このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 柳原義達年譜 柳原義達作品集

柳原義達年譜

この年譜は、『柳原義達展』カタログ(2000年 世田谷美術館)所収の年譜をもとに、増補を加えたものである。

1910(明治43)年
 3月21日 神戸市栄町六丁目に生まれる。父達次郎、母みねの第三子。

1928(昭和3)年 18歳
 3月 兵庫県立神戸第三中学校(現在の長田高校)を卒業する。卒業後は京都に移り住んで日本画を志し、福田平八郎に作品の批評を請うた。(中学2年生の頃から、神戸第一中学校の教師であり日本画家村上華岳の弟子でもあった藤村良一(良知)に日本画の手解きを受けていた。)しかし、帰郷した際目にした『世界美術全集 第33巻 欧州近代(未来派・立体派・表現派)と明治大正(文展後期・院展・帝展)時代』(昭和4年、平凡社刊)に掲載されていたブールデルの《アルヴェル将軍大騎馬像》の図版に感銘を受け、一転して彫刻家を志すようになる。

1931(昭和6)年 21歳
 東京に移り、同舟舎で素描を学んだのちに東京美術学校彫刻科に入学する。美術学校での指導教官は朝倉文夫、北村西望、建畠大夢だったが、高村光太郎、清水多嘉示らから強い影響を受けた。同期生には吉田芳夫(彫刻)、峰孝(彫刻)、高山辰雄(日本画)、香月泰男(油画)らがいた。特に香月とは親しく交友する。

1932(昭和7)年 22歳
 第13回帝展に《女の首》が入選する。朝日新聞紙上で、清水多嘉示の称賛を受ける。

1933(昭和8)年 23歳
 4月 第8回国画会展に《女の首》を出品し、国画奨学賞を受賞する。
 この頃、本郷新や山内壮夫と親しくなる。

1936(昭和11)年 26歳
 3月 東京美術学校彫刻科を卒業する。その後2年間は研究室にのこる。
 池袋にアトリエを借り、制作に励む。

1937(昭和12)年 27歳
 小島操と結婚し、護国寺の近くの松籟荘アパート(東京市小石川区雑司ヶ谷61)に住む。
 5月 明田川孝とともに国画会同人に推される。

1939(昭和14)年 29歳
 4月 第14回国画会展に《山羊》を出品し、国画会賞を受賞する。高村光太郎の勧めでこの作品の頒布会をおこなう。
 第14回国画会展後、本郷新、山内壮夫、明田川孝、吉田芳夫、佐藤忠良、舟越保武らと共に同会を脱退する。新制作派協会に合流し、彫刻部の創立に参加する。
 この年、世田谷にある現在のアトリエ(世田谷区赤堤1-38-3)に転居する。

1940(昭和15)年 30歳
 《山本恪二さんの首》を制作する。山本恪二は美術学校の後輩で、左翼運動で拘禁されたが、柳原が身元引受人となって解放された。

1945(昭和20)年 35歳
 京都府の和知鉱山に疎開中に佐倉部隊に入隊せよとの召集礼状を受け取るが、8月15日、出征する和知駅のホームで終戦を知る。

1946(昭和21)年 36歳
 佐藤忠良と共に作品を預けていた家の火災で、戦前の作品のほとんどを焼失する。

1951(昭和26)年 41歳
 2月 サロン・ド・メ東京展が開催され、ヨーロッパの芸術的動向の一端が戦後初めて紹介される。バルタザール・ロボの小品《偶像》に強い衝撃を受ける。
 9月 新制作派協会が創造美術と合同して、新制作協会となる。
 板垣鷹穂、中川為延、山本稚彦、笠置季男、高須賀桂、山内壮夫らと共に「白色セメント造形美術会」の委員となる。この会は小野田セメント後援の日比谷公園野外彫刻展に際して結成され、柳原は1952、53、58、60年の4回出品した。

1952(昭和27)年 42歳
 東京駅に《鹿》(レリーフ)を設置する。

1953(昭和28)年 43歳
 6月 1950年に今泉篤男の発案で結成され、牛島憲之、川端実、山口薫、脇田和、岡鹿之助、菊池一雄が加わった檀会に参加。銀座資生堂ギャラリーでおこなわれた第4回展に出品する。檀会は昭和43年の山口薫の死まで継続する。
 広島市平和大通りに《ラ・パンセ》を設置する。
 仙台市青葉城址に小野田セメントの斡旋で《伊達政宗立像》を設置する。1950年代初頭には仙台市旧公会堂の装飾、レジャーセンターの装飾を白色セメントで制作する。
 年末、版画家浜口陽三と同船でフランスに渡り、グランド・ショミエールでエマニュエル・オリコストに師事する。当時のグランド・ショミエールでは、抽象をオシップ・ザッキン、具象をエマニュエル・オリコストが担当していた。柳原は、ヨーロッパ彫刻の核心的な問題である量塊をとらえるため、再度基本からやりなおす決意をする。「パリでの生活は、平面的な自分の目を立体的な量の目にすることに費やされた」(柳原義達「反省の歴史」)。その後、4年間の滞在中には、建畠覚造、向井良吉らと親しく交流し、ロボ、マルタン、セザール、リシェらの彫刻家の知遇も得る。ドイツ、オランダ、ベルギー、イタリアに旅行する。

1954(昭和29)年 44歳
 ヴェネチアにおける第1回国際造形芸術家会議に向井良吉と共にオブザーバーとして参加する。この会議には他にパリ滞在中の佐藤敬、関口俊吾、建畠覚造、日本からは清水多嘉示が参加した。

1957(昭和32)年 47歳
 帰国する。

1958(昭和33)年 48歳
 美術家連盟の理事になる。その後1959年まで就任する。
 4月 第1回高村光太郎賞を受賞する。
 5月 第3回現代日本美術展に《座る(裸婦)》を出品し、優秀賞を受賞する。

1959(昭和34)年 49歳
 屑鉄を溶接した作品《蟻》を制作する。

1963(昭和38)年 53歳
 9月 第27回新制作協会展に《Au Congres》を出品する。その後、新制作協会を脱退する。

1964(昭和39)年 54歳
 川崎市向ヶ丘遊園に《フラワー・エンジェル》を設置する。その後、同遊園内には《花と人間と機械の対話》も設置された。
 仙台市青葉城址にあった《伊達政宗立像》が、岩出山城址に移される。

1965(昭和40)年 55歳
 親交のあった香月泰男の郷里山口県小郡町(市)に山口農協会館のための記念碑《耕す人々のために》を完成させる。静岡県沼津市に東洋電産をスポンサーとして愛鷹学園のための記念碑《風見の鶏》を完成させる。
 10月 宇部市における第1回現代日本彫刻展の審査選考委員に選ばれる。以後毎回委員をつとめる。

1966(昭和41)年 56歳
 第7回現代日本美術展(5月10日-30日)の選考委員をつとめる。
 東京における第5回国際造形芸術会議(10月9日-15日)第5回総会に参加する。
 神戸市東遊園地に記念碑《愛「仔馬の像」》を設置する。

1968(昭和43)年 58歳
 日本大学芸術学部美術学科講師となる。
 美術家連盟の理事となる。以後1969年まで就任する。
 5月 第8回現代日本美術展に出品した《僧形平清盛》を神戸市兵庫区松原町清盛塚に設置する。
 10月 神戸須磨離宮公園における第1回現代彫刻展の審査委員に選ばれる。以後毎回審査委員をつとめる。

1970(昭和45)年 60歳
 日本大学芸術学部美術学科の主任教授となる。
 9月 神戸須磨離宮公園第2回現代彫刻展に《道標・鴉》を出品し、兵庫県立近代美術館賞を受賞する。
 11月 菊池一雄、佐藤忠良、高田博厚、舟越保武、本郷新らと共に六彫展を結成し、その第1回展を現代彫刻センターで開催する。
 北浦和老人公園に《旧制浦和高等学校記念碑》を設置する。

1971(昭和46)年 61歳
 神戸市東遊園地に《はと》を設置する。

1973(昭和48)年 63歳
 6月 第1回彫刻の森美術館大賞展の審査委員となる。
 8月 長野市南千歳公園に、第1回長野市野外彫刻賞受賞の《道標・鳩》を設置する。

1974(昭和49)年 64歳
 10月 《道標・鳩》で第5回中原悌二郎賞大賞を受賞する。

1975(昭和50)年 65歳
 中原悌二郎賞の選考委員となる。

1976(昭和51)年 66歳
 第5回平櫛田中賞の選考委員となる。以後1983年まで選考委員をつとめる。
 熊日総合美術展21世紀アート大賞(10月30日-11月7日 熊本県立美術館)の審査員をつとめる。

1977(昭和52)年 67歳
 釧路市幣舞橋に設置する《道東の四季》のうち「秋」を担当する。「春」は舟越保武、「夏」は佐藤忠良、「冬」は本郷新が制作した。この作品一連は、現代彫刻センター、丸三鶴屋で公開された後に釧路市幣舞橋に設置された。
 6月 第3回彫刻の森美術館大賞展審査委員となる。
 再びヨーロッパを訪問する。

1978(昭和53)年 68歳
 岩手県陸前高田市市民体育館前に《岩頭の女》を設置する。

1979(昭和54)年 69歳
 神戸市須磨区地下鉄名谷駅南広場に《いこい》(2体)・《道標・鳩》を設置する。
 神戸市王子スポーツセンター前庭に《すこやか》を設置する。

1980(昭和55)年 70歳
 彫刻の森美術館第1回高村光太郎大賞展の選考委員となる。
 日本大学を退官する。
 神戸市須磨区地下鉄名谷駅南広場に《道標・鳩》を設置する。

1981(昭和56)年 71歳
 平櫛田中賞の選考委員となる。
 現代彫刻センターより作品集『柳原義達』が刊行される。
 神戸市花と彫刻の道に《道標・鳩》を設置する。
 10月 宇部市における第9回現代日本彫刻展運営委員、審査選考委員をつとめる。

1982(昭和57)年 72歳
 神戸市灘神戸生活協同組合生活文化センターに《すこやか》・《道標・鳩》(3体)・《道標・鴉》・《道標・風の中の鴉》を設置する。

1983(昭和58)年 73歳
 東京都田無市の都立田無高等学校に《道標・鳩》を設置する。

1984(昭和59)年 74歳
 夏に、イタリア・フランス・イギリス・ドイツ・オランダを旅行する。
 この年、福島市音楽堂に《道標・鳩》を設置する。

1985(昭和60)年 75歳
 4月 筑摩書房より美術論集『孤独なる彫刻』が刊行される。
 神戸市ポートアイランドホール前に《犬の唄》を設置する。
 ユニバーシアード神戸大会のため、《勝利者の像》を神戸総合運動公園に設置する。
 名古屋市の名城公園に《道標・鳩》を設置する。
 静岡県立美術館に《道標・鳩》(5体)を設置する。

1986(昭和61)年 76歳
 3月 世田谷美術館が開館し、その野外彫刻として《しゃがむ女》を設置する。
 7月 札幌芸術の森・野外美術館に《道標・鳩》(3体)を設置する。
 11月 第10回長谷川仁記念賞を受賞する。

1987(昭和62)年 77歳
 10月 講談社より『柳原義達作品集』が刊行される。
 11月 愛知県碧南市保険センターの前庭に《道標・鳩》を設置する。

1988(昭和63)年 78歳
 福島市(コミュニティ道路)置賜町パセオ470通りに《道標・鳩》を設置する。

1989(昭和64)年 79歳
 神戸市しあわせの村に《ふれあいの門》を設置する。この作品は小林睦一郎との共作で、中には10体の《鳩》が含まれている。

1990(平成2)年 80歳
 文京区本郷給水所公苑に《道標・鳩》(6体)を設置する。
 清瀬市キヨセケヤキロードギャラリーに《道標・鳩》を設置する。
 浦安市中央武道館に《道標・鳩》を設置する。

1991(平成3)年 81歳
 福島市音楽堂に《道標・鳩》を設置する。
 藤沢市藤沢聖苑に《道標・鳩》を設置する。
 河合町立文化会館まほろばホールの前庭に《いこい》を設置する。

1992(平成4)年 82歳
 大和郡山市役所玄関前に《道標・鳩》、同市総合公園に《道標・鳩》(3体)を設置する。
 9月 第23回中原悌二郎賞の選考委員となる。

1993(平成5)年 83歳
 東京国立近代美術館で「柳原義達展」が開催される。(9月10日~10月7日)この展覧会は京都国立近代美術館にも巡回する。(11月16日~12月12日)
 神戸しあわせの村に《宮崎辰雄像》を設置する。
 仙台市台原森林公園に15体の《道標・鳩》からなる「平和とやすらぎの広場」を設置する。

1994(平成6)年 84歳
 前年に開催された「柳原義達展」(国立近代美術館)により、第35回毎日芸術賞を受賞する。

1995(平成7)年 85歳
 第7回本郷新賞の選考委員をつとめる。
 宮城県美術館で「道標-生のあかしを刻む 柳原義達展」が開催される。(11月11日~12月10日)この展覧会は神戸市立博物館、三重県立美術館他8館を巡回する。

1996(平成8)年 86歳
 文化功労者に選ばれる。
 このころ、2度にわたり白内障の手術を受ける。

1999(平成8)年 89歳
 三重県立美術館(4月7日~5月9日)、神奈川県立近代美術館(10月21日~2000年1月23日)にて「柳原義達デッサン展」を開催する。この展覧会はその後山形美術館に巡回する。(2000年4月27日~5月7日)
 現代彫刻センターで「柳原義達展」が開催される。(11月5日~2000年1月25日)
 神戸新聞平和賞特別賞を受賞する。

2000(平成12)年 90歳
 世田谷美術館で「卒寿記念 柳原義達展」が開催される。(6月3日~7月20日)

2001(平成13)年 91歳
 宇部市野外彫刻美術館の熱帯植物館展示室で特別展「向井良吉・柳原義達展」が開催される。(7月12日~11月11日)これは野外彫刻活動の40周年を記念したもので、第19回現代日本彫刻展と同時に開催された。

2002(平成14)年 92歳
 10月 宇部市に「柳原義達・向井良吉  作品展示コーナー」が開設される。

2003(平成15)年 93歳
 11月 三重県立美術館に柳原義達記念館が開設される。

2004(平成16)年 94歳
 11月11日 逝去。

ページID:000057164