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ごあいさつ

 第二次世界大戦後の混乱は、日本画の世界にも大きな打撃を与えましたが、やがて先進的な欧米の絵画思潮と日本・東洋の伝統的な絵画表現とを視野に入れた新たな日本画の可能性が追求されるようになります。そうした戦後の日本画革新に取り組んだ画家たちの中で、横山操は最も個性的で傑出した一人でした。

 横山操は、1920年(大正9)に新潟県西蒲原郡吉田町に生まれ、画家を志望して14歳で上京、1940年(昭和15)の第12回青龍展で「渡舟場」が初入選しました。しかし、召集により制作は中断され、シベリアでの過酷な抑留生活を経て帰国したのは1950年(昭和25)のことで、この年の第22回青龍展に「カラガンダの印象」を出品、以後、毎年青龍展に出品します。

 1956年(昭和31)、初の個展を開催して壮烈な筆致と暗い色調の大作5点を発表、また第28回青龍展出品作「炎炎桜島」が青龍賞を受賞するなど、画家としての地歩を固めました。

 1962年(昭和37)、青龍社を脱退、個展とグループ展を主な舞台とし、翌年には水墨表現に新境地を開拓した「瀟湘八景」を発表します。1965年(昭和40)からは多摩美術大学で指導に当たりながら、精力的な制作活動を続けました。

 1971年(昭和46)、脳卒中に倒れましたが、強い意志によって回復、左手による詩情豊かな風景作品を発表しました。しかし、2年後の1973年(昭和48)3月、制作中の横山を再び脳卒中が襲い、4月1日、日本画の将来を憂いながら、53歳の生涯を閉じました。

 横山操が去って、20年の歳月が流れました。この節目を迎えた年に、その画業をたどる「横山操展」を開催し、日本画の新生面を果敢に開拓し、戦後の日本画界に横山が果たした役割を改めて回顧したいと思います。併せて、様々な点で日本画と洋画との境界が薄れ、混沌とした状況にある現代日本絵画の今日的な問題についても考えたいと思います。

 最後に、展覧会開催に当たり格別のご支援をいただきました横山基子夫人、貴重な作品を快くご出品下さいました新潟県美術博物館をはじめとする各美術館、所蔵家の皆様、ならびにご協力を賜りました関係各位に厚くお礼申し上げます。


1993年

主催者

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