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失楽園と復楽園のあいまに

石崎勝基

神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、
回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた
『創世記』3-24

 《小鳥に説教される聖フランチェスコ》(2004年)で印象的なのは、画面右奧からふくれあがるかのような、大樹の枝ぶりのひろがりだろう。このひろがりをもたらしたのが幾本もの曲線のうねりと響きあいであることは、すぐ見てとれる。明るめのベージュに統一された色調は、線の走行をのみ引きたたせる。タイトルにある鳥たちと聖者の上下が何も描かれぬまま空けられていることで、枝ぶり全体の拡張感はさらに強められている。

 これらの線はしかし、決して勢いにまかせて引かれたものではない。左側での細かな屈曲や、大ぶりな線でもその端でくるりと回りこむ様子を見れば、それらはむしろ、様式化されていると形容することさえできそうだ。その軌跡が伝えようとするダイナミズムとは裏腹に、肥痩もあまり変化しない線は、走行の速度を減じようとするかのごとくである。

 線のゆっくりした動きは、そのことで、当初線の引きたて役と映った賦彩と緊密に交渉しあうことになる。薄塗りの広い面であるからこそ、線の動きに反応し、また働きかけうるのだ。それはまた、随所で施された陰影や左側の明るい青によって、線遠近法的な箱型空間とは異なる、しかしいくつかの層をはらんだ奥行きを生じさせている。この奥行きはさらに、右側の暗部で、下層の下描きの線が透けている点によっても錯綜を増すことだろう。線遠近法の場合のような計測できる連続した延長ではなく、不連続な層の重なりあう奥行きが、面としてのひろがりと干渉しあっているのだ。様式化された線の動き、端正な賦彩、層状の重なりなどが相まって、枝ぶり全体の潜在的な動勢が現われることとなった。

 このような吉本作次の近年の作品は、<カーボン・スタイル>と彼が呼ぶ方法に基づくものである。これは、カーボン紙で筆跡を転写するように、シルクスクリーン用のシートなどを用いて原寸大の下絵を画布に転写するという技法で、2000年前後から採用されている。もともとは、画布に直接施された木炭による下描きでは、線にエッジの鋭さが得られないことに対する不満が出発点だったという。版画のように転写という段階を介在させることで、線は、身体の動きの痕跡という起源ないし参照項から離れて、線それ自身として現前しえたと解することができるだろうか。

 くっきりした線によってイメージや画面を区切る様式を吉本がしめすようになったのは、1995年前後のことである。それ以前、1980年代前半以来の吉本は、新表現主義の潮流に棹さす画家と見なされており、実際その画面は、暗褐色を基調に、荒々しい筆致が躍動して有機的なイメージを描きだすというものだった。もっとも、少なくとも現在からふりかえれば、その前後を一貫して共通する特徴をいくつか認めることはむずかしくない。漫画風とも見える記号化された人物のイメージは80年代の画面にもしばしば登場していたし、幾何学的な形態や分割も時として用いられた。明るい暗いに変動はあれ、褐色が基調となる点は以前も現在も変わりがない。そもそも即興的な画面づくりは95年以降も捨て去られたわけではなく、輪郭のはっきりした画面と併行して制作され続けている。この点について吉本は、小説家が物語の内容によっていくつもの文体を持ち換えるように、画家が複数の様式を操ることは決して不自然ではないと述べる。

 漫画風の人物については、横山隆一、田河水泡、手塚治虫などの漫画に親しんできたことから自然に派生したものだと語りつつ、その機能として、まず、絵を見る者の視線をコントロールする役割、ついで描かれた情景の大きさの尺度を伝えるという役割を、吉本は挙げる。この点は、人物だけでなく絵というものそのものに吉本が振りあてる機能を考えるための、手がかりともなってくれそうだ。たとえば《道ゆき》(2004年)は、一見幾何学的な抽象とも映るが、よく見れば、小さくおなじみの人物も顔を出しており、空から田畑を見下ろした場面であることがわかる。中央と下部の曲線の集積は雲を表わしているのだろう。しかし同時に、この作品に対する意識は抽象絵画としてのそれであり、中央の畦道はバーネット・ニューマンのジップを参照したのだと吉本はいう。時にいわゆる現代美術およびその批評が陥りがちな自閉性に対する批判を語ることもある吉本は、とすれば、漫画風のキャラクターやユーモラスな構図の処理をふくむ具象絵画としての場面設定によって、見る者が画面に入りこむ糸口を呈示しつつ、同時に、近代の絵画が踏まえざるをえなかった構造に誘いこもうとしているのだと推測することができるかもしれない。

 以上はしかし、それだけなら単なる方便でしかあるまい。その上で吉本の作品がはたそうとしているのは、デッサンと賦彩によって織りなされる画面が、それだけで充実したものとして成立することという、ある意味近代的な要件ではないだろうか。それはしかし、いわゆるモダニズム的還元に準じることで終わるのではなく、平面性なる約定を踏まえた上で、ある種の豊饒さをもって実現することが目指されているようだ。その際具象という選択肢には、形象など構成要素の多数性を擁しうるという利点がある。このため見る者は、絵のさまざまな点から点へと視線をさまよわせることだろう。絵画史的記憶もまた無縁ではない。《道ゆき》などでの雲には日本の伝統的な絵画における雲や波濤の描写が、そこでの俯瞰構図には、東アジアの伝統であれ初期ネーデルラント絵画であれ、アルベルティ的線遠近法によらない空間構成が想起されている。また吉本は、郭熙の《早春図》やキュビスムにおける図と地の動的な反転に関心をよせているというが、《小鳥に説教される聖フランチェスコ》などでの面と層との相互干渉に、そうした問題に対する応答の一つを読みとることもできるかもしれない。

 近・新作における線にもどろう。転写という過程を経ることでいったん自発性を削がれた線は、様式化を受けいれる。時に過剰ささえたたえつつ、様式化された線は自らの内側にくりこむかのような軌跡を描き(もっともこの点は、表現主義的な画面における筆致にも見られた特徴だ)、画布の表面から剥がれようとする可能性をはらむ。この可能性は、薄い平塗りや下層の透過と相まって、画面全体を、可能態としての動勢によってみたさずにいない。様式化されているからこそ線はざわめきを引き起こし、もって見る者に、視線を彷徨させつつ、絵を見ることの充実感を伝えるのだ。そして表現主義的な画面が達成しようとしているのも、実は同じことなのだろう。

(三重県立美術館学芸員)

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