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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 伊勢地方と近世絵画-池大雅、青木夙夜… 毛利伊知郎 三重県立美術館所蔵作品選集

伊勢地方と近世絵画-池大雅、青木夙夜・・・

江戸時代、京・大坂や江戸がそれぞれ豊かな経済や歴史的伝統を背景に洗練された文化を創造し、それが近世の日本を代表する文化になったことはいうまでもない。では、地方はそうした三都の文化を受動的に受け入れていだだけなのだろうか。もちろん、江戸時代とて、三都から地方へ伝わる情報や文化的創造物の量は圧倒的に多く、その逆の現象は非常に少なかったであろう。

しかし、絵画の世界では、当時の画家たち-特に南画系や円山派の画家たち-にとって、地方は自らの作品を売るための市場というにとどまらず、むしろ彼らに新しい創造の契機を提供する場であったと思われる。

それは、今もなお各地の旧家や社寺にのこる近世絵画、あるいは名のある画家が滞在して作画したという類の様々なエピソードなどから想像することができる。こうした三都と地方との相互関係が、江戸時代の絵画世界に空間的な広がりを与えているのだが、伊勢地方でもその具体例に事欠かくことがない。

地方の文化の受容層が積極的に中央での絵画制作と関わりを持つようになるのは、18世紀半ば以降のことと見て大きな誤りはなかろう。その背景を、絵画の受容者と社会的状況について見ると、上方と江戸との交通の発達、商人層の台頭と貨幣経済の進展に伴う富の蓄積という経済的状況を無視することはできない。これは全国的にいえることであるが、伊勢地方に関しては、伊勢信仰の流行という地域的な要因を忘れることはできない。

また、小津・川喜田・田端・長谷川・三井ら伊勢商人による絵画収集も、重要なテーマといえよう。近代に入って散逸したコレクションも多いが、18世紀半ば以降この地方で盛んに活動する画家たちの動向や、彼らがこの地と具体的にどのように関わって制作したのかという問題は、彼らの作品を理解し受容した蒐集家を抜きにしては解決できない。そうした意味でも将来にわたる地道な調査が継続されねばならない。

もちろん、絵画を収集したのは、伊勢商人に限定されるわけではない。たとえば、松阪の岡寺山継松寺は、大雅を初めとする多くの画家や学者たちが出入りして、あたかも文化サロンの様相を呈し、多くの作品が現在まで伝えられている。

また《如意道人蒐集書画帖》(出光美術館所蔵)に名を残した伊勢の人・如意道人のように、著名な南画家や詩人たちの筆蹟を蒐集して回った人物もいた。さらに、有力な伊勢商人ほどではなくとも、庄屋あるいは御師であったような旧家に、当時の絵画作品が収集されてきた例も少なくない。

そうした中で、伊勢地方と最も関係深く、注目すべき画家が曾我蕭白(1730-1781)であることはいうまでもない。また、この地方を訪れ滞在した画家として、池大雅(1723-1776)〔91〕、青木夙夜(?-1789)〔92〕らに代表される南画家たちも逸することができない。

文人画家池大雅は、この地方をしばしば訪れている。大雅が書家・韓天寿(1727-1795)〔93〕、篆刻家・高芙蓉(1722-1784)と親しく交わりを結んでいたことはよく知られているが、韓天寿は京の青木氏の生まれで、大雅堂2世を称した青木夙夜の従兄に当り、後に松坂の商家中川氏の養子となった。こうした地縁・血縁が、大雅の伊勢松坂来遊の直接的理由の一つであるが、江戸時代中後期における当地の経済的繁栄、あるいは神宮信仰の盛行といった、社会情勢がその背後にあったことはいうまでもない。

(毛利伊知郎)


〔91〕池大雅《二十四橋図》制作年不詳 〔92〕青木夙夜《富獄図》制作年不詳 〔93〕鶴亭《韓天寿賛天産奇葩図》
制作年不詳


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