19-20世紀の美術:不在のまなざし
満たされないものにこそ心ひかれるのは何も相手が人とは限らない。私たちは欠乏に魅入られ、それを埋めようとする哀しき本能に導かれてしまう。
ピカソの《ロマの女》〔76〕では、バルセロナのまばゆい陽光が照らす色彩を持て余すかのように、浜辺に座す女の表情は沈澱している。押しつけ、こす・轤熙境界線を曖昧にされたまなざしは、それ故何に捧げられているのか、何を想念していのか定めがたい。絵を見る者は画面の内外の手がかりを総動員し、黒いしみの向こうにある物語を自ら紡ぎ出さねばならないだろう。それには世紀を代表する巨匠はまだ10代で、同年秋に初めてパリを訪れるといった記述も助けにはなるかもしれない。しかし、この画面に所在なげに漂うまなざしには事実や歴史をも屈折させる引力がある。
ムンクの登場人物は私たちに背を向けている。少女は窓の向こうのまだ見ぬ世界を夢想し、男は月の光に過去を溶解させる。水際に立つ二人にはもはや言葉はなく、打ち寄せる波の音に耳を傾けることしかできない〔77〕。ここでは色彩すら消え、最小限の情報しか与えてくれない。このことが逆説的に彼らに容易に同化することを可能にし、感情移入を誘引する。光と影のシルエットは胸の片隅に疼くメランコリックな思い出に化けてくれる。
モデルと画家。ときにはライバル。ときには共犯者。息詰まる攻防にふと訪れる感情の交錯。ジャコメッティが描く室内の人物にはいささか無防備とも言えるくつろぎが感じられる〔78〕。それはちょうど私たちの位置にいる画家への親愛の情とも言えよう。彼女は画家の視線に恥じいることも、挑むこともせず、ただ応えている。そうするのが自然ななりゆきであるかのように。ここに刻まれたのは二人の関係性である。
不在でありながらも最も強烈に作者を感じさせるのは《瓶のあるアトリエ》〔79〕である。画家は自らの小さな宇宙とも言うべき仕事場を硬質な線で書き綴る。ちょうど画面中央に机は鎮座し、椅子は主が腰掛けるのを待っている。僅かに見下ろす角度と相まって私たちは作者とまなざしを共有するかのような錯覚を覚えよう。そう、ここで、今から、また一つ作品が生まれるのだ。
(生田ゆき)
[76]パブロ・ピカソ《ロマの女》1900年 |
[77]エドワルド・ムンク《二人:孤独な人たち (マイアー・グレーフェ・ポートフォリオより)》1894-95年 |
[78]アルベルト・ジャコメッティ《室内の人物》1965年 | [79]アルベルト・ジャコメッティ《壜のあるアトリエ》1965年 |