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 ひろがるアート展〜現代美術入門篇〜図録 2010.10

 

作品解説、あるいは幕間に潜りこもう!

石崎勝基

世界をぐるりとめぐる地震帯は、伝説帯とおなじであって、
                    その下には〈間の国〉がある
                            R.A.ラファティ(伊藤典夫訳)、「断崖が笑った」 
 

前口上

この展観は、愛知県美術館、岐阜県美術館、三重県立美術館の所蔵品によって、20世紀後半の美術を五つの視点から眺めてみようというものです。といっても、三館それぞれの所蔵品の性格や展示空間の広さゆえ、三館が所蔵するこの時期の作品でも展示することのできなかった作品は少なくありませんし、20世紀後半の美術の主な動きをもれなく紹介することもできませんでした。たとえばコンセプチュアル・アートの系列に属する作品、あるいは村上隆や奈良美智、会田誠などネオ・ポップと呼ばれた動向、またインスタレーションやメディア・アートなど、絵画や彫刻といった従来の範疇からはみだそうとする作品も、一部を除いて抜け落ちています。

最後の点にも関連するのですが、本展で展示される作品の多くは絵画や彫刻と見なしうるものです。他方、絵画や彫刻、さらに作品や美術といった考え方自体が自然に成立するものではないことをあきらかにしたのが、20世紀美術の展開にほかなりませんでした。20世紀の初頭にマルセル・デュシャンは、レディメイド=既製品、たとえば便器を展覧会に出品しようとしました。この行為によって、展覧会という枠組みがあってはじめて、作品は美術に属するものと認められることがあらわになったのです。絵画や彫刻に分類できる本展出品作の多くは、一見こうした考え方とは縁遠いと映るかもしれません。しかし、絵や彫刻という枠組みがあらかじめ前提されていて、その上で制作にとりかかることがもはやリアリティを保ちえなくなり、枠組み自体を掘りかえしながら、あらためて一点の絵、一点の彫刻を一から作りださなければならないという意識は、本展出品作それぞれの、むしろ出発点になっているであろうことをおさえておきましょう。

ともあれ年代別、地域別、動向別といった形で展覧会を組みたてるのではなく、三館の所蔵品から何らかの接点をもつ作品を選び、その接点をいくつかのテーマとして設定することで本展は構成されています。この時、設定されたテーマなるものが、年代にも地域にも動向にも根ざしていない以上、説得力のある根拠を有しているかどうかは、問われてしかるべき点でしょう。恣意的なテーマを振りかざし、先走った理屈を例証するためのサンプルとして作品を用いているのではないか。これからお話ししていくように、各セクションごとに作品から受ける感触をつかむための補助線として、SFだの錬金術だのといった、作者たちの構想には直接の関係がないであろう話題を引きあいに出そうというだけに、恣意的との疑いは深まるばかりです。何かを他のものと関連づけずに把握することはできないにせよ、安直なたとえは誤解を招くばかりでしょう。あるいはテーマといっても、年代や地域や動向とまったく無関係ではありえないとすれば、逆に中途半端だと見なすこともできるかもしれません。

年代別、地域別、動向別、あるいは個人の回顧展といった比較的オーソドックスとされる構成にあっても、何かを選ぶということは、別の何かをはずすことになるわけですが、この点はとりあえずおくとして、予想しうるこうした批判に対しては、展示の現場において一点一点の作品が、ふだんならいっしょに並ぶこともないかもしれない作品と隣りあうことで、作品がもともと宿していた表情をふだんとは少しばかり異なる形で表わすことができているかどうか、見る人一人一人に判断してもらうしか答えるすべはありますまい。

のっけからいささか景気の悪い、言い訳にもならない言い訳の目白押しとなったかもしれません。ともあれ五つのテーマをかりそめの枠物語として、一点一点の作品が語りだすさまに耳を傾けてみることとしましょう。興味を引くだけの作品は押しつけられた枠組みなど軽々とすり抜けていくはずです。ここでは各作家の展開や位置づけについてはほとんどふれることができませんが(関心のある向きは出品リスト中の「文献」や「参考」の項目にあげた資料等をご参照ください)、そうした文脈をいったん棚上げして、まずはともかく、個々の作品の具体的な表情と向かいあうための糸口を探りあてることができればと思います。

人間像の変容
あるいは幼年期の終わり

 

 荒川修作の《名前のない耐えているものT》(1958年/再制作1986年、cat.no.1)で、箱の中の白っぽい何ものかは、既知の何かをかたどっているわけではありません。ただ高さ2mほどの縦長の箱とそこに敷かれた布は、人体を収める容れもの、具体的には棺桶を連想させずにおきますまい。この連想がまちがいでないとして、かといって普通に思い描くところの人間のイメージとはとてもいいがたい。人間が死して崩れ去った後の残骸というべきか。ざわざわと滑らかさを欠いた綿の感触は、エジプトのミイラを思わせるでしょうか。あるいはいったん朽ちたからこそ、別の姿で再生しようとする蛹の状態をここに見ることができるかもしれません。

 工藤哲巳の《果てしなく綾糸がからまるマルセル・デュシャン−予定された未来と固定化された過去の間での瞑想》(1977年、cat.no.3)においても、十全な存在としての人間のイメージは崩れようとしています。頭部と両手以外は切り落とされ、鳥籠に閉じこめられた上、幾重もの糸にからみつかれている。囚われの相にあるというべきでしょうか。ただここでも、死せる剥製としてさらされているとも言いきれなさそうなのです。幾重もの糸にからみつかれているからこそ、上方に浮くいくつかの球との間に何らかの交渉が行なわれているのではないか。頭部から球が湧きだしたのか、球が頭部から吸いとろうとしているのか、どちらかはわからない。いずれにせよ、何か決定的な事態に達する前の、秘められたうごめきが感じられはしないでしょうか。

 
 『20世紀美術にみる人間展』(三重県立美術館、2004年)でもかいま見られたように、19世紀末から20世紀前半にかけて、美術における人間の表現は大きな変動を蒙らざるをえませんでした。いわゆる西洋美術の文脈にかぎっても、線遠近法によって組みたてられた空間の枠組みの中に、明暗法によって肉づけされた実在感あるものとしての人間のイメージは、そのままでは機能しえなくなります。そこにはさまざまな要因が働いていたことでしょう。産業革命、市民革命以降の社会構造の変化などなど。これらの要因と美術なら美術の表現との関係は簡単に割りきれるものではありませんが、それはさておき二つの大戦を経て20世紀後半になると、冷戦体制とその崩壊、情報技術の急速な普及などに呼応して、人間像はさらなる変貌を遂げます。

 この点では、小説や映画におけるSFを引きあいに出すとつかみやすいかもしれません。たとえば、SFの重要なテーマの一つに〈進化〉があります。本来生物学の仮説であったダーウィンらの進化論は、これも時代の要請に応じてというべきでしょうか、H.スペンサーによって哲学が扱う対象全般に拡張され、またブラヴァッキーなど近代の神秘主義でも採用されることになりました。それが時に危うい領域に足を踏みいれたこともありましたが、SFにおける〈進化〉もまた、科学に即した設定である以上に、何らかの欲望や恐れに根ざした想像でもありました。突然変異したミュータント、機械と合体したサイボーグ、超能力などの道具立てをともなって描きだされる人類の進化は、時として人ならざるものへの変容を記すことになります。

 SFにおける〈進化〉のさまざまなイメージをまとめる能力はありませんが、すぐに思いうかぶ例として、S.キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968年)をあげることができます。しかしここでは、その原作者であるA.C.クラークの古典『幼年期の終わり』(1953年)にふれておきましょう。そこでの進化した人類は、日常使われるような意味での人間性を一切捨て去った集合精神と化して、宇宙に旅立つのです。あるいはW.ギブソンの『ニューロマンサー』(1984年)などに代表されるサイバー・パンクでは、登場人物の活動の場が現実世界以上にコンピューター・ネットワークであったり、人間が機械やその他の異種の存在と混じりあったりします。押井守監督によってアニメ化(1995年)された士郎正宗の漫画『攻殻機動隊』(1991年)やウォシャウスキー兄弟監督の『マトリックス』(1999年)がよく知られた例でしょう。
 SFにおけるこれら人類変貌のイメージが、直接美術におけるそれと関連しあっているわけではありません。ただともに、時代の状況に対して呈示された対応ではあるのでしょう。

 

 ポップ・アートを代表する作家の一人ウォーホルの《レディース・アンド・ジェントルメン》(1975年、cat.no.2)を見ると、公式のピンナップ写真をもとにしていることはすぐにわかります。荒川や工藤のように人間の姿形が崩れようとしているわけではなく、この上なく明快です。しかし明快であるだけになおさら、具体的な生活とのつながりをまったく感じさせないのではないでしょうか。二重写しのように輪郭がずれていて、形からはみだして彩色されている点も、イメージから実体感を奪い、よるべなく浮遊させずにいません。マスコミに流通する虚像が、美化されるでも歪曲されるでもなく、虚像であるがままに呈示されているのです。奥に実体も土台もない空虚な表面。ウォーホルのこうした人間像は、ネットワークを情報が行き交う現在でこそ、より身近な事態を表わしているのでしょう。

 これとは対照的に、バルセロの《像》(1982年、cat.no.4)は、 獣的といってよい荒々しさをしめしています。乳房からすると描かれているのは女性なのでしょうが、前屈みの姿勢、とりわけ長く伸びた左腕と手の形は、自然に対する人間の対応に大きな役割をはたしたであろう手の使用から、四足歩行の状態へ退化するプロセスを表わしているかのようです。支持体である厚紙が不揃いなまま継ぎたされているのも、荒々しさにあわせて、変化の途中という感触を伝えるためなのかもしれません。背景をグレーで粗く塗りながら、イメージの輪郭の内側は薄く処理され、また記号化されているため、イメージと厚紙は切り離せないものとして一体化しています。

 タイトルどおり茶色の耳らしきものをはやしたイケムラレイコの《茶耳っ気のある》(1993年、cat.no.5)にも、人獣化の相を見てとるべきでしょうか。目鼻立ちもさだかでないどころか、目も鼻も口も孔でしかありません。顔や胸でのでこぼこと相まって、溶け崩れようとしているかのようです。これも一種の怪物ととれなくはありますまい。ただ丸みを帯びた形と焼きものの肌合いゆえ、ここには柔らかな親密感が漂っています。日常的な細部を脱ぎ捨てることで自足した存在感を獲得し、もって見る者と向かいあうのです。

 見る者と向かいあうといえば、中澤英明の《子供の顔−クマ》(2001年、cat.no.7)では、まさに見る者との対面自体が主題をなしています(ちなみにここでも髪の毛が茶色い耳のようです)。イケムラの場合、他者を必要としないほど自足しているとすれば、ここでの子供は見る者と視線を交わそうとしています。もっともその対話のあり方はいささか微妙で、まったく距離感を欠くというわけでも突きはなしているわけでもない。この微妙な距離感は、見開かれた目だけが理由ではなく、背景もあわせた画面のあり方に由来するものと思われます。ウォーホル同様細部まで明快に描かれながら、それは決して写真を転写したものではなく、また透明な空虚さをたたえてもいません。テンペラと油彩を何度も薄く重ね塗りして作られた画面は、何らかのイメージを投影したスクリーンであると同時に、それ自体の厚みと重さをはらんだものであり、しかしまた厚みや重さを自ら打ち消そうと努める。すなわち他の何ものでもない一枚の絵として、充実しているのです。

 一枚の絵としての充実をめざすという点では、吉本作次の《樹下休息図》(2000年、cat.no.6)にも通じるところがあります。イメージはバルセロ同様記号化されていますが、一刻でも早く何かを伝えようとする荒々しさではなく、むしろ逆に、伝達の速度をおさえてその場に留まろうとするかのような遅い線描で引かれています。それでいて張りを失うことはありません。とりわけ空にあたる部分で、グレーの薄塗りの下層に木炭による下描きの線が透けているため、空は単なるからっぽならぬ、予兆を宿したひろがりとして、線の張りに応じているのです。空のグレー、地面の茶色、葉の緑はそれぞれ、あざやかさを落とすことで一体化しながらも、微妙な違いは保ち、それらが果実のレモン色と対比されています。この時漫画風に記号化されたイメージは、そのとらえやすさによって見る者を引きこみながら、画面とは別の場所にある意味へと素通りさせるのではなく、画面そのものに引きとめようとすることでしょう。

 やり方はまったく違いますが、中澤と吉本の作品はそれぞれ、人間のイメージにリアリティをもたせることが困難になった状況下で、一点の絵が絵としてのあり方をまっとうする時、その構成要素として人間のイメージも成立しうることを物語っているように思われます。
 

 最後にクトゥルー神話の生みの親であるH.P.ラヴクラフトの『狂気の山脈にて』(1931年)にふれておきましょう。人類誕生以前に地球に飛来した「旧支配者」の歴史をつづるこの長編の末尾近く、語り手は「何であれ、彼らは人間だったのだ」(大瀧啓裕訳)と述べます。しかしこの「彼ら」とは、普通にいうところの人間どころか、樽状の胴に海星状の頭部、翼と触手をそなえた植物とも動物ともつかぬ、少なくとも地球の人類から見れば異形の存在なのです。そこでの「人間」とは、歴史の流れの中で生きる有限の意識といったほどの意味で用いられているものと思われます。この時古典的な意味での人間中心主義が影を落としていないとは言いきれませんが、さまざまなSFが物語ってきたのと同じでないにせよ、心身からみあった形で人が人ならざるものに変貌することがまったくの絵空事ともいえなくなってきた現在、人間のイメージを考えるために含蓄深いことばではないでしょうか。

 

ひろがる平面
あるいは華開いて世界起こる

 

 シシリアの《衝立 小さな花々 IV》(1998年、cat.no.14)と《衝立 小さな花々 V》(1998年、cat.no.15)で思いだされるのは、幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(1999年)の一場面です。夜の空中庭園からあふれだした無数の紅薔薇が、縦長の窓の向こうを埋めつくしながらゆっくり落ちていきます。現実に起こりえないというわけではないにもかかわらず、夢の中でのような浮揚感に浸されたそれは、いささか奇妙な物語がくりひろげられる中で、ただその壮麗さのみによって印象的な場面でした。

 さて、シシリアの画面では具体的な花びらが描かれているわけではありません。絵具を表面に押しつけてできたようなそれらは、色斑とでも呼ぶべきでしょう。《W》では黄をアクセントにしつつ赤が主なのに対し、《X》では色斑の間隔がややまばらになって、明るい青や黄緑が目につくため、かもしだす雰囲気に差が生じていますが、いずれにせよどこかに焦点や軸があるとも見えず、全面に散らばっています。その分色の発言力が増して、数えきれない花びらが乱舞するさまを連想させずにいません。乱舞のことばどおり、特定の方向に向かう動きがあるわけではない。厚みのある絵具はその場その場であいまにのぞく蝋の層に押しつけられたかのようです。といってまったく動きがないわけでもない。色斑の形の不規則さ、下層の蝋とその上に重ねられる絵具の層とが別ものとして分かれていること、そして(『ウテナ』の窓同様)縦長の画面などが相まって、ゆっくりとゆらぎだそうとするその直前であるかのような、胎動の感触を感じさせるのです。そしてこの胎動は、どこか一点を焦点としないがゆえに、画面の縁を越えてかぎりなく波及していくかのようではないでしょうか。

 瑛九の《黄色い花》(1957-58年、cat.no.8)でも、タイトルに花と記されているにもかかわらず、具体的な花は描写されていません。ここでの色斑はそれぞれ、放射状にひろがる細い線をともなっており、そのため植物的というより鉱物的な肌触りを感じさせます。青など寒色の比重が大きい点も、そうした感触を強めているのでしょう。星々か花火が連想されるでしょうか。放射状の細い線はたがいに接しあって色斑のあいまを埋めており、シシリアにおけるような二層の分離は認められません。つながりあった画面は、しかし、やはり静止したものではなさそうです。大きめの色斑が中央近くに多く、縁あたりには小さめのものが多いので、正方形に近いフォーマットと相まって、向こう側から見る者の方に向かって、ふくれあがりながら近づいてくる動きを感じさせるのです。そしてこの膨張は、やはり画面の縁を越えて、衰えつつひろがっていきます。

 田中敦子の《83B》(1983年、cat.no.12)は、シシリアや瑛九に比べるとはるかに乾いた表情をうかべています。数多くの円も白地も一切のニュアンスを排されており、円は文字どおり幾何学的な円でしかありません。円の配置は規則づけられてはいないにせよ、各四辺に沿ってそれぞれ、大きさの近い円がいくつかずつ並ぶため、画面の外への動きも封じられる。ただここで重要なのは、円と円をつなぐ色の線でしょう。細い太いの区別はあるものの、引かれ方自体は平板なのに、その数えきれないつなぎ方のせいか、動きのない色円の群れを、さらに押さえこもうとしているかのような、独特の緊迫感を感じさせずにいません。

 

 イタリア・ルネサンス以来の西欧絵画は、肉体の重みと精神性を兼ねそなえた人間の尊厳を表現することを最高位の課題としてきました。そうした人間像のための枠組みとなったのが、遠近法や明暗法といった技法です。これらの技法によって、地面や床を底面とし、人や建築物を垂直軸とする、箱型の空間が表わされました。そこでは、絵の前に立つ観者の視線は、視点から地面と平行に、まっすぐ奥へ進むことになります。

 しかしそうした人間像がリアリティを保てなくなるにともなって、その舞台となった空間表現も失効せざるをえませんでした。画面は、その奥に室内や風景がひろがる窓ではなく、布なり紙、板の平らな表面でしかない。こうした事態にどう対処するかをめぐって、さまざまな試みが浮かんでは消えていったのが、いささか乱暴ではありますが、19世紀後半から20世紀にかけての絵画史の、少なくとも一つの局面であったということができるでしょう。

 そうした試みの一つとして、次のような筋道を立てることができるでしょうか;平面でしかないものに遠近法的空間のようなありもしない幻を投影するのではなく、平面に固有のあり方をまっとうすることで、その特性を十全に発揮できるのではないか。遠近法的空間の場合、人間なら人間というモティーフを焦点として、その焦点を軸に奥行きのある空間を組織する。これに対して、平面のどこか一点に焦点を置くのではなく、平面上のあらゆる地点を同等に扱うことによって、平面が平面であるがままに、固有の表現が成立する。

 ただこの時、絵画は、壁紙や絨毯のような装飾にいやおうなく近づいていきます。ルネサンス以来の人文主義的伝統においては、精神性を帯びた高級芸術として絵画や彫刻を、感覚的・物質的と見なされる装飾・デザイン・工芸など応用芸術より上位に置いてきただけに、葛藤が生じずにはいませんでした。他方、社会の変動に応じて、19世紀後半のアーツ・アンド・クラフツ運動以来、ロシア構成主義、デ・ステイル、バウハウスなど、生活と芸術、高級芸術と応用芸術との区別の撤廃を掲げた運動にも事欠きません。むしろそうした葛藤や緊張こそが、平面としての絵画の探求を支えていたのかもしれません。

 

 ビアンコの《コラージュ》(1964年、cat.no.9)は、文字どおり、いったん絵をバラバラにした上で、再統合したものです。50の区画に分割された画面は、いくつかのグループに分類することができます。黒っぽい線が走るもの、茶色の太い線によるもの、緑のさらに太い筆致によるもの、紫の線のグループ、白っぽいグループなど。各要素が一つ以上用いられている区画も見出せます。おそらく何枚かの画面を寸断し、あらためて組みあわせなおしたのでしょう。むしろ、以前の状態がどんなものだったのか、さまざまな可能性を考えるべく見る者に促す点こそが、この作品の狙いなのかもしれません。左辺沿いと下辺沿いで、区画の大きさが他と違うのは、この画面が完結したものではないことを暗示しているのでしょうか。

 パンスマンの《四角形の貼り合わせ》(1969年頃、cat.no.10)とヴィアラの《反復》(1970年、cat.no.11)はともに、1970年前後にフランスで活動した〈シュポール/シュルファス〉というグループの所産です。〈シュポール(支持体)/シュルファス(表面)〉はその名のとおり、絵画をその最も基本的なあり方までさかのぼって再考しようとした運動で、そのために装飾の領域と交わることもありました。実際二点の作品は、ともに木枠に張られないまま、吊りさげて展示され、また一定のパターンの反復から成りたっています。

 パンスマンの作品はタイトルどおり貼りあわせた跡もあらわで、また一見幾何学的な格子は、定規を使わずフリーハンドで塗られたものとしか思えませんし、塗りむらも目につきます。しかしだからこそ、横方向へいくらでも継ぎたせそうなのです(縦方向は水平の帯で止められている)。

 ヴィアラの場合は、一枚の布にパレット型が斜めに規則正しくくりかえされています。布の端では型が中途で切れているので、やはり外との関係がどうなっているのか、気にさせずにいません。またここでは、橙と青というほぼ補色をなす色が選ばれており、パレット型が青の上にのっているのか、青にあいた孔なのか決しがたい。そのため平面的なパターンの反復という平面性に即した画面なのに、色と光のふくらみをはらんでいます。
 

 「華開世界起(華開いて世界起こる)」ということばがあります。もともとは禅宗の史伝『景徳傳燈録』巻第二に収められた般若多羅のものと伝えられる偈に由来し、道元が『正法眼蔵』巻第十四「空華」や巻第五十三「梅花」などで援用したとのことです。きちんとした説明はとても手に負えないのできちんとした本を見ていただくとして(たとえば、高橋直道・梅原猛、『仏教の思想11 古仏のまねび〈道元〉』、角川書店、1969、pp.164-168)、とりあえず、次のように解することができるでしょうか;あらゆる物事が何らかの原因との縁によって起こる、すなわち縁起においてあるのだとすれば、一輪の花が咲き開くことも、過去と未来のあらゆる物事に結びついており、一つの世界がたち現われることと相即している。華厳経が説く蓮華蔵世界および華厳教学が説く重々無尽の壮麗なヴィジョンが思いだされるところです。ヴィジョンの語を用いましたが、「この一花時、よく三花四花五花あり。百花千花万花億花あり。乃至無数花あり」(「梅花」)という連鎖がそのまま世界が起こることなのだという事態は、理屈ではなく、あくまでイメージの運動として感得するべきものなのでしょう。

 こうした補助線をここで引くのは、いささか大げさに聞こえるかもしれません。もう少し身近なところでは、満開の桜によって景色がふだんとちがって見える、そんなことを思いだしてもいいでしょう。もっとも、「桜の森の満開の下」(坂口安吾、1947年)では連れが鬼に変じるのかもしれず、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」(梶井基次郎、1928年)かもしれませんが、ここでは大島弓子の『綿の国星』(1978年)のラスト・ページの前のコマを思い起こしておきましょう。そこでは桜から八重桜、すみれ、れんぎょう、花厨王、山ぶき、雪桜へと、それぞれの開花が次々に移り変わっていくさまが見開きいっぱいの一コマに溶かしこまれ、そのあいまあいまに、主人公にとって身近な人物たちの姿が小さく浮かびあがってくるのでした。
 

 李禹煥の《風と共に》(1987年、cat.no.13)は、三枚のキャンヴァスをつないだ横5m半近いひろがりに、丸みを帯びた筆触が無数に連ねられた作品です。筆触は何ら具体的なイメージをかたどるわけではありません。しかしそれらは、筆が置かれ、触れられた地の反応を確かめながら引かれた時の感触を確実に伝えます。濃い薄いのある筆触の内、薄いものの方が多いため、筆触のあいま、および四隅にのぞく白地との交渉が意識されずにはいません。そして無数の筆触の連なりは、数カ所にのぞく茶色を先触れにしつつ、筆触と筆触、筆触と白地、画面全体とその外、そして筆触を置く手と画面を見る目へと伝わっていく動きを感じさせることでしょう。この動きの連鎖こそ、タイトルにいう風にほかなりますまい。ソクラテス以前の自然哲学者、たとえばアナクサゴラスでは種子、レウキッポスおよびデモクリトスでは原子の渦から宇宙が成立すると説かれたことが連想されます。あるいは『倶舎論』の「世間品」において、世界が崩壊して長い間は虚空だけが残るのですが、「再び次第に諸の有情の業の増上[力]によりて…(中略)…極めて微細なる風が微動する。…(中略)…それらの風が生じるとき」(山口益・舟橋一哉訳)、世界の土台である風輪となり、須弥山宇宙が形成されると語られたことを思い起こすべきでしょうか。

物質:変容の種子
あるいは錬金術師の実験室

 

 シシリアの《蜜蜂の巣箱 V》(1993年、cat.no.21)は、乳白色の蝋でみたし、蜂の巣状のものを埋めこんだ、わずかに横長の長方形の木枠を、横に5列、縦に2列並べた作品です。蜂の巣状のものの形も配置もまちまちなので、リズミカルな動きが感じられます。しかしそもそも、この作品は絵と見なしていいのでしょうか。そう呼ぶには蝋の厚みは印象的で、この厚みがあってこそ、蜂の巣状のものを沈めることもできたわけです。蝋の半透明さ、密度、厚みは、そこに蜂の巣状のものを浸すことで、それを保存する標本箱を連想させるかもしれません。あるいはその有機的な肌触りからは、何らかの反応が引き起こされることを期待した、実験用の試験函か培養槽にたとえるべきでしょうか。蜜蝋が蜜蜂の巣を加工して採取されることを思えば、巣からできた蝋の内に巣が沈もうとしていると見なせるでしょう。あるいは逆に、蝋の中から巣が浮かびあがろうとしていると見ることもできなくはありません。

 小清水漸の《作業台−桐の枝−》(1978年、cat.no.17)では、タイトルどおり作業台の上に何本かの桐の枝が置かれています。置き方は一見して無造作で、枝は大勢が樹皮をつけたままだし、切り落としてきたものを台の上に適当に放りだしたと映らなくもありません。ただ一部先を尖らせたり、そろばんの珠状に削りだされた部分があって、現在の状態が最終的なものではなく、これから何らかの作業が加えられ、いかようにも変化するであろうことを予想させるのです。水平に近い置き方をされた枝が少し浮いていたり、縦に伸びあがるものが二本ずつ長短二組あったり、あるいは枝同士つながれたものがあったりと、見知らぬからくりのようでも、生きもののようでもあります。台自体は無性格で中性的に見えるだけに、その上での作業はさまざまに変化する可能性をはらむことでしょう。

 

 絵が、奥行きのある空間に開いた窓ではありえなくなったとすれば、それは奥行きのない平らな表面であると同時に、布や板、紙といった物であることを読みとらせずにいません。人間の記念碑的なイメージでありえなくなった彫刻においても、事情は同様でしょう。その時、一方に、物でしかない物を、余計な手を加えず、ありのままの姿で差しだすという方法が考えられます。実際1950年代から60年代にかけて、北米のミニマル・アート、日本のもの派、イタリアのアルテ・ポーヴェラといった動きが、やり方はさまざまであるにせよ、そうした認識を出発点として制作を展開しました。

 他方、物に、ありもしない奥行き空間や記念碑的な人間像のふりをさせることはできないとしても、物も永久不変ではない以上、そこに宿っているはずの変化の可能性を引きだすことはできるはずです。ここで引きあいに出してみたいのが錬金術です。卑金属を貴金属に変成させようとした錬金術は、できるはずもない詐欺まがいのいんちきをたとえるために、今日でもしばしば用いられますが、他方昨今では、二度にわたってテレビ・アニメ化された荒川弘の『鋼の錬金術師』(2001-2010年)などによって、単なるいんちき、あるいは近代化学の前段階にはとどまらないイメージでとらえられているのではないでしょうか。

 この点では、C.G.ユングやG.バシュラール、M.エリアーデらの心理学、詩学、宗教史それぞれからのアプローチや、日本では種村季弘による紹介が与って力ありました。その後も研究は蓄積され、化学的技術の粗雑な段階でもなければ、かといって神秘主義的な修道の過程を投影したものというだけでもない、双方の側面を分かちがたくあわせもった、総合的な世界像と見なされているようです。その際ここでの話に結びつくのは、まず、錬金術の作業が、抽象的な観念ではなく、具体的な物質のイメージに即して展開されたことであり、次に、そこでは物質が、いったん分解されることで新たな姿に再統合される、いいかえれば死と再生の過程を経るものと考えられた点です。

 

 西村陽平の《Iron Container for Mummified Magazines》(1992年、cat.no.19)、訳して《ミイラ化された雑誌のための鉄の容器》では、焼かれて真っ黒になった紙の束が、16個の鉄の箱に詰められています。箱には手前に一つずつ、液体の入ったガラス瓶が添えられており、何かはわからなくても、もととなった雑誌か、〈ミイラ化〉に関わる何かだろうと想像することができます。真っ黒に焼かれた雑誌は無惨ととれなくもありませんが、同じ型の箱に詰められているだけにそれぞれの表情の違いに気づかせずにいません。いったんミイラ化されたからこそそれ以前の状態を喚起し、すでに箱詰めされてしまったからこそいつか解放された状態を予感させるのでしょう。錬金術において、物質を分解する段階が〈黒の過程〉と呼ばれていた点が思いだされるところです。

 千崎千恵夫の《無題》(1992年、cat.no.20)は、西村陽平の作品同様ほぼ規則的に(右端の列を除き)22個の箱を組みあわせたものですが、その表情はずいぶん柔らかくなっています。シシリアの《蜜蜂の巣箱 V》同様、箱は蝋でみたされており(こちらはパラフィン・ワックス)、表情の柔らかさに応じて、細やかさを感じさせる細部を有しています。左上から15個の箱は暗い調子で、よく見ると木立らしき景色が透けています。下に写真を敷いているのです。暗い箱はそれぞれ中央あたりに黒いものが見えるくぼみがあり、そこから手前に小さな受け皿が突きだしています。下辺沿いの箱には、左端のものを除いて、ブリキの缶を収めるくぼみがうがたれています。ここに作者がこめた意味あいはわからなくても、たとえばブリキの缶の中の何かが、下層の写真の木立をくぐり抜けることで、手前の受け皿に変化した形で呈示される、そうした仕組みを読みとれるのではないでしょうか(仕組みの順序や組みあわせは見る人次第で変わります)。そしてそんな働きは、蝋を媒体とすることで作動するのでしょう。

 ニーヴェルソンの《漂う天界》(1959-66年、cat.no.16)もまた、何かの機械仕掛けを連想させます。ただしその仕組みは不明です。あるいは建築物と見えるでしょうか。やはりその構造は不明です。箱が単位となっていますが、シシリア、西村、千崎とちがって、大きさをそろえないまま下から積みあげたかのようで、そのためどんどん増やせそうでもあります。ここはむしろ積み木を連想すべきでしょうか。真っ黒に塗られている点も、各部分の個性をいったん抑えることで、かえって組み換えが自在であることを暗示しています。もとの素材が廃材であったことを知れば、ここにも〈黒の過程〉を見てとれるかもしれません。

 多和圭三の《泉−想−》(2002年、cat.no.22)は、これまで見てきた作品に比べると、一見きわめて無愛想に映ります。ただの鉄の直方体ではないのか。しかしよく見ると、上面に微妙な凹凸があって、ほんの少し下の部分より広くなっています。この二点を考えあわせると、上面への働きかけによってもたらされた変化なのでしょう。ただしその微妙さからして、一気になされたものではなさそうです。鉄の堅さを思えば、同じ堅さのもので何度も何度も働きかけたものと思われます。実際これは、ハンマーでくりかえし叩くことによってなされたとのことです。鉄の堅さや重さ、そこに加えられた微妙な変化は、見る者に、形のありさまだけでなく、ハンマーの重さや打ちつけた時のはね返り、そして音さえ想像させるのではないでしょうか。しかもそれは一度きりのものではなく、くりかえし続けられる営みとして喚起されるはずです。こうした幾重もの感触が、一見した素っ気なさによってこそ引き起こされたことを忘れずにいましょう。また上面の起伏とタイトルの《泉》を思いあわせると、縦長の形ゆえ、こことは別の空間に存在する泉のひろがりと深みを、たまたま切りだしたものと映るかもしれません。

 黒川弘毅の《Benne Bird No.1》(1979-81年、cat.no.18)は、形だけとれば壊れた眼鏡のように見えるでしょうか。しかしこの形、整いもまとまってもいないからこそ、変化していきそうです。真ん中の地面についた部分から二股に分かれたのか、円がつながっていない方から上に伸びた部分を出発点として、やはり二股に分かれつつ、一方はいったん地面に接して伸びあがり、円をなしたのか、どちらともとれます。求心的なかたまりとしてよりは、遠心的に伸びようとしているかのごとくです。いずれにせよその変化は、ブロンズの躯体部分だけが担っているのではなく、ブロンズとまわりの空間との交渉によって成立しているように感じられます。むしろまわりの空間の圧力が、ブロンズの形を反応させたといえるでしょうか。ブロンズの表面に記された刻み跡は、空間と接触した痕跡と見なせるかもしれません。タイトルの〈ベヌウ鳥〉は、ギリシャのフェニックスの原型とされるエジプトの聖鳥ということです。

物質:変容の痕跡
あるいは星の畑、星の化石

 

 戸谷成雄の《双影体 U》(2001年、cat.no.27)は、 表面を数えきれない孔や裂け目、襞に覆われています。表面積はずいぶん広いはずです。上面に漏斗のようなパターンが並ぶとはいえ、決して幾何学的に整頓されたものではなく、たえず増殖していきそうな有機性を感じさせずにいません。と同時に、素材である木の堅さもただちに感じとれます。表面の複雑な変化にもかかわらず、全体は枠としての直方体の中に収まっている点と相まって、それは、かつて起こったたえざる増殖の痕跡、ある種の化石のようとはいえないでしょうか。8メートル半におよぶ長さからすると、樹木などをとりこみつつ溶岩が流れた跡にできた洞穴を、雌型として型どりすれば、こんなさまを呈するのかもしれません。いずれにせよここには、人為によるものというより、自然が長い時間をかけて形成した、その痕跡が刻みつけられているかのようです。孔や裂け目、襞は、見る者の視線を探検に誘ってやまないことでしょう。

 

 エリアーデは『鍛冶師と錬金術師』(1956年)の第1章を、隕石が「天上の聖性を充填されて地上に堕ちる」(大室幹雄訳)ものと見なされてきた点から説きおこしています。他のさまざまな思想同様、錬金術においても、大宇宙と小宇宙の照応が前提とされ、錬金術の作業は宇宙の開闢を反復するものであり、「自然の作業を援助することによって事物の速度を速め、最終的には時間そのものに取って代わった」というのです。

 「物質:変容の種子」のセクションで見た作品はいずれも、変成の予兆を宿すという点で、時間的なひろがりを感じさせるものでした。ここではむしろ、何かが起こった跡、といった相貌に注目してみましょう。作業が完了して試験函や作業台から出された物質は、天との照応をあらわにするかもしれません。もとより、過去が未来の種子をはらみ、未来が過去の帰結である以上、変成の予兆といい痕跡といっても、それを見る視点次第でどちらの相が目を引くかということでしかありますまい。
 

 原裕治の《アポクリファ No.1》(1994年、cat.no.26)では、板の中央に大きく、とぎれとぎれに円が隆起し、円の内外を問わず無数の刻み目が走っています。古代のギリシャ人は、天球の回転は欠けることなきものであるはずだから、完全な形である円ないし球がふさわしいと考えました。古代の中国人も、天円地方、すなわち大地は方形だが天は円形をなすと信じていたということです。そんな円が、しかしとぎれとぎれで、無数の傷に刻まれた、その分堅い板から浮かびあがるさまは、長い時間の経過を経た、古の祭場の遺跡のようです。本作品は、板に紙や絵具、背高泡立ち草を何層にも重ね、グラインダーで刻んだり削りおとして制作されました。タイトルの〈アポクリファ〉は、聖書の正典に含まれなかった文書を指し、外典と訳されます。

 出原次朗の《星虫の死骸》(1993年、cat.no.25)は、金属のパイプで即席に作った枠組みに張り渡された布か皮革のようなものが、そのまま凝固してしまったさまとも見えます。布だか皮革だかは、輪郭線で区切られた色面で覆われており、上の方には円も認められますが、破れ目やしわもあり、具体的な衣服なりとして再構成できるわけではありませ・。パイプは全体で五角形をなしながら下辺が曲がっていたり、背後から手前にまわっていたりするため、張り渡すということの緊張感を強めています。生々しさと同時に硬化するまで放置された時間が感じられることでしょう。「小さなドローイングや指紋などのイメージをコピー機で超拡大したものをつなぎ合わせ、シルクスクリーンで製版してベニヤ板に発泡インクで刷り、さらにその板に穴を開けたり粘土を付けたのちシリコンで型取りして凹版をつくり、歪めたシリコン版に樹脂石膏やセメントを流し込んでできたレリーフに着色や加工を施す」という技法で制作されました(深山孝彰、「食虫植物を食べる虫」、『出原次朗展』図録、ギャラリー・オー、1997.2)。

 岡村桂三郎の《白虎》(1992年、cat.no.24)を前にすると、四足獣が画面いっぱいに描かれていることはすぐにわかります。しかし明るい色の輪郭は頼りなげにぶるぶる震えているかのようで、色も密度をもって塗られているようには見えません。むしろ形にせよ色にせよ、縦長の板を並べた支持体にあわせて擦りだしたかのようです。あるいは、きちんとしたイメージが、長年の摩耗で、板に寄り添った部分だけが残ったともいえるでしょうか。それだけに随所に貼りつけられた板は、板の補強とも、イメージの芯の残骸とも映ります。タイトルの〈白虎〉は、四つの方位を司る聖獣で、東の青龍、南の朱雀、北の玄武とともに西を守護します。

 タピエスの《黒と四つの茶》(1959年、cat.no.23)では、厚く塗りこめられた暗い画面は、何かを封印しようとしているかのごとくです。中央の縦の線やその左右の短い線、下方の二つの×などは、筆で描かれたものではなく、ただ凹凸としてのみ浮かびあがっています。背骨や腰ととれなくもありませんが、さだかではなく、奥に沈んだ何かのかすかな痕跡として暗示されるばかりです。わずかに上下四つのやや明るくなった部分が、封印された状態に何らかの変化が起こる可能性を物語っています。

幕間

 ソトの《連絡階段》(1997年、cat.no.28)は、柱の出っ張った角などに添って床置きすることが想定された作品です。高さが35.3cmですから、気づかれずにいることもありかねません。その小ささからすると、階段一般という理念の模型と見なすことができるでしょうか。だとして、実際に展示された時には、形が一般化されているだけに、個々の具体的な現場のあり方に応じて、その現場が本来はらんでいるけれども、表には出ていない空間の流れを引きだす装置として機能することでしょう。まずは角の手前と向こう側を円筒の丸みに添って結びつけ、また階段である以上、上と下とを連絡します。階段は床からではなく、円筒の上の方から始まっています。逆にいえば始まる位置は空間のどこでもありうるわけです。階段の幅は登るに従って狭まっており、実用面を考えればいささか危なっかしいものですが、その分登った先はどんな方向へも開かれることになります。空間の可能性を引きだす装置としての階段、これは模型のような小ささであればこそ実現したのでしょう。他方、階段は一気に上昇するロケットでもなければ、一気に下降する滑り台でもない。一段一段順を追って登り降りしなければなりません。だからこそ、開かれた空間の可能性は、実際の現場と何の関わりもない幻ではなく、現場に即した可能性であり続けます。そして現場は、出っ張った角でありさえすれば、どこであってもおかしくありません。

平面再訪
あるいはフラットランドと超空間への旅

 

 桑山忠明の《茶白青》(1968年、cat.no.29)は、一見して、色違いで同じ大きさの縦に長い三枚の板をくっつけただけのものとしか見えますまい。実際それ以外の何ものでもありません。むしろ、それ以外の何かを暗示するであろう一切は、周到に排除されています。それ自身以外の何ものでもないただそれだけのものとして、見る者と向かいあうのです。ただしそんな風に向かいあうためには、身のまわりに転がっていそうな、石だとか道具といったものでは、いろいろ連想を引き起こすだけに不充分でした。注がれた視線をはじき返すような身も蓋もなさが必要で、そのため、ただただ平らな四角が選ばれたのでしょう。茶色と青は彩度の低いものが選ばれ、必要以上に見る者に訴えかけることがありません。しかも間に白がはさまっているので、相互の関係から何らかのニュアンスがかもしだされもしない。ばらばらになりそうな三枚の板は、金属の枠によってかろうじて一つにまとめられています。かろうじてという以上、そこにはぴんと張りつめた感じがともなわずにいない。いかなる意味づけをも拒否してそれ自身であろうとする、清冽な厳格さこそがこの作品の身上なのでしょう。 

 線遠近法や明暗法によって組みたてられた奥行きのある三次元空間のイリュージョンがリアリティを保てなくなった時、絵は一枚の平らな表面でしかないことをあらわにせずにはいませんでした。イリュージョンが生じることを前提にせず、平らな表面でしかない絵とは、まずもって、物にほかなりません。この時、絵が物であることを確認した、その地点に踏みとどまり続けることで緊張感を得るという選択肢が一つ、考えられます。桑山が一貫して追及しているのはこの困難な選択肢でした。他方、位階に差のない単位を並べていきつつ、表面の平らさに沿いながら、表面の縁を越えてひろがっていくかのような画面を構想するという、別の選択肢については「ひろがる平面」のセクションで見ました。

 また別の選択肢として、線遠近法のように計測できる奥行きではなく、平らな表面自体がはらむ、計測しがたいふくらみを引きだすことで、単なる物ではない画面を成立させようという試みをあげることができます。
 

 中西夏之の《M字型−U》(1981年、cat.no.30)を前にすると、まずは画面いっぱいに描かれたM字型が目に入り、次いで全面に散らされた白の線やしみ、黄色の点などに気づくことになるのでしょうか。ただ、こうした順位はただちにゆらいでしまいます。M字を引くのはたよりない黒の細い線で、ところどころでとぎれ、随所に縦長の裂け目が×印で押さえられつつ開いています。画布の地に近い白は薄いけれど、全面を覆っていますし、短いけれど描き手の呼吸を感じさせます。むしろ、画布の弾力を確かめながら一つずつ白を置いていった、その結果、画布にいくつも裂け目が走り、向こう側のよりはっきりした白が溢れようとする。それらをつないでみればたまたまMの字になったかのようです。順序は他にも考えることができるかもしれません。いずれにせよ、画布に働きかけることで、画布自体が内包するふくらみが開かれました。このひろがりは、地とそれに近い白の小さな落差によってもたらされたため、ある種の光の輝きとして感じられます。白と対照されるはずの黒は、その細さゆえ、黄や左下のオレンジとともに、白の輝きを強めるための補佐役にとどまっています。

 秋岡美帆の《光の間 01-1-15-4》(2001年、cat.no.31)では、青灰色が明るさを何度か転調しながらひろがる中、左上から光の線が、これもリズムを刻みながら、青灰色の流れに押されるようにして降りたってきます。青灰色のひろがりはおおむね縦に流れていますが、斜め横への流れもあいまに透けており、また光の線も、二重映しされたかのような残影をともなっています。茫漠としたひろがりは、空間としてだけではなく、時間としても、前後左右、過去と未来の間を往き来するかのようにたゆたっているのでしょう。この作品は絵画ではなく、木漏れ日や木陰が射す地面を、わざとぶれるように撮影した写真に基づいています。その写真をNECO(拡大作画機)というプリンターで、手漉き和紙にプリントしたのです。和紙のけばだった肌触りや写真の距離感は、時空のゆらぎに、たえず枝分かれしていこうとするかのような可能性を宿らせていはしないでしょうか。

 今村哲の《ナンバーレス》(2000年、cat.no.32)では、暗いひろがりの中、太い赤の線でかたどられた、落花生の殻のような形が浮かんでいます。外側の輪郭の内側に何本か斜めの線が走っているため、ゆっくりと回転しているようにも見えます。この点と相まって、形にはある種の立体感が与えられていますが、線の間をみたし、あるいは線自体をかすれさせる暗いひろがりによって浸透されています。この作品は顔料を蜜蝋で溶くことによって描かれました。そのため暗いひろがりは蜜蝋独特の半透明な厚みと一体化しています。触覚に訴える密度を有した暗がりの中、暗がりから分離できる別ものではなく、むしろ暗がり自身が変化したかのような形が明滅する。ここにはことばに置き換えがたい存在感、というか存在と消滅の間を往き来するイメージが現われているのです。

 染谷亜里可の《Decolor - Level 6》(2005年、cat.no.33)も、深紅の闇に浸されています。下方にやや明るい斑点が並んでおり、その配置はある種の規則に従って奥行きの方へ退いているように見えます。実際画面は、床に敷いた絨毯の文様を、低い視点から眺めたものだということです。その意味で線遠近法に則って構成されているわけです。見る者の視線は奥へと誘われずにいませんが、細部は闇に沈んでいて、奥行きもひろがりも、離れた位置から全体を把握できるものではなく、手探りでしか進めそうにありません。この作品はヴェルヴェットを脱色するという技法で描かれました。ヴェルヴェットのけばだった肌触りが、触覚的な濃密さを保証しています。また斜めから見るとけばに光が散乱して、まったく異なった相貌を呈する点にもふれておきましょう。

 秋岡の和紙、今村の蜜蝋、染谷のヴェルヴェットは、それぞれ、作品のあり方において大きな比重を占めています。ただしいずれの場合も、和紙なり蜜蝋なりヴェルヴェットは、なまのまま差しだされているわけではありません。それぞれの技法や構想の中に溶かしこまれることで、不透明な物質から、その肌触り自体の内側に見る者を誘いこむような場へと変成しているのです。
 

 「一枚の絵は、軍馬や裸婦、何らかの逸話である前に、本質的に、ある秩序の内に集められた色彩によって覆われた平らな表面であることを思いだすこと」という有名なM.ドニのことば(1890年)や、モダニズムの絵画はおのれに不必要な要素をそぎ落としていくことで平面性に達するというC.グリーンバーグの議論(1960年)、これに村上隆の〈スーパー・フラット〉という主張(2000年)をあわせれば、それぞれの発言の文脈や内実はまったく異なるにせよ、20世紀の絵画をとらえようとする時、さまざまなニュアンスやそれに劣らず多様な反論にさらされながらも、平面性という概念が、重要な要素の少なくとも一つであったことは否定できないでしょう。

 平面性(フラットネス)ということばで思いだされるのは、いささか唐突かもしれませんが、『フラットランド』という小説です。1884年にE.A.アボットによって刊行されたこの物語は、日本でも三度にわたって翻訳されており(高木茂男訳、『二次元の世界』、講談社ブルーバックス、1977、および石崎阿砂子・江頭満寿子訳、『多次元★平面国』、東京図書、1992、I.スチュアート注釈、冨永星訳、『フラットランド』、日経BP社、2009)、その続編を標榜する小説も訳されました(I.スチュアート、青木薫訳、『2次元より平らな世界』、早川書房、2003)。この小説は、次元という概念を理解できるようにするため著されたもので、前半では二次元世界のありさまが、数学的な性質に則った形で物語られます。〈正方形〉を主人公とする展開に、幾何学的な抽象絵画を重ね見ることもできるかもしれません。他方、二次元を舞台にしたのは、それとの比較で三次元をはじめとする他の次元の特質を把握しやすくするためでした。実際後半では一次元や三次元との接触が語られ、さらに四次元以上の存在が予想されるのです。

 四次元という概念は、20世紀初頭、キュビスムと縁の深かったアポリネールや、ロシアの神秘学者ウスペンスキーらによって関心を寄せられました。この点についてはリンダ・D・ヘンダーソンの「神秘主義、ロマン主義、四次元」(富井玲子訳、『現代思想』、vol.23-5、1995.5、「特集 高次元多様体」)が詳しく跡づけていますが、他方SFにおいても重要な設定となりました。そのもっとも流布した形は、しばしばワープ航法とも呼ばれる、超光速航法に関わっています。アインシュタインの特殊相対性理論は、光速度が不変であることを出発点としていました。その結果、この宇宙では光より速いものはありえないことになります。しかしそれでは、太陽から最も近い恒星のあるケンタウルス座までたどりつくにも、光の速さで丸4年以上かかってしまいます。銀河系のお隣さんアンドロメダ星雲となれば230万年です。これでは宇宙を股にかけるとはとてもいえない。そこで大風呂敷をひろげるために考案されたのが超光速航法というわけです。通常の時空では光速度は超えられないので、超空間だとか亜空間と呼ばれる高次元空間をくぐり抜ければよい。物理学の領域でも、後にワーム・ホールと呼ばれるアインシュタイン=ローゼンの橋など、こうした発想がなされなかったわけではないにせよ、当初は思考実験の域を出なかったものが、昨今では量子論の多世界解釈、インフレーション宇宙論における宇宙の多重発生、超ひも理論における巻きあげられた次元やブレーン・ワールドなどにからんで、より蓋然性の高い仮説として議論されているようです。

 それはともかく、アボットの二次元世界の住人に三次元のあり方が理解しづらかったように、三次元の住人にとって四次元のあり方など、たとえばクラインの壺といわれても、なかなか直感的に把握できるものではありません。先にふれた『2001年宇宙の旅』には、「スター・ゲイト」と呼ばれる超空間回廊を移動する場面がありますが、同時代のサイケデリック・カルチャーとのつながりを感じさせる、万華鏡のような色の混沌によって表わされていました。

 ここで絵の話にもどれば、二次元の平面に三次元の空間を投影するために、遠近法や明暗法といった技法が練りあげられました。他方、それとは異なる形で、平面自体にはらまれたふくらみを引きだそうとする時、グリーンバーグは〈浅い奥行き〉や〈視覚的イリュージョン〉と呼びましたが、これをSF流の超空間を手がかりにしてとらえようというのは、こじつけが過ぎるというものでしょうか。もっとも、巽孝之が記したように、「別宇宙への移動においては必ず、限りなく神学的な形而上学的超越を伴うという紋切型」(『「2001年宇宙の旅」講義』、平凡社新書、2001、p.165)には注意するにこしたことはなさそうなのですが。それを避けるためには、作品一点一点の具体的な相貌に即することが何より大切なのでしょう。
 

 館勝生の《June.7.2007》(2007年、cat.no.35)でまず目を引くのは、暗緑色の上に厚く絵具が盛りあがり、激しい白の筆致が走る右上の部分でしょう。ただしそれらは、物としての絵具や身ぶりをぶつけた痕跡に留まってはいません。右上部分での動勢に応じて、鉛筆の線や薄く小さな飛沫が白地全体に波及していきます。また右上部分のすぐ下に、なかば透明な円が配されており、前者をのせているかのようです。両者はそのままふわりと浮きあがり、それに応じて飛沫も直線的に飛ぶのではなく、ゆるやかな曲線を大きく描くかのごとくひろがっていくと感じさせます。緊張感と浮遊感がここでは同居しているのです。その結果、白地も平坦に塗られたにおさまらない、明るみを帯びて輝きだすことでしょう。

 杉戸洋の《The Second Lounge》(2002年、cat.no.34)では、このセクションで見てきた作品の中で唯一、具象的なイメージをただちに判別することができます。しかしここで重要なのは、左右両側、次いで上方の緞帳が開くことによって現われる空間の、まさに開き現われるという事態そのものではないでしょうか。左右のシンプルな緞帳は、その奥にある上方の緞帳へと視線を誘い、そこでは緞帳は何重にか重なった上、施された装飾によって視線をさまよわせずにいません。下方の左右にある窓も、向こう側はどうなっているのか、気になるところでしょう。また上部の緞帳、床、窓の奥それぞれの赤みは、濃さや明るさを変化させつつ、白みの輝きにふくらみと落ちつきを与えています。この点では、水気を含んだかのような独特の質感のはたす役割が小さくありません。これらの要素があわさって、正面中央のからっぽのひろがりが、幾重にも折り重なり、さまざまな向きに分岐していく空間の母胎であることを感じとらせるのでしょう。

エピローグ

 

 野村仁の《励起する真空》(1990年、cat.no.36)では、白大理石の上面にあいた孔の、その上の空中から、二つに分岐したガラスが花開くようにひろがり、そこからさらに、いくつもの小さな分岐が生じています。分岐の分岐もいくつか認められます。連鎖はかぎりなく続くのでしょう。タイトルについては、きちんとした説明はきちんとした本を見ていただくとして(たとえば、広瀬立成、『真空とはなんだろう』、講談社ブルーバックス、2003)、精確かどうかはこころもとないところですが、次のように説明できるでしょうか;素粒子物理学においては、真空は何もないからっぽの空間ではなく、粒子・反粒子の対生成と対消滅がいたるところで起こっているととらえるのですが、それがよりエネルギーの高い状態に移って、素粒子が生成することを指す。本作品は〈ガラスの宇宙論〉と呼ばれる連作に属していますが、高さ50cmのこの作品も、ソトの《連絡階段》同様、一種の模型なのでしょう。ガラスの透明さは、形の明確さを保ちつつ、ここで生じているのが、目に見えない空間のあらゆる地点で起こっている事態であることを物語るかのようです。


                            (三重県立美術館学芸員)

 

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