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美術館 > 刊行物 > その他 > シャガール《枝》 ワークシート 生田ゆき 2008.4

美術館のコレクション 2007年度第4期展示(2008.4.1)

シャガール《枝》 ワークシート 生田ゆき

マルク・シャガール《枝》
1856-62年
油彩・キャンバス
150×120cm
右下:MARC/ChAgAll/1956-62
(財)岡田文化財団寄贈


作者解説

マルク・シャガール
(Marc Chagall 1887-1985)

7月7日(一説には6日とも)、白ロシア(現在のベラルーシ共和国)のヴィテブスクにユダヤ人家族の9人兄弟の長男として生まれる。伝統的なユダヤ教の小学校に通った後、教区の公立学校へ転じ、幾何学と素描を得意としたことから、画家になろうと決意を固める。地元の画家イェフダ・ペンのアトリエは画家にとって最初の美術学校であったが、わずかニケ月ほどで終了し、写真のフィルム修整などをして生計を立てる。このことが後にサンクトペテルブルクでのシヤガールの活動を支える経済的基盤となる。


1907年から1910年にかけてサンクトペテルブルクに移る。始めニコラス・ローリヒに、後にレオン・バクストのスヴァンツェバ美術学校で学ぶ。特に舞台芸術家として名をはせていたバクストを通じ、印象主義やフォーヴィスムなどの西欧の新しい芸術潮流に触れる。また、後に妻となるベラ・ローゼンフェルトと出会ったのは、1909年のことであった。


1910年晩夏、パリの北駅に着いたシヤガールは、到着翌日から画廊や美術館に積極的に足を運び、偉大な巨匠や当時の前衛美術の息吹を肌で感じた。1912年春には、「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」と呼ばれる芸術家が集まるアトリエに移住し、画家や彫刻家のみならず、アポリネールら詩人たちとの交流を深めた。この後1914年までに、サロン・ドートンヌやアンデパンダン展などに出品を重ね、国内外の美術批評家たちから注目を集め始める。


1914年ベルリンでの個展のためにパリを離れたシャガールは、故郷ヴィテブスクへも足を伸ばすが、折しも第一次世界大戦が勃発し、以降8年間をロシアに止まることを余儀なくされる。その間、個人的にはべラとの結婚、そして一人娘イダの誕生。また芸術的にはユダヤ劇場の装飾を始めとする舞台美術に新たな才能を発揮したが、ロシア革命後の国内の混乱と対立に疲弊したシャガールにとって芸術の都パリへの思いは断ちがたく、1923年に一家は再び同地の土を踏みしめる。


失われた時間を取り戻すべく、シャガールは精力的に制作に励むが、特に画商アンプロワーズ・ヴォラールとの出会いにより、《サーカス》を始めとする多くの版画を制作した。しかしながら、精・_的にも経済的にも安定した20年代が終わると、隣国ドイツではナチスが台頭しつつあり、1933年にはシャガールの油彩画が「退廃芸術」として焼却処分にあうなどした。1941年にフランス国籍を剥奪されたことから、アメリカ亡命を決意し、海路ニューヨークへと脱出する。アメリカ時代のシャガールは、ニューヨーク・バレエ・シアターの『アレコ』やストラヴィンスキーの『火の鳥』の舞台美術を手がけるなどの活躍を見せるが、戦争が終わり欧州に平穏が戻るや、1948年にフランスに帰国する。


1949年以降亡くなるまで、専ら南仏に居を構え、油彩画、版画、陶器、さらにステンドグラスなど、幅広いジャンルに挑戦し、色彩画家としての名声を確固たるものにする。その頂点とも言うべきは、ともに1964年に完成された、ニューヨークの国連本部を飾るステンドグラス《平和》と、パリ・オペラ座の天井画である。97歳の長寿を全うし、死の直前まで筆を執り続けたシャガールは、1985年3月28日その生涯をサン=ポール=ド=ヴァンスで終えた。


シャガールの作品の魅力を高めるのは、生まれ育ったユダヤの世界が持つ民俗的なイメージと、決して色あせることのない甘美な色彩との融合であり、その様式は第一次世界大戦前に確立して以降、生涯ほとんど変わることがなかったと言ってよい。終生ベラルーシの画家として認知されることを望み、「私の作品で、祖国への郷愁に彩られていない部分は小指の先ほどもない」(1934年)と語るシャガールの作品には、常に故郷ヴイテブスクへの思いがにじんでいた。

マルク・シャガール
1910年
サンクトペテルブルクにて


19世紀末のヴィテブスク中心地


シャガールの両親の家


マルク、ベラとイダ
1917年


オペラ座の天井画を制作中のシャガール 
1964年


《シャン・ド・マルス》 
1954-55年
エッセン、フォルクヴァング美術館


《エッフェル塔の夫婦》 
1938-39年
ジョルジュ・ボンピドウ・センター、国立近代美術館


《メッス聖堂のステンドグラス》


《ダンの支族》 
1961年 
エルサレム
ハダッサ大学医療センター・シナゴーグ


陶板壁画を制作中のシャガール
1955年

作品解説

シャガールの1950年代


1948年にフランスに帰国したシャガールは、翌年には南仏へ移住し、1950年以降はヴァンスを制作の地と定めた。すでに60歳を超えていたが、そのどん欲な制作意欲は年齢を感じさせず、陶器や彫刻、リトグラフにも果敢に挑戦した。また、1952年には2番目の妻となるヴァランティーナ・ブロドスキーと出会い、同年再婚を決める。


エツフェル塔/恋人たち


1953年から1956年にかけて、シャガールは〈パリ・シリーズ〉と呼ばれる作品群を手がけた。それらは1940年代末に残したスケッチをもとに制作されている。いずれもエッフェル塔やノートル=ダム大聖堂を目印に、パノラマ的に捉えたパリの景色を背景に、ある時は恋人たちが、ある時は幼子を抱いた母親が宙に舞う。赤や青、緑といった鮮やかな色彩が特徴的なこのシリーズは、歴史や思想を声高に主張するのではなく、より親密で幸福感に充ちた描写が特徴的である。


さらに、作品全体の構図を見るならば、《枝》は《エッフェル塔の夫婦》(1938-39年制作)の変奏曲と捉えることもできる。エッフェル塔、画面を斜めに浮かぶカップル、祝福を捧げる天使、そしてそれらを見守る赤く大きな太陽など、共通するモティーフは多い。しかし、《枝》においては、花嫁は花婿を抱きかかえる役へと転じ、さらに過去の作例では慈しむように描きこまれていたヴィテブスクでの思い出たちが、静謐な青に沈むように後退している。


1960年代とステンドグラス


シャガールが最初のステンドグラスを完成させたのは、1957年オート=サヴォワ県アッシィに建つノートルダム=ド=トゥット=グラース教会の洗礼堂の装飾としてであった(依頼は1950年)。以降、メッスのサン=テティエンヌ聖堂(1959年依頼、第1期は1962年完成)、エルサレムのハダッサ大学医療センターのシナゴーグ(1957年依頼、1962年完成)などへと向かい、この活動は1970年代まで続いた。


この時期にシャガールがステンドグラスに取り組んだ理由については、様々な解釈が可能であるが、大きな契機の一つとして、1952年に訪れたシャルトル大聖堂の壮麗な作例から受けた感動を挙げて良いだろう。さらにこのことは、ステンドグラス制作のみならず、1950年代初頭の油彩画が、単純ながらも大胆な構図の上に、まるで内側から光を発するかのような色彩の輝きを見せることにも通じよう。


加えて、1958年には、シャガールはランスのジャック・シモン・ガラス工房の親方で、ガラス職人のシャルル・マルクとブリジット・マルクと知己を得、以後彼らと共同制作を行うようになっていく。これにより不慣れな技法への強力なサポートを得ることが可能となり、シャガールによるステンドグラスの作例は、アメリカ、イギリス、スイスへと広がりを見せていくのである。


ステンドグラス制作について、シャガールは次のような言葉を残している。


「ステンドグラスは、とても単純にみえた。つまり素材は光そのものだ。大聖堂でもシナゴーグでも同じ現象が起こる。窓を通して、何か神秘的なものが入ってくるのだ。そしてそれでもなお、私はとても怖かった。まるではじめて恋人と出会う約束をしたときのように。理論、技法-それらが何だというのだ。そうではなくて、素材である光-そこに創造がある!」


一見古めかしくも不自由な技法を通じて、シャガールはまさに光と色彩の力を再確認するのである。技法上の制約は、翻って画家の心に新たな挑戦の喜びを呼び覚ましたに違いない。《枝》の前に立つ誰もが感じる、名状しがたい青の深さ、透明感こそは、このステンドグラス制作がもたらした美しき成果なのである。


(学芸員 生田 ゆき)


 

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