮かぶのはキリストと聖母マリアである。
 さらに、男性の足下に広がる不思議な曲線に目を留めれば、古代の神話に典拠を求めることもできよう。しかし、どれも画面の「意味」を決定的につなぎ止めることはできない。もとより、そのようなものの存在すら、疑わしいほどである。多くの文献をひっくり返し、なぞ解きにやっきになる私たちをあざ笑うかのように、画面に満ちる色彩は不安なほどに美しい。
 命の炎を燃やす一本の木。背景をのみ込む深海のごどき静寂。トランプの表と裏のように、がんじがらめの解釈を求めるのではなく、ひたすらに色とかたちの織りなす心地よい波動に身を任せるのが一番の鑑賞法であろう。(生田ゆき 2000年7月6日中日新聞掲載)

 

 


 

 大きな貝殻がヴェヌス誕生を連想させるものの、いかなる場面が描かれているのかはつきとめられていない。しかし、この絵自体が放つ雰囲気の濃密さ以外に、表現の所在を求めうるはずもないだろう。
 木の朱を別にして、あざやかな色は用いられていない。むしろ、肌の黄土色が示すとおり、意識的に不透明な混色が選ばれているようだ。さらに、粘りをもたせた絵の具を、塗りこめるごとくゆっくり置いていく。こうして作られる稠密なマティエールは描き出されたイメージを、まさにその場に定着させるだろう。
 朱は木と貝の左下に、人物二人の衣に紫などと、飛び火状に配された各色が響きあう。二人の人物が落とす視線、そして貝の形に呼応して下方から左右へと緑の斑点が立ちのぼり、人物を包みこみ、中央へ収束していく運動が生じている。
 かくのごとく緊密に交響する小宇宙では、空気の密度も、いわゆる現実の世界より高いのかもしれない。だからこそ木が発光する。しかしその沈黙と静謐こそが、何かがおこるのではないかという予兆を、不安のうちにはらむのだ。(学芸員 石崎勝基)サンケイ新聞1991年3月10日掲載

 

 

作品鑑賞ワークシート;ルドン《アレゴリー》

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