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浅野弥衛展図録(1996)

 

撫でなでひっかきくちづけを−浅野弥衛の作品をめぐる覚書

石崎勝基

The wall on which the prophets wrote
is cracking at the seams
King Crimson

閑話休題

 たとえばcat.no.129−夜空に雲、というよりは蜘蛛の巣に近いだろうか、あるいは宇宙に星雲がひろがるさまだの、顕微鏡をのぞいた時の光景を連想するやもしれない。真っ黒な画面を糸のように細い線がもつれ、からまり、時にぐうんとのびて、覆おうとしている。線の走り方にこれといった規則は見あたらず、ただ、中央がぽかりとあいているので、両側から二つのかたまりが近づいてきて、接触しようとするまぎわとも見える。右手のかたまりは上から斜めに下がってくるのでやや優位にたち、左はそれを受けとめようとするのだが、その分下では、右の方にもひろがっているようだ。


 それにしても、線の細さは、何らかの実体がそこにあるとは感じさせない。せいぜいが何ものかの軌跡だか痕跡といったところで、どれだけ線が増えようと、黒のひろがりを埋めつくすことなどできまい。黒自身には何らニュアンスも変化もなく、完全に均一なので、まさに絶対的な空間としてひろがっているかのようだ。しかもそれは、単にからっぽなのでもない。光の欠如なれば奥へしりぞくと感じさせる傾向はあるにせよ、同時に、何か密な、つまった印象を与えるのである。線はただ、その中を通りすぎるのみだ。だから線の白は、黒と対等に拮抗するものではありえない。陽光のもとで見るか人工光線下か、陽光でも時間や季節、人工光なら種類や照度によって見えようは変わるだろうが、いずれにせよ、白はすでに黒に染められているというか、黒を透かすことだろう。そのため見る者の目も、画面の上から線をなぞるだけでなく、線の向こうにもぐりこむこともできるはずだ。

 そのかぎりで、線は濃さ太さで幾段階かに分類できる。一等細いのは中央左よりの丸まった部分などで、からまりぐあいもその分細かく、黒に溶けいりそうだ。一番太いのは幾本かの長くのびた線や、左下の部分だが、後者は頻繁に短く折れるせいもあって、黒に傷をつけようとしているとも見える。実際、随所に散在する短い線、というより点は、画面の横のひろがりにそって動くというより、外から黒に接触した跡として、黒のひろがりを横や奥だけでなく、手前にも延長させることになる。また、線の折れは、縦ないし斜めのものが全体として比較的目につきやすく、画面の横長に抵触しないかぎりで、縦のひろがりを暗示している。これに対し長い線は、おおむね横方向にのび、わけても中央のからっぽを保持している。またその長さと屈曲は、それをたどるだけの時間の経過を感じさせることにもなるだろう。この時間は、線が自由自在に走りまわるというより、太いものほど何らかの抵抗を受けているかのような走行のきしみによって、いっそう強調される。


 そして細い線と太い線、密な部分と疎な部分は、若干重なりあいつつ、適時ずれあいもして、互いに押しあいひきあうことで空間のひろがりに張りと生動感を吹きこんでいる。しかしこのひろがりは、画面を窓として、向こう側に抜けていく遠近法的なそれだの、画布なり紙なりの平らな面に絵具をおいた時生じる視覚的イリュージョンだのと、いいきってしまうわけにもいかないようだ。ここにあるのは、まず黒の物質的な密度をそなえた厚みであって、線がもたらすひろがりは、あくまでその中に包みこまれている。現に画面に近づいてみれば、白い線は黒の上に重ねられたものではなく、黒を刻みこむことでえられたものであることがわかる。それゆえ額縁は、絵の無限定な空間をたまたま切断し、外部から峻別するためのものというより、厚みのある物体を保護するのであり、その物体が黒く、しかも線によって生じるひろがりを受けいれるだけの柔軟さを宿しているのに応じ、黒塗りで、柔らかい木でなければならなかった(1)


T


 浅野弥衛はくりかえし、抽象をもっぱらとする「線の画家」「モノクロームの画家」と呼ばれてきた。浅野自身「線が好きで」(2)、また「黒と白の世界にもどって、私はふるさとに帰ったような自由を感じている」(3)等と語っている。とはいえ、たとえば本図録の図版をぱらぱらとくってみれば、浅野弥衛と聞いてすぐに思いうかぶ、いわゆる〈ひっかき〉による線の作品にとどまらず、その画業が予想以上の多様性に富んでいることはすぐ見てとれる。主を占めないとはいえ具象的なものもあれば、面に焦点をあてた作品もある。モノクロームについては、赤緑色盲ゆえ白と黒に自らの持ち場をかぎらざるをえなかったという事情はあるにせよ(4)、色を用いた作品が皆無というわけでもない。もちろん、作家が一つのスタイルを貫かなければならないという考え方は、ロマン主義がもたらした芸術家神話をでるものではないにせよ、ただ、線やモノクローム以上に浅野の作品の多くに共通するある特徴は、図版ではなく実物をいくつか見れば、たやすく認めることができるはずだ。すなわち、油彩の場合であれば白ないし黒の厚く平滑で、きわめて稠密な地作りである。こうしたマティエールが占める比重の大きさは、紙の作品でも変わらない。


 ここで、白のひっかきによる油彩の技法をまとめておこう(証言の時期に幅はあるのだが):


「2種類の白い絵具を根気よく混ぜあわせたものを絵を描くためのナイフで少しずつすくい、規則正しくあいだをおいて画面に置いていく。それから、ローラーで縦、横、と真っ平らになるまで繰り返し絵具をのばす。蚊が1匹とまっても跡が残るので、真夏でも部屋の窓や戸をすべて閉め切って作業する」(5)。ひっかきの線とは別に、しばしばほぼ水平の長い線が浅野の画面を横切っているのは、このためだろう。「後で、普通のハケ(金)で平らにする」(6)


「それから適当な乾燥度合いが来たときに引っかく…(中略)…乾き過ぎると、線の交差点のところでパチパチッと割れますし」、「湿気が多すぎるときですと、引っかきの土手が出てくる」。「夏ですと、きょう下塗りをして四十八時間ぐらい」、「冬だと一週聞かかります」(7)。線の太さも、「乾きがゆるければ、太く、かたければ、細い」(8)。ひっかくのは「小刀、クギ、キリ、鉄筆、針」など(9)。地作りはキャンヴァスを平らに寝かせて、ひっかきは画架にたてておこなう(10)。「画面には1度か2度で、すべての線を描き入れる」(11)、「午前中の柔らかい日光の陽を受けながら」(12)。「引っかきの調子のいいのは、だいたい四月から十月までなんです。それ以外のときはエンピツをやったり、パステルをやったりしているんですよ」(13)


「ナイフなどでクズを掻き落とす」(14)。「十分乾燥してから、夏だと十日から二週間くらいかかりますけれども、そのあとで黒い絵具を塗りこめるわけです」(15)。黒は「ツヤ消しした黒」(16)。「柔らかい布で拭くと、削れてくぼんだ線にだけ黒い絵具がたまって残」る(17)。「空白のところもうっすら白(黒)と、黒(白)が混ざり、灰色のムラムラが残る」(18)。「黒を塗っといて、その上に白で引っかいて、下の黒を出す」と、「線がなま」るので好まない(19)


 このような技法は、制作上何がしかの制約を課さずにはおくまい。具体的には、浅野の油彩はもっとも大きいものでも80号(112.1×145.5(20)、あるいは97.0×145.5p)で、通例、より小さなものが多い。ひっかきの作業は一気になされるので、これ以上の大きさになると、途中で絵具が固まってしまうという(21)。冬場なら乾きは遅くなるが、その場合「イメージがくたびれてしまう」(22)


 こうした技法上のプロセスと制約から、ある種の工芸的な性格を見てとることもできるだろう。〈工芸的〉なる形容は、〈装飾的〉〈デザイン的〉ともども、通常、マイナスの負荷を帯びて用いられる。近年、明治以降の日本における〈工芸〉および〈美術〉といった概念の歴史的性格をめぐる議論が盛んにおこなわれているが(23)、工芸自体のあり方とは別に、いわゆる高級美術とされる絵画や彫刻に〈工芸的〉なる形容があてはめられる時の、内容についても考える必要があるはずだ。その歴史的な経緯については独立した調査をまたなければならないが、絵画や彫刻を純粋芸術として上位に配し、応用芸術としての工芸やデザイン、装飾を劣ったものとする位階制度をいったん脇におくなら、絵や彫刻を工芸的と呼ぶ場合、通例、素材や工程の制約が表現の自発的なひろがりや探さを狭めることをさすと見なしてよいだろう。


 この意味で浅野の作品は、寸法の大小のみならず、声高なメッセージや強烈な表出には縁がなく、むしろ親密さや品のよさに終始するその表情が技法上のプロセスと分かちがたく結びついている点で、まぎれもなく工芸的と呼びうる(24)。浅野の仕事に対し「職人気質」が指摘されたこともあれば(25)、自身、「制作に取りかかると、私はもうアーティストではなくて、アルチザンだなという感じがします。アーティスト的な生産活動をしているのは、むしろかかる寸前だと思います」と語っている(26)。角田守男がかつて「“サロン的”という不満がどこかにのこる」とのべたことがあるのも(27)、こうした点に由来するのかもしれない。逆に見れば、「片ひじを張ったものを極力排斥する」ということになる(28)。しかし、個々の作品を作品以前あるいは以後の形式や構造、思想によって判断することはイデオロギーか嗜好の問題であって、一点の作品の質とは別のことだ。ないものねだりはすべきであるまい。その上で浅野の作品がさらに、どのような特徴をしめすのかを考えることにしよう。


 たとえば彼の画面は、つねに切りたったものとして現われる。この場合切りたったというのは、絵の空間が奥行きや斜め方向へのイリュージョンをはらまないことを意味している。これは一見、アルベルティ以来の窓としての画面というあり方を背景に、タブローを軸に展開してきた近代の絵が、見るものの目と垂直に向かいあうものとして成立することと似ている。浅野が、重力の影響を意識して画面の上下で粗密の区別をするようなことはしたくないと語るのも、この点に関わるのかもしれない(29)


 もとより浅野の画業自身、そうした西欧の絵画の移入を前提に作られてきたとして、ただ、たとえば線がオールオーヴァに画面を覆った作品でも、浅野の作品と抽象表現主義の作品では、あり方にちがいがあるように思われる。このちがいをもたらすのは地の厚みであろう。浅野の線は視覚的イリュージョンをもたらすというより、物質としての地の中にくるみこまれているのだ。これは即物的な意味のみならず、刻んだものであるがゆえの細さ鋭さが、地を意識させずにおかないことによる。


 他方地の物質性は、反イリュージョナルな客体としての現前を主張するものでもなく、その表情はあくまで柔らかい。平滑で稠密なしあげゆえ、木枠で折りまげられる画布の耳の部分までふくめて、物として丸みを帯びるのである。そうした地に刻みこまれる線は、地が稠密であるだけ、そこから官能的とも呼べよう反応をひきだす(30)。こうした浅野の地は、中村英樹がのべたように、「そこには何もないのではなく、すべてが既にあるのであって、画家の仕事は、それにささやかな痕跡を記すことに外ならない」(31)


 実際、物としての地がまず前面にたつ時、作者は背後に退くことになる。これは、職人性、さらに匿名性につながると同時に、作者の感情や観念を押しださないため、地の厚みにもかかわらず、中原佑介が指摘した「一種の軽快さ」をもさずけることになる(32)。さらに、中原のいう「線の浮遊」(33)、中村英樹が浅野の線は「風のごとく消えていくものとして性格づけられている」とのべたように(34)、線もまた、たまたまひきだされたかりそめの相をえるだろう。ただし、一見した柔和さにもかかわらず、ものとして充足しているがゆえに、見る者の安易な感情移入を踏みいらせないことにも、注意しておく必要はある。


 そしてこの時あらためて、吉岡留美の的確な問いにならうなら、「線は“どこに”在るのだろうか?」と問うことができるだろう(35)


1.1975年の個展で発表された黒地の油彩に付された黒い額縁は、手製のものであったという;「浅野弥衛展」、『毎日新聞』、1975.10.8(夕・名古屋版)


2.浅野弥衛、「心のなかに残るデッサン」、『美術手帖』、no.484、1981.7増刊「デッサン」、p.35など。


3.浅野弥衛、「ふるさと(えと文)」、『朝日新聞』、1961.1.17(名古屋版)


4.角田美奈子、「浅野弥衛」、『心で見る美術展[私を感じて]』図録、名古屋市美術館、1994.10、 p.27。


5id.、p.26。


6.久田修、「抽象の画家、浅野弥衛」、『海・文芸同人誌』、no.52、1995.11、p.88。


7.「[作家訪問]浅野弥衛−禁欲と無欲の証し」、『美術手帖』、no.509、1983.4、p.119。


8.角田、ibid.


9.「新人国記’85〈90〉 三重県19」、『朝日新聞』、1985.1.16(夕)


10Art Now Sapporo Symposium「浅野弥衛=『飄然』の哲学」(器のギャラリー中森、1985.11.13、主催:Laboratory)での発言。鉛筆の作品の場合は、台に寝かせて描く。なお、同シンポジウムの録音テープは正木基氏に提供していただいた。記して謝意を表したい。


11.角田、ibid.、p.26−27。


12.久田、ibid.


13.「[作家訪問]浅野弥衛」、ibid.


14.久田、ibid.


15.「[作家訪問]浅野弥衛」、ibid.、p.122。


16(N)、「浅野弥衛発表展」、『中部経済新聞』、1962.5.17


17.角田、ibid.、p,27。


18.久田、ibid.この点で、浅野の作品は将来クリーニングが必要になった時、困難な課題を課することになるだろう。


19.「[作家訪問]浅野弥衛」、ibid.


20.『浅野弥衛 油彩 1955年−1982年』、桜画廊&アキライケダギャラリー、1985.7、no.121。


21.「[作家訪問]浅野弥衛」、ibid.、p.123。


22Art Now Sapporo Symposium「浅野弥衛=『飄然』の哲学」、ibid.


23.たとえば、「特集 工芸とは何かを考える」、『工芸』、vol.1、1995.6など。


24.性格はことなるが、戦前の吉原治良の作品にもある種の工芸性を認めることができる;たとえは『作品』(1937年、三重県立美術館蔵)


25.「浅野弥衛個展(美術)」、『朝日新聞』、1967.5.31(夕・名古屋版)


26.「[作家訪問]浅野弥衛」、ibid.、p.122。


27.(守)、「浅野弥衛発表展(画廊)」、『朝日新聞』、1961.7.26(名古屋版)


28.(守)、「浅野弥衛個展(画廊)」、『朝日新聞』、1963.4.24(名古屋版


29Art Now Sapporo Symposium「浅野弥衛=『飄然』の哲学」、ibid.


30.中村英樹は、抑制によるぶっきらぽうなモノクロームに対し、浅野のモノクロームにはなまめかしさ、つやっぽさがあると指摘している;Art Now Sapporo Symposium「浅野弥衛=『飄然』の哲学」、ibid.また、1959年から75年頃までの山田正亮の作品にも、絵具の練りぐあいとそれを画布におく圧力の加減から生じる、絵肌のエロティシズムを認めることができる。ただ、ここでいう官能性も、筆者が男性である以上、男性側から見たそれでしかないのかもしれないが。


31.中村英樹、「風のごとく消えていく線……−浅野弥衛展のために−」、Yae Asano Exhibit展図録、Laboratory、1985.5


32.中原佑介、「浮かぶ刻線」、『浅野弥衛展 線を刻む』図録、伊奈ギャラリー2、1983.5


33id.


34.中村英樹、「風のごとく消えていく線……−浅野弥衛展のために−、ibid.


35.吉岡留美、「線の喜び 浅野弥衛展」、A&C、no.13、1990.8、p.16。

U


 i.


 浅野弥衛の画業の展開は、一本の線がまっすぐのびていくようなものではない。ほとんど見分けがつかないほど相似た作品が制作されることもあれば、間をおいて以前の主題にもどることもある。このため、制作年が記されていない作品の年代推定には難がつきまとい、本図録の編集にも不確かな点は少なくない。すでに1962年の時点で、「浅野の歩みは直線的ではない。過去の仕事を振返っては進む。急な傾斜を回りながら上る、あのループ式線路といったところか」と指摘され(36)、浅野自身、「私の場合は、ある時間をおいて、昔、試みたものへラセン型で戻り、前より少しは高みへ上がっているんでしょうか」と語ったことがある(37)。もっとも、作家の展開が成長と衰退のたとえで語られるような有機的な曲線を描くはずだという考えも、作者と作品が一対一的に対応しなければならないとの発想同様、神話の域を出るものではない。以上を念頭においた上で、その歩みを手短かにたどってみよう。


 浅野の画歴は太平洋戦争以前にさかのぼり、「パステル、クレヨン、墨、エンピツを使っての白黒のモノクロームの小さい作品」(38)、「超現実風の匂いのする抽象」(39)、で、すでにひっかきによる作品だったという(40)。また、「ある時期、私は色彩の世界にひかれた…(中略)…数年間、私は疲れ果てながらも無惨な敗北を繰り返した。この期間は敗戦後まで続いた」(41)、やはり「殆どが超現実の画面」(42)だったとは、1961年時点での回想である。残念ながら当時の作品は、台風の被害にあったせいもあって現存していない模様で、現時点でさかのぼりうるもっとも古い作品は1955年のものになる(cat.no.2、3)


 以後、病いに倒れる1993年までのほぼ40年間を、ごく大まかには、黒にひっかきの作品が集中的に制作された1975年あたり(cat.no.129以降)を一つの目安として、その前後に区分することができるかもしれない。


 前期においては、1957年頃から見受けられる白のひっかきの作品を軸にしつつ、面に焦点をあてたもの(cat.no.54、55、59−64)、色彩の導入をはかったもの(cat.no.30−31、35−36、40)、点によるいわゆる〈たがやし〉(cat.no.49−53)など、さまざまな試みが油彩の領域でなされた。紙の作品でも、1972年頃から青のパステルによるいわゆる〈ブルー・チェス〉(cat.no.77−87)、1973年頃には〈卵〉の連作(cat.no,103−112)が制作される。1973年8月から77年4月にかけては、銅版画にも手を染めている(cat.no.97−102、115−123、153−154)(43)


 1970年から72年にかけての面による作品を受け、黒地の油彩は1972年頃から現われはじめるが、本格的に制作されたのは75年になってからである。この後の油彩は、白地および黒地(こちらは88年まで)にひっかきを施した作品によって占められることになる。他方紙の作品では、フロッタージュ(cat.no.184−188)、ストライプ(cat.no.199、201−203、210)、記号風のイメージを散らしたもの、さらに輸送用の木箱の表面をパステルやオイルスティックで覆おうとしたもの(cat.no.217−220)などの試みが展開された。ただ後期の作品はおおむね、オールオーヴァな表面に近づき、安定して落ちついた相が濃い。





36.〈守)、「浅野弥衛個展(画廊)」、『朝日新聞』、1962.5.21(名古屋版)


37.(蓮見)、「洋画家浅野弥衛氏(訪問)」、『中日新聞』、1971.3.13(夕)


38.浅野弥衛、「ふるさと (えと文)」、ibid.


39.浅野弥衛、「作家のことば」、『美術ジャーナル』、no.26、1961.11


40.「[作家訪問]浅野弥衛」、ibid.、p.118。


41.浅野弥衛、「ふるさと(えと文)」、ibid.


42.浅野弥衛、「作家のことば」、ibid.


43.「浅野弥衛版画制作の経緯」、『浅野弥衛 銅版画総目録1973年−1994年』、アキライケダギャラリー、1995


ii.


 さかなの日干しか鯉のぼりを思わせなくもない1955年の『それは閉ざされている』(cat.no.3)は、赤茶色のモノトーンで覆われているが、すでに、きわめて稠密なマティエールと刻みによる線によって画面が作られている。幾本かの長い線が画面を横切っているため、切りたった土壁のような質感の稠密さはいっそう強調される。そうした中、目を連想させる三つの円が、見るものと絵との間に開くへだたりに、微妙なやりとりを交わさせるだろう。壁に封じこめられながら、閉じた丸は、見る者に呼びかけずにはいないのだ。赤茶色のはらむ温度が、この呼びかけに生気を与えることになる。


 1950年代半ばから62年頃にかけての作品は、強い緊張をたたえたものが多く、時に、後の浅野には見られない暗い閉塞感を発することもある。これは、戦後のいわゆるルポルタージュ絵画や密室の絵画などを産みおとした雰囲気によってもたらされたのかもしれない。他方、ほぼオールオーヴァに線が画面を覆う作品も50年代末には現われ(cat.no.8)、こちらは1956年11月の日本橋高島屋での『世界・今日の美術』展ですでに紹介されていたアンフォルメルとの関連をうかがわせる。また浅野は後に、「小さいもんがギッシリ詰まっている。同じものが密集しているものが大好きです」と語ったことがあるが(44)、1950年代末から60年代初頭にかけて、草間彌生、阿部展也、伊藤隆康、宮脇愛子らによって、小さなモティーフのくりかえしにより表面を覆う傾向が現われた点と(45)、浅野におけるくりかえしによる反構成を結びつけることもできよう。


 『風土』(cat.no.5)は閉塞感を感じさせる作品の典型で、画面をとぎれなく覆う格子が、灰色を帯びた地のひろがりを封じこめ、遮断する。格子のゆれはかぎりなく連鎖していくような生動感を伝えている。デュビュッフェの1950年代の作品を思わせる『暗い歴史』(cat.no.9)でも、オールオーヴァな線の走行が上部の空に抑えこまれることで、強い緊迫感を発する。しかも線の走っている部分でも地が透けていることは変わらないので、いっそう線の網のよるべなさを感じさせずにはいない。


 他方同じ時期でも、一種のユーモアにも通じる、柔らかい気分の作品も欠けてはいない。Cat.no.13やno.14では、黒い形の丸みがそうした表情をもたらしている。これらの黒丸は、画面の横から、あるいは上下からひょいと顔を出す。黒丸の部分は、やはり描かれているのではなく、白地を削ったものだ。そのため、輪郭は鋭さを保っている。同じような気分は、衝立の両面に施された和紙によるコラージュにも認めることができる(cat.no.18)。ここでは、和紙の質感や透けぐあいが、形のおおらかな表情に呼応している。


 同じ1961年から翌年にかけては、浅野の作中もっとも表情のきついものと見なせよう一連の作品が制作された(cat.no.22−25)。ただれる熔岩がそのまま化石となったかのようなこれらの作品は、それでも、マティエールの効果が主眼になっている点にかわりはない。緑の部分の黒は、やはり絵具をそぎ落とした、一段低い位置にある。この縁どりは後年の作品にも現われるものだが、ここでは、主たる部分のきつさをなまのままさしだすのではなく、いったん距離をおくことで、時間の堆積を感じさせる効果をもたらしている。


 また、no.24とno.25は、大きさの羞はあれ、ほとんど同じような構成を縦横いれかえただけとも見える。こうした手法はこの後も随時見受けられ(cat.no.49と50、51など)、微妙な変化を求めたものと見なすのはよいとして、同時に、霊感による発想だの直線的な追求以上に、浅野の職人的気質を読みとることができよう。デザインは一点のゆるがせもならないものであるどころか、上下左右、いずれに視点を移してもよい、交換可能なたまさかのもの以上ではない。




44.大矢昌浩、「浅野弥衛(作家の美歴書)」、『にっけいあ−と』、no.30、1991.3、p.115。


45cf.住谷晃一郎、「くり返しの構造−現代絵画の一断面」、『現代絵画の一断面繰り返しの構造展』図録、高松市美術館、1989.2

iii.


 1959年のcat.no.8あたりから登場し、浅野の作品群の核をなすことになるひっかきによる白地に線の作品(cat.no.8には薄い黄が敷かれているが)を論じるにあたっては、たとえばマーク・トビーの名がひきあいに出されたりもした(46)。乾由明は「浅野の線はトビーのそれよりも一層自在であり、流動的である」とのべている(47)。あるいは、線の走行の見かけ上のオートマティスムという点では(48)、アンリ・ミショーやサイ・トゥウォンブリと比較することもできよう。切りこみの少ない作品には、フォンタナの『空間概念』を連想させるものもある(cat.no.160)


 これらの作家における線と浅野の線とのちがいは、やはり、後者がその地との交渉からひきだされる点に求めることができるだろう。浅野の線は、つねに、地をひっかく際の抵抗を刻印されているのだ。それはいかに「自在であり、流動的で」あっても、細さと、それゆえの硬さ・鋭さを失なわない。そして浅野においては、線が画面を完全に覆いつくしてしまうこともない。どれだけ線の量がふえようと、その技法上、あいまに地が残されないことはないのだ。おのれを生みだした地に感謝するかのように、たとえばそのまばらさによって、あるいは縁どりという方法を用いても、線は地の内部に留まりそこから飛びだそうとはしない。フォンタナの切りこみが画布の裏側にまで反りかえることで、画布の物体であるをしめすのに対し、浅野の地が「磁器を思わせ」、「藤田嗣治の背景に似る」(49)ともいわれたその滑らかさをこぼたれることはない。浅野自身、ひっかきによって地を傷つけるという意識はなく、むしろ田畑を耕したり、溝を掘るようなつもりだと語った(50)。植村鷹千代が「土の詩」と呼び(51)、「作者によると、ひっかいてできる線は、地層の断面のイメージから来ているという」(52)と記されていることを思いだしてもよいだろう。



46.(春)、「浅野弥衛個展」、『中部日本新聞』、1964.12.10(夕);柴橋伴夫、「調格と風趨−浅野弥衛の世界−(展評)」、『美術ノート』、vol.2 no.6、1985.7+8、p.58。


47.乾由明、「浅野弥衛展」、『讀賣新聞』、1983.10.1(夕・大阪版)


48.「作家によれば全体の構図はあらかじめ、かなりきっちりした形で頭の中に描いているという」;大矢昌浩、「浅野弥衛(作家の美歴書)」、ibid.、p.116。


49Fumio Nanjo,‘Yae ASANO’,Catalogue of Japanische Kunst der achtziger Jahre, Fumio Nanjo und Peter Weiermair(ed.),Frankfurter Kunstverein 1990.9、p.24.


50Art Now Sapporo Symposium「浅野弥衛=『飄然』の哲学」、ibid.


51.植村鷹千代、「浅野弥衛さんの作品」、『浅野弥衛』展リーフレツト、いとう画廊、1964.12


52.(健)、「浅野弥衛個展(美術)」、『新名古屋新聞』、1983.9.18

iv.


 1964年から67年にかけては、ひっかきによる白の画面に色彩が加えられるようになる(cat.no.30−31、35−36、40)。これらの試みは、発表当時必ずしも積極的なものとは受けとめられなかった(53)。きわめて薄く溶いた色を部分的に流すだけという点が中途半端と映ったのだろうが、これも、白地にあまり強く干渉することを避けたためと解することができる。また、たとえばcat.no.30やno.40で細長くのびる色の帯は、薄く溶いた絵具の動きをそのまま残すことで、生きものがからだをのばし、はっていくような感触を伝えている。


 68年から70年の間には、いわゆる〈たがやし〉と呼ばれる連作が制作された(cat.no.49−53)。これらは線というより点の連なりによるものだが、ここでも微かではあれ、点の部分はえぐられている。ひときわ静謐なこうした作品はまた、中村英樹のいう「遠くからと近くからの二重の視線」を実感させるものでもあろう(54)。すなわち、全体を見渡す目と、一つ一つの点をたどる目がいききさせられるのだ。


 70年から72年にかけてのcat.no.54、55、59−64などでは、黒の比重が大きくなり、面による構成が重視されている。ここでも黒は、白より一段低い。これらの試みは必ずしも成功しているとはいえまいが、Cat.no.65や66で一つの面としての強さをえるべく整理され、やがて75年以降の黒のひっかきによる作品へとつながっていくことになる。




53.(守)、「浅野弥衛個展(画廊)」、『朝日新聞』、1964.8.24〈名古屋版);(白木)、「浅野弥衛展」、『中部日本新聞』、1964.8.24(夕);(守)、「浅野弥衛個展(画廊)」、『朝日新聞』、1965.8.21(夕・名古屋版)


54.中村英樹、「風のごとく消えていく線‥‥‥−浅野弥衛展のために−」、ibid.

v.


 『青い窓』(cat、no.68、69)からいわゆる〈ブルー・チェス〉(cat.no.77−87)、いわゆる〈卵〉の連作(cat.no.103−112)などでも、マティエールの重要さは変わらない。たとえば〈卵〉のシリーズでは、線はあらかじめ8Hか10Hのきわめて硬質な鉛筆であらかじめひいておき、その後黒のパステルを敷きつめるのだという。卵の部分は型を用いたらしい。こうした過程は、後年のストライプによる作品(cat.no.199、201-203、210)でも基本的には同じだ。その上で〈卵〉の連作ではきわめて稠密な黒の、いっさいを吸いこむような絵肌、ストライプならフリーハンドでひかれた溝の白と鉛色のかすれとがいき交うことによって生じる、鈍い光の発散が核となる。同じく1977年の龍光寺襖絵(cat.no.171)では、薄墨のひろがりとやはり型を抜いた蓮の葉状の形の流れが、空気の厚みと動きを感じとらせる。


vi.


 1975−76年に集中的に制作された黒のひっかきによる油彩は(cat.no.129−135、138−139、143−144)、画面のサイズも比較的大きなものが多く、時に壮麗さすら感じさせるこれらの作品は、浅野の画歴の一つの軸と見なしてよいだろう。線の動きもこれ以後、太さ細さ、濃さ薄さの微妙な調整もあわせ、いっそうの自在さを獲得する。


 ところで浅野の黒は、たとえばタピエスやサウラなどスペインのアンフォルメルにおけるような、物質が崩壊していき、その先に再生を予感させるような、錬金術的な黒ではない。といって、いっさいの形態を消去することで目を吸いこみつつ、絵を見る個体の境界を散逸させる、アド・ラインハートの場としての黒とも性格を異にする。白の地に比べれば奥へしりぞこうとする傾向を宿すとはいえ、今度は逆に、線にひっかかれることによって、黒はものとしてのその位置にひきもどされる。ここでも浅野の画面は、おのが境界をこえようとはしないのだ。


vii.


 いっそうの自在さをえた線は、いわゆる〈お天気マーク〉と呼ばれる作品をへて(cat.no.175、176、206、207、209)(55)、「音符を書くように」つづられたという1982年の紙の作品(cat.no.190−194)(56)、後の白のひっかきによる作品(cat.no.229、235、246)などで、記号の乱舞にいたる。これらの作品においては、抽象具象の区別は意味をなさない。記号は、既知と未知との間をいきかうのだ。地からひととき掬いあげられたイメージあるいは文字の種子は、いつなりと地に帰入しうる交換可能なものとして、一つの意味に回収されえぬ物語りをつづるだろう。


 こうしたにぎやかな作品のかたわらでは、ストライプによる作品やフロッタージュによる作品(cat.no.184−188)のような、寡黙な作品も制作されている。この他、煙草の包装紙を用いた作品(cat.no.145−146)、厚い板と紙による作品(cat.no.167−168)、輸送用の木箱にパステルやオイルスティックで素描した作品(cat.no.217−220)(57)などにおける試みをはじめとして、記し落としたことは少なくないが、ここでは、80年代末から93年までの白のひっかきによる作品にふれて、筆を擱くことにしたい。


 この時期の作品では、ひっかきの量が少なく、地を大きく残したもの(cat.no.226、238、240、241、249)、重複するものもあるが縁どりを施したもの(cat.no.236、238、240、241)、そして縁と地だけの旗状のもの(cat.no.237、239)などが目につき、とりわけ旗状の作品は丁寧な職人仕事によってしあげられている。これに対し、時期的に重なりつつ、90年代に入ってからのいくつかの作品には(cat.no.245、247、251、252)、ある種の粗放さを感じさせるものがある。ひっっかきは地の乾きのやや早い時点でなされ、黒も完全には拭いさられない。こうした作品を、浅野における老年様式と見なすことができるのかどうかはさだかでなく、浅野がつねにしめしてきた洗練からの開放をここに見ることも、しかしやはり、いまだ答をだすには早急だろう。ただ、近年の浅野が幾たびか、「絵を描くことが、楽しくて、楽しくて、楽しくて、楽しくて、楽しくて仕方ありません」といった意味のことを語っていたことを思いだしたまでだった(58)


(いしざき・かつもと 学芸員)



55.このモティーフは、1973−74年に制作された銅版画『ハムラビ法典』連作にさかのぽる(cat.no.100−102、『浅野弥衛 銅版画総目録 1973年−1994年』、ibid.、no.15−26、34、47)。


56.(洋)、「浅野弥衛展(東海のギャラリー)」、『中部讀賣新聞』、1982.11.2


57cat.no.219、220、それにno.221など、カポグロツシを思わせるオイルスティックによる作品は、「ドロップにアリがたかっていると孫がはしゃいでいた」ということからか、〈むしむし〉と呼ばれている;「浅野弥衛展」、『中日新聞』、1986.11.4(夕)


58.大矢昌浩、「浅野弥衛(作家の美歴書)」、ibid.、p.111。

 

 

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