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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 序 陰里鐵郎  所蔵品目録-1982年版

館長 陰里鉄郎

三重県立美術館の常設展示にあてられる収蔵品リストをみていて、これの収集活動の出発時を想起し、,多少の感概におそわれている。

三重県立美術館の設立が、建築を含めて具体的に動きはじめたのは、昭和54年8月のことであったようだ。つづいて翌年に美術館美術資料選定委員会が設けられ、その最初の会合が開かれたのは同年の3月であった。この委員会は委員長土方定一、副委員長豊岡益人、委員に満岡忠成、梅津次郎、乾由明、陰里鉄郎(以上、美術関係者)、金丸吉生、井村二郎(県内関係者)によって構成された。委員長土方定一は、当時、神奈川県立近代美術館長、全国美術館会議議長の職にあったが、すでに二度の手術をおえ、身体は癌細胞におかされていることを関係者の一部は承知していた。土方委員長は、それでも戦後の日本の美術館運動の指導者としての責任感と美術館に対する烈しい情熱とで、委員会をリードし、この美術館コレクションの発端をつくったのであった。不幸にして土方委員長は昭和55年12月の第3回委員会を欠席、その直後に逝去された。筆者は、その死の直前に病床を見舞ったが、その時も三重県立美術館のコレクションに言及されたことが忘れられない。土方委員長の歿後、豊岡委員長のもとに美術資料選定委員会は継承され、活動はつづけられたのである。

委員会は、収集の基本方針として、要約してあげれば、つぎの三つを決定し、収集は,おおむね、その線にしたがって行なわれたのである。

1.三重県の出身、またはゆかりのある作家の作品。2.日本の近代化過程におけるすぐれた作品を、洋画を中心に系統的に収集するとともに、日本の近代絵画につよい影響を与えた外国の作品。3.デッサン、下絵、水彩等の収集。

上記のことが、もちろんすペてではない。日本画、彫刻、工芸、版画、それらの過去と現代のすぐれた作品、いすれも美術館の収集の対象となることはいうまでもない。そして上記の三つの方針に収集の比重をおくとしても、大きな視野のもと、グローパルな視点をも絶えず持していかねばならないこともまた言をまたないことである。

しかし、以上のような方針や意識のもとに収集のシステムを用意し、装置したとしても現実の収集活動は、容易ではなく困難をともなう。2年余にわたる収集活動の成果のすべてが本番に収められることになるが、美術館コレクションとしては、ようやく端緒についたはかりである。今後もこれまでの経験にたち、学芸員による調査研究に基づいて新しい地平を開きながら、忍耐づよい収集活動をつづけていかねばならないであろう。

以下、現在までの収蔵作品について若干の解説を付加しておきたい。

日本画

三重県立美術館は、ことさらに「近代」を冠記していない。それは、長い美術の歴史の全部を収集の対象とすることは不可能だとしても、伊勢、志摩、伊賀、紀伊の一部からなる三重県は、中世末期以降、伊勢神宮が所在すること、また商業の盛行などから、文人墨客の往来も繁く、近世美術史のうえで見逃せない地域であり、したがって当然、近代以前、すくなくとも近世美術は収集の対象となる。日本の代表的な南画家池大雅は,松阪の書家韓天寿と親交があり、大雅筆「二十四橋図」は韓天寿の旧蔵品であったし、「山水図」の賛文はまた松阪出身の僧、悟心の筆になっている。青木夙夜は韓天寿の従弟にあたり、天寿の紹介で大雅に師事、伊勢で歿している。近年、とみに評価の高い曾我蕭白は,宝暦、明和のころ(18世紀半ば)、しばしは伊勢地方を旅行し、松阪に多く作品を遺した。「林和靖図」六曲一双は、特異な蕭白の作風の初期様式を知るのにも貴重な作例である。月僊は、伊勢寂照寺の画僧,小画面の掛幅は多数散在するが、「山水図」は大画面の屏風で月僊の代表的作品にあげられよう。

宇田荻邨は、本県の出身、大正期から昭和期にかけての近代日本画における京都派の代表的画家のひとりである。大正期、京都画派はヨーロッパ20世紀絵画の影響をうけて斬新な様式をみせた。荻邨の初期の作品「木陰」はその反映をよく示している秀作である。戦後,京都の詩的情調を表現したいくつかの祇園の連作のひとつ「祇園の雨」は荻邨の清冽な画境をよく示している。荻邨の師、竹内栖鳳は京都画派の総帥であった。その作風は洋画調をとり入れた温和なものであるが、「虎・獅子図」は、初期の栖凰の意欲的な作品である。伊藤小坡は、戦前、女性を描く閏秀由家として知られた。その後半期には歴史風俗画が多いが、前半期においては日常的な風俗を題材として甘実な作品を描いており、「ふたば」はその代表的作品である。小坡も栖鳳に学んでおり、三重の美術は江戸期から京都画壇と密接につながっていたことがよくうかがえる。

このほかには、安田靫彦の万葉集に取材した「小倉の山」、戦後の日本画界の闘将として注目されていた横山操の大作「瀟湘八景」がある。その、たらしこみの技法などを駆使した画面は観るひとを魅了せずにはおかない迫力をもっている。

洋画

収集の中心となっている洋画は、歴史的にいえば、「鴨の静物」ただ1点で知られる岩橋教章のその作品が冒頭を飾ることになる。岩橋は松阪の出で、幕末期に幕府方海軍にあって測量に従事し、函館戦争に参加、その後ウィーンに留学した洋風版画家である。水彩画である「鴨の静物」の精巧な写実には驚嘆させられるであろう。明治初期岩橋と並んで渡欧留学画家であった川村清雄「ヴェネチア風景」、明治洋画の巨匠のひとり浅井忠の「小丹波村」は、明治前半期の洋画の実用主義にたった写実から絵画的情感をもった写実への推移と、社会的変革期の明暗を反映した明治前半期洋画の性格とをよく示している。

黒田清輝、久米桂一郎のフランスからの帰国(明治26年)は、明治洋画に一大変化をもたらした。折衷的であったとはいえ印象派的表現をもった両者の外光描写が、硬直した写実主義から絵画を解放することになるのである.久米桂一郎の「秋景下図」は,明治30年代の外光描写の画面であり、黒田清輝「雪景」は大正期の制作であるがこの作家の素直な感覚による芳醇な画面をみせている。外光派によって新しい展開をとることになった洋画家で、いくつかの様式変遷をもちながら油彩画に自己の資質を開花させ、長期にわたって活躍した藤島武二は、外光描写に接する前後の一時期に津中学の教師として津に滞在していた。その後,東京美術学校(東京芸大)助教授、ヨーロッパ留学を経て藤島芸術は開花した。「裸婦」(明治39年)から「裸婦」(大正6年頃),伊勢朝熊山を描いた「日の出」、そして「海」と藤島の豪快な筆致の作品がある。黒田を中心として結成された白馬会は、明治中期以降の洋画界の主流となっていくが、その系列の作家に青木繁、赤松麟作があり、青木は藤島こつづき明治30年代のロマン主義絵画を生みだした天才的画家であった。その「自画像」は彼の烈しい情熱を垣間みせる。赤松も津中学校の教師であったことがあり、その時期に明治風俗画の傑作のひとつ「夜汽車」を世にだしたが,「白い扇」は晩年の作品、遺族の寄贈によって収集に加えられた。

鹿子木孟郎は、藤島のあと、赤松のまえに津に教師として在住、その後フランスに留学し、京都にあって関西洋画壇の指導者となり、また白馬会と桔抗した太平洋画会の主要な存在であった。外光派に対抗し、フランス・アカデミスム系の堅牢な写実を学んでいる。「大和吉野川の渓流」は晩年の鹿子木の大作のひとつ。この系列の作品に中村不折「裸婦立像」,満谷国四郎「裸婦」がある。いずれも鹿子木につづいてパリのジャン・ポール・ローランスのアトリエで勉強した時期の作品である。

大正期は、官展として文展、それに対立した在野の二科展、院展洋画部からの春陽会、岸田劉生のひきいる草土社などによって洋画は多様な展開をみせてくる。その背後には、ヨーロッパの20世紀芸術思潮の洗礼をうけた主観主義、個性尊重の考え方が貫流し、また一方では、西洋化一辺倒に対する日本美術の伝統の継承が試みられる。中村彝は文展で活躍したが、ルノワールの影響をうけた秀作をつぎつぎと発表したものの宿病に悩み、晩年は死をみつめるなかでセザンヌふうの構成を試みている。「髑髏のある静物」がそのひとつである。大正期の個性的な作家の代表的な存在とすれば、岸田劉生、萬鉄五郎、村山槐多、関根正二があげられる。麗子像の画家,劉生の「麦二三寸」は草土社ふうの緻密な筆致の描写、畔道に立つ麗子、劉生の鵠沼時代の佳作である。萬の「山」はフォーヴィスムを基盤にしながら、キューピスムなど新しい表現を摸索していた時期の作品、「枯木の風景」は、さらに南画に学んだリズム感のある画面で、晩年の相州茅ヶ崎での作品である。村山槐多の「自画像」は、阿修羅のように烈しく、短く生きた画家で詩人であったこの作家の姿をつたえ、劉生、萬などの自画像とともに日本の近代の自画像の傑作である。

大正から昭和の時期にかけて、洋画は、ヨーロッパ留学、主としてフランスに学んだ画家たちが、つぎつぎとヨーロッパ絵画の新しい主義、表現を移植するが、そのなかにあって自己の資質と日本の伝統、ヨーロッパ近代思潮との格闘をくりひろげている。小出楢重は、個性的なデフォルメ(歪形)によって「裸女立像」のような裸婦像の連作を生みだし、梅原龍三郎はルノワールへの傾倒から、桃山美術の華麗な装飾性を画面に導入して自己様式を形成する。「山荘夏日」はその過程をよく示す作品であろう。安井曾太郎郎の作品は、滞欧作、ついで安井様式を形成する過渡期の作、さらに戦後の作品が所蔵されている。佐伯祐三、前田寛治、里見勝蔵は、いずれも第1次大戦後のパリで学び、フォーヴィスムの第3次移植者であり、それぞれ個性的展開をみせた。佐伯の「サン・タンヌ教会」にはもはやヴラマンク、ユトリロの影響はうすく、佐伯的な線条と色調のパリ風景であり、フランス絵画の歴史を遡行するように研究した前田は、「裸婦」「赤い帽子の少女」で独自のフォーヴィスムをみせている。彼らは、帰国後、1930年協会を結成したが、その後身的存在が昭和6年に発足した独立美術協会である。児島善三郎、清水登之、林武、高畠達四郎、海老原喜之助、鳥海青児、野口弥太郎などがここを舞台に活躍したが、これらの多くはエコール・ド・パリのなかで過ごした経験をもち、その反映を示した。児島の「箱根」は、ドランなどの影響を脱して日本的装飾牲を志向した児島の代表作であり、清水の「蹄鉄」はフランス系が多い日本の洋画のなかで特異なアメリカ系の画家の作品として際立っている。海老原の「森と群鳥」は滞欧時の作品で、“海老原の青”と評価された時期の作品。野口、林、高畠の作品は、いずれも戦後のもので、それぞれ円熟した画境を示している。

これらは、総じて日本的フォーヴィスムと評されるが、各作家の個性がそれぞれの性格をもつ作品を産んでいる。そのほかでは春陽会に所属した岡鹿之助「廃虚」は、この作家の堅固で精密な構成とマチエールによる詩的な作品であり、木村荘入「日没」はこの作家の戦後のいわゆる南縁の作品で、東京杉並で描かれたものである。

日本の戦後美術は、戦前からの絵画思想、造型思考をひそかに抱きつづけて戦中期を耐えてきた作家によってます開花したといえよう。鶴岡政男、麻生三郎、難波田龍起、村井正誠、山口薫、牛島憲之、中谷泰などの作品がそれである。鶴岡、麻生、中谷などは社会的現実を真摯に凝視して自己の造型を思考し、ときに鶴岡は抽象的形態に諷刺をこめ、麻生は苦い現実を親密な題材と風景のなかに塗りこめて心情を表出している。

日本の抽象絵画は、戦前の村井、吉原治良らによってすでに出発をみていた。村井は、戦後、太い線条の色面による構成で画面をつくっていくが、その背後には人間に対する絶えざる関心がうごめいている。吉原は、戦後にグループ具体美術をひきいて国際的に活躍し、「作品(赤丸)」は吉原の最後の到達点をみせる作品であろう。元永定正は、具体美術に属し、アンフオルメルからユーモラスなフォルムの画面へと展開をみせている。

郷土の作家では、孤高の姿勢を守りつづけた林義明の作品、佐藤昌胤の親しい情感にあふれた作品がある。浅野弥衛委、足代義郎など、なおこれから展開が注目される作家である。

水彩・素描

明治の水彩画家・三宅克己は、日本の洋画史では欠くことのできない存在である。明治後半期の水彩画の流行の花形作家であったはかりでなく、日本の風景を描きつづけた画家としても見逃せない。「箱根双子岳」は彼の後半期の代表作である。長原孝太郎の作品は、白馬会の出品作を含み、この作家の知性と諷刺精神を示す作品である。日本人画家で最初の国際的画家となった藤田嗣治「ラマと四人の人物」は、南米旅行のときの藤田の水彩画の大作である。そのほか岸田劉生、三岸好太郎、松本竣介、野田英夫の作品は、いずれもこの種の作品としての魅力をもっている。

版画

広重の隷書版「東海道」は、保存状態も良好で広重の風景版画の秀作のひとつ。棟方志功「蒼原の柵」ほかは、棟方の晩年の手彩色による華麗な作品のまえのもので、棟方版画の本質をよくうかがわせる。北川民次のリノカット「瀬戸十景」は初期の作品。小画面ながら直截な表現が北川の初期様式のもつ魅力をよくみせている。

彫刻

大正期の戸張孤雁「トルソ」は小品ながら近代日本彫刻の水準をぬく作品。橋本平八の木彫「弱法師」は、日本の伝統とつながりながら近代彫刻を開拓していったこの作家の佳作といえようか。そのほか片山義郎,柳原義達は同世代の具象の彫刻家であるが、それぞれの造型でその資質のすぐれたものを示している。井上武吉、湯原和夫、田畑進の作品は屋外に展示されているが、前のふたりは、現在、国際的にも活躍している。井上の造型と心理、湯原のつきつめた形体の造型、いずれも周辺の環境をも支配するカをもった作品となっている。

外国作品

ジャコモ・マンズーの「ジュリアとミレトの乗った大きな一輪単」は、中庭に展示されており、見る人を素直にひきつける作品である。油彩画では、シャガールの「枝」、同じくシャガールの版画「サーカス」があり、若い世代の注目を集めるであろう。オディロン・ルドンの油彩画「アレゴリー」、版画「ヨハネ黙示録」「ペアトリーチェ」は、この神秘的な象徴主義の画家の興味ふかい作品である。版画「葉・色彩・光」はブラック版画の代表作。そのほかメリヨン、プレダンなどの19世紀ヨーロッパ版画が少数あり、いずれ充実したヨーロッパ版画の歴史を示しうる収集へと発展していくことになろう。

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