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主要作品解説

1 カラガンダの印象 1950年(昭和25)

 『カラガンダの印象』は旧ソヴィエト連邦のカラガンダでの抑留生活をおえて帰国した直後の第22回青龍展に出品して、横山が日本のアート・シーンに復帰するきっかけとなった記念的な作品。しかし十年後に三鷹へ引越したとき他の作品とともにみずからの手で焼却した。さいわい同名のこの油彩作品がのこっていて、その面影をしのぶことができる。写真図版でみるかぎり構図のうえでの異同はほとんどかんじられない。後年の『炎炎桜島』や『十勝岳』、さらには富士山の連作でくりかえし山容をえがくことになったが、ここで画面いっぱいにみえる山は山でも、これはたぶんボタ山だろう。トリミングの妙を活用して、ちいさなものを派手に大きくみせるというのか、桃山障屏画をはじめとした日本画のそれともちがうし、かといって洋画の技法に想をえたのでもなさそうな独特のおおきさの感覚が横山にはあるが、その片鱗はもうこのあたりからみえているといっていい。めにみえない強制労働のくるしみが、ボタ山の数とたかさによって自然にみえてくるしかけになっている。ところで、よく似た捕虜の生をいきのびながら、人間であることの極限にあらわれる栄光と悲惨をくりかえしえがいたのは香月泰男の洋画であり、石原吉郎の詩だった。横山にはそういう人間のドラマへの視線がないし、題の「印象」ということばが暗示するように、情念の領域には距離をはかって足をふみいれないように用心しているけはいさえある。これはべつのことばでいいかえてもいい。かれはほとんど人間をえがかなったし、またえがけなかった。という風に。ここにこそ横山が終生かかえつづけた虚無感の秘密があるので、人間を配した作品よりも風景だけの作品のほうがかえって人語の響きがきこえてしまうのは、そういうひとの絵がもつ最大の逆説なのである。(東)


2 カザフスタンの女 1951年(昭和26)

 横山操は1940年(昭和15)に召集されて中国各地を転戦し、敗戦後はシベリア(カザフ共和国)カラガンダの捕虜収容所に抑留されて石炭採掘に従事した。この抑留地の印象を絵画化して、1951年(昭和26)の春の青龍展に出品したのが「カザフスタンの女」である。褐色系統の色調で画面をまとめて、異国情趣を前面に出した作品に仕立てられ、抑留地での思い出を主題としながらも、暗い印象は全く認められない。

 この作品も含めて、1950年代前半の横山作品は、50年代後半に入って発表されるモノクロームに近い暗い色調の大画面作品とは、やや趣を異にした作風を示している。50年代前半の作品では、飛び抜けた大画面作品は見あたらず、また黒を主体とするスタイルも確立されていない。さらに主題の点でも、後には風景画的作品の比重が大きくなるが、この頃には人物画も少なからず描かれていたようで、「カザフスタンの女」は、そうした最初期の横山のスタイルを伝える人物を主題とした数少ない現存作品の一つである。(毛利)


3 川 1956年(昭和31)

1956年(昭和31)1月、出版社求龍堂の石原龍一から支援を受け、銀座松坂屋で開催された横山の第1回個展出品作の一つ。東京湾沿いの下町風景に取材したと思われるが、場所は特定できない。ほとんど黒一色で描かれ、水面等には部分的に銀箔が使われている。

 作者は「僕自身は、あの場所が同時に僕の人生記録の一時点につながるだけに、余人に測り知れぬ、別の意味が秘められている」と記しており、横山にとっては思い出深い場所であったように推察される。

 この第1回個展の出品作は、「川」を初めとして、いずれも人間の生活と深く関わりを持つ場所を主題としている。1950年代後半の横山作品は、画材、描法などいくつかの点で伝統的な日本画の枠組みから自由であろうとしていたが、主題の選択にもそうした傾向は強くあった。

 「自然がつくり出す刹那的な構図には、巧まずしてしばしば、限りない強烈さが、われわれに迫ることがある」という「川」についての作家の言葉は、主題の選択に関する作家の自由な姿勢を端的に示すものであろう。(毛利)


4 網 1956年(昭和31)

 この「網」も、第1回個展出品作。横幅9mに及び、横山操の作品中では「熔鉱炉」に次ぐ大きさを持った大作である。個展開催を決定したとき、横山は先ず会場の壁面長を計測し、壁面に合わせた大きさの作品を制作したという。

 海辺に干される漁網は、わが国では、「網干図」として古くから絵画化されてきた。横山の場合も、干し広げられた漁網の形の造形的なおもしろさから、この「網」が発想されたように思われる。

 しかし、横山の「網」では、外面的な形態は似ていても、伝統的な「網干図」が持っていたような装飾的要素は完全に排除されている点が重要である。湾曲線で構成される漁網は暗赤色に着彩され、画面からはみ出すほど大きく描かれ、その存在を強く主張している。そして、背後に漁村の家並が淡墨による没骨描法で描き込まれることによって、この作品は人間の営為を強く意識させる豊かな現実感を獲得することになった。(毛利)


5 炎炎桜島 1956年(昭和31)

 この年5月、横山操は桜島に写生旅行に来ていて、偶然であったが大爆発と遭遇、その劇的な場面を横幅4.5メートルを越える大画面に描いたのが「炎炎桜島」である。秋の青龍社展に出品し、青龍賞を受賞している。この賞は、社人を除く出品者に授与される最高の賞で、設立から28年の間でただ一人、落合朗風が受賞したに過ぎない賞であった。川端龍子は「このところ連年の受賞者であり、この精進、そしてその制作の意気愈旺盛であり、今回の作に於いても桜島の火を噴く如き形相を示してゐます」と絶賛、青龍社で非常に高い評価を得て、無名に近い新人であった横山が一躍注目を浴びることになった。なお、翌年の選抜秀作美術展にも出品されている。

 黙々と吐き続ける噴煙を始め、画面の主要な部分のほとんどは黒であり、火口から噴き出す炎の朱などがアクセントとなっている。大自然が持つ底知れない力を豪快に表現している。画面のほとんどは大胆に単純化させてはいるが、画面のかなりのところに小さな火山のごとく盛り上がった部分が存在したり、細部の表現を見るとアクション・ペインティングのように一気に仕上げたものではなく、自己の想念を究極まで追求している姿が浮かび上がってくる。繊細さを奥に秘めた大胆な表現、それが横山操の画風であり、それ故、そうした特徴を端的に示すこの「炎炎桜島」が1950年代の横山の代表作となっている。また、さりげなく右下に配された家並みが、東洋的な気分を漲らせていることも忘れてはならない。(森本)


7 犬吠 1958年(昭和33)

 1958年(昭和33)に開催された第3回現代日本美術展に出品され、賞候補となった作品。太平洋に面して立つ犬吠岬燈台を主題とした作品で、この燈台に取材した作品は他にもいくつか制作されている。

 垂直方向の線を主体とした燈台と電波塔、水平方向の線で構成された低い家々による、やや幾何学的な画面構成を示す作品。画面下部に使用された金箔が効果をあげている。

 貧困のために、高価な岩絵具を購入できなかったという事情もあって、横山の初期作品は一部の例外を除いて、大部分がモノクロームに近い画面を持つ。そうした画家として出発した頃の事情も影響しているのか、横山は決して色彩画家ではない。後年の着色作品でも、色数は決して多くはない。

 しかし、そうした抑制された色調を一つの特徴とする横山作品にあって、金や銀の箔はその効果が最大限に活用されている。もちろん、金と銀が持つ装飾的な効果を狙った場合もあろうが、「色」として使用された場合もある。「犬吠」においても、金と銀を抜きにして、作品は成立し得なかったであろう。(毛利)


8 母子 1958年(昭和33)

 1958年(昭和33)1月、銀座松坂屋で開催された第2回個展出品作の一つ。この時には、「昭和新山」、「夕張炭鉱」などの風景画的作品とともに、本作品と「沖仲士」と題された人物画も出品されたが、それら初期の人物画は、「母子」を除くと、ほとんどがアトリエ新築の際に画家自らの手で焼却されてしまった。

 川岸を背景にたたずむ母と幼い少女は、作者の妻子をモデルにしているが、この「母子」や「沖仲士」、あるいは1957年(昭和32)の「踏切」など、人物を主要モチーフとしたこの時期の作品は、人間に対する画家の温かい眼差しに満ちた人物画となっており、ややもすると豪放な側面にのみ視線が向けられがちな横山が繊細な感覚をあわせ持っていたことを示す作品でもある。(毛利)


9 昭和新山 1958年(昭和33)

 1957年(昭和32)6月、横山は取材のために北海道へ旅行した。「昭和新山」は、この取材旅行の成果で、「夕張炭鉱」とともに第2回個展に出品された。

 横山操の作品には、「炎炎桜島」に始まり、「昭和新山」、「十勝岳」、あるいは「グランド・キャニオン」などへと連なる、人間の力が及ばない大自然の雄大さをテーマとした作品の系列がある。なかでも、自然が生きていることを最も端的かつ劇的に示す活火山は、1950年代後半の横山作品の造形的な特質とうまく合致した主題といってもよかろう。

 横山が北海道を訪れた1957年には、既に昭和新山の火山活動は終息していたけれども、横山は激しく雲の涌き上がる情景を描くことによって自然の巨大なエネルギーの力を絵画化することに成功した。(毛利)


11 港 1958年(昭和33)

 横山操は、題材を求めて各地へ写生旅行に出かけている。しかも残されたスケッチ類を見ると、かなり頻繁に出かけていったようである。それは山、川、海などの自然であったり、極めて人工的な風景であったりする。この「港」は、人の気配のしない閑散とした四日市港のスケッチに基づき制作されている。三重県内ではこの「港」の他、志摩郡大王町の波切に取材したものが知られている。

 海上に存在する倉庫らしい家を背景に、縄を繋ぐことによって船を係留する赤い一個の柱を、コンクリートの黒のなかに全面に大きく配して海の銀箔と朱と黒の単純な対比が魅力を形成している。ふと誰でもが見逃してしまいそうなモティーフが、横山によって斬新な独特の画面となって構成されている。

 春の青龍展に出品、川端龍子から「矢張り賞から除く訳にはゆくまい」と春展賞の二席を得た作品である。(森本)


14 送電源 1960年(昭和35)

 1960年(昭和35)3月の春の青龍展出品作。横山操の作品には、「変電塔」(1954年)や「架線」(1956年)などの電力設備に想を得た作品が2・3ある。これらは、「熔鉱炉」(1956年)や「ダム」(1958年)、「船渠」(1961年)など人工的な構造物の造形性に着目してつくられた作品と同じ性格を持っている。

 しかし、「熔鉱炉」や「ダム」などが、横長の画面を活かし、いわば広角レンズ的な画家の眼によって構成された作品であるのに対して、「変電塔」、「架線」、「送電源」では、描かれる対象の部分をクローズアップすることによって画面が構成されている点が大きな違いといえよう。

 この「送電源」は、変電所の鉄塔や碍子、送電線などの複雑な構成を絵画化した作品であるが、モノクロームを基調とした画面の中に、鮮やかな朱色の線と銀箔とが効果的に用いられ、作者の鋭敏な色彩感覚を窺わせる作品でもある。(毛利)


16 富士雷鳴 1961年(昭和36)

 1960年(昭和35)頃から横山操は、富士の絵を数多く描いた。その数は500とも1000ともいわれるが、その背景には富士という伝統的な画題を描く青年画家への周囲の人々の非難に対する反抗・反骨精神があったという。

 富士の絵によって、横山は大衆的な人気を獲得することになったが、この「富士雷鳴」は、横山の数多い富士の絵の中で、最も早い時期に描かれた作品の一つで、第2回轟会展に出品された。

 暗赤色に塗られた富士山の周囲を、金、銀、プラチナ箔などを用いた稲妻がダイナミックに飛び交っている。赤い富士と稲妻の取り合わせは、北斎筆『富獄三十六景』中の「山下白雨」を連想させるが、その表現は北斎のそれとは全く異なる。装飾性と現実性とが共存する、現代の富士の絵が生み出された。この作品によって横山は、古くから描き継がれてきた富士の絵の系譜に新たな1頁を付け加えたといえよう。(毛利)


18 十勝岳 1962年(昭和37)

 烈しい噴火によって山の原形をとどめないほど、変化していく十勝岳の姿が題材となっている。黒い噴煙が積み重なり、吹き上げるガスや水蒸気などの形態を抽象化して、モノクロームを主体とする豪放な筆致で表現している。アンフォルメルや抽象表現主義の影響もあろうが、実際に眼の前で展開する爆発の様子を横山操独自の手法によってダイナミックに、しかも現実の姿が損なわれるどころか、実際に経験した驚きが端的に表現されて迫真的でさえある。

 秋の青龍社展に出品の予定であったが、師よりも大きな作品であること、大きすぎて会場に入らないなどの理由から左右を切るように注文が出されたために、横山操は青龍社を脱退することになる。

 「僕にも院展脱退の経験がある。不肖の親にして、不肖の子ありだよ」と川端龍子に言わせ、龍子も操も互いに強烈な個性の持ち主であり、そして互いにその素質を認めつつも、幸か不幸か別れざるを得なくなる契機になった作品である。

 この作品は彼の没後に公開された作品で、現在7面しか存在しない。それでも6メートルをかなり越える大きさである。(森本)


19 ウォール街 1962年(昭和37)

 「横山さんの作品は、一たいにおいて正確な垂直、水平感があり、それを非常に息の長い筆使いで、ばっさりと引いて行く。それがいかにも力強い。」とかたったのは加山又造である。曲線をさけてかんじんの骨組を直線でおさえるところから垂直感、安定感がうまれてくる。この『ウォール街』などは、そういう横山操の造型のしくみがもっとも単純に、ほとんどそのまま作品になった例といえようか。1961年アメリカ旅行の成果の一点。画面をめずらしく、しかもかなり縦長にとることで、摩天楼をはじめとする高層建築が櫛比するニューヨークという、せかいでも異様な都市の垂直性をたくみにとらえることができた。そのビルとビルのあいだから、これまた垂直にたちあがっている雲ひとつない空。かれの作品のなかでこんなに効果的につかわれて、作品のいのちとなった青の例はたぶんほかにないのではないか。ついでにいうとこの青は無表情の裏に刃のような残酷さをかくしている。負の聖性といっていいのか、天が青ければ青いほど地上の人間のいとなみのむなしさをあざ笑うかのごとき非情なちからが現前するからだ。蜜蜂のようにより集まってくるひとびとのエネルギーが眠ることなく活動しているはずの街がまるで、すてられてしまった巣のような静けさにつつまれている。けれどほんとうは死んではいない。しずかに無数の沈黙のように底のほうでざわめいている。横山が直接にかきこまなかったそういうすべてのことが、ほそく垂直に、画面をシンメトリカルに二分するこの青色によって雄弁にかたられることになった。赤のつかいかたもなかなかこころにくい。そういえば、「正面トリニティ教会の尖塔に、突然日がさして、十字架がくっきり、浮き彫りされる。ユダの末裔たちを戒める神の啓示か、それともウォール街へ教会を持ちこんだ、ニューヨークっ子の計算ずくか。その瞬間、それが東方の旅人には、現代のメルヘンに思えた」と横山はかたっていた。その十字架上の光の印象がかたちをかえて残ったのが、画面左上の赤なのかもしれない。(東)


21 雪原 1963年(昭和38)

 この年の2月にひらかれた個展ではじめて横山操は絵のなかに故郷の風景をもちこんで、展覧会の名も「越後風景展」とした。『海』では逆白波のうねる荒れた海を、『茜』では夕焼けを、『雪しまく』では冬の群舞しつづける吹雪を、そして『雪原』では一面に雪のふりつもった蕭条たる平野をと、ようするに時間がいっそう純化した記憶のかけらをもういちど手でさぐりながらえがいている。覇気といってもいいくらいの元気はここにはない。樹木から生命のしるしのすべては落ちつくし、枯枝はとげとげしい。雪におおわれて人影の絶えた大地はさむざむしい。雲にさえぎられた弱弱しい光。しかしいま雪はふりやんでいるし、風もとまっている。ところでこういう雪国の風景の魂は意外にあたたかいものだ、ということまで横山はあからさまにいっていないが、地上の汚れを差別することなく慈悲のように雪がつつんでしまう、これをいっぼうてきに不毛の風景というならおれはこの不毛が好きだと、この絵のかたわらで横山はつぶやいている。いい絵はかならず現実より密度濃く高分子化したもののもつ豊かさにめぐまれているが、そういう豊かさにつつまれたこの白銀の風景はあたたかい。かれは楽しんで描いている。これまではみえにくかった自然のちからのやさしさが、ちからをこめずににじみだしてくる。うっかりするとまちがうくらいこれとよく似た雰囲気の作品を『越路十景』のなかで再度くりかえしている(「蒲原落雁」)のは、造型のことばをさらに単純化しようといったことを超えて、うちがわから風景の魂をえがいて心のかたちがみえてきたときの絵描き冥利につきる楽しさをもういちど味わってみようとしたからで、それ以外ではない。(東)


23〜30 瀟湘八景1963年(昭和38)

 広西省に源を発して北流し湖南省を横断して洞庭湖に注ぐ湘水と、九疑山の方から流れる瀟水が湖南省零陵付近で合流する辺りを瀟湘といい、「瀟湘八景」は、この周辺の湿潤豊かな景観によって決めたれた、平沙落雁、遠浦帰帆、山市晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、烟寺晩鐘、漁村夕照という8つの主題から成っている。北宋の宋迪が創始、あるいはそれ以前から描かれていたと考えられている。日本に移入されてから時間や四季折々の風情が込められ、雨雪煙霜と変化する水気と空気、あるいは風物が主題となって、古典に習いつつも、池大雅をはじめ数多くの画家が想像力を駆使して、様々な解釈による詩趣溢れる水墨の世界を構築している。

 横山操の場合も、「ぴかぴかと油彩画のように光る焦墨は、こいにかわを用いたためだそうであり、遠浦帰帆で、うまく格子形に線がみえるのは裏打ちの紙のつぎ目が紙をすかしてみえるためであって、横山はその効果を意識して用いたのだという。墨の上をペインティング・ナイフでひっかいたり、裏にどうさをつよくひいたり、にかわのつよい淡墨で樹木を描き、まわりを濃墨でぬって、樹木のするどい線を生かしたり」(「横山操の瀟湘八景」吉沢忠、藝術新潮163、1963年7月号)するなど、様々な実験的な描法を用いて表現に腐心しつつ、過去に描かれた瀟湘八景図に真っ向から挑戦しようと試みたのであろう。主題に制約される画題であるが、東洋の伝統に深く根ざそうとする意志から瀟湘八景の主題に魅せられたことであろう。

 「一滴の墨は、水量を増せば増すほど、洋々たる大河を暗示する。独断をもって、この大河を断ち切るとき、水墨は、紙背をとおして地底に落ちて行く、水墨は作家の精神を、ぎりぎりまで追いこんで、心的表現へと導く。水墨は他を信じない」(「独断する水墨」、藝術新潮242、1970年2月号)という横山の言葉が、「瀟湘八景」で実証されている。

 なお、この「瀟湘八景」は、この年6月、銀座松屋で開催された「横山操屏風絵展」に出品されている。(森本)


42 紅白梅 1966年(昭和41)

 「横山って奴は日本画の上にアグラをかいて生きていやがる、と或る批評家にいわれてしまったが、僕はあぐらをかかずに正座しているつもりであった。」と横山はかいたことがあった。油絵も日本画もおなじ絵画だとする物わかりのよさを一蹴して、「僕は日本人だから日本画しかない」という、なかなか頑固な主張をやめていない。けれど『熔鉱炉』『炎炎桜島』をはじめとする圧倒的なエネルギーにみちたかれの大画面にはむしろ日本画を破壊しかねないちからを感じても、そういうちからでねじふせるような絵の裏に伝統につちかわれた職人藝への恭順と自負がつねにあったことをみぬくのはなかなかむづかしい。かれをつくりあげている感受性の原フォルムをみようとおもったときは、たとえば小林古徑がえがいたといってもいい『紅白梅』のほうがかえって便利だ。古徑ばかりではない。きっと横山は土田麦僊や速水御舟や村上華岳や横山大観のしごとを細心にみて、深くこころに刻みつけていたはずである。荒っぽい絵だけじゃなくこういう絵だってかけるという稚気いっぱいのこんな絵こそ正座してかいた作品というべきか。それにしても横山はうまい。直線的だが節のところでおもわぬ方向に曲がってゆく枝の屈折する運動感と、満開にさいた梅の花のリズムが対位法をつくって音楽をうみだす。そんなに深さはないが、あっさりとあかるい日本画ならではの音楽。もっともこれがかならずしも「日本人だから日本画しかない」といったときの日本画かどうか、他に画因はあるにはある。かれ自身のことばをすこし引用してみよう。「ところで、梅には深い思い出が残っている。かれこれ三十年近い昔になるが、中支戦線の早春のある日、江南の名もない小村で、ふと馥郁と咲く、梅の満開を見たことがあった。征旅そうそうの間であったが、思わぬ恋人にめぐり会った気持で、どれほど心を慰められたことだったか。」また三鷹の横山の家の庭には、横山という日本画家がひっこしてくるときいて大観とまちがえた近所のひとの贈物の梅が植えられていたという。(東)


44〜53 越路十景1968年(昭和43)

 横山がつかった色はすくない。日本画は面を塗るのではなくて、あくまでも線で描くものだという基本的な指向もかれを色彩家にしなかった理由のひとつだ。だから横山の色といえば赤と黒、とりわけ黒ということになるが、その黒についても、二十年余におよぶ活動のちょうど半ばあたりに造型的なかんがえの変化があって、作品の印象はそこで前後際断している。そのきっかけのひとつは、まちがいなく、青龍社からの脱退という事件である。ひとりっきりになったとき、横山がひそかにかんがえつづけ、そとからみれば反逆の姿勢がめだつ錯誤をかさねながら求めてきた想像の日本画と、中国に源をもちつつ日本にながれこんできた水墨画のイデアが、ようやく一つにかさなりはじめる。『雪原』や『海』で筆ならしされたそれは『瀟湘八景』でひとまづの達成を自他ともにしめすことになった。『越路十景』はその延長線のうえにありながらまた別のモチーフを湊合することで、法を変じ、さらにあたらしい可能性をひらいている。だれがみてもこの題は『瀟湘八景』をたやすく連想させてしまうように、『越路十景』はいわば見立て『瀟湘八景』であり、その名のもとにつくられた数々の本歌をおもいださせるのが狙いなのはさきの『瀟湘八景』とかわらない。けれどなにが新しいのかはこのふたつをくらべてみれば一目瞭然で、記憶のなかでかたちをかえながらなお生きている「ふるさと」をえがくことにこそ、この作品のいのちがあった。故郷によせる横山の感傷によってえがかれた風景のオマージュ。「出雲崎晩鐘」のなかを飛ぶ鳥は、中国旅行のおりにみかけてえがいた『飛燕』のうまれかわりだし、「親不知夜雨」は「瀟湘夜雨」よりもっと劇的で奥がふかくなった空間のなかにあって、時をこえてそこにある岩が雨と海にいつまでも洗われつづける、だれもがどこかでみたような懐かしい風景になっている。(東)


63 月 1972年(昭和47)

 横山は折りにふれて月のことをかたっている。「中秋名月を楽しむ風習は、むかしからいろいろ行われていたが、僕の子供のころは、うす暗い月の光でうまく針のめどに糸が通ると裁縫が上手になるといって、よく女の子が一生懸命試していた。」というのはなつかしい幼小時のおもいでであり、それが長じてのちは、「月は秋、そして酒は日本酒にとどめをさす。澄みきった秋空にかかる月には、ウイスキーや老酒では、ふぜいがない。ほどよく燗のついたところを、独酌でちびりちびりやりながら楽しむ秋の夜長は、酒のみだけが知るだいご味である。おミキがはいると、それまで聞こえなかった秋虫や地虫の声が、奇妙に耳にひびいてくるから、不思議である。」という月見酒のたのしみにかわる。月のはなしはなにも日本だけではない。「玄宗皇帝が月の世界へ行ったという、古い中国の話がある。満月の夜、仙人が月に向って手にした杖を投げると、それがたちまち銀の橋に変り、そのかけ橋をのぼって玄宗皇帝と仙人が月宮殿に行き、月の麗人から秘伝の羽衣の曲を教わったという筋だったと思う。」という童話めいた伝説を好んだかれは、1966年じっさいに中国の旅の途次で忘れられない月にであうことになった。

 「廬山のホテルに落ちついて、しばらくすると雨もあがった。洗われたような大空に、見事な満月が顔を出した。複雑な山容が墨絵のように浮彫りされ、その上に、静かに月がかかっている。はてしなく続く樹林に霜を降らせ、かぎりなく広がる湖面をいぶし銀に照らしていた…」そういう月を『瀟湘八景』と『越路十景』の、それぞれ「洞庭秋月」と「佐渡秋月」では満月に、そして『新月富士』では月食のような繊月に横山はえがいた。それが『月』では下弦の半月になっている。この朧夜にかすんだ月は坂本繁二郎がやはり晩年にえがいた『櫨の月』や『幽光』をおもいださせる。(東)


65 絶筆(未完) 1973年(昭和48)

 ラウル・デュフィが左手で絵をかいたのは、右手でかくとうまくなりすぎて、そういう達者な絵がいやだったからである。横山が晩年やはり左手をつかってかいたのはそういう贅沢なはなしではない。1971年4月脳卒中でたおれた後右半身がまったくきかなくなったからである。そのときかぎりできっぱり絵をやめないで、右手がだめなら左手でと、ただ一本の線をひくことからやりなおして、一年にみたないうちに奇跡的な再起をはたした。いったい異常ともみえるこの執念を、「やれないからではない やらないのだ」とか「意志」といった標語をアトリエの壁にはりつけて大作をえがきつづけた横山の、いかにも横山らしさ健在というのもいいが、それよりも、野心にみちた往相のみちをたどりつくした果てに手にいれた還相の眼をもってみたとき、絵をえがくという行為じたいが生きてゆく楽しみとひとつになって区別がつかなくなったとみたほうが、横山にたいして親切だろう。デュフィとは逆にこころならずも達者であることをすてたところで、別の天地がひろがった。ところでこの絶筆は自宅をとりかこんだ武蔵野の風景である。横山はなぜ武蔵野の樹木が好きかときかれて、「関西の木はちがいますよ、枝を丸くこんもりと張ってコテッとしている。あれをえがいたら麦僊になっちゃう。ぽくはキリッと荒々しく枝を突きたてた武蔵野の木じゃなくちゃだめだ。」とこたえたことがあった。なるほど風景に魂をこめようとしたとき、かれは武蔵野と故郷越後の風景しかかいていない(横山の名をたかめた「赤富士」のあの赤も出自をたどれば、少年のときにみた故郷の夕焼けの余韻がとてもつよい)し、このふたつのトポスはふたつでありながら、又ひとつであったことがわかる。残雪がのこるこの小道をまがりくねってゆくと弥彦山のふもとに自然につながっている。(東)



執筆
東俊郎(三重県立美術館主任学芸員)
毛利伊知郎(同学芸課長)
森本孝(同普及課長)

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