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日本化の諸相(昭和前期の洋画)
昭和の洋画、第二次世界大戦まで

昭和の初期は1941(昭和16)年からはじまる第二次世界大戦の布石になる時代である。1923(大正12)年の大震災と、それにひきつづく世界大恐慌は日本の経済におおきな衝撃をあたえ、そのはけ口を国外へもとめた結果、1931(昭和6)年の満洲事変がおこった。これが理由で諸外国からは非難をうけ、国際連盟を脱退した日本は日中戦争を仕掛け、軍国主義の色彩を濃くしていった。すなわち、これまでの洋画史を振り返ってみても昭和戦前から戦中にかけての時代ほど、表現活動が政府の統制下に置かれた時代はない。しかし、今日の主要な団体展の多くが大正からこの時期に設立されているのを考えても、けっして美術界自体が沈滞していたわけではなかった。

世界に眼を向けると、この頃の芸術の中心はパリであった。各国の画家がこの地にあつまり、後期印象派、フォービスム、キュビスムや抽象主義などの運動を従来の写実表現とはちがった手法でつぎつぎと展開した。日本の画家も例外ではない。明治初期の画家の留学先がイタリアやドイツなどさまざまであったのに対し、この時期の日本人画家のほとんどが芸術の都となったパリで学んだ。佐伯祐三(1898-1928)〔23〕や荻須高徳(1901-1986)〔24〕はパリの街並みを主な題材に描き、藤田(1986-1968)陶器のようなつやのある地塗りと繊細な線でパリの売れっ子作家になった。

日本では1926(大正15)年にパリで学びあった前田寛治(1896-1930)[20] 〔28〕、里見勝蔵(1895-1981)、佐伯祐三らが「愛と尊敬と芸術」を合い言葉に美術団体「1930年協会」を設立した。この会では靉光(1907-1946)、長谷川利行(1891-1940)らが受賞しており、若い画家にも支持され大きな団体へと発展したが、それゆえに他の団体からの外圧をうけ、佐伯の逝去、前田の病臥なども原因で1930(昭和5)年に解散した。この団体の意志を受け継ぐかたちとなったのが「独立美術協会」である。この会の創立会員13名中には春陽会(大正11年結成)出身の三岸好太郎(1903−1934)や国画会(大正14年西洋画部新設)出身の高畠達四郎(1895-1976)らも名を連ねる一方、他の11名はすべて二科会出身者であった。そのため「独立」という名は二科会からの独立という意味合いが強かったが、1935(昭和10)年ころから創立会員の児島善三郎(1893−1962)〔26〕や1933年(昭和8年)に会員になった須田國太郎(1891-1961)〔27]らはしだいに「フランス美術からの独立」を考えるようになった。以前、梅原龍三郎(1888-1986)〔31〕が当時の日本洋画を「フランス新画の出店芸術」と酷評し、日本の伝統美について模索したように西欧の新しい運動を断片的にとりいれるだけの作品が多いことへの反省、日本における洋画が如何にあるべきかを根本から問直す必要性を叫んだ。児島善三郎はマティス(1869-1954)に影響を受けながらも大胆さを生かして桃山時代の障壁画や琳派を想起させる作品を生みだし、須田國太郎は油絵具という素材と格闘しながら静寂ななかにも荘厳な空間をつくりだした。この理念は他団体の画家のあいだにもしだいに浸透していった。

このように各団体が活発に展開していった一方で、1919年(大正8年)から文部省美術展覧会にかわり美術界を総合する役割を担っていた帝国美術院展の作品の質が低下し、1935年(昭和10年)に帝展の改組が松田文相によって行われた。帝展の改組は美術界再統制と二科会所属の安井曽太郎(1888-1955)[25]らを新たに会員としてむかえることによって内部刷新をはかろうとしたが、帝展の中堅画家の抵抗などで暗礁に乗り上げ、離合集散が繰り返されたのち昭和12年に新文展の名で一応の決着をみせることになる。

(田中善明)




[23]佐伯祐三《サン・タンヌ教会》1928(昭和3)年
[24]荻須高徳《街角(グルネル)》1929-30(昭和4-5)年
[25]安井曾太郎《女立像》1924(大正13)年 [26]児島善三郎《箱根》1938(昭和13)年

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