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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 岡田文化財団と三重県立美術館 美術館活動への支援について 陰里鐵郎 岡田文化財団寄贈作品集 1990

岡田文化財団と三重県立美術館
美術館活動への支援について

陰里鐵郎

岡田文化財団が,「(三重)県民の芸術文化に関する知識と教養の普及向上に資し、もって三重県における文化の振興発展に寄与すること」を目的として設立発足してから満10周年を迎えたことを、この10年間のこの財団がおこなってきた事業の成果の大きさを高く評価しつつ、心からお慶びを申し上げます。

この岡田文化財団の事業のなかでその骨子となっているものは、「美術資料(作品)を三重県の美術館へ無償で提供すること。」と「絵画・彫刻・工芸品等著名な美術品の展覧会を開催すること。」(『財団法人、岡田文化財団寄附行為』より)の二つにあったとおもいます。このことは、美術資料の調査研究を含めて、公立の美術館の収集活動、展覧会活動といった美術館活動に協力することを通して地域社会の文化の発展に貢献しようとすることでした。こうした特定の公的な美術館へ協力することを財団の活動の骨子として、個人の意志によって設立された財団法人は、仄聞するところによれば、日本で最初のものであったといいます。企業であれ、個人であれ、このような財団が設立され、実際にその活動を持続してきていることは、重要な意味をもつものと私は考えます。このことについてはあとで触れるとして、まずはこの10年間の財団の活動を、協力をうけている三重県立美術館の側からふりかえってみたいとおもいます。

財団の年譜に明らかなように、岡田文化財団は1980年2月に設立されています。三重県が美術館建設に向けて実質的な活動を開始したのはその1年ほどまえでしたが、収集活動に入ったのはその年(1979)の後半からでした。始められたこの収集活動をただちに強力に支援し、かつ補強補完する形で財団の作品の無償提供、つまり作品寄贈がおこなわれはじめたのでした。記憶されているかたも多いとおもいますが、その最初の寄贈作品が、マルク・シャガールの大作『枝』でした。その日贈呈のセレモニーがおこなわれたのが、1981年(昭和56)年6月1日、美術館の建物がようやくその全容を地上にあらわしたころのことです。開館以降、この作品が、鑑賞におとずれる人たちの関心の的のひとつになっていること、それはいまも変りません。

シャガールの『枝』以降、1982(昭和57)年4月には、松阪出身で京都の日本画界の代表的な画家であった宇田荻邨作『祇園の雨』の提供をうけています。この作品は、荻邨の戦後の代表作といわれながらアメリカへ渡っていて、そのおくにがえりとしても話題をよんだものでした。荻邨といえば,1987(昭和62)年には、荻邨のアトリエに遺されていた下絵や写生帖など、大量の作品、または資料が財団によって寄贈されたことも忘れるわけにはいきません。下絵だけで178点、写生帖は121冊を数えます。個々の画面を1ケの作品と数えれば、ゆうに4000点をこえることになろうかとおもいますが、それらのなかには下絵とはいえ、本画以上に作者の鋭い感覚とその制作意図を生き生きとつたえている画面も多く、荻邨研究の観点で重要なばかりではなく、鑑賞のうえでも観る人たちを魅了してやまないものです。

そのほか寄贈をうけた作品を列挙すると、ひとつのグループとして、ジョアン・ミロ『女と鳥』(1985年8月)、クロード・モネ『ラ・ロシュブロンドの村』(1986年7月)、オーギュスト・ルノワ・[ル『青い服を着た若い女』(1988年8月)、マルク・シャガールの版画『サーカス』(38点の組物、1982年4月)などの外国画家の作品があります(括弧内は、寄贈をうけた年・月)。個々の作品について詳しくは、別に掲載の解説にゆずることにしますが、ミロの作品は、円熟期にあったミロ芸術の特質をよくそなえ、表現もつよい効果をもっていて興味深い作品といえるとおもいます。モネの作品『ラ・ロンエプロンドの村』も注目をひくいくつかの問題をもっています。一見すると海辺や水面、積藁や睡蓮といったもっともモネらしい画面とちがっているように見えるかもしれませんが、夕暮の逆光のなかで微細に反映する山かげの光を劇的なまでの筆致で描きこんでいます。モネに成功をもたらした1889年6月のジョルジュ・プティ画廊でのロダンとの二人展に序文を書いたオクターヴ・ミルポーが、これらのモネの風景画を「悲劇的風景」と呼んだことがうなづける作品です。

ルノワールの『青い服を着た若い女』は、あのルノワールの名作『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』と同時期(1876年)のもの、印象派の画家たちが悪評のなかでも新しい視覚とその表現を追求していた時期で、その意味では、数多く日本にあるルノワール作品のなかでは貴重なものといってよいとおもいます。

日本の油彩画では、須田国太郎『信楽』、和田英作『富士』が寄贈されておりますが、『信楽』は須田芸術のなかでも、烈しさをなかに秘めながら独自の明暗で日本の自然風景を描きだした傑作だといえましょう。和田英作は、その生涯の後半期には沢山の富士を描いていますが、それらと比すれば、この作品は初期の外光派の表現をよくとどめた描法で、和田の初期から中期への移行期を示していることでも貴重です。

三重県という地域との関係では先に触れた宇田荻邨の作品がありますが、いまひとつは新しい世代のすぐれた作品の提供をうけたことです。小清水漸、松本薫の作品がそれです。これらは未だグループをなすほどには達していませんが、三重県立美術館のコレクションのなかで現代美術収集の端緒をつくったものとして忘れることができません。この美術館の現代美術のコレクションはここから始ったといって過言ではないからです。

岡田文化財団の活動のもうひとつの柱が展覧会活動への協力でした。この10年間に美術館との共同主催という形で協力、支援してくださったものだけでも20の展覧会を超えております。そのほか、後援という形での協力もありました。共同主催の展覧会は、美術館で開催されてきた主要な展覧会はすべてそうであったといってよいとおもいます。

そのいくつかを特記しますと、三重県との関係では『宇田荻邨展』(1983.3)、『橋本平八と円空』展(1985.9)、『三重の美術風土を探る-古代中世の宗教と造型』展(1986.10)、『足代義郎展』(1987.3)、『曾我蕭白』展(1987.10)、『三重の近代美術』展(1988.6)、『古伊賀と桃山の陶芸』展(1989.9)などがあります。

国内・外の美術の展覧会としては、『モローと象徴主義の画家たち』展(1985.1)、『ヨーロッパ絵画の500年』展(1987.8)、『ドカ展』(1988.11)、『ピーテル・ブリューゲル全版画展』(1989.4)、『モランディ展』(199.・1)と、『中村彝展』(1984.10)、『関根正二とその時代』展(1986.9)、『石井鶴三展』(1987.6)などがあります。ここに列記したこれらの展覧会は、それぞれの年次になんらかの面で評価をうけ、話題をよんだものでした。たとえば『ドカ展』はドカの彫刻の全作品が出陳された初めての展覧会でしたし、『ピーテル・ブリューゲル全版画展』もまた現在知られているブリューゲル版画の正真正銘の全作品による展覧会でした。これらは世界的にみても稀有なものであったといえますが、これらをつよく支援し、実現にむけて貢献したのが岡田文化財団であったわけです。

いまひとつ見逃せないのが、新しい世代の美術家たちへの支援です。それは収集関係ですこしふれましたが、毎年開かれる『三重県美術展覧会』(県展)をとおしておこなわれております。

この10年間を回顧しながら概略を述べてきましたが、さきにすこし述べましたように、岡田文化財団の創立当初の意図とその継続されてきた活動はたいへん重要な意味をもっていたし、このところそれはあらためて評価されてよいものだろうと私はおもいます。それは、3年ほどまえから日本でも注目されるようになってきた文化擁護運動のあり方として「メセナ」(m?c?nat)と呼ばれているものとの関係においてです。「メセナ」とは、従来の文化へ協力としてのスポンサー・シップとは異なり、なんらの見返りをも期待しない純粋の文化支援、文化擁護のあり方です。それこそが真の自分たちの文化を擁護し、振興することであるという考え方であり、それは社会的責任であるという考え方です。日本でも今年(1990)2月に「企業メセナ協議会」が発足したことが報じられましたが、わが岡田文化財団は、この思想と方法を先取りしていたといってもよいかと私は考えております。

文化運動は強建な思想に支えられて息長く持続的に展開されねばなりません。三重県立美術館は、幸運にも、こうしたすぐれた財団の支援をうけてまいりました。そのことに対して、心から感謝いたしております。

(三重県立美術館長)

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