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世界のなかにひとり立つもの−彫刻家・柳原義達

酒井哲朗
三重県立美術館長

1 はじめに

 柳原さんには『孤独なる彫刻』(1)と名づけた美術論集がある。柳原さんは、この本で、オーギュスト・ロダン、アントワーヌ・ブールデル、ヘンリー・ムーア、アルベルト・ジャコメッテイ、ジェルメーヌ・リシエ、高村光太郎ら柳原さんが敬愛する彫刻家たち、あるいはマリノ・マリーニ、エミリオ・グレコ、ジャコモ・マンズーら同時代のイタリアの彫刻家たちについて論じ、自らの彫刻観などを語っている。


 そのなかに「私と彫刻」という文章があり、柳原さんは自らの個人史を「反省の歴史」と規定している。そこから浮かび上がる柳原義達像は、現実のこの彫刻家の容貌と一致する、誠実なしかし毅然としたモラリッシュな精神の風姿であり、鋭敏で柔軟なこの作家の感受性のありようである。常に彫刻家として、彫刻とは何か、人間とは何か、その本源的なあり方を自らの内部に問い続けるこの作家を、市川政憲は「大いなる凹(コンケーヴ)」(2)と評した。この「反省」という精神の働き、つまり柳原さんが自らの内部に向けた視線の射程は、深くて広い。


 柳原さんは、この彫刻論集のなかで、ロダン、ブールデル、高村ら先人の言葉をしばしば引用する。これら先人の言説は、真実を語る言葉であることに疑いないが、あらゆる言葉がそうであるように、それらの言葉は語られたのち世界に投げ出され散乱する。柳原さんは、自らの思索と経験によって、それらの言葉を再び立ち上がらせるのである。そこにひとつの血脈あるいは系譜というべきものが形成される。それは「生命の芸術」と呼ばれるものであろう。かつて土方定一は、柳原さんを「アイロニーとレジスタンスの精神」によって「ひとり歩く人」(3)と形容したが、柳原さんの彫刻は、「生命の芸術」の系譜を独自に歩んだその生の証しである。


註:


(1)柳原義達,『柳原義達美術論集 孤独なる彫刻』,筑摩書房,1985年。


(2)市川政憲「大いなる凹」,『柳原義達展図録』.東京国立近代美術館編,1993年。


(3) 土方定一,「柳原さんの最近の仕事、雑感 この『ひとり歩む人』のこと」,『柳原義達展−道標・鳩の連作を中心とした近作彫刻とデッサン』,現代彫刻センター,1974年。


2 前史

 柳原さんは、その人生で二度、重大かつ果敢な決断をしている。その第一は、日本画を捨て彫刻の道をめざしたこと、二度目は、1953年(昭和28)から4年間のパリ留学である。柳原さんは、中学卒業後日本画家を志し京都で学んでいたが、ある時平凡社『世界美術全集』所収のブールデルの《アルヴェアール将軍騎馬像》の写真を見て感動し、彫刻家になる決心をしたという(4)。柳原さんは、ブールデルの騎馬像のモニュメンタルな構築性に対する感動の経験を、彫刻家としての出発の原点に置くのである。

 柳原さんは、この京都時代に貴重な経験をする。それは日本画家の福田平八郎が、柳原さんの絵を見た時の評言である。「君のこのみかん色は黄色という色だ。みかんは、この火鉢のなかに燃えている、あの炎の美しさだ」(5)といったという。柳原さんは、これによって美術に対する眼を開かれた。そこから彫刻の道を選びとったのである。


 東京美術学校彫刻科に進学した柳原さんは、朝倉文夫、建畠大夢、北村西望らの指導を受けるが、柳原さんはこれらのアカデミシャンたちよりも、在野の高村光太郎、清水多嘉示らに私淑する。高村の翻訳した『ロダンの言葉』は、当時の柳原さんたちのバイブルであった。のちに柳原さんは次のように回想する。

「『ロダンの言葉』は確かにロダンのものである。しかしロダンが
黙って、高村光太郎にさし出した手と手のつながりの大きさを、
私はこの編訳に感じる。鎌倉近代美術館にある高村光太郎作
〈手〉に私は感動すると同時に、ロダン作のあの偉大な〈手〉を思
い出す」(6)

 では、柳原さんが高村やロダンから学んだのは何だったのか。


「よく自然をご覧なさい。運動が立ち入ってきてこれらの量を移
動させ、新しい釣合いを作る。人体は歩く殿堂のようなものであ
る。殿堂のように中心点があって、その周囲に量が位置を占め、
また展開している」(7)

 ロダンがこのようにいう、生命を内在させた人体の構造的把握であり、「動勢(ムーヴマン)」と「肉づけ(モドレ)」、面の構成と光の表現であった。柳原さんは「私と彫刻」のなかで、「高村光太郎さんの、桃の実は身うごきしそうで美しい、という言葉にひかれたのはこの時代である。触手だとか触感だとかいう言葉を、当時、私はよく使った」(8)といっており、高村の生命感情の直裁的表現や彫刻の触覚的な美の主張に深く共鳴したことを伝えている。また、同じエッセイのなかで、パリでブールデルに学んだ清水から、「組立ての美しさ」を教わったとのべている。


 だがのちに柳原さんは、ロダン、ブールデル、デスピオ、マイヨールらに学び、在野の自由な精神に生きようとしたが、この頃は結局、エコール・ブールデル、エコール・マイヨールという第二のアカデミズムに陥り、模倣にすぎなかったと反省している。


 この間柳原さんは、美術学校在学中の1932年に《女の首》(fig.1)が帝展に入選し、翌年第8回国画会展で《女の首》が国画会奨学賞を受賞した。この年から毎年国画会に出品し、1936年美校卒業後は国画会同人となり、1939年に新制作派協会彫刻部結成とともに同人になっている。1946年以前の柳原さんの作品は火災で焼失し、いまは《山本恪二さんの首》(No.1)が遺るのみである。山本恪二は、美校彫刻科で柳原さんの3年下の後輩。左翼運動にかかわって投獄されたが、柳原さんが身元引き受け人となって、ともに制作に励んだ年下の友人である。お互いにモデルになって制作したというが、柳原さんの作品だけが現存する。


 この作品は、まだ生硬ながら堅実なモデリングによって対象の特徴が的確に捉えられ、作者とモデル双方の清新な情感が伝わってくる。山本は、当時の柳原さんについて、その作風が「柳原のグロテスク」といわれたこと、「成程、そういえば其の頃の作品は、常識的な比例を無視した異様さが感じられはするが、にも拘わらず其処から迫ってくる重厚な彫刻的レアリティ(存在感)は否み得ないものだった」(9)と回想している。


 このような言説から、この頃の柳原さんは、自然のなかの一切のものが「性格」を表し、「性格」の力だけが「芸術」の美をなすために、「自然」のなかで醜いものほど、芸術の中で美しいということがおこるという、常識的な美醜の基準を超えたロダンの醜の美学に傾倒して、「彫刻的レアリティ」を追求しようとしていたことを窺い知るのである。




(4)柳原前掲書,p、188.


(5)柳原前掲書,p.187.


(6)柳原前掲書,p.140.


(7)柳原前掲書.p.23.


(8)柳原前掲書,pp.189−190.


(9)山本恪二,「首のモデルになった頃」,『三彩』,no.428,1983年5月号,pp.51-52.


3「犬の唄」

 柳原さんたちの世代は、それぞれに戦争体験をもっている。戦地に行った者にも、行かなかった者にも、戦争は何らかの傷痕を残した。柳原さんは、その体験を「一九四五年のこと」として、美術論集のあとがきに書いている。柳原さんは、京都の裏山の和知鉱山で召集令状を受け取って出発しようとしたところで終戦となり、軍隊でも警察でもとりあってもらえなかっという当惑と虚脱の奇妙な経験。東京工大建築科の学生だった弟が殴られて目を腫らし、「兄さん兵隊はいやだ」と泣いて、ニューギニアで戦死したこと。ある日、彫刻をかかえて展覧会に向かう途中、米兵にいきなり殴られた屈辱の記憶。こういったいわば世界の不条理に対して、柳原さんは《犬の唄》を対置した。


 「犬の唄」は、普仏戦争敗戦後のフランス人が、ドイツ人に対して、ちんちんをして媚びながら、内心は咬みつきたい抵抗の心情を歌ったシャンソンであるという。この「犬の唄」を歌う光景を、エドガー・ドガが《カフェ・コンセールにて。犬の唄》として、美しいパステル画に描いている。柳原さんは、その自虐と抵抗の心情を、ちんちんをする若い女性のポーズに託して、《犬の唄》(1950,No.6)を制作した。このようなメッセージが、単なる風俗的主題としてではなく、生き生きしたプラン(面)とムーヴマン(動き)をもった彫刻として提示されたことは、日本の彫刻界にとって画期的なできごとであった。その批評精神と彫刻の造型性によって、柳原さんは、「アイロニーとレジスタンス」の彫刻家として注目されたのである。


 柳原さんは、終戦の翌年の1946年に、作品の保管先が火災に遭い、佐藤忠良とともに、それまでの作品をすべて失ってしまった。そのため、柳原さんの彫刻生涯を作品によってたどるには、事実上、36歳からはじめなければならない。白紙からの再出発は、《アンヌの首》(1947,No.2)、《高瀬さんの首》(1948,No.4)から《犬の唄》に続いていくのである。《高瀬さんの首》は、佐藤忠良の《群馬の人》とともに、かつて柳原さんが《アルヴェアール将軍騎馬像》を発見した平凡社『世界美術全集』の戦後版の第28巷「日本現代」に収録され、今泉篤男は解説のなかで、この作品の新鮮な情感の表現を評価している。パリ滞在中、彫刻家の高田博厚は、この作品をよくないといったらしいが、柳原さんはそれに対して、どこか絵画的な見方がのこり、彫刻美に欠けるのかもしれない、と謙虚に反省している(10)


 1951年2月に東京でサロン・ド・メ展が開かれた。戦後はじめてフランス現代美術を紹介する展覧会であり、彫刻は、ロボ、ジリ、デコンバン、ジリオリ、ハイドウ、デュフレーヌ、ミュレル、スターリィ、マルタンの作品9点が出品された。柳原さんは、これらの名前も知らない同世代のフランスの作家たちの現代感覚あふれる清新な作品に接して、強い衝撃を受けたようだ。戦時中の制作の中断や芸術的鎖国の状況の中で、ロダン、ブールデル、マイヨール、デスピオらに追随している間に、柳原さんの彫刻家としての感性が、化石化しつつある危険に気づいたのである。柳原さんは、もう一度フランスで勉強しなおす決心をする。海外旅行が困難であった1952年(昭和27)、私費留学生として渡仏した。時に42歳、すでに不惑に達していた。


(10)柳原前掲書,p.190.


4 彫刻開眼

 パリのアトリエは抽象彫刻の建畠覚道と同じ場所だった。柳原さんはアカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールに通い、エマニュエル・オリコストに学んだ。ジャコメッティやマダム・リシエ、セザールらを知り、へンリー・ムーアやマリーニ、グレコ、マンズー、ファッツィーニらイタリアの彫刻家たちの作品に接した。柳原さんは彼らの創造力に打ちのめされ、自分は果たして彫刻家といえるのか、疑わしくなったという。まだ焼け跡にバラック建築がのこる東京から出てきた柳原さんは、歴史が息づくパリの石造りの文明の堅固な構造にカルチュア・ショックを受け、「もうひとつの芸術」を主張したミシェル・タピエらによるアンフォルメル旋風がはじまったこの都市の芸術のエネルギーに圧倒されながら、柳原さんは彫刻家として存在の危機に直面していたといえよう。


 柳原さんは、ブールデルに学んだジャコメッティやリシエが、師とまったく異なる造型の世界を切り開いている点に芸術の真の創造性をみた。不条理の世界に投げ出された人間の根源的な存在の不安を形象するジャコメッティ、プリミティヴな生命感情の表現を極限まで追求するリシエ。柳原さんは、ロダンやブールデルの芸術精神を継承しつつ、それを決して繰り返さないこれらの彫刻家の姿に、彼らがロダンやブールデルと共有する「孤独なる創造」(11)という、芸術家の真のあり方を見いだしたのだった。


 ロダンやブールデル、デスピオからなかなか踏み出せなかった柳原さんは、孤独な煩悶と思索のなかから、ようやく次のような彫刻的確信にいたる。すなわち、「とにかく彫刻は、立つことの美しさをその根源にもたなければならない、「命」として空間に立つことである」(12)


 柳原さんは「立つこと」の意味を、ロダン論として語っている。人間は立つことによって生命の本質を示す。重力に抗して立つこと、そこに生命の流れ(ムーヴマン)が生じ、量(ヴォリューム)が相互に関係しあって均衡をつくり、面(プラン)が構成される。重心を移せば量も移動し、新たな均衡が生まれる。人体は螺旋構造をなして、立つという不思議な上昇運動を行う。さらに柳原さんは、ロダンやブールデルは「立つことの美しさ」を表現したが、ジャコメッティは、「立つことの不思議さ」「立つことの不安と恐怖」を表現したのだという(13)


 自作において、柳原さんは、「表面的な型から奥行きの方向へ、奥行きのなかにあるブージェ感(身動き)による生命の内在へ、美意識の本質的な転換」(14)を図ろうとした。そうして生まれたのが、1956年の《赤毛の女》(No.9)《黒人の女》(No.10)、翌年の《バルザックのモデルたりし男》(No.11)などである。顔を伏せ腕を胸の前で組み、右膝を前に出して少しひねったポーズの《赤毛の女》は、内向的な生命感情を、《黒人の女》は、右足を前に出して顔を正面に向け、左腕を思いきり後ろに回して右腕を左脇腹の上において左に大きくひねったポーズで、ヴァイタルな生命感情を表現している。いずれも軸心の螺旋構造を基本に、単純化された、しかし微妙な表情をもつ力強いフォルムによって構成されている。《バルザックのモデルたりし男》を含めて、これらの作品には、柳原さんのいう「自然に内在する量の移動、量と量のひしめき」(15)が表現されている。


(11)柳原前掲書,p.27.


(12)柳原前掲書,p.11.


(13)柳原前掲書,p.50.


(14)柳原前掲書,p.197.


(15)柳原前掲書,p.199.


 黒人のモデルのアンは、すでに90歳に達していたらしいバルザックのモデルだった老人の世話をし、その最期をみとってアフリカヘ帰った、美しい身体をした気立てのいい娘だったという。柳原さんは、このようなアフリカの野性の肉体や衰えて肉塊となった老人など、それぞれに人間として美しい魂をもち、しかし異質なオブジェというべき肉体と対決することを通じて、固有の方法を獲得した。


 従来の作風と一変したこの単純なフォルムには、造型の本質を求めて単純化していったジャコメッティやリシエ、オリコスト、アトリエで隣り合わせたバルターザル・ロボらの作品、洋画家の里見勝蔵の案内で見たヴラマンクの黒人彫刻のコレクション、さらにまた、ムーアのプリミティヴな有機的フォルムと虚と実の空間などさまざまな刺激があったようである。


 柳原さんの「素材感情」という用語にも注目しなければならない。彫刻とは、木や石や土、金属などの物質を素材として、この立体に生命を与えることである。彫刻において、作者の「人間感情」は、物質を媒介とした「素材感情」を通じて表現される。物質が「命」を与えられて立ち上がるとき、生命を内在させたフォルムのもつ「ブージェ感」は、「素材感情」と別物ではない。


 1957年に帰国した柳原さんは、《立女》(No.13)《ショックせる女》(No.14)《裸婦》(No.12)(以上1957)、《座る女》(No.17)《靴下をはく女》(No.19)(以上1958)、《座る女》(No.22)《人》(No.23)(以上1959)、《坐る》(No.24)《裸婦立像》(No.25)(以上1960)、《犬の唄》(No.26)(1961)など、次々と制作し、鮮烈な印象を与えた。立像、座像、さまざまなポーズとプロポーションによって表現される人体は、大胆なデフォルメと荒々しいモデリングによって、強い存在感を示した。このまったく新しい具象彫刻は、毎日新聞社が主催する日本国際美術展などでグレコやファッツィーニの作品が紹介され、日本の彫刻界が、海外の新しいスタイルを手本にマンネリ化した写実表現を脱する方法を模索していたときだけに、その先導的役割は大きかった。1958年、前年の第4回日本国際美術展に出品した滞欧作の《黒人の女》と1957年の作品によって、この年創設された高村光太郎賞に選ばれ、5月の第3回現代日本美術展で《座る女》(No.17)が優秀賞を受賞した。


 たとえば、柳原さんの代表作のひとつである第4回現代日本美術展の《坐る》(1960)は、腰掛けて腕組みをする静かなポーズのうちに、重力と上昇力、シンメトリーとアンシンメトリーが拮抗する内部に深い生命感情を表現している。1961年の《犬の唄》は、抵抗精神を表象するモチーフであることはさきにのべたが、右腕を後ろに回し、左腕を拳ににぎって差し出し、体をやや右にひねって正面を向き、昂然と顔をあげるこの裸婦像のたくましい胴体の力強いムーヴマンには、1950年の作品のような卑屈さはみられない。ここに表現されているのは、もはや予定調和的な人間像ではない。ジャコメッティが「世界−内−存在」としての人間がこの世界に立つ、その実存的状況を表象したように、柳原さんは、この作品の確固たるフォルムによって、この不安な世界に生きる人間が「立つことの美しさ」を表現したのである。



5 道標(鴉と鳩)

 柳原さんと鴉の出会いは、1965年(昭和40)に神戸市の動物愛護協会から委嘱されたモニュメントのモチーフとして、馬の背に乗る鴉を制作したのがきっかけだったという。この作品は、《愛》と名づけられて三ノ宮駅前に設置されたが、鴉の写生のために動物園に通い、大自然のなかの鴉を求めて、北海道の網走や青森県の下北半島でスケッチしているうちに、この鳥にすっかり魅せられ、やがて自宅で鴉を飼うようになったという。柳原さんは、精悍で美しく、利口なこの鳥と運命的な絆で結ばれることになる。1966年の《道標(風と鴉)》(No.30)以来、柳原さんは、鴉を自らの制作の道しるべとし、1970年代から鳩が加わる。


 ブランクーシの《空間の鳥》のように、動物が重要なモチーフになる例はないわけではないが、本来人間をテーマとする具象彫刻において、鴉や鳩が「道標」と呼ばれ、自画像にまで擬せられるのは何故なのか。柳原さんは、その理由を、生の不安や制作の孤独のなかで、鴉や鳩の作品が、路傍の石地蔵や道祖神のように、「みちしるべ」であり、祈りでもあるという。生ある限り、人は歩み続けなければならない。何処へ?この問いそのものが「道標」の意味であろう。


 鴉や鳩が、それまでの人間のモチーフと異なるのは、それらが柳原さんの生活のなかにあるという点である。柳原さんは、モデルのデッサンを日課として続けてきたが、鳥たちは、柳原さんと常住座臥の日常生活をともにする。おびただしい鴉や鳩のデッサンが、その間の事情を証してくれる。そこには人間のような感情移入を許さない、あるがままの自然の生命が、さまざまな姿態で追求されている。紙にサインペンで描かれたこれらのデッサンは、無心の自然の生命の律動が、繊細な線描の集積によって、白い長方形の空間のなかに、生成し顕現しているというべきものである。それは鴉や鳩という自然と柳原さんの対話であり、柳原さんの生の営みそのものである。


 だが、デッサンと彫刻は異なる。デッサンは人間感情が直截に表現されるが、彫刻には素材感情があり、土やブロンズに生命が与えられなくてはならない。したがって、いうまでもないことだが、その時々の作品は、現実の鴉や鳩とは異なった、それぞれに自立した彫刻の鴉や鳩である。柳原さんは、鴉の丸い頭や柔らかい羽毛、鋭い嘴と脚などを緊張した一瞬のうちに的確に捉える。人間の形象が「立つことの美しさ」にあるとするなら、鳥たちの造型の本質は「飛ぶことの美しさ」にある。柳原さんの飛ばない鳥たちは、飛翔を夢見て、一瞬の姿態のうちに飛翔のイメージを凝縮している。鴉は世界に抗して、鳩は穏和に、しかし毅然として存在する。それは柳原さんの精神の風姿にほかならない。


 「孤独なる彫刻」というエッセイのなかで、柳原さんは、建築家たちと建築と彫刻について語り合う座談会に出席したときのことを書いている。柳原さんは、自分の仕事をアトリエのなかに閉じこめたいといった。建築の専横に対するプロテストとしていわれた言葉であるが、柳原さんによれば、建築と彫刻の空間は違う。当然彫刻は建築のアクセサリーではない。「彫刻とは、根本的に触覚空間の芸術であり、彫刻空間とは触覚空間である」(16)と主張する。建築は機械文明を背景にした機能的な一種の総合芸術であるのに対し、「彫刻家はただ一人孤独のまま、最もプリミティブな時代と同じように、同じ方法で歩むものなのである。この孤独が自由な精神とつながり、今日の彫刻芸術を生みださせている」(17)という。だから柳原さんは、建築家に対して、彫刻を鑑賞する場を与えてもらえればよいというのだ。柳原さんにとって、「世界のなかにひとり立つもの」が彫刻の本義であり、それが彫刻家の宿命なのである。


 最後になったが、こうして柳原さんについて考えるとき、言い忘れてはならないことがある。それは柳原さんの詩的精神である。あの「高村光太郎」の「ロダンが黙って、高村光太郎にさし出した手と手の繋がり」という風なイメージ、「犬の唄」「道標」などのネーミングにその片鱗がうかがわれる。しかし、柳原さんの詩的精神は、こういった言語上の文学性ではなく、その彫刻作品にポエジーとして一貫して流れるもののことである。

(16)柳原前掲書.p.178.


(17)柳原前掲書,p.177.

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