このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

横山操から瀟湘八景の歴史を辿る

森本孝

 1971年4月29日、横山操は脳卒中に突然見舞われ、右半身不随、左手で署名、運筆から練習を始める。翌年には寂莫や哀愁に満ちた「むさし野」「静かなる風景」「月」を発表。1973年3月26日、脳卒中再発。息を引き取る前、面会した加山又造に対して日本画の将来を憂い「あとをたのむ」を繰り返したという。

 三鷹に転居した際、青龍社を脱退したとき、脳卒中で倒れたときにも、それまでの作品を焼いている。過去の自分を放棄して、新しい世界を希求する。過去から未来への羅針盤はない。自分の課題が明確であったのか、あるいは新しい表現を求めるために、過去の栄光を消去して進まなければならないように自分を追い込むためであったのだろうか。過去の自分に満足できず、過去の一切を否定続けた人間であった。気持ちの通じ合う間柄であった吉村貞司は「孤独な旅人」(「横山操の世界」『画集 横山操』集英社1977年)という言葉で横山操の生きぎまを表現している。

 1963年、銀座松屋での個展に横山操は「瀟湘八景」を出品している。前年に根津美術館で開催された「瀟湘八景展」で制作意欲を触発された可能性はあるが、直接的にはあったとしても、東洋の伝統に深く根ざそうとする意志からのことで、主題に制約される画題であり、過去に東洋において描かれた瀟湘八景図に真っ向から挑戦しようとしたのである。


 広西省に瀕を発して北流し湖南省を縦断して洞庭湖に注ぐ湘水と、九疑山の方から流れる瀟水が湖南省零陵付近で合流する辺りを瀟湘といい、「瀟湘八景」は、この周辺の湿潤豊かな景色の中から、平沙落雁、遠浦帰帆、山市晴嵐、江天幕雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、烟寺晩鐘、漁村夕照という8つの主題を定めたもので、北末の宋迪が創始したとされているが、その根拠とされる「宋迪と瀟湘八景」(島田修二郎、南画鑑賞10−4、1941年)に明確に記されているわけでない。しかし宋迪が瀟湘八景図を描いたことには相違なく、もう少し遡って考えられる可能性があるというだけである。何れにしても宋迪が「瀟湘秋図」や「八景図」を描いたことが記され、洞庭湖を中心とする楊子江南側一帯の美しい風景がこの頃から盛んに描かれたことが想像できる。詩が詠まれ、その文学的な題材が映像化されたのが瀟湘八景図であり、中国での発祥とは多少異なるかたちで日本では解釈され親しまれるようになる。1299年に来朝した一山一寧(1247−1317)の賛がある思堪筆「平沙落雁図」が存在しているので、この頃から日本でも制作されたのであろう。なかでも13世紀後半の禅僧であった牧谿、玉澗の「瀟湘八景図」が日本の画家に与えた影響は少なくなかったことと想像される。日本での瀟湘八景図の場合、時間や四季折々の風情が込められた雨雪煙靄と変化する水気と空気、あるいは風物が主題となって、古典にならいつつ、池大雅をはじめ数多くの画家それぞれが、想像力を駆使して様々な解釈によって詩趣溢れる水墨の世界を構築している。

 横山操の場合、「遠浦帰帆」の前景左の家並では大観、「瀟湘夜雨」の右隅に描かれた竹からは大雅の影響を窺うことができるなど、玉澗や大雅、そして大観を意識した部分も見受けられるが、東洋の伝統と対決する姿勢が横山操の「瀟湘八景」には漲っている。例えば「山市晴嵐」などにみせる水墨のたらしこみは、宗達、光琳が慣用した装飾的な方法ではなく、嵐のように激しい。東洋の水墨の伝統を学びながらも新しい実験も試みている。「横山操の瀟湘八景」(吉沢忠、芸術新潮163 1963年7月号)には、「ぴかぴかと油彩画のように光る焦墨は、こいにかわを用いたためだそうであり、遠浦帰帆で、うまく格子形に線がみえるのは、裏打ちの紙のつぎ目が紙をすかしてみえるためであって、横山はその効果を意識して用いたのだという。墨の上をペインティング・ナイフでひっかいたり、裏にどうさをつよくひいたり、にかわのつよい薄墨で樹木を描き、まわりを濃墨でぬって、樹木のするどい線を生かしたり」したことが紹介されている。

 洋画の移入に伴って、誰かが行った仕事をやっても意味がないという西欧近代の思想が日本画の存続を脅かすことになる。材料の違いだけであるという菱田春草の考えは誤りであるとし、「材料の違いだけではなく、本質の相違だと思う。西洋の理論でもって、日本人が描こうというのは、おかしいと思う。日本人には日本人の論理があると思う。」(座談会:日本画の問題点をめぐって芸術新潮653 1959年9月号)と考えている。西洋とは異質である東洋の文化が歴史的に形成され、その結果として画材の違いとなったことを主張するもので、東洋に息づく根本を情熱を込めて探り、瀟湘八景を題材とする水墨画に東洋の理想的な世界を発見したのであろう。自然と人間との関わりは、東洋と西欧では異なっている。東洋における大自然の変化を楽しむという自然観照は西欧にはなく、独り清閑を嗜む心境で、潤いに満ちた水気や空気、あるいは時間をモノクロームで表現しようという、画家の心象表現とさえいえる瀟湘八景の静寂な世界に魅力を感じたのだろう。大胆な構図のなかに、にじみ、たらしこみ、あるいは刷毛のかすれなど、考えられうる技法を駆使して、凄まじい力強さを感じさせる「瀟湘八景」には、横山操の人生観、画論が彷彿としている一方、伝統の重みをも感じさせる作品である。横山操は「独断する水墨」(芸術新潮 242 1970年2月号)において、水墨画について「一滴の墨は、水量を増せば増すほど、洋々たる大河を暗示する。独断をもって、この大河を断ち切るとき、墨水は、紙背をとおって地底に落ちて行く、水星は作家の精神を、ギリギリまで追いこんで、心的表現へと導く。水墨は他を信じない」と述べている。

 近代の作品では横山操の他、山市晴嵐、遠浦帰帆、漁村夕照、瀟湘夜雨、烟寺晩鐘、洞庭秋月、平沙落雁、江天暮雪の順に描いた橋本雅邦の「瀟湘八景図巻」(1903年、東京国立博物館蔵)、横山大観の東京国立博物館所蔵となっている1912年の作、大倉文化財団所蔵の1927年作、そして茨城県近代美術館所蔵の1916年作の3つのシリーズくらいしか知られていない。1927年の瀟湘八景は横長の水墨画、他の2点は縦長で彩色がなされた画面となっている。

 1912年の第6回文展には横山大観と寺崎広業の「瀟湘八景図」、今村紫紅の「近江八景図」が出品されている。伝統的な表現である広業に此して、夏目漱石が「呑気さ」「無雑作」といった言葉で賞賛しているように、横山大観の瀟湘八景は近代としての大観独自の新しい解釈によるもので、呑気さの裏側には大観の強靭な感情を窺うこともできる。雨となって地上に現れてから様々に形を変えて最後には水蒸気になって天に昇る大観の「生々流転」は、約束ごとに拘束されない独自の主題によって制作した瀟湘八景図でさえあるのであろう。こうした横山大観の精神は横山操の「瀟湘八景」に形を変えて蘇ったようである。


(三重県立美術館普及課長)

ページのトップへ戻る