ムリーリョ 《アレクサンドリアの聖カタリナ》 1645-50年頃
ムリーリョ、バルトロメ・エステバン(1617 スペイン -1682)
1645-50年頃
油彩・キャンバス
165×112cm
聖カタリナは『黄金伝説』に登場する殉教の乙女。多くの聖女の中でも、当に人々に慕われていた聖人である。
十七世紀スペインを代表する宗教画家ムリリョは、得意の演劇的効果を駆使して、この美しい悲劇の主人公を描いている。両手を広げたカタリナの前には彼女を斬(ざん)首した剣、頭上には殉教の勝利を象徴するシュロの枝をもつ天使が飛んでいる。空を仰ぐ虚(うつ)ろな表情、大げさに差し出された、悲嘆のしぐさとしての手。これらはバロック美術を特徴づける演劇性の表れであるが、飢饉(ききん)や疫病に悩まされていた、当時のスペイン民衆の荒廃した心を慰めるためには、こうした強調表現こそ望まれていたのではないだろうか。事実ムリリョは、協会からたくさんの宗教画を依頼されているが、美人画ともいえる彼の聖女たちは大変人気があった。 (荒屋鋪透 1992年5月1日 中日新聞掲載)
17世紀スペインを代表する画家ムリリョは多くの宗教画を描いた。聖カタリナは4世紀初頭、ローマ皇帝に処刑され殉教したと伝えられるキリスト教徒の乙女。
『黄金伝説』によれば、王家の娘カタリナはアレクサンドリア滞在中のローマ皇帝の求婚を信仰心のために固辞し斬首されたという。彼女は冠を戴き、足元に置かれた刑具である剣の前で両手を広げている。そこに天使が殉教の勝利を象徴する棕櫚の枝をもって現れる。ムリリョの活躍した頃のスペインは黄金時代に陰りがさし、ペスト大流行や飢饉の続く混乱期であった。
カトリック教会では加えて、新教徒による宗教改革に対抗するため、宗教画の刷新を急務としていた。ムリリョによる殉教する聖人たちの劇的な場面は、そのような背景で描かれたのである。この絵に見られる、聖カタリナの演劇的ともいえる動作は、信仰心の高揚を表現する盛期バロック美術の特徴を表しているが、南スペインの血色のよい庶民の少女をモデルに使ったムリリョの宗教画は大衆にも支持された。(荒屋鋪透)125の作品・三重県立美術館所蔵品 1992年
ムリリョのいたセビリアの町は、かつてスペイン植民地交易を独占し栄華を誇っていたが、彼の時代には移転し衰退の一途をたどっていた。貧富の差は広がり社会が混乱する中ペストの流行がそれに追い打ちをかけた。
こうした状況で、ムリリョの描く甘美で温かな宗教画は、民衆に歓迎された。彼の絵画がそれまでの宗教画と大きく違うのは、登場する聖人たちが庶民的で愛きょうのある面持ちを備えていることであろう。
たしかにバロック期の絵画は、大げさなポーズと明暗のコントラストがはっきりしていているのが特徴である。彼の絵画にもそうした同時代の特徴を持ち合わせているが、ルーベンスのような豪華さや、エル・グレコのような荒れ狂う空は存在しない。
伝説的な殉教聖女を描いたこの作品からも、ムリリョの温かい人柄がほのかに伝わってくる。そして、この画家の温かいまなざしは、下町の貧しい少年や乙女にも向けられ、時には貧民救済のためすすんで慈善組織に参加した。 (田中善明 中日新聞 1997年9月5日掲載)
エジプトのアレクサンドリアは古代から中世にかけて、地中海世界屈指の学芸の都だった。ギリシア語、ラテン語文献を集めた図書館は長くヨーロッパの知識人の記憶に残った。
中世のマグダラのマリアについて人気を集めたといわれる聖カタリナは中でも特異な存在といえるだろうか。四世紀のアレクサンドリアに生まれ、キリスト教がまだ迫害されていた時代に、異教の帝王マクシミアヌスの招聘(へい)した博士たちと論争して、ことごとく説伏したので、帝の怒りに触れて殉教したと伝えられている。
また別に天使に選ばれてキリストの花嫁になったという「聖カタリナの神秘的結婚」の話も、軌跡を喜ぶ義男義女に信じられて、とりわけ16世紀のベネチアでは、聖母マリアに抱かれた幼児イエスから指輪を授かる絵が流行した。
ここでは殉教の場面が描かれているが、ムリリョはおおげさで劇的な雰囲気を避け、地面にころがる剣でもって、わずかにその事件を暗示しているだけのように見える。
しかし、このさりげないしぐさだけで当時の人には十分だったのだろうし、あっさりしたところがかえって新鮮にみえたのかもしれない。 (東俊郎 中日新聞 1998年6月11日掲載)
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