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山本正道の風景彫刻

酒井哲朗

T.

 山本正道の彫刻作品は、風景彫刻と呼ばれる。風景画というものは古くからあるが、風景彫刻は新しい。現代の具象彫刻が切り開いた新しい空間表現の世界である。人々はその彫刻の時間が止まってしまったようなのどかな牧歌的な作品の世界に触れて、現代人が失ってしまった遠い記憶のなかの風景を連想する。このような古くて新しい彫刻の世界は、どのようにして生まれてきたのか、直接作家自身に聞いてみた。

 そのインタヴュ−を通じて知ったことは、山本正道の彫刻人生は、運命の糸に導かれるように幸運な展開をしていったことである。陶芸家を父にもった山本は、はじめは芸術家とは異なった普通の人生を望み高校に進学したというが、大学進学が近づく頃になって美術志向が強まり、たまたま高校3年の時、日本橋高島屋でイタリア現代彫刻展をみて感動し、彫刻家になる決心をしたという。その頃ちょうど東京芸大の入試が学科重視の方針をとっていたため、実技に十分の経験がなかった山本が運よく合格し、入学後は菊池一雄というよき師にめぐり会うことになった。

 イタリア彫刻のなかでも、山本正道がとくに感銘を受けたのは、ペリクレ・ファツツィーニの《パルチザン》のブロンズ像と詩人《ウンガレッティ》の木彫の胸像だったというが、ファッツィーニの助手をしていた芸大の先輩(小野田宇花)の助力で、ファッツィーニ自身の留学受入れの手紙をもらったことが有利に作用してイタリア留学の希望が実現したという。さらにまた、1978年にフルブライト交換研究員として渡米した時にも、偶然の幸運に恵まれている。山本の研究計画は、彼の風景彫刻の作品資料などを提示し、アメリカ南西部の先住民の遺跡と伝統的な生活文化の調査を企図したものだったが、その時の試験官が映画監督のジョン・フォードの友人で、山本の計画を熱心に支持してくれたという。

 イタリア体験やアメリカ体験が彼の芸術形成にどれほど大きな意味をもったかを考える時、この幸運な偶然は、一種運命的といえる。すなわち山本正道という彫刻家を世に送り出すために、神が仕組んだ筋書きのようにみえるのである。しかし、これは彼自身の意志と努力によって、自ら招いた強運というべきであろう。彫刻家の伊東傀は『山本正道作品集』(新潮社、1989年)のなかで、芸大の校舎の裏につくられた掘っ立て小屋で、山本が2年間にわたって、来る日も来る日も大学院の卒業制作の木彫《黙示》に取り組んでいる姿に、少年時代に目撃した喰いついたら離さないスッポンの執拗さを重ね合わせながら、並外れた真摯な制作態度に深い敬意をこめてその人物像を語っていることからも、その一端を知ることができる。ちなみにこの《黙示》は、木の部材を接ぎ合わせてつくった初期ファッツィーニの木彫の感化の強いものである。

U.

 山本正道の留学前の作品は、《トルソ》(1965年)、《夢》(1967年)などの石彫がある。山本は、これらの作品において、彫刻を対象の描写ではなく、量そのもののフォルムとして追求している。この彫刻思考は、ヘンリー・ムーアやイタリア現代彫刻が先導したもので、イタリアでもテラコッタの《腕組み》(1969年)や大理石の《小さな胸像》(1969年)、《雲の形》(石灰石、1971年)などに継承され、さらにその後も《高原U》(1972〜74年)や数々の少女座像として展開された。それは山本正道の彫刻の基本型であり、風景彫刻のなかにも単体の造型原理として生きている。また時には、あの愛すべき《ニューヨークの王様》(1979年)のように、風景のなかからさまよい出てくる場合もある。それらのフォルムが喚起する詩情とユーモアは、山本固有の資質による独創である。

 風景彫刻の初出は、《紙芝居》(1969年)であり、翌年《ローマの松》が制作されている。《紙芝居》は、下宿の窓から見下ろした街角の広場の人形芝居の光景がモチーフだというが、人形芝居が紙芝居に変容したように、ローマの子どもたちに日本の子どものイメージが重なっている。そこに作家の幼年時代の記憶が投影され、制作の過程で窓から見下ろした風景のなかに作者自身が入りこむことになり、視線の転換が生じる。

 《ローマの松》について、山本は、ストライキによる学校閉鎖で構内に入れない学生たちに対して、ファッツィーニが松の木でも写生すればよいといったのがヒントになったもので、レスピーギ作曲の『ローマの松』をイメージしたという。しかし、松の木を写生することとそれを彫刻にすることには大きな違いがある。彫刻として松の木を表現するためには、樹幹や枝葉とともに松が根を下ろした大地を表現しなければならない。そこでは彫刻制作は松の木を立体化するのではなく、松の木のあるひとつの空間的世界を創出することとなり、彫刻家は風景を見るのではなく、物質的空間として存在させなければならない。このように風景を彫刻化したいわゆる風景彫刻は、イタリアではじまったのであるが、《紙芝居》や《ローマの松》は、即興的でまだ試作的な色合いが濃い。

 山本正道のイタリア留学のもう一つ重要な収穫は、エトルスク芸術との出会いである。山本ははじめてイタリア現代彫刻に接した時、彼らの躍動する生命感情の表現に彫刻とはかくも自由なものであったのかという感動を覚えたというが、イタリア滞在中に、彼は現代人の饒舌よりもむしろエトルスクの寡黙さに、ファッツィーニよりもマリノ・マリーニの芸術に共感するようになった。死者に捧げられたエトルスク芸術によって、山本はそのプリミティヴな造形精神とともに、そこに流れる静かで深いそして豊かな時間の観念を学んだようだ。

 帰国後4年、《オリーヴの樹》(1973年〉や《オリーヴ畑の午後》(1974年)の小品を経て、第39回新制作展に出品されたのが《追憶》(1975年)であり、《遺跡の見える風景》(1976年)、《秋》《古代への夢》(1977年)など一連の本格的な風景彫刻が相次いで制作された。これらの山本正道の作品は彫刻界の注目を集め、《追憶》は平櫛田中賞、《秋》は中原悌二郎賞優秀賞を受賞した。「追憶」「遺跡」「古代」など作品のタイトルが示すように過去へ思いを馳せ、ゆるやかに起伏した大地に樹木が茂りロバや人が憩い、あるいは鳥が遊び、遺跡が点在する。光が遍満したのびやかな空間に静止したようなゆるやかな時が流れる、どこか遠くの夢のような郷愁を誘う牧歌的な光景が造形化されている。

 《追憶》について、山本はその空間表現を日本の絵巻になぞらえ、大きな自然の中に木も人も動物も同じ次元で扱っている点を南画や文人画を例にあげて説明している(『毎日新聞』昭和51年4月2日)。また、作品中の「ロバは自分自身の投影だ」(『山本正道作品集』)ともいう。たしかにその作品の世界は、南画のいう「臥遊山水」、すなわちそこにありたいと希求する理想的世界であり、自然との全き融和がみられる。だが正直なところ、そのイタリア的プリミティヴの世界と南画的仙境とはいささか違和を感じるのであるが、自然感情の深いところで通底しているのかも知れない。1978年から79年にかけてニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグに学び、アメリカ南西部のプエブロ・インディアンの遺跡を訪れたアメリカ体験は、山本正道の芸術をさらに深化させた。イタリアの自然に人間的要素が加わった心地よい牧歌的な風景に対して、アメリカ南西部の人間を拒絶するような厳しい自然、荒地ではあるが明るく爽快な野性的自然、そしてその厳しい環境の中から生まれたプエブロ・インディアンの文化、こういった異質の自然や文化の体験は、山本正道の風景彫刻に造形的な厳しさを加えることになった。アメリカをモチーフにした作品には、《モントークー岬にて》(1979年)、《カンサスのトウモロコシ畑》《アスペンのコロラド》(1980年)のような、人や動物のいない風景が出現する。

 しかし、山本正道のアメリカ体験は、自然の厳しさだけではなく、プエブロ・インディアンが遺した古いアンソロジーなどを通じて、「その限りない優しさと考え方に深く共鳴した」という点が重要である。山本の風景彫刻は、《プエブロヘの道》《ワシントン・スクウェア》(1980年)、《アスペンのコロラドU》(1983年)、《旅の記憶》(1986年)、《秋の断章》(1988年)と展開し、風景の中にロバや少女が登場するが、そこにはアメリカ体験によって得た確信に基づいて、時空をこえて存在しつづける純真素朴な人間生活の空間が形象され、そこでは人も動物も自然との親和のうちにまどろむような悠久の時間を生きつづける。

V.

 それにしても、彫刻が何故風景化されるのか、あるいはそれはどういうことなのか。単体の人物像はそれが大きくても小さくてもヒューマン・スケールという基準がある。しかし、《オリーヴ畑の午後》(1974年)のように、木の下に眠る人物が表現されると、木と人間の相関関係が生じる。さらに、《追憶》(1975年)のように大地に樹木やロバに乗る人、鳥などが表されると広々とした大地の尺度が入って空間の意味が変わり、そこにある種の時間が流れる。

 《古代への夢》(1977年)のような遺跡の風景では、遺跡自体の意味が加わり、造形手法は同じだとしても、表現されている空間や時間の質は《追憶》とは異なる。こうして山本正道の風景彫刻の成立の道筋にしたがってみていくと、山本が企てたのは、風景彫刻というある特別な時空のなかに、人間と動物・植物を含めて生きとし生けるものの生の営みをまるごと包含する象徴的な彫刻的世界を創出することであったといえよう。

 詩人の吉増剛造は、山本正道の『デッサン集』に寄せた文章のなかで、彼の彫刻の世界の根元に「不思議な存在の影の力」が存在し、彼の作品にはその声が遍満しているといい、それは「童心」というより、「優れて深い“低き”に心を沈める力」ではないかという。山本正道の彫刻に登場するのは、「名もなきもの」や「小さきもの」たちであり、「無垢なるもの」へのこの彫刻家の志向が感じとれる。ごく初期からのモチーフである少女像についてもそれはいえる。それが石であれ、ブロンズであれ、円滑な起伏と微妙なテクスチュアをもつ表面、単純化された量塊としてのフォルム、寡黙な造型であるが、まさにその故に少女たちの心は内向し、物思う姿となる。これら物思う少女たち、そしてロバたちが風景彫刻の中に出現して、永遠の時間の相のもとにまどろむように存在しつづけるのである。

 山本正道の風景彫刻が1970年代に成立したという事実は、あらためて想起されてよい。大阪万博以降、人々は技術革新と物質的繁栄の未来に夢を描いた。現代彫刻は新しい素材による新しい空間の追求が主流であった。「重厚長大」「上昇志向」を謳歌した時流の外で、山本正道はもっと違ったものを見ていた。この独自の精神の位相は、やはり特異というべきであろう。それは柔軟で強靭なものであり、そこから風景彫刻という新しい表現の世界を創出したのであるが、その牧歌的、親和的な世界に見られる一種孤独なたたずまいは、彼の精神の深層にある孤独感と無縁ではないように思える。

 1980年代に野外彫刻が盛んに設置されるようになり、山本正道の彫刻にもそれにしたがったスケールの変化がみられる。その最たるものは仙台市野草園に設置された高さ2.4メートルの《風の音》(1983年)である。まわりに人工物がみえない林の中の広場に、3本の大きな木の彫刻が置かれている。風景彫刻の木が独立して巨大化したものといえるが、等身の人物を拡大したものとは意味が異なる。ブロンズの木は周囲の林の木々との調和が考慮されており、彫刻はここでは現実の自然のスケールにしたがっている。人は彫刻の木を見上げることになるわけだが、彫刻の木との対比においてここに想定される人物スケールは等身以下である。風景彫刻の環境への適応であったが、「低きに心を沈める力」は、このような場合にも働いている。

 もうひとつの変化は、風景彫刻の立体化である。《旅の記憶’88》や《旅の記憶’94》などがその例で、これは公共空間に作品が常設展示される例がふえたことも関係したと思われる。平面的な地表の広がりを表象していた空間が、地層の断面のような立体の表面に風景が表現されることになり、山本の風景彫刻は、地層ごと切り取ったような立体としてのヴォリュームと表情をもつことになった。

 《旅の記憶》にみられるように、山本正道の彫刻は、《ローマの松》以来、同じモチーフによる新しいヴァージョンがしばしばつくられる。これは彼の彫刻作法の特色といえる。同じモチーフの反復は、その都度さらなる彫刻的完成を求めるという風なものではない。彼の表現する風景は、どこにも実在しない記憶のなかの風景である。それは彫刻家の思念のなかで、イタリアやアメリカ南西部の風景、彼が経験したさまざまな人や場所の記憶と重層して形象化されたものである。たとえば、《エトルリアの壺》という作品について、彼自身の語るところによれば、エトルリアの壺は彼の古代への憧憬とともに、陶芸家であった父の思い出を表したものだという。

 山本正道がイメージする風景は、記憶の中のあり得べき世界、いいかえれば人が生きる原点ともいうべき無垢なる世界、いうところの原風景であり、彼にとって制作という行為は、それを彫刻として現実化する試みである。このような過去と現在を往還する彫刻的思考のなかから、さまざまなヴァリエーションが生まれる。近年のモチーフに《オキーフの家》がある。いまや聖地と化したニューメキシコのジョージア・オキーフの土造りの家を石彫として表現したものであるが、作家の思念のなかで形象化されたオキーフの家は、アメリカ的野性(wilderness)とはまた異なった、まぎれもない山本正道の風景彫刻の世界として立ち現れている。

(三重県立美術館長)

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