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池田遙邨、初期の画業について

道田美貴

 飄逸とした酒脱性で今なお絶大な人気を博する池田遙邨は、洋画家としてその画歴をスタートさせてから最晩年の《山頭火シリーズ》にいたるまで、意欲的にさまざまな画家の作品を学びながら、常に新しい表現を求め続けた。遙邨がその長い画歴において大きく画風を変化させつつ、独自の世界を確立したことはこれまでにもしばしば指摘されている通りである。遙邨にかんする展覧会や論述は多く、その画風変遷についてはもちろんのこと、古典とのかかわり、主題のもつ社会性、文学とのかかわり、あるいは各時代の作品分析など、遙邨芸術については多角的に論じられてきたといえるだろう。しかし、遙邨初期の画業については、現存する本画作品に限りがあることから、詳細に顧みることが困難であったように思われる。今回の展覧会は、洋画時代の活動も含めた遙邨の画業を紹介していることから、本稿では、遙邨の長い画業の中でも洋画家を志し本格的な修業をはじめた一九一〇(明治四十三)年から画壇に認められず模索を続けた一九二五(大正十四)年までの遙邨初期の画業について、諸先学の遙邨研究の成果をまとめていきたい。特に、遙邨の画業の中でも趣を異にし、暗く陰惨なテーマが主流となる一九二一(大正十)年から一九二五年の間に制作された主要作品については、写生帖や挿図などこれまで触れられる機会の少なかった資料も紹介しながら詳細にみていくこととしたい。


 幼少時代から画才を発揮していた遙邨(注1)が、本格的に画業をスタートさせたのは一九一〇(明治四十三)年。同郷の洋画家であり、大阪で(天彩画塾)を開設していた松原三五郎のもとで洋画家を志す。遙邨は、十五歳のこの年から家族の住む今治に戻るまでの約二年間、(天彩画塾)で洋画の基礎を学ぶことになるのだが、この時期の現存作品としては、カッサーニュ画手本の模写や五姓田義松筆《男裸体》の模写、鹿子木孟郎筆《裸婦》の模写(いずれも倉敷市立美術館所蔵)、あるいは京都国立近代美術館が所蔵している初期水彩画(no.2-3〜2-14)などがあげられる(注2)。これらの作品は修業中の作品であるため遙邨の個性が充分に発揮されているとは言い難いが、あわせて松原三五郎の指導法をみていくことで、遙邨の修業期の様子を知ることができるだろう(注3)


 松原三五郎は、「デッサンの稽古が大事だから根気よく続けなさい」と繰り返し教えたといい、長い間一日中石膏デッサンを描かされたこと、一通りの石膏写生とカッサーニュの鉛筆画の模写を経てからでないと屋外写生の許可がでなかったこと、彩色の勉強には白い一枚のハンカチが用いられ、光の面、影の部分、反射による色を詳細に観察してみるように指導されたことなどを後に遙邨は回想している(注4)。松原三五郎の指導方法や現存作品からは、遙邨が本格的に絵の道を歩みはじめた初期段階に写生を重視した修業をつんでいたことがわかる。遙邨自身も「その頃の即写的な洋画に飽足らなくなった私は日本画への転向を決意し(略)」と述べているとおり(注5)、この写実重視の松原の指導法は遙邨が日本画に興味を移す一因になったと考えられるが、一方でこの時期の徹底した基礎修業が、続いて述べる《みなとの曇り日》(no.5)はもちろん、日本画転向直後の《南郷の八月》や《湖畔残春》(no.8)という洋画の特色をいかした作品へとつながることは疑う余地がない。


 入門一年後に内弟子として住み込みをはじめた遙邨は、雑用の多さに耐えかね、その後一年足らずで(天彩画塾)を出る。一九三一(大正二)年には福山で初の個展を開催するが、その際に以降の遙邨に大きな影響を与える貴重重な出会いを経験した。日本画家・小野竹喬との出会いである。そして、「相当に自然の観察があり、忠実に描かれていて感心しましたが、これからは、少し主観的な見方へ進まれてはどうでしょうか」という生涯忘れることのない助言を得た。この言葉は、遙邨も「今も忘れることが出来ないし、後年自分の進路への指針ともなったと考えられよう」(注6)と述べているように、後に日本画へ転身する要因ともなったが、遙邨が本格的に日本画の道へ進むのはこの五年後、一九一八(大正七)年のことである。一九一四(大正三)年には、広島県靫鞆の浦を水彩で描いた《みなとの曇り日》が第八回文展に入選し、その後、一九一五(大正四)年から二年間兵役につくが、その間にも第十回文展に《衡戌病院》(一九一六年)を出品、落選している。


 一九二八(大正七)年には、炎天下に草取りをする数人の農夫を描いた《草取り》を第十二回文展の日本画部門に搬入、落選する。遙邨自身はこの作品を洋画と決別した記念すべき作品として位置づけている(注7)。同時に、この落選で技術不足を痛感した遙邨は、本格的に日本画を学ぶべく小野竹喬を頼って京都に出、かつて竹喬や土田麦僊も住んでおり、当時も若い日本画家が出入りしていた東山知恩院の崇泰院に寄宿、竹内栖鳳の画塾〈竹杖会〉に入門した。新しい日本画を創造すべく研鑽を積んでいた京都の青年画家たちに囲まれ、遙邨はめぐまれた再スタートをきったといえるだろう。

 その年の第一回帝展には尾道の向島を描いた《南郷の八月》(一九一九年)を、翌年の第二回帝展には、彦根城台から琵琶湖を臨んだ《湖畔残春》を出品、いずれも入選を果たした。《南郷の八月》入選の際に遙邨は、「今度の作品は実景其儘にて一木一石をも加除せず日本画の伝習方則を踏襲せざりし試作にて大自然の外形に対しては正直に謙遜に而も内的生命の把握に努力を払ひたる積りに御座候是即ち小生今後の進路に有之亦将来日本画の或るものは斯うした描出に開発の道あるにはあらずやと愚考仕り居候」(注8)と、洋画を学んだ経験をいかして新たな日本画を創出しようとした意気込みを語っている。《湖畔残春》も同様に洋画的特徴を示す作品である。このように、日本画に転身して間もなくのころの遙邨は、遠近、量感、光の表現などに洋画的特長をいかした新しい感覚の日本画を制作し、高評価を得ていた。

 日本画家として順調に入選を重ねながらも、日本画の基礎修業不足を感じていた遙邨は、一九二一(大正十)年に京都市立絵画専門学校別科に入学している。一方で、この年から一九二五(大正十四)年頃までの間は、深刻で暗い主題が大半を占め、落選を繰り返す模索期ともいえる遙邨苦悩の時代となる。この間の主要作品としては、《枯れつつ夏は逝く》(一九二一年 帝展落選)、《颱風来》(no.9)(一九二一年 第一回芸術院展)、《冬の入海》(no.10)(一九二二年 大阪美術展第八回展)、《風景》(一九二二年 第四回帝展)、《災禍の跡》(no.13)(一九二四年 第五回帝展落選)、《貧しき漁夫》(no.14)(一九二五年 帝展落選)があげられる。以下ではこれらの作品をとりあげていくが、所在不明で本展に出品がかなわなかった作品については、スケッチなどその作品を考える手がかりとなる資料を紹介しておきたい。また、幸いにして出品がかなった作品についても、可能な限り資料を補足し詳細にみていくこととしたい。


(注1)遙邨の本名は池田*一。一九一九(大正八)年に画号を「遙村」、さらに十年後《京の春宵》で「遙邨」と改号しているが、本稿では、便宜上、「遙邨」と統一する。


(注2)京都国立近代美術館には、一九一二(明治四十五)年から一九一五(大正四)年の間に制作された水彩画百八十八点が所蔵されている。その全作品が『平成十年度 京都国立近代美術館 年報』にモノクロ図版で掲載されている。


(注3)松原三五郎については赤城里香子「渡辺文三郎・松原三五郎から見た五姓田塾と天彩学舎」(『近代画説十三』二〇〇四年 明治美術学会誌)宮本高明「洋行以前の鹿子木孟郎」(『没後五十年鹿子木孟郎展』一九九〇年)に詳しい。


(注4)「天彩画塾と学僕生活のおもいで」(『小さな画集 麗 地田遙邨』第八号 一九八〇年八月)、「写生旧懐」(『塔影』 第九巻第八号 一九三三年十月)。『池田遙邨資料集−』(倉敷市立美術館編 一九九四年)より。以下、遙邨のことばはすべて同書による。


(注5)「歩いてきた道−画家の言葉−」(『年輪』一九五八年四月)


(注6)「私の洋画時代の回想」(『をりとそめ』一九五五年八月)


(注7)「池田遙邨自らを語る」(『三彩』 窮四四二号 一九八四年七月)


(注8)「今後の進路」(『播磨民報』一九三三年十月十六日)


《枯れつつ夏は逝く》


 一九二一(大正十)年には、《枯れつつ夏は逝く》を第三回帝展に出品、落選している。この作品について遙邨自身は、梅原猛氏との対談の中で、「『枯れつつ夏は逝く』という題名の、二枚折れ屏風半双でひまわりの枯れたのを四本描きました」と触れている(注9)。タイトルからも遙邨の言葉からも、この《枯れつつ夏は逝く》は、帝展に入選した先の二作品とは明らかに趣を異にする作品であると思われるが、残念なことにこの作品は現在所在不明で図版などものこされていない。


 しかしながら、一九二一(大正十)年頃のものと考えられる写生帖『志摩 波切』(倉敷市立美術館所蔵)には、立ち枯れた向日葵らしき植物を描いたスケッチが三頁にわたり描かれている。そのうちの一図に、向日葵らしき三本の植物を配したものがある(図1)。遙邨の述べる《枯れつつ夏は逝く》の向日葵の数は四本であり、もちろん本図を《枯れつつ夏は逝く》と同じ画面構成であるとすることはできない。しかし、このスケッチは制作時期、主題の両面で《枯れつつ夏は逝く》と近いと思われ、《括れつつ夏は逝く》を考える際の数少ない手がかりのひとつになりうるといえよう。スケッチをみる限りでは、当時の日本画に求められた草花図としての美しさは皆無であり、遙邨の興味が全く別のところにあったことを示している。


 この《枯れつつ夏は逝く》の頃から、遙邨の作品は主題、表現ともに重く、陰惨なものへと向かっていくが、その要因には、遙邨自身が述べているゴヤやムンクなどへの傾倒(注10)のみならず、同時代の画家たちの影響も指摘できるだろう。当時の京都画壇では、社会の底辺で生きる人々を描く暗い画面の作品が多く発表されており、遙邨もまたそのような時代の流れに敏感に反応していたであろうことは想像に難くない。遙邨も人生の暗部に目を向け、貧しい生活などをテーマに制作をおこなっているが、同じく風景画においても同時代の画家たちの影響をみることができる。続いては、模索を続けていたこの時期の風景画に着目していく。


(注9)「対談 笑いの哲学 池田遙邨vs梅原猛」(『アート・トップ』 第七〇号 一九八二二年八月)


図1 『志摩 波切』より


(注10)「歩いてきた道−画家の言葉−」(『年輪』一九五八年四月)


《颱風来》・《冬の入海》


 この時期の主要な風景画作品である《颱風来》、《冬の入海》、《風景》のうち、《枯れつつ夏は逝く》と同年に制作された《颱風来》、その翌年の《冬の入海》は、ともに三重県の波切に取材した作品である。なぜ、遙邨はこの時期に波切をとりあげたのか。もちろん、遙邨は全国各地を写生し、多くの風景画をのこしており、波切のみを主題としたわけではない。しかし、郷里である岡山や京都からも距離があり、交通の便もよくない波切を《颱風来》、《冬の入海》と二度にわたってとりあげているという事実に着目するならば、波切が遙邨にとって特別な意味をもっていたと考えることもできるだろう。


 波切が日本画の主題となるのは、明治末以降。京都で新しい日本画創造を目指した若い画家たちが、厳しくも豊かな自然とその地における人々の素朴な生活に新たな主題としての魅力を発見し、新しい画題として意欲的に取り組んだのが波切であり、古くから伝統的日本絵画の画題となってきた洗練された名所とは一線を画している。一九〇八(明治四十一)年の千種掃雲による《海女》にはじまり、土田麦僊《海女》(一九一三年)、小野竹喬《波切村》(一九一八年)、そして入江波光《臨海の村》(一九一九年)など、波切をモチーフにした作品は多く知られているが、興味深いことにそれらの作品の多くは、国画創作協会の画家たちが新しい時代の新しい表現を求めるために手がけた記念碑的作品である。先述の作品以外にも、一九二〇(大正九)年に杉田勇次郎が、一九二六、二七(大正十五、昭和二)年に多田敬一が波切を主題に野心的な作品を描き、国画創作協会の画家たちにとって波切は、「聖地とはいわぬまでも、国画創作協会創立の画家たちにとって、特別の意味をもつ場所」(注11)となった。遙邨は国画創作協会には参加していないが、新しい日本画を追求していた竹喬をはじめとする画家たちに深い共感を抱いていたことは疑えない。このような状況の中、竹喬、麦僊らが新しい日本画創出の主題として挑戦した波切という土地に、遙邨もまた同じ思いをもって挑んだとは考えられないだろうか。そして、颱風あるいは冬という厳しい状況にある波切を選んだところに、遙邨独自の視線をみることができよう。


 先述のとおり、遙邨は、『志摩 波切』というタイトルの写生帖をのこしている(図2)。残念ながら、遙邨がこのスケッチをおこなった時期や写生旅行の行程など詳細は明らかではないが、三十五図にもおよぶこの写生帖は、本画とともに波切に向けられた遙邨の視線を我々に教えてくれる資料として員重である。スケッチの内容は、風景が大半を占め、植物なども含まれる。もちろん《颱風来》、《冬の入海》と同じ場所を描いたスケッチも確認することができる(図3、4)


(注11)酒井哲朗「波切に魅せられた京都の日本画家たち」(『大王町を描いた画家たち』一九九九年三月 絵描きの町大王実行委員会)


図2 『志摩 波切』表紙


図3 『志摩 波切』より


図4 『志摩 波切』より


《風景》


 続いては、遙邨が落選を繰り返した模索期にあって、唯一帝展入選を果たした《風景》をみていきたい。この作品は現在所在不明で、『帝国美術院美術展覧会図録 第四回 日本画之部』でモノクロ図版を確認できるにとどまっているため、これまで触れられる機会は少なく、取材場所についても明らかであるとは言い難い状況にある(注12)。しかし、二〇〇四年度、新たに倉敷市立美術館に寄贈された写生帖に《風景》と同一場所を描いたと思われる興味深い一図が含まれている(no.2-15)。写生帖にタイトルはなく、その内容は、三十八図のスケッチに関東大震災に取材したスケッチに関連すると思われる文字の書き込み二頁が含まれる。スケッチ頁には大乗寺や琵琶湖風景、人物や魚などが描かれており、『志摩 波切』のように一定の期間に一か所でおこなった写生帖ではないようである。《風景》と同一場所であると思われるスケッチには罫線が引かれ、余白部分には「三・〇五尺五・四七尺」と寸法らしき書き込みもあり、このスケッチをもとに別の作品が描かれた可能性を示している。また、部分的に彩色が施されているが、先に見た《颱風来》や《冬の入海》のように暗い色調ではなく、この時期特有の深刻さはみられない。取材場所や他頁とのかかわりなど、この写生帖にかんして今後検討すべき課題は多いが、この時期唯一の帝展入選作である《風景》を考えていく際の貴重な資料となるだろう。


(注12)《風景》の取材場所については、「二見の浦近くの風景」(『岡山山陽新聞』 一九二二年十月十三日)、「伊勢風景」(『大阪朝日新聞』 一九二三年四月二日)、「志摩波切風景」(『神戸新聞』 一九二三年四月二十日)との記載がある。


《災禍の跡》


 一九二四(大正十三)年の第五回帝展には、関東大震災をテーマにした《災禍の跡》を制作、落選している。震災の直後、遙邨は鹿子木孟郎に誘われ、被災地に赴きその悲惨な状況を一か月にわたり詳細にスケッチした。その数は四百点にものぼるといわれ、遙邨自身が「これ程一生懸命であったことは後にも先にもなかった」(注13)と述べるほどに情熱を傾けた《災禍の跡》は、いわばそれらのスケッチの集大成ともいえるものである。


 ところで、《災禍の跡》を制作した一九二四(大正十三)年は、遙邨が京都市立絵画専門学校別科を卒業した年にあたる。遙邨在学中の活動についてはこれまでほとんど触れられていないが、最も力を注いだという《災禍の跡》制作と同時期に、遙邨は絵画専門学校でどのような活動をしていたのだろうか。遙邨が一九二一(大正十)年から通っていた京都市立絵画専門学校は、一九〇九(明治四十二)年に高度な専門教育を目的として設立された学校である。遙邨が入学したのは絵画専門学校別科で、入学時にすでに文展、帝展への入選経験があり、二十六歳と年齢も高かった遙邨が特異な存在であったことは容易に想像できる。これまで在学中の活動が重視されてこなかった理由も、すでに経験豊富な遙邨が絵画専門学校で学ぶべきことは多くなかったと思われていたことにあるように思われる。在学中の活動については、遙邨も具体的には述べていないが、幸いにも、絵画専門学校校友会誌『美』の一九一一四(大正十三)年九月号に、遙邨の挿画がのこされている(注14)。《暴虐か試練か》と題されたこの挿画は、「京都市立絵画専門学校第十四回卒業生製作 暴虐か試練か 別科 池田遙村筆」として目次に掲載されており、遙邨の同校別科卒業時の卒業制作であることがわかる。『美』に掲載された図版は単色コロタイプのため細部は確認し難いが、バラック小屋とその背後から伸びる鴉と思しき一羽の鳥が止まる焼木以外に何もない荒寥とした地に、家族らしき四人の人物と痩せ細った犬が描かれたもので、一見して《災禍の跡》と同一モチーフであることが明らかである(図5)。ただし、画面形式、人物や犬の位置関係、さらに一番年少と思われる男児の頭部に包帯が巻かれている点は《災禍の跡》とは異なっている。男児については、前田興氏により、「実は、遙邨は、下絵の段階まで、この子供の目を包帯で巻いていた。生々しい震災の爪痕といった位置づけが考えられる。ところが完成作品では、両目を見開いた不気味な表現となっている。人為を超越した巨大な力が一瞬にしてすべてのものを飲み込み、その前で人間の命はあまりにもはかないという現象を目の当たりにして怯えているかのようで象徴的である」と、《災禍の跡》の制作過程において、包帯を巻いた姿から両目を見開いた表情へ変更が加えられたと指摘されている(注15)。画稿類、本画と比較していくと、《暴虐か試練か》は、帝展で落選の憂き目をみることとなる《災禍の跡》の前段階に描かれたものであると位置づけられる。一般的に、卒業制作は在学中の学習成果の集大成であると考えられ、《暴虐か試練か》は当時の遙邨が最も関心のある画題を選び取り組んだものであろう。さらにこの作品は、遙邨が並々ならぬ情熱を傾けて制作しと語る遙邨初期の代表作《災禍の跡》の制作過程を示す資料としても貴重である(注16)



 《災禍の跡》の翌年には、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの《貧しき漁夫》に影響をうけて制作した同名の二曲一双屏風を帝展に出品、落選している。その翌年に、京都に戻った遙邨は、《林丘寺》(no.15)、《南禅寺》など伝統的な日本画学習の成果を感じさせる作品を次々に発表し、落選を繰り返した模索期は終わりを告げる。



 遙邨の長い画歴からみれば、本稿で振り返った初期の画業は時間的には極めて短い。しかし、この時期は遙邨が最も深く芸術というものについて考え、真剣に取り組んだ時期といっても過言ではなく、後々の活動にも深く影響を及ぼしていると思われる。先述の梅原猛氏との対談中、遙邨は、「あの絵『災禍の跡』は大事にとってあります。この絵は帝展で落選しました。回顧展をやったら真先に出したい作品でした。今思えばあの頃もっと落選していた方が良かったと思ってます。私が一所懸命描いた絵は落選する」と述べ、《枯れつつ夏は逝く》、《貧しき漁夫》についても忘れがたい絵であると続けている。遙邨初期の画業、とくに今回資料を紹介しつつ取り上げた模索期ともいえる時期の作品は、独自の画境にいたった晩年の遙邨とっても大きな位置を占めていたといえるだろう。



(みちだみき 三重県立美術館学芸員)

(注13)堀昭三編『池田遙邨氏の履歴書』(一九八二年十一月 京都書院)


(注14)『美』については、松尾芳樹「京都市立工芸学校及び同絵画専門学校校友会と校友会誌について」(『研究紀要三五』一九九〇年 京都市立芸術大学美術部)に詳しい。


図5 《暴虐か試練か》(『美』 1924(大正13)年9月号より)


(注15)前田興「池田遙邨と関東大震災」(『池田遙邨 関東大震災スケッチ展−新発見の作品を中心に』一九九八年 朝日新聞社)


(注16)『芸術家の悩み 兄遙邨よりの書斡」(『中国民報』 一九二四年十月二十九日〜十一月五日)中で触れられている「暴虐か試練か」と同一作品である可能性が高いと思われる。

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