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花から花へ あそべよあそべ

一面の花。色彩の海。むせ返る濃密な息づかい。この絵の前に立つものは、炸裂する花火のごとき光の炎に幻惑される。画家の名はホセ・マリア・シシリア[86][87]。1954年マドリッド生まれ。1980年パリに居を移し、ありふれた道具を画布になぞる作品で注目され始める。5年後ニューヨークに降り立ち、過去の様式をぬぐい去り、大胆に区画された生の色面を背景にぶっきらぼうな輪郭線で一輪の花を閉じこめた。「フルール(花)」と題された連作の幕開けである。大いに歓迎されたこのシリーズであったがそれに留まるを潔しとせず、80年代後半には白が基調の静謐な画面へと移行した。

ここでシシリアは、もう一度我々の期待の地平を飛び越えてくれる。画布にアクリル絵の具というなじみのマテリアルを捨て、90年代末蜜蝋による画面を構想し始める。それは神話と追憶の古代の技法であった。優等生的に手元の辞書をひもとき太字の見出しを追いかければ、伝説の技法を発明したとされる画家パウシアスの名を見つけるのに時間はかからない。プリニウスが語る数々の逸話の中に輝くのは青年期の巨匠にふさわしいひとつのロマンスである。

「若い頃はグリケラという名の、同じ町に住む女性と恋に落ちた。この女性は花輪を発明した。それに負けまいと思って、彼女に倣い、きわめて変化に富んだ花を現そうと、焼き付け絵(注:蜜蝋画のこと)の技術を進めた。遂に彼は、その女性その人が、花輪をつけて坐っている絵を描いた。これはもっとも美しい絵のひとつである」
(プリニウス著(中野定雄・中野里美・中野美代 訳)『プリニウスの博物誌』(雄山閣出版)第3巻、p.1433(XXXV、125-126))

2000年近く経ても褪ぬ名高き『博物誌』を残したこの古代人には、塑像の発明者としての栄誉を恋人の面影をとどめんとする乙女に授けたり、モデルであるアレキサンダー大王の愛妾に横恋慕した稀代の画家アペレスに寛容な裁きを見せたりと、甘美なエピソードに筆が流れるという欠点は確かに認めなければならない。されど、いま我々の胸を突くのは、その技法の曙において取り結ばれた蜜蝋画と花とのあいだの幸福な結合である。それはシシリアの絵について思いをめぐらさんとするものにとってはあまりに美しくあまりにも危険な誘惑である。

もう一度テクストにかえって、恋人たちのたわいない戯れに少々意地悪い読みをこなすならば、ここでグリケラは単に美しき若き乙女の名ではなく、自然がその力の一端を駆使して出現させた、数限りない色彩と形態が奏でる美そのものと解読可能できよう。人為の結晶、すなわち芸術作品を生業とするパウシアスが、彼女を模倣し、ついにはその心さえも手に入れるということは、芸術が自然を凌駕した勝利宣言とも受け取れなくもない。画家は自らの愛と自信の証を誇らしげに恋人に差し出したに違いない。
ここで、シシリアにもご登場願うとしよう。

「私は一人立ちしている絵を描きたい。その裏に思想やメッセージがあったり、何か歴史を語っていたりする絵ではない。こういった類のものは何もない方がよい。絵が一人立ちするのは、グレーがあり、そのグレーのとなりに赤があるといったようなことからなのだ」
(雑誌『コメルシアル・デ・ラ・ピントゥラ』(マドリッド、1984年10月)に掲載されたマルガ・パスのインタビュー記事)

乳白色の蝋の水面に我々の花々は枯れることなき命を咲かせている。色彩は再現のための代替物としての従順な役目を越え、それ自体でまったき存在を主張し、何の支えも必要ともせずただ輝くのみである。めくるめく光の明滅により図と地の境界は指示体の彼方に交代し、後退と介入を同時に見せる世界が現前する。子細に花びらをたどれば、一枚一枚、絵筆によって位置を定められたのではなく、揺らぐ風紋のごとき痕跡を残していることがわかる。予想外の配合で色は混合しあい、画家のイデアの痕跡という近代的な幻想を洗い流す。ここでふたたび古代の世界に遊び、息を切らした犬の口に吹く泡という不定形の仕上げに苦心し、自暴自棄に投げた海綿により皮肉にも、「自然に」「ほんものそのものが描かれている」ように見せることが可能となったことから、「偶然がその絵に自然の効果を生み出し」たとの誉れ高きプロトゲネスの教えを見ることは、衒学趣味に陥ったとの批判を受けるであろうか。

(生田ゆき)


[86]ホセ・マリア・シシリア《衝立・小さな花々IV》
1998年 油彩、蝋、紙・板 211.5x124cm
[87]ホセ・マリア・シシリア《衝立・小さな花々V》
1998年 油彩、蝋、紙・板 211.5x124cm

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