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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1990 > 横山操・横山大観の「瀟湘八景」 日本画の伝統と近代 陰里鐵郎  横山操・横山大観の瀟湘八景と近代の日本画 図録

横山操・横山大観の「瀟湘八景」
日本画の伝統と近代

陰里鉄郎

 〈瀟湘八景〉とは中国・日本の絵画における伝統的な画題である。

 それは瀟水と湘水とが合流して洞庭潮(中国・湖南省)にそそぐ地域の周辺が、湿潤な空気と明るい陽光とにつつまれた美しい自然で、古くから景勝の地として知られ、詩人墨客が訪れることが多く、詩にうたわれ、絵に描かれたという。やがて特定の景観が選びだされて八景という画題が成立した。その定まった八景をはじめて絵画に描いたのは、北宋末(11世紀末)の文人画家宋迪(そうてき)であったといわれている。この創始期の瀟湘八景図の画風がどのようなものであったかは明らかではない。現在知られている最古の作例は南宋初(12世紀)の画家王洪筆の図巻(プリンストン大学蔵)という。日本にもたらされ、かつ世界的にも著名な中国画の(瀟湘八景図)としては、南宋末(13世紀)の画家、牧谿(もっけい)と玉澗(ぎょくかん)の作品がある。前者は、牧谿筆という確証はないが、足利義満の蔵印が捺されており、足利将軍家所蔵の絵画を記録した目録のなかに記されている4種類の瀟湘八景に張芳汝、夏珪、玉澗とともに牧谿の名も記されており、それに当るものと推察されているものである。この作品はもともと一巻の巻子であったが、義満の時代(14世紀後半)に切断され、掛幅に仕立てられ、八幅のうちの四幅のみが遺存し、現在では根津美術館ほかに分蔵されている。玉澗筆の作品も、巻子で舶載され、足利義政の時代(15世紀)に切断されて掛幅装となり、現在では三幅のみがのこされている(徳川美術館ほかに所蔵)。これらの作例からすれば、瀟湘八景図のほとんど多くは横長の画面であったと考えられる。日本でも鎌倉時代後期(13世紀後半)から描かれ、江戸時代にも狩野派、南画系の画家たちによって数多く制作されてきており、屏風絵としても措かれている。

 瀟湘八景図はいうまでもなく山水画であり、そして遺存の作例からみてもそのほとんどすべてが水墨によるものであったと考えられる。戸田禎佑氏によれば、「瀟湘八景という主題も、水墨画の特性を最もよく発揮するために案出されたものと考えられる」という。水墨画は、「彩色画から全く独立した諧調の世界」であり、水墨画の創造は、水墨による「諧調がいかに絵画において雄弁なものかを認識した」中国人によるものであり、それゆえにやがて水墨画が彩色画にかわって中国の絵画界の主流を形成することになったというのも戸田氏の指摘するところである。水量による濃淡の語調は、複雑微妙な自然界の変化にとんだ風光の表現を可能にした。瀟湘八景図のほとんどが晩景であることは八つの画題からも知ることができる。この晩景の表現には水墨による濃淡の調子(トーン)によって表わすのがよくかなっていたということであろう。簡単ではあるが、以上のような瀟湘八景図における歴史と伝統のうえにたって、日本の近代における瀟湘八景図の諸作を見るとき、多くの興味深い問題を見出すにちがいない。

 横山大観は、生涯のあいだに三度にわたって(瀟湘八景図)を描いている。その最初は1912年(大正1)、第6回文展に発表した。同年の同展には、寺崎広業も同題の作品を発表して話題となったが、両者は1910年(明治43)に山岡米華を加えて約1ヶ月ほど中国を旅行しており、大観は帰国後すぐに〈燕山・楚水の巻〉(各1巻、紙本水墨)、そして2年後に〈瀟湘八景図〉(8幅、絹本彩色)を発表したのであった。広業の作品が横長の画面で、図様も古株を踏襲していたのに対して、大観のそれは多くの点で新しい試みを大胆におこなっていた。例えば縦長の掛幅で2幅ずつが対(つい)をなし、その4対が四季を表わすかのように描かれていた。伝統的な表現は平遠山水であったのをほとんど無視していたが、縦長の画面に横への広がりを感じさせるためには、例えば〈平沙落雁〉図では童子が乗って走行する牧牛の動きによって表現するといったような構図をとっている。また遠浦帰帆を遠浦雲帆として描きだしたのであった。本展に出陳されている作品〈茨城県近代美術館蔵〉は、これにつづく1916年(大正5)の作である。全体としては、前の作品の作風を継続させているが、細部においてはいくつか異った、または新しいものを加えたりしている。家屋の位置や人物の姿態などに若干の変化を与えているようである。前作について夏目漱石は、これは「大観に特有の八景」で「脱俗の気は高士禅僧のそれと違って、もっと平民的に呑気なもの」と評した。本作品も全体としてその雰囲気をもっている。

 大観の作品から約半世紀後に措かれたのが横山操の〈瀟湘八景図〉〈紙本塁画、8面)である。横山操は、太平洋戦争後の日本画界において、特異で、かつ傑出した画家のひとりであった。兵士として戦場の経験、戦後シベリア抑留の経験、そしておそかった復員(1950)、それらの経験のなかで培われた情念を爆発させるような烈しく壮大を筆勢と色調の大画面の作品発表がつづいた。横山操が一転して水墨画にむかったのは1960年代に入ってからであった。そして伝統の主題に挑んだ作品がこの〈瀟湘八景〉であった。主題と画面形式、そして水墨による語調と伝統に従いながら、ある画面は水墨画の草創期の■(はつ)墨もかくやと思わせる烈しき(山市晴嵐)、ある画面は無音の静謐を深く沈めている(江天暮雪)、またある画面は日本絵画の伝統を換骨脱胎させたかのような(漁村夕照)、全体として劇的な画面をつくりだしている。

 近代の日本の絵画、とりわけ日本画は、東洋日本の伝統と、もう一方ではヨーロッパの近代との絶えることのない対峙と対決とによって形成されてきている。ふたりの横山というすぐれた画家たちによる伝統的主題の表現に、その典型を見るようにおもえる。

(三重県立美術館長)

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