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作品解説

(田中善明)

36
女立像
Standing Woman

1924(大正13)年
油彩・カンヴァス
90.0×71.0cm
第11回二科展(1924)
三重県立美術館

 暗闇を背景にモデルが立っている。安井模索期の作品で、「そのころ毎月とっていたフランスの美術雑誌ラムール・ド・ラールに、よく一載せられていたドランの単化された画面を見て、好きになった」[*1]と自身が語るように、人物の明暗と量感が整理された表現となっている。


 画家萬鉄五郎はこの作品について、「安井君のものは色の渋さといい、筆の重さといい、容易に人楽しませることはないが常にどんな作にでも洋風画本来の正確な科学がかくされていないことはない」[*2]と的確な評を残している。



 本作品では、それまで多用していた色彩が取り払われただけでなく、飾り気もまったく見られない。それゆえ画家がこの造形表現に対し、いかに厳しく取り組んだのかがひしひしと伝わってくる。



[*1]「安井曽太郎(日本現代画家選書l家適V)」1952年


[*2]萬鉄五郎「二科会評」『中央美術』10−10 1924年10月号


40
画室
The Artist’s Studio

1926(大正15/昭和元)年
油彩・カンヴァス
128.8×160.5cm
第13回二科展(1926)
財団法人ひろしま美術館

 画面の向かって左には着衣の妻子と甥、右には横たわりポーズをとる裸婦。着衣人物と裸婦という不自然な取り合わせからは、マネの《草上の昼食》(安井はパリ時代この絵が好きだった)における生々しさよりも、この異様さから、写真家・深瀬昌久の、1970年代より撮りはじめた家族写真と同様の虚構性を感じとることができるかもしれない。しかし、「あの絵は手近かなものを描くのが一番僕の便利が多かったので描いたまでで、要因として特別に或る理由があったものでもなく、また企図が有った訳でもありません。」[*1]と述べていることからも、安井にとってはあくまでも日常生活の取り合わせでしかなかった。


 この作品では、絵具の混色をほとんどパレット上でおこなってから画面に塗る方法がとられている。そのため他の作品と比べ、対象物それぞれの色面が独立しすぎる印象をもつが、一方で1929(昭和4)年以降に確立されたとされる安井様式のエッセンスをいくつか見て取ることもできる。例えば、対象物を俯瞰することにより画面をわざと不安定化させている点、明暗のコントラストを抑えて色彩を生かしている点、要所に強い黒の輪郭線を配したり、モデルの手を小さくするなど構図第一でデフォルメを加えているところなどである。当時この作品を見た画家の萬鉄五郎は、この作品について「中央の裸婦のしなやかで無理のない四肢の置き処、何等奇のない描写、主観を押しのけて正視る態度には却って大きい主題をかみくだいた視角の言い難い境地がある。センチメンタルを排して冷酷と迄思わるる手堅さがある。」[*2]と褒め称えている。


 「以前は能く一人の裸婦を描いた。そして今度三人の人物を揃いたという所にも別に差異はないのです。三つを描いても、在来の一つを描いても同じ気持です。大きい絵と小さい絵とを描くと同じで、気持に変りはありません。」[*3]と述べた安井であったが、群像はこの1920年代以降ほとんど描かれなくなった。


[*1、3]「『画室』の製作態度」『美之国』2−10 1926年10月号


[*2]山崎省三・中川一政・萬鉄五郎(対談)「春陽会員の見たる二科の三作細評」、『美之国』2−10 1926年


49
外房風景
Landscape in Sotobo

1931(昭和6)年
油彩・カンヴァス
71.0×203.5cm
第18回二科展(1931)
大原美術館

 安井様式確立の端緒が人物画においては《座像》(cat.no.45)であるならば、風景画においては本作品が該当するであろう。千葉県外房の太海(ふとみ)にある江沢館の一室の窓から描かれたこの絵は、明るい春の日差しのもと、北に臨む景色がパノラマ風に描かれている。太海は三重県波切とともに明治期より有名無名の画家たちが数多く訪れる写生地である。


 当時の安井は、白色を好んで用いている。光の照り返しが強調して表現された手前の石段などは極度に厚く盛上げられており、安井の作品中、もっとも起伏がある。しかも、照り返した白色部分はなめらかであったり、一方で松葉などには、布やペインティングナイフといった、絵筆以外の描画道具が使用され、この作品では触感を意識した制作となっている。あるいは、この触感は安井がパリのリュタサンブール美術館で一目ぼれしたセザンヌの《エスタック風景》を意識したのかもしれない。


 横長の画面の近景に大きく松を配し、遠景へと広がるパノラマ風の構図は、高橋由一ら明治期の画家たちが好んだ前近代的な構図を思い浮かべることも可能だが、《外房風景》では明暗のコントラストや構図の組立てに先進的感覚が注入されている。近景の中間調子を欠いた強烈なコントラストが、遠景との調和をむずかしくしているものの、そこを安井は海の鮮やかな青色で均衡を保とうとしているようである。この作品に対し、画家の黒田重太郎は「リアリストとしての安井さんが、それまでの情緒的に見られた風景画の概念から視覚を更新させむしろ白々しい乾いた現実に直面しながら、異状なまでの情熱をかたむけて制作されたもののように思われる」[*1]と述べている。


 評論家の児島喜書久雄は、「『外房風景』は真夏の海辺の白光を描いてそう快を極めている。縁赭黄等種々の灰色に変化した遠山の白雲に連なっているあたりを見渡すと海風に吹かれているような気持ちがして愉快である。安井君の手堅い技巧は的確に自然の一面を描破して居る。」[*2]と手放しで絶賛した。


[*1]黒田重太郎「外房風景」『現代の眼(国立近代美術館ニュース)』17 1956年4月号


[*2]「二科展評」『東京朝日新聞』1931年9月5日


55
奥入瀬の渓流
Rapid Stream in Oirase

1933(昭和8)年
油彩・カンヴァス
65.5×81.8cm
第20回二科展(1933)
東京国立近代美術館

 1932(昭和7)年夏、国立公園協会から依頼を受けた安井は、十和田湖に滞在し数点制作した。《奥入瀬の渓流》は、そのうちの一点で帰途に写生した。


 画家自身が語るところによると、「かなり自分のそばから景色がはじまっているので、前景、中景、後景の変化に苦心しました」[*1]、「製作の時、水の音がなかなか聞えて来ないので、それに随分苦心しました」[*2]とあるが、その苦心の甲斐あってか、前景から遠景へと向かう明暗の心地よい対比、そして目の細かいカンヴァスになめらかな絵肌で、「すがすがしい青葉の中の水の動き」を見事こ実現させている。嘉門安雄氏は、「従来のわが西洋画壇の『写生風景画』にかわる新しい『描写風景画』の最初の輝かしいモニュメント」[*3]と説明する。


 「十和田湖、奥入瀬川の風景は、どちちかといえば、澄んだところがあって、ごちゃごちゃしていないのです。すっきりしています。かなり自分の好みに合ったようです。」[*4]と語った安井は1934(昭和9)年に十和田湖を再訪し制作している。


[*1,4]「私の出品作・二科会」『美術新論』8-10 1933年10月号


[*2]「一問一答」『アトリエ』12-3 1935年3月号


[*3]嘉門安雄「成熟期=二科後期」『安井曽太郎(日本近代絵画全集6)』1962年


72
承徳の喇嘛廟
Lamasery in Chengde

1937(昭和12)年
油彩・カンヴァス
75.5×95.5cm
第1回一水会展(1937)
財団法人永青文庫

 1937(昭和12)年4月、第1回満州国美術展の審査を依頼された安井は中国の新京(現在の長春)に赴き、帰途藤島武二と河北省北東部に位置する承徳に赴いた。格好の題材を前にした安井は、その作品解説によると、「承徳の喇嘛廟はそれぞれ特徴があって皆面白かった。殊にこの廟は一等美しく好きだったので、一番最初にこの廟を描くことにきめ」たとある。しかし、「大変都合よく、珍しい画材を前に喜び仕事することが出来たが、5月ではあったが、石畳の上に毎日立ちつづけた為か、この絵の終頃にはお腹の調子が悪く、国立病院の院長さんに見てもらったら、大腸カタルで絶対安静ということになり、承徳ホテルで一ケ月程寝て過ごした。7月にはすっかり元気になって又仕事をはじめたが、近くの廬溝橋で日支両軍が衝突して、この辺迄も戦争気分で落ち着かないようになったので、承徳を引き上げることにした」らしい。思えば、安井のフランス滞在も体調不良と第一次世界大戦のため断念している。「帰国後もアトリエで大分加筆した」[*1]とされるが、石井柏亭に言わせると「彼地から持帰られたままを画室で見た時と展覧会へ出た時とひどく変ってはいなかった」[*2]という。安井の作品には珍しい、ほほ左右対称の安定した構図のもと、木々や岩がリズミカルこ配されラマ廟を引き立てている。さらに中国の乾燥し澄み切った空の青、ラマ廟のピンク、地面の黄土の色彩が鮮やかで見事なコントラストを保っている。


 第1回一水会展へは、本作品と《深井英五氏像》(cat.no.71)が出品きれたが、これまでにない高揚した作品として両作品は絶賛された。安井贔屓の児島喜久雄は当時の新聞で「安井君の二点は実に素晴らしいものだった。単に之迄の安井君の最傑作であるばかりでなく現代の洋画の絶頂である。美術を愛する者はあの作の為に必ず一水会を観るべきである。『承徳の喇嘛廟は初夏の陽こ煌として輝いて居る。安井君はそれを真正面から描いて新しいクラッシックな傑作を作った」[*3]と毎回のように絶賛しているが、児島に限らず、発表当時の評価も安井の死後もこの時期の一連の作品が多くの人にもっとも高い評価を受けている。


[*1]以上の引用は『安井曽太郎(日本現代画家選U)』1952年


[*2]石井柏亭「安井曽太郎」『みづゑ』507 1948年1月号


[*3]児島喜久雄「『一水会』を観る」東京朝日新聞 1937年12月7日


80
F夫人像
Portrait of Mrs.F

1939(昭和14)年
油彩・カンヴァス
88.0×66.0cm
第3回一水会展(1939)〔肖像〕
個人蔵

 美術評論家福島繁太郎の夫人福島慶子氏の肖像画。福島慶子氏は随筆家として知られ、1955(昭和30)年にベストセラーとなった『うちの宿六』(文整春社刊)をはじめ、数多くの随筆を発表している。


 「初めに黒い服を着た25号を描いたが、どちらかの都合で休んでいる内に何だかうまく描けそうもない気がしてやめてしまった。黒服のはやめましょうと言ったら、夫人は明るい派手な服を着て現われた。この洋服はなかなかむつかしかった。白地にこまかい縞の洋服は実に美しかったがむつかしかった。黒い紗の様な襟巻の様な飾りも美しくむつかしかった。全体、白、黒、赤の取り合わせが綺麗だった」[*1]と、安井は語っている。わざと描きづらい洋服を選び、安井を困らせた夫人であったが、むしろそのことが安井の創作意欲をかき立てたように思われる。洋服だけが画面のなかで飛び出して全体のバランスが崩れそうになるところを、縞の要所だけを抑えて調和をはかっているだけでなく、夫人の知的で快活な性格が、そのポーズや口元などから伝わってくる。


[*1〕「私の描いた肖像画」『文藝春秋』29−5 1991年4月号

109

Artist’s Granddaughter

1950(昭和25)年
油彩・カンヴァス
91.0×72.0cm
第12回一水会展(1950)
大原美術館

 籐の椅子に座っているのは、一人息子である安井慶一郎の長女美乃。顔は斜め前方を見るが、今にも立ち上がり駆け出しそうな気配を感じる。椅子の安定感とは対照的に、孫のスピード感ある、かたちを定めきれない筆の痕跡が、見るものをそうさせているのだろう。肖像画の分野で確固たる評価を得た安井だが、この孫をモデルにした際の心境と相当な苦労を次のように語っている。


 「依頼画でもなく、記念肖像でもないので、実に気楽に描くことが出来た。モデルの孫はまだモデルには無理で、ほとんどポーズせなかった。立ったり、椅子にねころんだりして、全くモデルにならなかったが、そういうモデル振りが、余りモデルにとらわれないことの一つのよき勉強を、僕にさしてくれた樣でもあった。」[*1]


 そして、このダイナミックな表現に至ったきっかけとして、若い学生による刺激があった。


 「この夏湯河原の画室で、ある若い画学生の絵を見て上げた。その絵はまずくてきたない絵であったが、ふとそこにあった丁度制作中の僕の絵を見て、実に淋しい気がした。僕のは多少整理され、色彩も幾分こなされてきれいには見えたが、かんじんの若さがなかった。へたな画学生の絵にはいきいきした若さがあった。(中略)その画学生の絵を見てから仕上げたものである。」[*2〕


 安井の素描がそのまま油絵で実現されたと思えるほどの、自由で実験的な筆の動き。そして、身体の骨格が破綻をきたすことなく行われた大胆なボリュームの変形。この作品は、ほとんど静止したモティーフからその造形なり性格なりを掘り起こす、これまでの安井の方法とは異なるがために実現しえたといえるだろう。


[*1]「藤」『ポザール(一水会機関紙)』12 1951年6月


[*2]「藤」『アトリエ』287 1950年12月号


115
立像
Standing Female Figure

1952(昭和27)年
油彩・カンヴァス
l16.7×89.0cm
第14回一水会展(1952)
株式会社ジャパンヘルスサミット

 約20年間裸体画の制作から遠ざかっていた安井が、久々に挑戦したのが《腰かける裸女》と本作、そして《腰かけのポーズ》(cat.no.118)である。いずれも同じモデルで、《腰かける裸女》は来宮の別荘、あとの2点は竹内栖鳳が以前画室として使っていた湯河原天野屋のアトリエで描かれた。


 「モデルを画室の戸棚の前に立たせた。額、棚、の直線の中で裸像が美しく見えて、そのままいい構図だった。棚上の左右の絵の位置をとりかえた程度で、大体あるがままを無理なく絵にすることが出来た。そのせいか、この絵は、僕としては比較的順調に描き進めることが出来た。もっとも、裸体と棚の関係が離れ勝ちになって、なかなか一つにならないので困ったり、棚の横線の入れ方に相当苦心したりはしたが‥。」[*1]


 これまで描かれた裸婦と比べてみると、絵具は薄塗りで、からだのボリュームや明暗の表現は、黒の伸びやかな線によるオイルスケッチが多用されている。安井の言葉にあるように、裸体と棚(背景)との関係を違和感なく処理しながら、それぞれの材質感を描きわけ、しかも全体の統一感を保つことに苦心のあとがうかがえるが、さりげなく施された腕の白い絵具をはじめ、細部にわたる神経の行き届いた処理には嫌みがない。


 田崎広助は、この作品について画家の視点で次のように述べている。


 「この立像は、云わば、晩年の御仕事の代表的な物です。ポーズも静におとなしく、手を後ろに組んで、足をそろえて立った姿です。体を画面の中心より左の方によせた所に面白みがあります。造形的に見て、上体から足までの流れる様な線のうごき、筋肉の自然な力の表現が実に上手に捉えてあります。パックの横板の線が、平行して四つ描かれてあります。此れは、縦の体の線に対して直角に横の線で面白い対照をなしています。中央に絵が立てかけてあり、顔のすぐうしろに強い色彩を感じます。変化をあたえ注意を集めます。」〔*2〕

[*1]『安井曽太郎(日本現代画家選V)』1952年


[*2]田崎広助「立像」『現代の眼』17 1956年4月号


124
葡萄とペルシャ大皿
Grapes and a Large Persian Dish

1955(昭和30)年
油彩・カンヴァス
44.4×53.4cm
七大家新作画展(1955)
山種美術館

 安井の静物画にしばしば登場する、引き出しつきの濃茶の机に大皿と2種類の葡萄が描かれている。机の隅にモティーフが配置されることは《桃》(cat.no.108)なとの作品にも見られ、緊張感ある構図づくりの引き立て役となっているが、さらにこの作品では、机の辺が画面に対しほぼ水平垂直に描かれ緊密した構図となっている。そして2種類の葡萄の向きも机に呼応して描かれている。奥行きに対する配慮を捨て去ったかのような、こうしたモティーフのかたちのゆがみは、セザンヌからはじまりブラックやマティスらも実践しているが、安井のこの厳格な構成においても、何ら違和感を与えていない。おそらく、背景の黄土色や机の褐色の平面的な処理、そして力のある黒の輪郭線が的確にモティーフを押さえ込み、調和させているためであろう。


 こうした静物画は、構図を重んじる安井にとって、格好のジャンルであったことはたしかである。ここでたびたび登場する果物の多くは岡山の初平から送られてきたものであった。1951(昭和26)年に描かれた《葡萄園》の、安井の解説を読むと、「岡山では有名な店らしく、その主人松田利七氏には私はまだ一面識もなく、手紙で交渉があるばかりだが、始終みずみずしい果物を送ってくれる。夫々綺麗で写生も出来るし、食べれば非常においしいのでいつも喜んでいる。」[*1]とある。初平は1913(大正2)年の創業以来、高価な果物や瀬戸内の海産物を耽り扱った有名店で、名物浜焼鯛などは梅原龍三郎のモティーフにもなった。


[*1]『安井曽太郎(日本現代画家選V)』1952年

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