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美術館 > コレクション > 所蔵品解説 > モネ 《ラ・ロシュブロンドの村》 1889年 解説

モネ 《ラ・ロシュブロンドの村》 1889年

 モネ、クロード(1840 フランス -1946)

ラ・ロシュブロンドの村

1889年 

油彩・キャンバス

73.9×92.8cm

(財)岡田文化財団寄贈

 

モネ《ラ・ロシュブロンドの村》 1889 

 

 景観をシルエットでとらえ、また丘が画面と平行に配されて、画面両端で断ち切られているため手前にせり出してくるように見えるのは、構図を平面化しようとする意図のあらわれであろう。
 下方の明るい道は、直線であり左右を貫くことで構図を幾何学化し、空と同じ色が画面上下を結びつける一方、かすかに右上がりで画面が平板になるのを防ごうとしている。
 丘を登る小径(みち)も奥へ後退するとは見えず、記号状の曲線として象徴性を帯びる。緑の上の紫や赤の筆致の流れは、丘を肉づけするというよりは、丘の<気>が右下から左上へ昇るかのようである。
 ややふくらみを欠くとはいえ構図は、シルエットだからこそ、小径が導くはずなのに手前の道がはばむあちらへのあこがれをはらんでいる。 (石崎勝基 中日新聞 1988年8月13日掲載)

 


 

 一八八九年、パリのジョルジュ・プティ画廊で、ひとつの事件ともいえる展覧会が催された。『モネ・ロダン展』である。ロダンの彫刻三十六点と、モネの絵画百四十五点で構成された同展は、新聞紙上で称賛され、モネの画家としての地位は確立した。劇作家、オクターヴ・ミルボーは、六月二十五日付『エコー・ド・パリ』紙のなかで、「彼らは絵画と彫刻というふたつの芸術を今世紀で最も見事に、究極的に演じてみせた」と絶賛している。
 ところで、同展目録には、『ラ・ロシュブロンドの村』という題名が見られるが、本作品は果たしてその油彩なのであろうか。厄介なことに、モネには同名の作品が二点あるのだ。「沈む太陽」、「夕暮れの印象」と副題のみ異なる二点だ。当時の目録には副題がないため、一体どちらの『ラ・ロシュブロンドの村』なのか定かでない。
 実は、近頃パリのロダン美術館で同展の百年を記念して企画が催され話題を呼んだが、その展覧会カタログにも、やはり二点の写真が掲載されており、どちらが出品されたものか特定は困難と思われた。しかし重要な点は、この油彩が『モネ・ロダン展』出品時の最新作という事であろう。ミルボーは、暗く憂いを含んだ同時期の風景画を、悲劇的と名づけたが、この成功とともにモネは、移ろう明るい光の中で、ものの形と色彩を探究する画家に変貌していくのだ。(荒屋鋪 透)サンケイ新聞1990年5月13日掲載

 

 


 

 

 夕暮れの谷をシルエットにして紅に染まる空。モネは一八八九年、西フランス、ベリー地方の渓谷を訪れ、この油彩を描いている。その時代の人々はこの風景画をどう見ていたのだろうか。
 印象主義の絵画を見慣れた今日の鑑賞者もモネといえば、明るい水面に輝く光と影の戯れ、また陽光をうけたポプラ並木などをまず連想するはずだ。
 ノルマンディー地方に育ったモネはたしかに、海の画家ブーダンの影響をうけている。しかし、この絵が描かれたころからモネは、自然をただ美しい一枚の絵画に定着させることを拒否し、繰り返し同じ場所を異なる時間、環境のなかで再現したいわゆる「連作」を試み始める。
 九〇年代に制作された積みわらの連作はその集大成。風景画に単なる心の安らぎを求めていた当時の鑑賞者は、これらモネの連作を見てある者は驚き、ある者は目をそむけ、また、考えこんだ。
 モネが描こうと試みたのは目の前に広がる風景ではなく、人々の脳裏にひそむ移ろいやすい意識の流れをのものであったからかもしれない。(荒屋鋪透)サンケイ新聞1992年6月21日掲載

 

 


 

 

 夕暮れの谷間の風景を描いたこの作品は、静かな自然の姿を重厚に示しているが、風に揺れる樹木の描写などは、いわく言いがたい不気味な雰囲気を感じさせる。
 同時代の小説家オクターヴ・ミルボーは、憂鬱と孤独感を漂わす1890年前後のモネの絵画群を指して、「悲観的風景」と名づけた。この作品は、それら一連の風景画の中の1点である。
 モネは、1889年に西フランスのベリー地方南部にあるクルーズ渓谷へ旅行し、この絵画を描いている。「夕暮れの印象」という副題から分るように、山の向こうへ太陽が沈んでいき、その光が、空を覆う雲を赤く染めている風景である。
 1899年の6月に、パリのジョルジュ・プチ画廊で、モネとロダンの2人展が開かれ、モネの画家としての地位は不動のものになる。おそらく、この絵画は、そのときの展覧会に出品されたもの、と推定される。
 晩年のモネは、美しい色彩を誇るスイレンの連作を制作した。対照的に、この「ラ・ロシュブロンドの村」では、ざん新で大胆な構図を次々につくり出したモネの迫力ある側面が、繊細な色調によって、見事に表明されている。(中谷伸生)125の作品・三重県立美術館所蔵品 1992年

 

 


 

 

 一八八九年、モネは批評家のジェフロワに誘われて、パリから南へ三百数十キロ離れたクルーズ渓谷への旅に出掛けた。
 この地方の風景に魅せられたモネは、五月下旬まで三ヵ月ほど滞在して、いくつかの作品を描いている。
 『ラ・ロシュブロンドの村』は、この時描かれた作品の一つで、同じ構図のものがもう一点現存する。
 モネといえば、私たちは明るい光と空気が画面にあふれた風景画を連想しがちである。しかし、モネ自身この時期の作品について「ひどく暗いのにぞっとした」と書き残したように、画家の関心は暗く大きな山塊へ向けられていたことをこの絵は示している。 (毛利伊知郎 中日新聞 1996年12月20日掲載)

 


 

 

 伝統的な明暗法によることなく、戸外に溢れる光を鮮やかな色の筆触を連ねていくことで画布に置き換えようとした印象派。モネはその代表的な画家と見なされている。
 もっとも、夕暮れで逆光に浸された丘を描いたこの作品は、印象派らしからぬ暗い画面と映るかもしれない。ただじっと眺めるほどに、決して騒々しくはない、しかし生気に満ちたざわめきが感じられはしないだろうか。
 筆致の素早い動きとともに、たとえば丘の部分での緑とその上に重ねられた紫との対比が、こうした生気をもたらしたのだ。また右端の木が、幻影のようにゆらめくさまにも注目されたい。(石崎勝基) 中日新聞2009.6.17

 

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