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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2005 > 4 一水会時代 1936-1955 安井曾太郎展図録

Ⅳ 一水会時代 1936-1955

 独自の様式を確立し、名実ともに画壇の頂点に立った安井は、この時期以降、一層迷いのない画業を深めていく。1935(昭和10)年、帝展改組の波乱で計らずも二科会を離れることになった彼は、翌年一水会創設に参画し、発表の場を移した。そして同会第一回展に出品された《深井英五氏像》(cat.no.71)、《承徳の喇嘛廟》(cat.no.72)は、その力強い構成と清新な色彩で、画業中もっとも高揚した作品となった。その後も、風景画においては上高地に画題を得て霞沢岳(cat.nos.78,79)や焼岳(cat.nos.82,86,87)などを制作、敬慕するセザンヌの描く《サント・ヴィクトワール山》とは違った独自の造形的組立てと日本の風土に応じた色彩を実現させた。また、1943(昭和18)年には展覧会審査のため北京を訪れ、その翌年夏にも同地を訪問、《連雲の町》〈cat.no.96)や《初秋の北京》(cat.no.97)など線と色彩が調和した佳作を残した。人物画では、仙台に赴き《本多光太郎肖像画》(cat.No.66)を制作したほか、《F夫人像》〈cat.no.80)や《女と犬》(cat.no.83)などの女性像を手がけ、周到な観察がモデルの内面表出にまで迫った。

 1944(昭和19)年には梅原龍三郎とともに東京美術学校教授に(-1952)、同年帝室技藝員に任命され、その評価を不動のものとしたが、その年末近くに北京で病に冒された。終戦近くの1945(昭和20)年3月、埼玉県の寄居に疎開し、そこでも静物画や近辺の風景を堅実に描いていたが、悪質の眼病が襲い2年ほど苦しむことになる。

 1949(昭和24)年には下落合から、神奈川県湯河壊の旧竹内栖鳳画室に転居。同年6月日本美術家連盟が創設され、誰からも愛された安井は初代会長に推された。湯河原時代にも、制作の姿勢を変えることなく独自のレアリズムを追求した安井は、モティーフを緊密に再構成した《桃》(cat.no.108)などの静物画や、一方で依頼画の重圧から解放された意欲作《孫》(cat.no.109)、《画室にて》(cat・no.114)などの人物画を残している。

 また、1950(昭和25)年1月からは、雑誌『文藝春秋』の表紙絵(cat.Nos.128-133)を引き受けることになる。制限のある画面とデザイン的な配慮とを必要とするこの仕事は死の直前まで続いたが、安井自身に潜んでいた軽快な感覚を引き出すことになり、その試行的な画面構成がタブローへも生かされた。

 1954(昭和29)年アトリエを同じく湯河嘩に新築、転居するが、1955(昭和30)年12月肺炎に心臓麻痺を併発し死去、翌年春には大規模な回顧展が開かれた。

 以上のように安井の画業には、いくつかの転機や、画題を得るにあたっての人的ネットワークなどが作用しているが、自己の様式確立後は欧米美術の新しい動向には流されずおしなべてその制作姿勢は、画家のフィルターを通したレアリズムの追求という点で一貫している。発表された作品は、当時の美術界を牽引し、その死後も亜流画家を多く生み出したものの、安井ほどの確実な土台と根気を持ちえた画家が出ていないという点では特殊な存在なのかもしれない。

(田中善明)

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