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[世紀転換期をめぐるウィーン]年譜

東俊郎(編)

◎ウィーンの美術と美術家 */**ウィーンをめぐるオーストリア、ドイツの芸術と政治
 
1856年
*5月、モラヴィアのフライベルクでジークムント・フロイト生まれる。
1857年
**皇帝フランツ・ヨーゼフ一世はウィーンをとりまく城壁の撤去を指令。かわりにリングシュトラーセ(環状道路)がつくられはじめ、道路をとりまいて国会議事堂、市庁舎、オペラ座、博物館、ブルク劇場、大学、美術アカデミーなどが二十世紀前後までの数十年にわたってつぎつぎに誕生した。この時代のことをリングシュトラーセ時代と呼ぶことがある。これらの建築はすべて過去から都合よく借用され、様式の不統一があきらかだった。
**「日の出の勢いにあった六十年代のブルジョワジー…自由派の支配者たちは、ナポレオン三世のパリを顔色なからしめる都市再建を行うにあたって、かれらには借物の過去のゴシック、ルネサンス、バロックから鼓吹された壮大な建築物を造営し、これによって一つの歴史、一つの系譜へはいりこむ途を講じようとしたのである」(ショースキー)。
**「1860年代に帝国はみずからの記念碑…リングシュトラーセをウィーンに築いた。…これに沿って建てられた誇大な個人の邸宅や公共建築物は、虚しいことに過去の真に栄光ある時代の建築を真似たものだった。その古典主義は虚偽でゴシックは紛いもの、そのルネサンスは見かけだおしだった。こういう建造物で体現しようとする皇帝の偉大さなど、この一見豪華なファサードとほとんどおなじくらい無意味であった」(ウィットフォード)。
1859年
*ジークムント・フロイトの一家はウィーンに移住する。
**イタリア統一戦争起り、オーストリアはロンバルディア、トスカナを失なう。
1861年
◎2月、アドルフ・ベーム、ウィーンに生まれる。
◎4月、カール・モル、ウィーンに生まれる。
◎12月、グスタフ・バンベルガー、ヴュルツブルクで生まれる。
◎ウィーン造形芸術家協会(die Kunstlergenossenchaft)(キュンストラーハウス)創設。
◎オットー・ヴァーグナーはウィーン造形芸術アカデミー(以下、アカデミーと略す)に入り、アウグスト・シッカーツブルクとエドゥアルト・ファン・ニュルに建築を学ぶ。
◎フーゴー・オトマール・ミートケはミートケ画廊を創設。
 
1862年
◎7月、グスタフ・クリムト、ウィーン近郊のバウムガルテンに生まれる。
*5月、アルトゥール・シュニッツラー、ウィーンに生まれる。
*9月、ヨハネス・ブラームスはウィーンに来る。
  1863年
*へルマン・バール、リンツに生まれる。
1864年
◎8月、ヨーゼフ・エンゲルハルト、ウィーンに生まれる。
◎1852年ウィーン大学最初の美術史教授となったルドルフ・フォン・アイテルバーガーは、建築家ゴットフリート・ゼンパーが参与したロンドンのサウスケンジントン博物館を手本にして、オーストリア芸術産業博物館を創設。応用芸術博物館の前身であり、アイテルバーガーはこれによって工芸の伝統を工業の時代に残そうとした。
◎アルフレート・ロラー、ブルノに生まれる。
*ウィーンの日刊紙「ノイエ・フライエ・プレッセ」創刊。
*カトリック的社会改革者カール・フォン・フォーゲルザングはウィーに来て「祖国」紙の主筆となる。
1867年
◎10月、マクシミリアン・クルツヴァイル、チェコのブゼネツに生まれる。
◎11月、ヨーゼフ・マリア・オルブリヒ、シュレジアのトロッパウに生まれる。

**9月ベルリン、ヴァルター・ラーテナウに生まれる。
**ユダヤ人解放のしるしである宗教と信仰の自由が憲法に記される。また、ユダヤ人に対する居住制限が帝国内で完全に撤廃。
**ハプスブルク帝国では官僚を排したブルジョワ内閣が誕生、立憲政治の時代がはじまる。このオーストリア風自由主義は1900年までもちこたえる。
1868年
◎1月、アルビン・エッガー=リーンツ、シュトリーバハに生まれる。
◎3月、コロマン・モーザー、ウィーンで生まれる。
◎オーストリア芸術産業博物館付属の工芸美術学校(Kunstgewerbe−schule)がつくられる。
*アントン・ブルックナーはウィーンに移り住む。
*ヨハネス・ブラームス、『ドイツレクイエム』発表。そのテーマのひとつ「生のなかばにおいてわれわれは早くも死に囲まれている」はすでにグスタフ・マーラーを先取りしている。
1869年
◎この年からウィーン造形芸術家協会が、主催する展覧会が、アウグスト・ウェーバー設計のキュンストラーハウス(Kunstlerhaus)で毎年開催される(1914年まで)
◎リングシュトラーセの建築群の先頭を切って宮廷オペラ劇場が完成し、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』が柿落としとなる。
 
1870年
◎12月、アドルフ・ロース、ブルノで生まれる。
◎12月、ヨーゼフ・ホフマン、モラヴィアのブルトニッツェに生まれる。
*4月、オペレッタ作曲家フランツ・レハール(−1948)、ハンガリーのコマーロムで生まれる。
*7月、エミール・オルリーク、プラハに生まれる。
*精神科医アルフレート・アードラー(−1937)、ウィーンで生まれる。
1871年
◎3月、フェルディナント・アンドリ、ヴァイトホーフェンに生まれる。
◎9月、フランツ・クプカ、ボヘミアに生まれる。
◎建築家ゴットフリート・ゼンパー、ウィーン大学数授となる
**この頃ウィーンの人口はベルリンに抜かれてヨーロッパ大陸で第3番目となる。
**プロイセンは普仏戦争に勝ち、ドイツ帝国が誕生し、オーストリア以外のドイツ(語)圏を統一した結果、オーストリア主導の大ドイツ主義的統合の夢くづれる。
1872年
◎1月、建築家、工芸家のヨーゼフ・プレチュニク、スロペニアのライバッハで生まれる。
*1月、劇作家フランツ・グリルパルツァー(1791−)、ウィーンで歿。
*10月、作曲家アレクサンター・フォン・ツェムリンスキー、ウィーンに生まれる。
*フリードリッヒ・ニ−チェは、科学(文献学)と哲学(ショーペンハウエル)と芸術(ヴァグナー)の共同をめざした『悲劇の誕生』を刊行。ヴィラモーヴィッツ=メルレンドルフはこれを学問の邪道として批判。エルヴィン・ローデとヴァグナーはこれに反論する。
**ベルリンでドイツ、オーストリア、ロシアの三帝会談。
  1873年
*4月、ヨハン・シュトラウス2世二は自作のワルツ『ウィーン気質』の初演指揮で、ウィーン・フィルにデビュー
*フロイトはウィーン大学に入学。
*この年アントン・ファールバッハの『破産ポルカ』大流行。
**5月1日ウィーン万国博覧会はじまるが、5月9日の「不吉な金曜日」に証券取引所で大暴落が起き、さらに市内でコレラが発生するなどして、「ウィーンは結婚式に世界を招いたつもりが、お通夜になってしまった。」12月2日に閉幕したとき700万人の入場者にもかかわらず、1500万グルデンの赤字を残した。
1874年
◎1月、オスカー・ラスケ、ブコヴィナのチェルノヴイッツに生まれる。
◎クリスティアン・グリーペンケールはアカデミーの教授となる。
*2月、詩人・劇作家フーゴー・フォン・ホフマンスタール、ウィーンに生まれる。
*4月、カール・クラウス、ウィーンに生まれる。
*4月、ヨハン・シュトラウス2世の『こうもり』、アン・デア・ウィーン劇場で初演、大成功をえる。同年の秋の公演では、のちにもっとも有名なオペレッタ役者と呼ばれるアレタサンター・ジラルディーが起用される。
*9月、作曲家アルノルト・シェーンベルク、ウィーンに生まれる。
*エミーリエ・フレーゲ、ウィーンに生まれる。
**4月、オーストリア社会民主党結成。
**ウィーン万博で展示されたハンス・マカルトの大作《カテリーナ・コルナロを迎えるヴェネツィア》は画商ミートケが3万グルデンで手にいれ、8万グルデンで売却。ウィーン子によれば70年代は「マカルトの時代」だった。
1875年
◎3月、アントン・ハナーク、ブルノに生まれる。
◎カミロ・ジッテはアイテルバーガーの推挙で新設されたザルツブルクの国立上芸学校(Staatsgewerbeschule)の校長となる。
*マーラーはウィーンに出て、ピアノのユリウス・エプシュタインなどに学ぶ。
*詩人・外交官レオポルト・フォン・アンドリアン、ウィーンに生まれる。
*ビゼーのオペラ『カルメン』、宮廷オペラ劇場で公演。
**7月、カール・グスタフ・ユング、生まれる。
**フェルディナント一世、プラハで歿。
1876年
◎クリムト、工芸美術学校にはいり、フェルディナンド・ラウフベルガー(1829−1881)に学ぶ。またそのクラスでフランツ・フォン・マッチュ(1861−1942)を知る。
*ヨハネス・ブラームス、『第一交響曲』。
1877年
◎エゴン・シーレのパトロン的存在となるアルトゥール・レスラー、ウィーンに生まれる。
◎アルフレート・クビーン、ベーメンのリトミェルジツェに生まれる。
◎この年アカデミーは新しい建物に移転。
**自由主義オーストリアの無力と不安とを背景にした再年たちの反抗がはじまり、政界では憲法党の新左翼として「若者たち(die Jungen)」が現れる。
**「19世紀の最後の四半世紀に自由派が上流階級にさからって立案した綱領は、皮肉にもかえって下層階級の爆発をひきおこした。自由派は大衆の政治的エネルギーを解放することはできたが、そのエネルギーは自由派の敵にではなく、自由派に向かってきた。…自由主義は資本主義を、資本主義はユダヤ人とみなされたのだ」。その結果「反自由主義的な新人衆運動−チェコ民族主義、汎ドイツ主義、キリスト教社会主義、社会民主主義、そしてシオニズム−が下からたちあがってきた」(ショースキー)。
1878年
◎ハンス・マカルトの《カール五世のアントワープ入城》は34000人の見物をあつめる。「キュンストラーハウスに押しかけた見物はあらゆる階層にわたっており、まだこの絵をみていないものなど話にならないといった風であった。入口の混乱を整理するために警察まで出動した。…この異常な人気にはわけがある。これはウィーンでこそ捕かれる絵であって、もっと正確には、ウィーンがおのずから描きだした絵というべきだろう。」(3月24日付新聞記事)
◎カール・オットー・チェシュカ、ウィーンに生まれる。
*2月、マルティン・ブーバー(−1965)、ウィーンに生まれる。
*3月、作曲家フランツ・シュレーカー生まれる
*オペレッタ作曲家アントン・シュレッカー生まれる。
*自由派のウィーン市長カエタン・フェルダー辞任。この頃からオーストリア帝国内の自由派は分裂し、権力を失なってゆく。
1879年
◎5月、建築家ゴットフリート・ゼンパー歿(1803−)。
◎ハンス・マカルト、皇帝夫妻の成婚25周年祝賀行列の総監督となる。クリムトは弟エルンスト、フランツ・フォン・マッチュとともにこの記念式典の装飾に参加。この記念祭は70年代のマカルト様式の頂点であり、彼の名声と富はルーベンス以来最高のものと自らも自負していた。
◎ハンス・マカルト、アカデミーの教授となる。
*この頃カール・モルはアカデミーでクリスティアン・グリーペンケールに学ぶが病気で中断、その後、個人的にエミール・ヤコブ・シントラー(1842−1892)に師事するが、そのシントラーの娘として、この年、アルマ・シントラー(マーラー)が生まれる。
*アルトゥール・シュニッツラーはウィーン大学医学部に入る。在学中に属した団体、アカデーミッシュ・レーゼハレにはテオドール・ヘルツルもいて、当時のヘルツルは劇作家を目指していた。
**10月、ドイツ、オーストリア同盟締結。
1880年
◎1月、レオポルト・ブラウエンシュタイナー、ウィーンに生まれる。
◎オットー・プルッチャー生まれる。
*4月、オットー・ヴァイニンガー、ウィーンに生まれる。
*11月、ローベルト・ムージル(−1942)、クラーゲンフルトに生まれる。
1881年
◎7月、ルートヴィッヒ・ハインリッヒ・ユングニッケル、ヴンジーデルに生まれる。
◎ラウフベルガー歿し、クリムトはかわりにユリウス・ヴィクトール・ベルガー(1850−1902)のもとで修業。
◎ハンス・マカルト、ウィーン造形芸術家協会の会長となる。
◎この年美術史美術館が完成。
*11月、シュテファン・ツヴァイク、ウィーンに生まれる。
*12月、オッフェンバックの遺作のオペラ『ホフマン物語』がリング劇場でウィーン初演し好評。しかし満員になった翌日の公演直前に出火し死者386人を出す。フロイトとそのフィアンセ、マルタ・ベルナイスもこの日観劇する予定にしていたが、キャンセルして、難を逃れる。
**ゲオルク・シェーネラーは大ドイツ主義的な民族主義結社「ドイツ人民党連合」を結成。スラヴ人やユダヤ人に対するドイツ人の民族的優位を掲げる。
**この頃から翌年にかけてロシアではユダヤ人の大迫害。難民は西方へ移住。
**ドイツ・オーストリア・ロシア三帝同盟が成立。
  1882年
*ゲルラッハ・シェンク書店からシリーズ『アレゴリーと象徴』刊行開始。
*ヴァイオリンの神童フリッツ・クライスラー(1875−1962)は史上最年少でウィーン市立音楽院に入学、ヘルメスベルガーとブルックナーに学ぶ。
**ドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟成立。
1883年
◎3月、フランツ・フォン・チューロウ、ウィーンに生まれる。
◎クリムトは弟エルンスト、フランツ・マッチュと共同のアトリエをかまえ、芸術家商会を設立、数多くの共同制作をおこなう。
◎リヒャルト・ゲルストル、ウィーンに生まれる。
◎カミロ・ジッテ、ウィーンに戻り新設された国立工芸学校の校長となる。
◎ハンゼン設計の国会議事堂、フェルステン設計のウィーン大学が完成する。
**2月、フリードリッヒ・ニーチェ、『ツァラトゥストラはこう語った』第1部を完成、その同じ13日にリヒャルト・ヴァーグナーがヴェネツィアで歿(1813−)。
**7月、フランツ・カフカ、プラハに生まれる。
1884年
◎7月、フェリックス・アルブレヒト・ハルタ、ブタペストで生まれる。
◎10月、ハンス・マカルト、ウィーンで死去。
◎ハンス・ベーラー、ウィーンで生まれる。
◎アルビン・エッガー=リーンツはミュンヘンの美術アカデミーで学ぶ。
 
1885年
◎7月、マックス・オッペンハイマー、ウィーンに生まれる。
◎ウィーン分離派の擁護者ルートヴィヒ・ヘヴェジィ、ブタペストからウィーンに移る。
*2月、作曲家アルバン・ベルク、ウィーンに生まれる。
*10月、ヨハン・シュトラウス二世のオペレッタ『ジプシー男爵』、アン・デア・ウィーン劇場で初演。
**5月、指揮者オットー・クレンペラー(−1973)、ブレスラウに生まれる。
1886年
◎3月、オスカー・ココシュカ、ペッヒラルンに生まれる。
◎7月、アントン・コーリッヒ、ノヴィー・ジチーンに生まれる。
◎コロマン・モーザー、アカデミーに入り、グリーペンケール、フランツ・ルンプラー、ヨーゼフ・マチアス・フォン・トレンクヴァルトに学ぶ。
◎クリムトは弟エルンスト、マッチュとともにブルク劇場階段室の天井画を描く。
◎マクシミリアン・クルツヴァイルはアカデミーに入る。

**1月、指揮者ヴィルへルム・フルトヴェングラー(−1954)、ベルリンに生まれる。
*4月、パリのジャン=マルタン・シャルコーのもとへの留学からウィーンに戻ったフロイトは臨床医としての活動を開始。9月に結婚。新居は奇しくも5年前に火災のあったリング劇場の跡地だった。
*ヴィクトル・アードラー、ウィーンで社会主義の週刊紙「平等」を創刊。
*精神医学者リヒャルト・ヴォン・クラフト=エービング(1840−1902)は『性的倒錯』を書き、「マゾヒズム」という言葉をつくりだす。
**「19世紀後半に、ウィーンの人口は4倍になったが、その増加のほとんどは流入によるもので、帝国の東部のチェコスロバキア人やハンガリー人やユダヤ人が、工業のみが提供できる高い賃金に惹かれてやって来たものである。彼らはまもなくその夢を破られた。彼らのほとんどが住むこの都市のスラムは、ヨーロッパで最悪のもののひとつであった」(ウィットフォード)。
1887年
◎2月、アルベルト・パリス・ギュータースロー、ウィーンに生まれる。
◎2月、フランツ・ヴィーゲレ、ケルンテンのネッチュに生まれる。
◎4月、ダゴベルト・ペッヒェ、ザルツブルクのザンクトミカエルにに生まれる。
◎アントン・ファイスタウアー、ザルツブルクのザンクト・マルティンに生まれる。
◎アルノルト・クレメンティッチュ、ヴィラッハに生まれる。
◎ハルタ一家はウィーンに移る。
◎この頃からアンドリはアカデミーに学ぶ。
◎ヨゼフ・ホフマン、ブルノの国立工芸学校建築科に入学。アドルフ・ロースが在学していた。
*詩人ゲオルク・トラークル、ザルツブルクに生まれる。
**ニーチェ、『善悪の彼岸』の補説として『道徳の系譜』を執筆。
**シェーネラーはユダヤ人移住制限法案をウィーン市議会に提出。ルエーガー、これを支持。
**第1回全オーストリア・カトリック会議を承けて、キリスト教社会同盟創立。資本主義の風潮に反感をもつ旧支配層と失業に悩む職人が手を結び、反ユダヤを基調にしたカトリシズムの再生へと動く。
1888年
◎2月、ヴィルヘルム・テニー、グラーツに生まれる。
◎エンゲルハルトはウィーン造形芸術家協会に加入。
◎ゴットフリート・ゼンパーとカール・フォン・ハーゼナウアー(1833−1894)の共同設計になるブルク劇場完成。リングシュトラーセの都市改造はほぼ骨格ができあがる。10月、旧ブルク劇場はゲーテの『タウリスのイフゲーニェ』公演を最後に閉鎖され、新ブルク劇場にうつる。クリムトは《旧ブルク劇場の観客席》を描く。
*グスタフ・マーラー、『第一交響曲』完成する。
**ニーチェ、自伝『この人を見よ』脱稿以後、精神錯乱の兆候があらわれる。
**6月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム一世逝去し、ヴィルへルム二世即位。
**ハインフェルトに労働運動の指導者たちが集まり、オーストリア社会民主党を結成。ヴィクトル・アードラーが初代党首となる。
**シェーネラーは、ユダヤ人モーリッツ・セプスが編集していた「新ウィーン新開」を襲撃。
**統一キリスト者党が結成される。これはのちにカール・ルエーガーを中心としたキリスト教社会党に拡大。
1889年
◎若いココシュカに霊感をあたえた画家アントン・ロマコ(1832−)急死。
◎ヨーゼフ・ドブロフスキー、カールスバートに生まれる。
◎カミロ・ジッテは『都市建設』刊行。リングシュトラーセの建築の「近代性」を批判。古代や中世の共同社会から自然にうまれた不規則な街路や広場を称揚したかれは、応用芸術を擁護し職人が生きられる環境を保存しようとした。「都市は意味深い精神的な芸術作品‥一個の偉大な偽りのない民俗芸術作品でなくてはいけない。…民族的なひとつの総合芸術作品に奉仕するような、あらゆる視覚芸術の民衆的な総合が欠けている現代では、とりわけそうでなくてはならない。」(ジッテ)
*4月、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン、ウィーンに生まれる。
*ゲオルク・シェーネラーの妹アレクサンドリーネはアン・デア・ウィーン劇場を買収、ヨハン・シュトラウスやミレッカーのオペレッタを熱心に上演することで、兄の反ユダヤ主義と一線を画す。
*オーストリア社会民主党の機関紙週刊「労働者新聞」創刊。
**1月、皇太子ルードルフ、マイアーリングでマリー・ヴェツェラと情死。
**4月、アドルフ・ヒットラー、プラウナウに生まれる。
1890年
◎6月、エゴン・シーレ、ウィーン近郊のトゥルンに生まれる。
◎6月、ロビン・クリスティアン・アンデルセン、ウィーンに生まれる。
◎クリムトは水彩画《旧ブルク劇場の観客席》で皇帝賞を受賞。
◎オルブリヒ、アカデミーに学ぶ。
*1月、ヘルマン・バールなど『現代文学』を創刊。「われわれは大言壮語しない。奇蹟も求めない。天国を約束しない。われわれが求めるのは虚偽を放逐することだ」(へルマン・バール)。
*8月、指揮者エーリッヒ・クライバー(−1956)、ウィーンに生まれる。
**12月、映画『メトロポリス』、『M』の監督フリッツ・ラング(−1976)、ウィーンに生まれる。
**当時のウィーンの人口は130万人をこえたが、その三分の一はチェコ人、十分の一はユダヤ人だった。
**5月1日、労働者はプラータ公園をデモ行進する(メーデーのはじまり)。
**「静かに、黙して、従順に、自由主義的な市民層に数十年のあいだ支配をゆだねていた大衆は、突如として不穏になり、組織化して、かれら自身の権利を要求した。まさに世紀最後の十年間に、政治が鋭く急激な突風をともなって、快適な生満の凪のなかに闖入した」(ツヴァイク)。
**「民衆が通りで騒いでいる/いいとも、騒ぐままにさせておけ/かれらの愛は卑しく、その憎悪はおぞましい/われわれはひたすら美的なものにいそしもう/不安に襲われたら熱い美酒がある/…/叫びと罵り、スローガン、いつわり、みせかけ/すべてはすみやかに消えうせて/ただ美がのこる」(ホフマンスタール)。
**3月、ドイツ宰相ビスマルクはヴィルへルム二世と衝突して辞任引退。
1891年
◎2月、アルフォンス・ヴァルデはオーベルンドルフに生まれる。
◎ハーゼナウアー、ゼンパー共同設計のウィーン美術史美術館完成。
◎クリムトはウィーン造形芸術家協会に加入。新しい美術史美術館の三角小間に女性像の連作をえがく。
◎デンマーク出身の建築家テオフィル・フォン・ハンゼン歿。
*前年創刊した『現代文学(モデルネ・ディヒトゥング)』は『現代展望(モデルネ・ルントシャウ)』と改称、これを母体としたシュニッツラーを中心にしたグループは、「若きウィーン(jung Wien)」派と呼ばれる。ホフマンスタール、アンドリアン=ヴェールブルク、ベーア=ホフマン、フェリクス・デルマン、フェリクス・サルテンなどはカフェ・グリーンシュタイドルを根城にして、オーストリア文学の自立と旧世代からの解放を叫ぶ。
*「若きウィーン」派の指導的存在だったヘルマン・バール『自然主義の克服』を発表。
*この年シュテファン・ゲオルケはウィーンに滞在しホフマンスタールなどと交友。
*ブルックナーはウィーン入学名誉博士号を授与される。
*フロイト、ベルクガッセ19番地のアパートに移り、診療所をひらく。
**テオドール・ヘルツルはこの年ウィーンの有力紙「ノイエ・フライエ・プレッセ」のパリ特派員となる。
1892年
◎8月、エミール・ヤコブ・シントラー歿。
◎クリムトは6月に父エルンスト・クリムトを、そして12月に同名の弟を失う。
◎ヨーゼフ・ホフマン、アカデミーに入り、ハーゼナウアーに建築を学ぶ。
◎コロマン・モーザーは工芸美術学校に人り、マッチュに学ぶ。
◎オスカー・ラスケ、ウィーン工科大学でカール・ケーニヒに学ぶ。
◎フランツ・クプカ、アカデミーに入る。
◎マクシミリアン・クルツヴァイルはパリに出てアカデミー・ジュリアンで学ぶ。
*へルマン・バール、ベルリンからウィーンヘ。
*プロテスタントとしてはじめてウィーン大学学長となった生理学者エルンスト・ヴィルへルム・ブリッケはこの年に育児書『子供の命と健康の守りかた』を出版して世間を驚かせたあとで歿。ブリッケはまたフロイトの師でもあった。
**ミュンヘン、フランツ・フォン・シュトゥックを中心に分離派結城。
**この年1月1日をもって郊外を編入した大ウィーン市が誕生。人口はおよそ140万人。
1893年
◎オットー・ヴァーグナー、ウィーン市の総合整備計画の設計コンペで一等賞を受賞。
◎アドルフ・ロース、渡米する。
◎クリムトはアカデミーの教授に推されるが皇帝フランツ・ヨーゼフ一世はカシミール・ポヒワルスキーを指名。
*3月、指揮者クレメンス・クラウス(−1954)、ウィーンに生まれる。
*ローザ・マイレーダーはオーストリア婦人総連合を設立。
*カール・ルエーガー、カール・フォン・フォーゲルザング(1818−1890)の思想を基礎に、キリスト教社会党を結成。
1894年
◎6月、オットー・ヴァーグナーは、この年歿したハーゼナウアーの後任としてアカデミーの建築科教授となる。
◎1857年以来の都市計画は92年頃からあらたな段階をむかえていたが、この年オットー・ヴァーグナーは都市交通委員会とドナウ運河改修事業委員会の芸術顧問に拝命される。彼は傘下にヨーゼフ・マリア・オルブリヒ、ヨーゼフ・ホフマン、プレチュニク、マックス・ファビアーニ、レオポルト・バウアーなど俊才を集め、実現にのりだす。
◎ヨーゼフ・マリア・オルブリヒはウィーン造形芸術家協会のメンバーとなる。
◎文部省は新設されたウィーン大学講堂の天井画をグスタフ・クリムトとフランツ・マッチュに委嘱。
◎ヘルベルト・ベクル、ケルンテンのクラーゲンフルトに生まれる。
*ヘルマン・バール、『反ユダヤ主義』刊行。
*「すべてのオペレッタ中のオペレッタ」である『こうもり』は、ヨハン・シュトラウス二世の芸術活動五十周年を記念して、はじめて宮廷オペラ劇場で公演する。
*映画『嘆きの天使』、『間諜]27』の監督ジョゼフ・フォン・スタンバーク、ウィーンに生まれる。
1895年
◎フランツ・クプカはウィーンを離れ、パリに定住する。
◎オットー・ヴァーグナー『近代建築(Moderne Architektur)』刊。「われわれの芸術的創造の唯一可能な出発点は近代生活だという認識をもって、現在支配的な建築観の基礎全体を取りかえねばならない」(序文)。
◎ヴァーグナーを中心にオルブリヒ、ホフマン、コロマン・モーザー、マックス・クルツヴァイル、マックス・ファビアーニ、フリードリヒ・ピルツ、ヤン・コチュラは「七人クラブ(Siebenerclub)」をつくり、カフェ・シュペール(Cafe Sperl)にあつまる。これがウィーン分離派結成の先駆けとなった。
◎ウィーン造形芸術家協会の内部でも「青年たち(die Jungen)」の反逆がひろがる。
◎ヨーゼフ・ホフマンはアカデミーのローマ賞を受賞してローマ旅行。
◎ヨーゼフ・プレチュニクはアカデミーでヴァーグナーに建築を学ぶ。
◎新シリーズの『アレゴリーと象徴』出版開始。クリムト、コロマン・モーザー、エンゲルハルト、ハインリヒ・レフラーなど刊行に協力。
◎パリでラファエル・コランに学んだ折衷的印象主義の風展画家テオドール・フォン・へルマン(1840−1895)の追悼展で、ホフマンスタールは語る、「ウィーンでは見て考えさせられるような絵は、もういまやこの他にはない」。
◎カール・モルはシントラーの未亡人アンナ・モルと結婚。アルマ・シントラーは義理の娘となる。
*5月、オッフェンバックに刺激されウィーン・オペレッタの新ジャンルを開拓した作曲家フランツ・スッペ歿。
*10月、シュニッツラーの『恋愛三昧』、ブルク劇場で初演。
*アンドリアン=ヴェールブルクは小説『知の園』を発表。巻頭の標語に「わたしはナルシス(Ego Narcissus)」を選ぶ。カール・クラウスはすぐさまこれを「無知の遊び場」とからかう。
*フロイトはヨーゼフ・プロイアー(1842−1925)との共著『ヒステリー研究』を刊行。「ヒステリー患者は主に過去の体験の記憶に苦しんでいるのである」(フロイト)。
*音楽家ヨーゼフ・シュランメル歿。
*エルンスト・マッハ、プラハ大学からウィーン大学へ移る。
*この頃、ツェムリンスキーとシェーンベルクが出会う。
**ウィーン市議会選挙でキリスト教社会党が圧勝し、ルエーガーが市長に推されるが皇帝フランツ・ヨーゼフ一世は拒否。「ウィーンがカール・ルエーガーの率いる反ユダヤ主義者たちの手に落ちたことは、ユダヤ人と非ユダヤ人とを問わず自由主義文化の担い手には決定的な打撃だった。これらの人々が理性の光と法の支配とによって駆逐したと考えていた人種的偏見と民族的憎悪の力とが、「進歩の世紀」の息が絶える頃に、恐ろしい勢いで盛り返してきたのだ」(ショースキー)。
1896年
◎クリムトはこの頃「七人クラブ」のヨーゼフ・ホフマンなどメンバーと交友。
@アドルフ・ロース再びウィーンに戻る。
◎「(「キュンストラーハウス=ウィーン造形芸術家協会」は)要するに市場、よろず市のようなものである。商人たちはせいぜい品物をひろげていればいい」と、ヘルマン・バールは既成画壇を批判。
*5月、クララ・シューマン(1819−)、ウィーンで歿。
*マルティン・ブーバーはウィーン大学に入学。
*ベーター・アルテンベルク、ウィーン情景をつづった繁盛記『私のみるように』刊。
*テオドール・ヘルツル、『ユダヤ国家(Der Judenstaat)』刊。ユダヤ人はついにヨーロッパに同化できない、それゆえ新しいシオンの国を建設しようと語るこの薄いパンフレットは賛否両論をひきおこし、ウィーン、オーストリアをこえて、シオニズム運動におおきな影響をあたえた。
**カール・ルートヴィヒ大公、ヨルダン河の水にあたって死去。
1897年
◎4月、クリムト、カール・モル、エンゲルハルト、コロマン・モーザー、ヨーゼフ・ホフマン、オットー・ヴァーグナー、ヨーゼフ・オルブリヒ、クルツウァイルらはウィーン造形芸術家協会を脱退し、旧世代との断絶を、ローマ時代の平民分離派(secessio plebis)の名をかりて強調したオーストリア芸術家協会(ウィーン分離派、Vereinigung bildender Kunstler Osterreichs)をつくる。最初の集会はアルマ・シントラーの義父で同志のひとりカール・モルの屋敷で。そこでクリムトはアルマに出会う。アルマはツェムリンスキーに音楽を学び、ウィーンにイプセンを紹介したマックス・ブルクハルトから吹き込まれてニ−チェに熱中していた。
◎5月、ジャン・エッガー、ケルンテンのヒュッテンベルクに生まれる。
◎クリムトはエミール・ツッカーカンドルの解剖室で解剖の見学。このツッカーカンドルの妻ベルタはジャーナリストで、フランスのジョルジュ・クレマンソーとも親しく、日曜のサロンにはヴァイデンブルック伯爵夫人、イダ・コンラート、カール・ライニングハウス夫人などが集う。ベルタのサロンでも分離派結成の準備がなされた。
*1月、名物カフェ・グリーンシュタイドルが閉店し、「若きウィーン」の面々はカフェ・ツェントラルに河岸をかえる。皮肉屋カール・クラウスはこの閉店にひっかけて「若きウィーン」、なかでも仇敵ヘルマン・バールをからかった「とり壊された文学」を「ウィーン展望」に連載。この頃カフェ・ツェントラルは他にオスカー・ココシュカ、アドルフ・ロース、フランツ・ヴェルフェル、フランツ・ブライ、へルマン・ブロッホ、エゴン・フリーデルなども常連だった。「しかし、あらゆる新しいものに対する最良の教養の場所はつねにカフェーであった。そこではどの客も、わずかなお金を払うだけで何時間も居座り、議論し、書きものをし、トランプをやり、手紙を読み、そしてなにより無数の新聞・雑誌をよむことができる」(ツヴァイク)。
*4月、ヨハネス・ブラームス、ウィーンで歿。
*10月、グスタフ・マーラーは宮廷オペラ劇場の芸術監督となる。
*ブルク劇場の名優シャルロッテ・ヴォルター(1834−)歿。
**テオドール・ヘルツル編集のシオニズムの機関誌「世界」創刊。8月、バーゼルで第1回シオニスト会議。「プロレタリアでも革命家でもなく、気違いじみた人でもない人々が、我々の隊列には十分に大勢いるのである。我々が尽力しようと努めている事柄は、偉大で美しい、平和の作業なのであり、ユダヤ人問題の宥和的な解決なのである。それはキリスト教徒であろうと回教徒であろうと、かつまたイスラエルの子であるなしを問わず、より崇高な人々であるなら誰しも情熱をかきたてる、ひとつの適切な思想なのだ。我々の仲間にとってはすでに親しい表現となっている言葉を借りれば、つまり我々は、現に住んでいる場所に同化できないか、もしくは同化したくないようなユダヤ人たちのために、民族主権の確保された故郷をぜひ創りたいと思う。シオンの丘の旗の下に我々は集う」(テオドール・ヘルツル)。
**キリスト教社会党ふたたび勝利し、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世屈服、「美男のカール」と呼ばれたカール・ルエーガーは正式にウィーン市長となる。ルエーガーの台頭は、「反ユダヤ的、社会主義的、民族主義的、キリスト教的、(つまりこれらの混合物である)『近代的大衆運動』の描苗ができあがる」ことの象徴でもあった。
**ウィーン大学初の女子学生を哲学部が受け入れ。
1898年
◎1月、分離派の美術雑誌「ヴェル・サクルム」刊行。文学顧問にヘルマン・バールとマックス・ブルクハルトを迎えた。誌名は、国難にあっては若者を神に奉献するという古代ローマの儀式に由来している。「われわれにとって、大芸術と小芸術のちがいはない。富者のための芸術と貧者のための芸術のちがいも知らない。芸術は公共のための財である」(創刊号)。またこの誌上でアドルフ・ロースは、リングシュトラーセのウィーンを、見かけ倒しでハリボテの「ポチョムキン都市」とこきおろす。
◎3月、分離派第1回展開く。皇帝フランツ・ヨーゼフ一世臨席。国外の作品を意欲的に紹介したことも、ウィーン分離派の大きな功績である。「ウィーンではそのような外国の作品はかつて一度も紹介されたことがなかったのである。…マネの名を聞いたことのある人さえほとんどなく、ゴーガン、スーラ、ヴァン・ゴッホは論外であった。
◎10月、ゲルストル、アカデミーに入る。
◎11月、分離派展の展示会場として、マウトナー家やヴィトゲンシュタイン家の資金援助をもとに、オルブリヒが設計した分離派館がカールスプラッツに完成。ファサードに、「その時代にはその時代に固有の芸術を、そして芸術にはその本来の自由を」と刻まれたこの館で第2回展が開かれる。屋根の特異な形態からたちまち「金色のキャベツ」と呼ばれる。「市民は首をかしげ、笑い、腹をたて、駄洒落をとばした。ときにはアッバース朝の英雄アル・マハディーの墓だといわれた。…また温室と溶鉱炉のあいのこだとも。さらにエスカレートして、アッシリアの儀礼場との比較にまで及んだ。…市民たちはまだ理解するまでには至らなかったが、これが笑殺できないしろものだとうすうす感じはじめていた」(ヘヴェジィ)。
◎レオポルト・ブラウエンシュタイナー、アカデミーで学ぶ。
◎アントン・ハナーク、アカデミーで学ぶ。
◎オーストリア芸術産業博物館は「美術と工芸」誌を創刊する。
*フランツ・ヨーゼフ一世在位五十年記念として、現在のフォルクスオパー創設される。
**ベルリン、リーバーマンを会長とするベルリン分離派誕生。
**9月、ジュネーブで皇后エリーザベトはイタリアの無政府主義者ルイジ・ルッケーニに暗殺される。つねにヨーロッパの各地に旅をくりかえしたこの奇行の皇后に対してイタリアの詩人ダヌンチオは美しい追悼文を書き、ホフマンスタールはそれを翻訳して「ツゥクンフト」誌に掲載する。
**ゲオルク・シェーネラー(1842−1921)は「ローマと手を切ろう運動」を始める。プロテスタントの反カトリック運動からドイツ民族主義の中心へと旋回。
**7月、オットー・ビスマルク(1815−)歿。
1899年
◎ウィーン美術工芸学校はこの年、校長に分離派のフェリシアン・フライヘル・フォン・ミュルバッハを迎えて再編成され、ヨーゼフ・ホフマン、コロマン・モーザー、アルフレート・ロラーは美術工芸学校の教授となる。
◎美術工芸学校に職をえられなかったヨーゼフ・マリア・オルブリヒはウィーンを去ってダルムシュタットへ移る。
◎オスカー・ラスケはアカデミーでオットー・ヴァーグナーに学ぶ。
◎ヨーゼフ・ホフマンはパウル・ヴィトゲンシュタインのカントリーハウス改築を委託される。
◎オーストリア政府は「芸術委員会」を創設。オットー・ヴァーグナー、カール・モルなど委員となり、分離派の利益のために尽力する。
◎フェルディナント・アンドリ、分離派の会長となる。
◎アルビン・エッガー=リーンツ、ウィーンに移住。
◎アドルフ・ロース、カフェ・ムゼーウムを設計。徹底した装飾の排除から、がらんどうのカフェ、「カフェ・ニヒリスムス」とよばれる。「反分離派カフェとよべるかもしれない。というのもこの店のモダンな性格は、われわれが分離派として理解しているものとはなんら関係がない。分離派は装飾をもって仕事としたが、ロースはむしろ装飾を殺す、殺し屋である。…このカフェはともかく、無くてもいいものはすべてきれいさっぱりと捨て、美しさのなかに有用性があることを証明するだけでなく、有用性のなかにこそ美しさがひそんでいることを証明している」(『ヴィーナー・ルントシャウ』誌)。
◎ユングニッケルはミュンヘンからウィーンにきて、アカデミーのグリーペンケールに学ぶ。
◎アカデミー在学のゲルストルはハインリヒ・レフラーのクラスで学ぶ。シェーンベルクと知り合ったのもこの頃。
**5月、ベルリン、第1回ベルリン分離派展。
*6月、ヨハン・シュトラウス二世歿。10月彼のオペレッタ遺作『ウィーン気質』がカール劇場で初演。
*俳優のヨーゼフ・カインツ(1858−1910)はベルリンのドイツ座から移って、ウィーンのブルク劇場に登場。
*カール・クラウスはこの年創刊した「炬火」で、最近は「ウィーンの自由主義の行動範囲が開幕初夜の劇場の一階平土間席に限られるようになった」と書く。
*シェーンベルク『浄められた夜』
*オペレッタ作曲家カール・ミレッカー(1842−)歿。
1900年
◎3月、ハインリッヒ・レフラーとヨーゼフ・ウルバンを中心にして、ハーゲン協会の後身「ハーゲンブント」が結成される。やがてウィーン造形芸術家協会から完全に脱退する。
◎3月、ウィーン大学講堂天井を飾るクリムトの絵のうち《哲学》が第7回分離派展に出品されるが、大学の教授会が拒否。哲学者フリードリヒ・ヨードル(1848−1914)は、「朦朧とした形式で朦朧とした思想」をえがいた失敗作だと主張したが、これにカール・クラウスも同調。しかし大学内部でも美術史家フランツ・ヴィクホフ(1853−1909)のように、芸術の多様性を認めて擁護する人もなくはなかった。
◎11月、第8回分離派展は、イングランドのチャールズ・ロバート・アシュビーと彼の率いるギルド・オブ・ハンドクラフト、スコットランドのザ・フォーなど、アールヌーヴォーとアーツ・アンド・クラフツ運動の工芸を中心にしたはじめての熊示。マッキントッシュ夫妻みずからウィーンにきて会場のインテリアデザインを手がけ、ヨーゼフ・ホフマンに深い感銘をあたえる。
◎ホドラーははじめてウィーンを訪問、分離派の名誉会員となる。
◎パリ万国博覧会でクリムトの《哲学》は国外作品の金賞を得る。
◎美術批評家ルートヴィヒ・ヘヴェジィ、『マカルトと分離派』刊。
◎ヘルマン・バール、『ウィーン分離派』刊。
◎この頃、ゲルストルとオッペンハイマーはアカデミーでともにグリーペンケールに学ぶ。
◎エミール・オルリークは日本に旅行。
◎ヨーゼフ・ドブロフスキーの一家はカールスパートからウィーンヘ移る。
*ルドルフ・ロタールの仮面劇『道化王』は、ウィーンで大当り、ヨーロッパの各地で上演される。
*シュニッツラーはタブー視された性の問題を大胆にとりあげた『輪舞』を刊。
*フロイトは『夢の解釈(Die Traumdeutung)』を出版。「わたしは本書で、夢をときあかす方法があり、これを用いると、どんな夢も、目覚めているときの心の動きのなかの、ある一定の位置に据えおくことができることを証明するつもりである」(フロイト)。
*テオドール・ヘルツル『古くて新しい国』発表。「夢は多くの人が考えているほど行為とちがったものではない。人間のすべての行動は夢に始まり、後にはもう一度夢となる」(ヘルツル)。
*ブルク劇場のカタリーナ・シュラットが引退し、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世はこれ以後劇場に足を運ばなくなる。
**8月、ワイマール、フリードリッヒ・ニーチェ(1844−)歿。
**「1900年にはウィーンは200万人の人口を擁するヨーロッパで4番目の大郁市であった。しかもそこに生まれた人間は半数以下だった。街ではルーマニア語からジプシーの言葉、ポーランド語からイタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができた」。
**オーストリアにケルバー内閣成立。蔵相に経済学者オイゲン・ベーム=パヴェルク、文化相にヴィルヘルム・リッター・フォン・ハルテルを起用するものの、67年以前の官僚主導の伝統に逆戻りし、世紀後半を彩った、いわゆる自由主義は後退を余儀なくされる。
1901咋
◎1月、第9回分離派展に出品されたジョルジュ・ミンネの彫刻に、エゴン・シーレとオスカー・ココシュカはひどく感化される。
◎3月、クリムトは、分離派展に《医学》を出品。前年の《哲学》に対する非難に政治家たちも加わって、スキャンダラスな事件の様相を帯びはじめる。年末にアカデミーはクリムトをエドゥアルト・リヒテンフェルスの後任教授として推挙したが、文化省は就任阻止。
◎秋までには、ゲルストル、アカデミーを離れる。
◎ゲルハルト・フランクル、ウィーンに生まれる。
◎「クリムトはラウフベルガー一派の忠実な後継者から、マカルトのエピゴーネンヘと変身した。その後クノップフのえがく女の顔が気に入るや、かれは器用な腕でそれをウィーンの女たちの雰囲気に移し変えた。点描派風への一時的な逃避の後、現在この練達の折衷主義者はふたたびベルギー人の流儀にもどっている。その流儀を、ウィーンの顧客連の特異な好みを眼ざとく察して、かれは儀式ばったもったいをつけて叩き売りしたのだ」(カール・クラウス)。
*11月、ツッカーカンドル家の夕食会でクリムト、マックス・ブルクハルトとともに招待されたマーラーは、アルマ・シントラーと出会う。
*シェーンベルクは友人ツェムリンスキーの妹と結婚。
*アルトゥール・シュニッツラーは前年末「ノイエ・フライエ・プレッセ」に発表した『グストル少尉』がオーストリア軍の威信を傷つけたとして軍医中尉の位を剥脱される。
**1月、イギリス、ヴィクトリア女王歿し、エドワード七世即位。
**「今世紀の端緒までに、ヨーロッパのブルジョワジーの常套的な道徳主義文化は、オーストリアでは没道徳の感情文化によって蔽われて、崩されてしまっていた」(ショースキー)。
1902年
◎4月、分離派第14回展はベートーヴェンをテーマにした記念展。マックス・クリンガーの彫刻とクリムトの《ベートーヴェン・フリーズ》に、ヨーゼフ・ホフマンのインテリアデザインによって諧調がうまれ、「あらゆる手段で敬虔の念を抱くように心の準備をさせられた後に、ひとは一種の催眠状態で彫像の前に到達する」(『ノイエ・フライエ・プレッセ』)。分離派がめざす総合芸術の夢の一端がここに実現した。さらにオープニングにはベートーヴェンの第9交響曲の最終楽章の編曲版をマーラーが指揮する。
◎クリムトのフリーズは会期終了後壁からはがされ、のちエゴン・シーレのパトロンとなるカール・ライニングハウスが買いとる。
◎12月、ホフマンとフェリシアン・フォン・ミュルバッハ渡英し、ロンドンでアシュビーのギルド・オブ・ハンディクラフトを見学、グラスゴーのマッキントッシュを訪ねる。この年フリッツ・ヴェルンドルファー邸でき、食堂はホフマンが、音楽室はマッキントッシュがデザインする。
◎オットー・ヴァーグナー、シュタインホフ教会の計画に着手。
◎ロダンはプラハを経てウィーンに。分離派展を見て、ベルタ・ツッカーカンドルの手引きでクリムトに会う。
◎ハーゲンブントはヨーゼフ・ウルバンが改築したツェドリッツ通りの建物をこれ以後会場にする。
◎ユングニッケル、工芸美術学校でアルフレート・ロラーに師事。
◎日本で木版をまなんだエミール・オルリーク、ウィーンに住む。
*3月、マーラーはアルマ・シントラーと結婚、妻アルマを通じてクリンガー、コロマン・モーザーなどと交友。
*レハール、アン・デア・ウィーン劇場指揮者となり、本格的なオペレッタ『ウィーンの女たち』、『針金細工師』を発表。
*日本の川上音次郎一座がウィーン公演。クリムトは貞奴に感激。
*フーゴー・フォン・ホフマンスタール、『チャンドス卿の手紙』刊行。
1903年
◎1月、分離派第16回展は、ボナール、ゴーギャン、ルドン、トゥルーズ=ロートレック、ゴッホなどを展示。
◎5月、「近代画廊(Moderne Galerie)」レンヴェーク76番地に開廊。文化相ヴィルヘルム・リッター・フォン・ハルテル(1839−1907)の肝煎り。ハルテルは近代作品を積極的に購入する。
◎5月、ヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーは工業デザインのワークショップを構想、さきにアシュビーのエセックスハウスをみて、芸術家と職人の新しい共同体の姿に感激していた銀行家、フリッツ・ヴェルンドルファーは資金援助を約束し、ここに「ウィーン工房(Wiener Werkstatte)」が誕生。「われわれの町、われわれの感情、これらすべてにわたり、簡素で美しい形を通して、われわれはみずからの精神を明示する」(ホフマン、モーザー)。
◎11月、分離派第18回展は、クリムトの作品80点展示。噂好きのウィーン人の耳目をあつめた《哲学》《医学》《法学》も含まれていた。
◎11月、建築家カミロ・ジッテ、ウィーンで歿。
◎年末、分離派の機関誌「ヴェル・サクルム」廃刊。
◎クリムトはこの年二度イタリアのラヴェンナに旅行。
◎ヨーゼフ・プレチュニクはツァッヘルハウスを設計。
◎ホドラーはウィーンに2ヵ月ほど滞在し、クリムトと知り合う。
◎フランツ・フォン・チューロウは美術工芸学校に入学。
*2月、作曲家フーゴー・ヴォルフ(1860−)歿。
*2月、総合芸術としてのオペラを目指すマーラーは、さきの分離派展で知り合ったアルフレート・ロラー(1864−1935)と協力して、ロラーの舞台装置・デザインによる『トリスタンとイゾルデ』を宮廷オペラ劇場で指揮する。翌年の『フィデリオ』でも試み、評判をよんだ。
*4月、映画俳優から監督に転じたヴィリー・フォルスト、生まれる。
*シェーンベルクはベルリンからウィーンヘ帰る。ツェムリンスキーと創造的芸術家協会を設立。名誉会長にグスタフ・マーラー。
*オットー・ヴァイニンガーは『性と性格』出版するが、数カ月後自殺する。「さまざまな愛がある。だが男が愛するのは自分だけだ」(ヴァイニンガー)。
*ホフマンスタールはヘルマン・バールを通じてマックス・ラインハルトを知る。これ以降ホフマンスタールの演劇熱たかまる。10月、ベルリンでホフマンスタールの『エレクトラ』がラインハルトの度判で初演。
*ウィーンで最初の映画常設館ができる。
1904年
◎1月、分離派第19回展は、ホドラー31点、ムンク20点を展示する。ホドラーには専用の部屋が2室あてられ、コロマン・モーザーが室内構成をする。
◎オットー・ヴァーグナー設計のウィーン郵便貯金局が着工。
◎ヨーゼフ・ホフマンはヴィクトール・ツッカーカンドルの依頼で、ウィーン近郊プルカースドルフのサナトリウムを設計、これはウィーン工房の総力をあげて、総合芸術の理想をある程度まで実現した最初の例となった。
◎クリムトの愛人、エミリーエ・フレーゲ「フレーゲ姉妹モード・サロン」を開店。ホフマンとコロマン・モーザーがインテリアのデザインをする。
◎クリムトの友人で宝石商のパウル・バッハーはミートケ画廊を買収。カール・モルが顧問となり、ゴッホ、ゴーギャン、ムンク、ピカソなどを精力的に紹介する。
◎アントン・コーリッヒ、美術工芸学校に入る。
◎工芸美術学校のフランツ・チゼクによって子供のための授業が始まる。
*7月、テオドール・ヘルツル(1860−)歿。
*「ノイエ・フライエ・プレッセ」の音楽欄担当で、ブラームス党のエドゥアルトハンスリック(1825−)歿。
*オットー・ヴァイニンガーのアフォリズム集『終局的なことについて』刊行。
*シェーンベルク、アントン・ヴェーヴェルンとアルバン・ベルクにはじめて出会う。
*シュニッラーの『輪舞』はドイツ全土で発売禁止。
**マックス・ウェーバー、『プロテスタンティズムと資本主義の精神』刊行。

1905年
◎年初、アカデミーはクリムトを教授に推挙するが、文化省はベルトルト・レフラーを指名する。
◎3月、水彩画家でウィーン分離派の名誉会長ルドルフ・フォン・アルト歿。
◎6月、クリムト、カール・モル、ホフマン、モーザーたちは分離派の大勢をしめるヨーゼフ・エンゲルハルトたちと対立、ついに分離派から脱退する。「短い闘争があり、モルに与する24人の会員が脱退することでそれは終わった。ある新聞で、われわれ残った者たちは以後〈胴体分離派〉の名で呼はれた」(J・エンゲルハルト)。
◎12月、ミートケ画廊で「ウィーン工房」展。
◎フェルディナンド・アンドリは分離派の会長となる。
◎政府買上予定だったクリムトの《哲学》《医学》《法学》は、最後にアウグスト・レーデラーとコロマン・モーザーがひきとることで決着。レーデラーは《哲学》をヨーゼフ・ホフマンに構成させた部屋に飾った。
◎ウィーンの社交界の中心で、フロイトの親しい友人でもあるマルガレーテ・ストンボロー=ヴィトゲンシュタインの肖像を、クリムトはこの年に描く。
◎ココシュカは、工芸美術学校に入る。
◎工芸美術学校でココシュカを教えていたカール・オットー・チェシュカはウィーン工房に参加。
◎ウィーン在住の実業家アドルフ・ストックレーは父の死にともなって事業をつぐためベルギーのブリュッセルにに自邸の建築を計画。ヨーゼフ・ホフマンとウィーン工房に依頼。クリムトは食堂のフリーズを担当。
◎美術史家アロイス・リーグル、ウィーンで歿。
*ドレスデンでルートヴィッヒ・キルヒナー、エーリッヒ・ヘッケル、シュミット=ロットルフ、フリッツ・ブライルは芸術家集団「橋(ディー・ブッリュッケ)」を結成する。
*12月、レハールのオペレッタ『メリー・ウィドウ』がアン・デア・ウィーン劇場で初演。空前の成功をおさめる。「音楽は軽やかで輪郭がくっきりしていて、同時にまた、あちこちで痺れさせるような快い電気ショックを与えるのだった。それは溌刺としていて、同時にまた悩ましげに官能的だった。それはまさに1905年の『こうもり』だった」。
*学友協会大ホールで第1回労働者シンフォニー・コンサートが開かれる。「批評ではなく、芸術そのものを紹介することで労働者を音楽に近づけることができる。芸術の独占的行為に終止符が打たれなくてはならない」(D・J・バッハ)。
**「われわれの時代の特徴は多様性と不確実性だ。現代はただ動いて、滑って過ぎ去ってゆくもの(das Gleitende)の上にしか身を置けず、過去の世代が確固たるものと信じていたものが、じつはこのdas(Gleitende)であることを意識している」(ホフマンスタール)。
**ウィーンでは「芸術家を一部とする殆ど一つの階級全体が芸術のための芸術の帰依者となった。芸術の生活が行動の生活にとってかわった。実際政治的行動はますます空しくなり、それにつれて芸術は一つの宗教、意味の源泉、魂の糧になったのだ」。
**3月、ドイツのヴィルヘルム二世のタンジール訪問に端を発する独仏対立のモロッコ事件。「これ以後の十年間、ヨーロッパの若者たちは差し迫る戦争の雰囲気の中に暮らし、呼吸していた」(スチュアート・ヒューズ)。
1906年
◎1月、ミートケ画廊でゴッホ45点展示。シーレ、ゲルストル、ココシュカらこれをみる。ココシュカはのちに《ヒルシュ神父の肖像》を描くし、ゲルストルの場合は、ゴッホヘの傾倒から反クリムトの立場をとるにいたる。
◎10月、シーレはアカデミーに合格し、グリーペンケールの教室に入る。ゲルストル、フェリックス・ハルタはすでにグリーペンケールと衝突してアカデミーから去っていなかった。
◎ダゴベルト・ペッヒェ、ウィーン工科大学に入る。
◎ウィーン工科大学に学んだフェリックス・ハルタは、ミュンヘンの美術アカデミーに入り、絵画を学ぶ。
◎リヒャルト・ゲルストルはツェムリンスキーの紹介でシェーンベルクに会う。
◎クリムト、ロンドン・ブリュッセルに旅行。ストックレーの集めた浮世絵を見せてもらう。
◎ルートヴィッヒ・ヘヴェジィ、『分離派の八年』刊。この中で黒田清輝の白馬会を日本における分離派として紹介する。
◎ヨーゼフ・ホフマンはカール・ヴィトゲンシュタインの狩猟小屋を設計する。
◎ホフマンが設計するベルギーのストックレー邸建築着工。内装にはクリムト、チェシュカ、ユングニッケル以下、ウィーン工房の総力をあげる。
*6月、映画監督ビリー・ワイルダー、ウィーンに生まれる。
*9月、物理学者ルートヴィヒ・ボルツマン自殺する。
*ムージル、小説『若きテルレスの惑い』発表。
*詩人フェルディナント・フォン・ザール(1833−)は厭世自殺する。
**2月、ベルリン、ホフマンスタールはリヒァルト・シュトラウスに初めて会う。
**11月、皇帝の甥オットー大公歿。晩年のかれは梅毒のために鼻はただれ、奇行にことかかず、「その私生活はウィーンの呼び物」(カール・クラウス)だった。

1907年
◎年初、コロマン・モーザーはウィーン工房を脱退。
◎3月、ミートケ画廊でゴーギャン72点展示。
◎ヴェルンドルファーの出資で、ウィーンのケルントナー通りで文学キャバレー・フレーダマウス(こうもり)がオープン。設計ははヨーゼフ・ホフマンとベルトルト・レフラー。ウィーン工房のクリムト、ココシュカ、コロマン・モーザー、エミール・オルリークが内装を分担。アルテンベルク、エゴン・フリーデル、フランツ・ブライ、へルマン・バールなどは舞台脚本を書き、上演された。またヴィーゼンタール姉妹の舞踏も人気を集めた。
◎ココシュカ、ウィーン工房に入る。
◎クリムトはロースがデザインしたカフェ・ムゼーウムの常連で、エゴン・シーレはここでクリムトとはじめて知り合う。
◎オットー・ヴァーグナーが設計し、コロマン・モーザーのステンドグラスやオトマール・シンコヴィツの彫刻を配するシュタインホフ病院付属教会が完成する。
◎カール・オットー・チェシュカはハンブルクの工芸学校の教授となって、ウィーン工房を去る。
◎ゲルストルは夏の休暇をタラウンゼーでシェーンベルク一家とすごし、シェーンベルクに絵を手ほどきする。
◎アドルフ・ロース、アメリカン・バー設計。
◎オスカー・ラスケ、ハーゲンブントに加入。
◎アントン・コーリッヒ、フランツ・ヴィーゲレ、アカデミーに入学。
◎ル・コルビュジェはウィーンに来てホフマンと会う。
*5月、マーラー、モンテヌオーヴォ侯爵と不和となり宮廷オペラ劇場を辞す。この事件にあたって、クリムト、シュニッツラー、ホフマンスタール、シュテファン・ツヴァイク、マックス・ブルクハルトなどマーラーを辞任させないよう署名を集める。
*5月、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』、初めてウィーンで上演。
*10月、トロッキーはウィーンに来る。カフェ・ツェントラルを根城に、オットー・バウアー、カール・レナー、マックス・アードラーなどウィーンの社会主義者たちと交友。
*秋、マドルフ・ヒトラー、アカデミーを受験するが不合格でリンツに戻る。
*年末、クリムトは、メトロポリタン歌劇場と契約してアメリカヘ旅立つマーラー夫妻を、シェーンベルク、ベルク、ウェーヴェルンとともに南駅に見送る。
*オットー・バウアー、『多民族の聞現と社会民主主義』刊。
*オスカー・シュトラウスのオペレッタ『ワルツの夢』が大当り。
**ベルリン、ヘルマン・ムテージウスは「ドイツ工作連盟」を設立。ヨーゼフ・ホフマンも参加。
**ベルリン、ペーター・ベーレンスはヴァルター・ラーテナウの「総合電気会社(AFG)」の芸術顧問となり、産業デザインにとりくむ。当時のベルリンにおいてもっとも活動力にあふれたベーレンスの事務所にはヴァルター・グロピウス、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジェが集う。
**ワイマール、ヴァン・デ・ヴェルデは工芸美術学校を設立。
**7月、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟更新。
**8月、英露協商締結し、イギリス・フランス・ロシア三国同盟成立。
1908年
◎5月、クリムトなどクンストシャウ(国際美術展)をひらく。皇帝フランツ・ヨーゼフ一世在位六十年祭の一環として政府は資金を援助、ヨーゼフ・ホフマンが簡素なパヴィリオンを設計した。会場ではまたキャバレー・フレーダマウスの人気バレリーナ、グレーテとエルザのヴィーゼンタール姉妹の委嘱でフランツ・シュレーカーが作曲した、オスカー・ワイルド原作の童話『王女の誕生日』が上演される。アドルフ・ロースははじめて会ったココシュカに注目、ウィーン工房を離れるようにすすめる一方、親友カール・クラウスとそれをとりまくサークルにも紹介するなど、ロース、クラウスはココシュカを援助する。
◎分離派以後最大の文化的イヴェントであるクンストシャウ(国際美術展)をウィーンは黙殺。「ヘヴェジィとリヒャルト・ムターとわたしは、展示場のなかのちいさなカフェに腰をおちつけ、破壊的きわまるやりかたで仕掛けられた陰険な攻撃に、どう対抗すれはいいのかを話しあった。もう有効な手だては何もない、とヘヴェジィは言った。でも20年以内にわれわれは戦いに勝つだろう、と」(ベルタ・ツッカーカンドル)。
◎夏、ゲルストルはトゥルン湖畔グムンデンでシェーンベルク一家とすごし、『シェーンベルク家の肖像』を描く。秋、ゲルストルはシェーンベルクの妻マティルデと駆落ちするが、説得されたマティルデはシューンベルクのもとに帰る。
◎11月、リヒャルト・ゲルストルは自作の絵画多数を燃やしたあとで自殺。
◎年末、シーレはクリムトの紹介でウィーン工房に働く。ヨーゼフ・ホフマンを知る。
◎アドルフ・ロース『装飾と罪』刊行。芸術的審美主義への激しい批判と克服を語る。「宝石は宝石商人によって、家具は家具職人によって、衣服は仕立屋によって、それぞれの素材にふさわしい職人の手でつくられるべきである」(ロース)。
◎ココシュカの『夢見る少年たち』がウィーン工房から出版される。これはクリムトに献呈された。
◎ヨーゼフ・マリア・オルブリヒ歿。
◎ダゴベルト・ペッヒェ、アカデミーに入る。
◎アルフレート・クビーン、52枚の挿画がはいったユートピア小説『もう一方』を発表。
*2月、ヒトラーはリンツから再度ウィーンへ出てアカデミーを受験するが再び失敗。
*フロイトは、ウィーン精神分析学会を創設、4月、ザルツブルクでその最初の学会を開く。
*夏、マーラーは『大地の歌』を作曲。
*シェーンベルクは『架空庭園の書』で伝統的な調性を解消し「不協和音の解放」を試みる。
*シュニッツラーは「ウィーンのユダヤ系住民の広大なパノラマ」として、シオニズム運動の指導者テオドール・ヘルツルをモデルにした『自由への道』を刊行。
**9月、前年チューリッヒにフロイト協会を設立したカール・グスタフ、ユングをフロイトが訪問。
**10月、ブルガリア独立宣言。
**10月、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合。
1909年
◎4月、エゴン・シーレは師のクリーペンケールと折合わず、アカデミーを退学する。アントン・ペシュカ、アントン・ファイスタウアー、フランツ・ヴィーゲレ、ロビン・クリスティアン・アンデルセン、ハンス・マスマン、カール・ザコウゼクらとノイクンストグルッペ(新芸術集団)を結成。のちにアルベルト・パリス・フォン・ギュータースロー、ハンス・ベーラーが加わる。
◎5月、クンストシャウ(国際美術展)が開かれる。ココシュカ、シーレ、アントン・ハナーク、コーリヒ、ヴィーゲレ、ファイスタウアー、ユングニッケル、ギュータースロー、オッペンハイマーなどが参加。またこの展覧会にはゴッホ、ゴーギャン、ムンク、ボナール、マナス、ヴァロットン、ヴュイヤールらの作品と、英独の工芸作品が展示。会期中にはココシュカの戯曲『殺人者、女たちの希望』が初演され、アドルフ・ロースとカール・クラウスはこれを見物した。
◎10月、ミートケ画廊でトゥルーズ=ロートレック展。シーレはロートレックの描く女たちに惹かれる。
◎12月、ピスコ画廊でシーレなど「新芸術集団」展。ポスター・デザインはファイスタウアー。シーレがかいた定言文はのち改訂されて1914年の『ディー・アクツィオーン』に掲載。サラエボで暗殺されることになるフランツ・フェルディナント大公も来たが、「こんな下品なものを予がみたことは誰にも知られないように」と口止めしたという。、一方、アルトゥール・レスラーは、シーレ擁護の記事を「労働者新聞」に載せるだけでなく、コレクターのカール・ライニングハウス、オスカー・ライヒェルやエドゥアルト・コスマックにシーレを紹介。医師ライヒェルは、ウィーンの画家以外にもマネ、ゴーギャン、ロートレック、ゴッホ、ムンク、クノップフらを収集していた。
◎アドルフ・ロースはスイス旅行にココシュカを帯同、ココシュカは肖像画の他風景画をえがき始める。
◎アルフレート・ロラーは工芸美術学校の校長となる。彼はココシュカの奨学金を打切るが、ロースが救いの手をさしのべる。
◎美術史家フランツ・ヴィクホフ歿。マックス・ドヴォルジャークがウィーン大学の教授となる。
*1月、リヒャルト・シュトラウス作曲、ホフマンスタール原作・台本のオペラ『エレクトラ』、ドレスデンの宮廷オペラ劇場で初演。台本を喜くにあたってホフマンスタールはフロイトの『ヒステリー研究』をくりかえし参照した。
*1856年以来ブルク劇場専属だった名優アドルフ・フォン・ゾンネンタール(1834−)歿。
*ウィーン・フィルハーモニーはフェリックス・フォン・ヴァインガルトナーを指揮者に選ぶ。
*ミュンヘン、カンディンスキーとヤウレンスキーはミュンヘン分離派から決定的に離脱し、新芸術家協会を結成。12月の第1回展には、クビーンも出品した。
**1909年におけるウィーン大学の学生の1/4はユダヤ人で、とくに法学部、医学部は圧倒的多数を占める。ドイツ語圏の諸都市のなかでもウィーンはどユダヤ人が進出し、大きな勢力となっていた都市はなく、逆に、それゆえ、反ユダヤ主義のまたとない温床となっていた。
1910年
◎10月、シェーンベルクはフーゴー・ヘラー書店の画廊で個展。
◎オットー・ヴァーグナーはシーレに肖像画を描かせるが、気に入らず途中で中断。
◎ココシュカはクラウスの紹介でベルリンへ行き、ヘアヴァルト・ヴァルデンがカール・クラウスの『炬火』に範をとって創刊した批評誌『デア・シュトゥルム』を手伝う。さらに表現派「ブリュッケ」の画家、エミール・ノルデ、ヘッケル、キルヒナー、ペヒシュタインなどと知り合う。6月、カッシーラ画廊でココシュカ初の個展。
◎ココシュカの戯曲『殺人者、女たちの望み』はベルリンの「デア・シュトルム」に自作の挿絵とともに掲載される。
◎アドルフ・ロース、ミヒャエル広場にロースハウスを設計。「わたしの最初の建物!このわたしが建てた建築!晩年に至るまで、こんなことが実現しようなどとは夢にもおもえなかった。これまでの幾多の経験で、ウィーンには、このわたしに建物の設計を依頼するほどの酔狂はいないし、わたしのプランを建設局に認めさせるなんてとうてい不可能だと、よくわかっていたからである」。わすれてならないが、ロースにとって建築は芸術ではない。「なんであれ、ある目的に奉仕するものは芸術の領域から除外されねはならない。…〈応用芸術〉という、まやかしのスローガンが諸民族の語彙から追放されたときにはじめて、われわれの時代に適した建築をもつことができるだろう」(アドルフ・ロース)。
◎エンゲルハルトはこの年から翌年にかけて分離派の会長をつとめる。
◎美術批評家ルートヴィヒ・フォン・ヘヴェジィ自殺。
◎アルフォンス・ヴァルデはウィーン工科大学に入り、建築を学ぶ。
*5月、解剖学者エミール・ツッカーカンドル(1849−)歿。
*6月、アルマ・マーラーはトーベルバートでワルター・グロピウスに出会い、急速に接近、この恋愛に苦しんだマーラーはオランダのライデンで休暇中のフロイトを訪ね診断をうける。
*9月、名優ヨーゼフ・カインツ癌のため(1858−)歿。
**ベルリン、グロピウスはペーター・ベーレンスの事務所から独立。
**プラハ、フランツ・カフカはフランツ・ヴェルフェルと交友。
**3月、「美男のカール」と呼ばれた大衆操作の達人政治家カール・ルエーガー歿。これ以後キリスト教社会党の人気は漸減する。
**ウィーンの人口はこの年210万人。そのうち18万人がユダヤ人だった。
1911年
◎ココシュカはベルリンからウィーンへもどり、工芸美術学校で教える。2月のハーゲンプント特別展に油彩25点、デッサン10点出品。この展覧会には他にファイスタウアー、ヴィーゲレ、アンデルセン、ギュータースロー、コーリッヒも出品する。
◎4月、シーレはクリムトのモデルをしていたヴァリー・ノイツィルと、クルマウにみつけたアトリエで同棲。
◎4月、ミートケ画廊でエゴン・シーレの初個展。
◎秋、アルトゥール・レスラーはシーレをミュンヘンの画商ハンス・ゴルツに紹介。ゴルツに送った作品がミュンヘンで展示される。11月、クレーやクビーンが所属していたミュンヘンの「ゼマ」の会員になる。
◎1月からカンディンスキーとシェーンベルクの文通が始まり、12月、ミュンヘンで結成された青騎士の第1回展にシェーンベルク出品。
◎コロマン・モーザーはクリムトの《医学》《法学》を購入。
◎オットー・ヴァーグナー『大都市』刊。
◎ブリュッセルのストックレー邸、完成。「ウィーン工房で遂行されたこの仕事は、クリムトと、コロマン・モーザーおよびヨーゼフ・ホフマンとの緊密な交友関係の顕著な成果であろう。…この種の注文で外国がわが国に先んじてしまったこと、およびこの作品がウィーンでは全然公開されなかったことは、ウィーンの芸術界にとって嘆かわしく恥ずべきことである」(ヴァイクルスゲルトナー)。
◎クリムトはフリッツ・ヴェルンドルファーとともにベルギーヘ旅行、ロンドン・マドリッドなどへも足をのばす。
◎ブラウエンシュタイナーは、ハーゲンブントの会員となる。
◎ギュータースロー、『エゴン・シーレ、序説の試み』刊行。
◎オッペンハイマー、画商パウル・カッシーラーの援助でベルリンに住む。
*1月、台本ホフマンスタール、作曲リヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』、ドレスデンの宮廷オペラ劇場で初演。演出マックス・ラインハルト舞台装置アルフレート・ロラー。
*5月、グスタフ・マーラー、ウィーンで(1860−)歿。
*カール・クラウスの「炬火」はこの年から個人誌となる。この知的テロリストの腕はこれから20年以上衰えることはない。「彼は芸術からあらゆる粉飾を一掃するのをよしとするが、分離派は最後には彼をうんざりさせる。音楽に関しては、無調のシェーンベルクしか我慢できない。絵画に関しては、ココシュカを支持するだろう。建築では、アドルフ・ロースの信奉者だ。かれにはウィーン的美学は幻想へのロマンティックな逃避にしか見えない。…かれはまた、ウィーンの「若い文学者」−アルトゥール・シュニッツラー、ヘルマン・バール、フーゴー・フォン・ホフマンスタール、ペーター・アルテンベルク−らの階級性を告発するだろう。かれらが形式のみにとらわれ、社会問題に無関心だというのである」(ジルー)。
*シェーンベルク『和声論』刊。「大切なのは自分自身に耳を澄まし、自分自身の内部を深く見つめる能力である。内部では本能の人間がはじまり、そこでは幸いにも一切の理論がくづれてしまう」(シェーンベルク)。
*秋、シェーンベルクはベルリンヘ移住。「ここでは未来を予告する芸術は歓迎されない。…よそは天才を迎え入れる場所をつくる。ウィーンでは天才を外へ追いやる」(パウル・シュテファン)。ここで、ブゾーニやヴァルデン、ノルデとも交友する。
*クリムトの《死と生》は、ローマ国際美術展で金賞を受賞する。
*ニ−チェやリルケと親交のあったルー・アンドレアス=ザロメ(1861−1937)はフロイトと知りあったのがきっかけで、精神分析をはじめる。
**ミュンヘン、クビーンはタンハウザー画廊のクレー展で作品を買いカンディンスキーにみせる。
**ミュンヘン、新芸術家協会内の対立から、カンディンスキー、マルク、ミュンター、クビーンは退会。カンディンスキー、マルクはただちに「青騎士」を結成し、12月にタンハウザー画廊で第1回展を開く。
**ベルリン、フランツ・プフェンフェルトは雑誌「ディー・アクツィオーン」を創刊する。
1912年
◎4月、シーレは少女誘拐の廉でノイレングバッハで逮捕拘留され、5月、釈放されてウィーンにもどる。
◎5月、ココシュカとシーレ、ケルンの「ゾンダーブント」展に出品。
◎6月、シーレ、「ハーゲンブント」展に出品し、これを機にふたりのパトロン、実業家アウグスト・レーデラーとレストラン経営主フランツ・ハウアーを知る。ハウアーのレストラン「イム・グリーヒェンバイスル」にはココシュカやファイスタウアーの作品が掛けられていた。
◎ココシュカは、カール・モル邸でアルマ・マーラーに出会う。
◎ヨーゼフ・ホフマンは、アルフレート・ロラー、エドゥアルト・ライニングとともに、ドイツ工作連盟をモデルにした「オーストリア工作連盟」をつくり、会長となる。
◎オットー・ヴァーグナー設計の郵便貯金局完成。
◎レオポルト・バウアー、ヴァーグナーの後任としてアカデミー教授となる。
◎ベクルはウィーンの工科大学で建築を学ぶとともに、個人的にアドルフ・ロースに師事。
◎フランツ・ヴィーゲレとアントン・コーリッヒはパリに遊学、この頃ギュータースローもパリでモーリス・ドニに学ぶ。
**3月、ベルリン、ヘアヴァルト・ヴァルデンはシュトゥルム画廊を開き、その第1回展として「青騎士」展を開催するとともに、ココシュカを展示。
*4月、ウィーン、ミートケ画廊でベルリン分離派展。ベックマン、コリント、リーバーマン、スレフォークト出品。
**5月、ミュンヘン、ベルンハルト・ケーラーの援助で『青騎士年鑑』出版。
**5月、ケルン、国際的な現代美術展「ゾンダーブント」開催。
*6月、マーラーの『交響曲第9番』、ブルーノ・ヴァルターの指揮で初演。
*シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』、ベルリンで初演。この頃、アルマ・マーラーはグロピウスとの旅の後ベルリンにシェーンベルクを訪ねる。
*アルバン・ベルク、『ベーター・アルテンベルクによる歌曲』作曲。
**12月、フランツ・カフカ、『変身』完成。
*レオン・トロッキーはウィーンに滞在し(14年まで)、カフェ・ツェントラールでカール・レンナー、オットー・バウアー、マックス・アードラーら社会民主党員と会って論議する。
**夏、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシアはバルカン同盟を結成し、10月、対トルコ戦争が起こる(第1次バルカン戦争)。
1913年
◎1月、ミートケ画廊での「新芸術」展に、ココシュカ、ファイスタウアー出品。
◎1月、シーレはクリムトを会長とする「オーストリア芸術家同盟」の会員となる。
◎2月、ミートケ画廊でオスカー・ライヒェルの収集品による展覧会があり、ココシュカ、シーレ、ギュータースロー、ファイスタウアーが含まれていた。
◎3月、ブタペストで、「オーストリア芸術家同盟」展。クリムトコロマン・モーザー、シーレ、チェシュカ、ファイスタウアー、ギュータースロー、レフラーが出品。
◎6月、ミュンヘンのゴルツ画廊で「シーレ展」、このあとベルリンで開催。
◎シーレはフランツ・プフェンフェルト編集の『ディ・アクツィオーン』に関与する。
◎アントン・ハナークは、ウィーン工芸美術学校で彫刻を教える。
◎オットー・ヴァーグナーはアカデミーの教授を辞任。

*2月、シェーンベルクはフランツ・シュレーカー指揮による『グレの歌』で、初めての文句なしの成功をおさめる。
*ルドルフ・シェチンスキー(1879−1952)は『わが夢の町ウィーン』を作詞作曲。
*ギュータースローは表現主義的小説『躍る愚者』発表。
*オーストリア鉄鋼業の重鎮カール・ヴィトゲンシュタイン(1847−)歿。哲学者ルートヴィッヒと、ウィーン社交界の華マルガレーテをその子にもつカールは、音楽のパトロンでもあり、ブラームスやマーラーの友人で、またクララ・シューマンはそのサロンで演奏した。
*2月、社会民主党のフランツ・シューマイアー(1864−)が暗殺される。犯人のパウル・クンシャクはキリスト教社会党のレオポルト・クンシヤクの兄弟で、背景にはこの両党の対立の激化があった。25万人が葬列に参加。
**5月、ベルリンで、「橋(ディー・ブリュッケ)」が解散する。
**ベルリン、シュテラン・ライ監督の映画『プラーグの大学生』制作。ハプスブルク帝国時代のプラハを舞台にしたサイレント映画。
**ルドルフ・シュタイナー、「人智学会」を創設。
**フランツ・カフカ、『審判』。
**トーマス・マンは『ヴェニスに死す』を発表。マーラーをモデルにしたともいわれている。
**5月、ロンドン条約締結後、第2次バルカン戦争勃発。これに敗北したブルガリアはトルコとともにドイツに接近する。
*「私は第1次世界大戦前のこの最後の幾年かにおけるよりも、われわれの古い土地をより多く愛したことはなかったし、ヨーロッパの一致をより多く期待したことはなかった。…この時代よりも、その未来を多く信じたことはなかった」(シュテファン・ツヴァイク)。
**ヒトラーは世に容れられぬ傷心をいだいてウィーンを去りミュンヘンへ。「わたしの知っているどの土地よりずっとこの都市[注:ミュンヘン]に惹きつけられた内心の愛着があった。ドイツの都市だからだ。あのウィーンにくらべて何という違いだろう。あの種族のまじりあったバビロン都市を思い出すだけで、胸くそが悪くなった」(ヒトラー『わが闘争』)。
1914年
◎1月、ピスコ画廊にシーレ、ファイスタウアー、ギュータースロー出品。
◎5月、ココシュカ、ミュンヘンの分離派展にアルマ・マーラーと自分を描いた肖像画《嵐》を出品。この作品はそのあと詩人のゲオルク・トラークルが《風の花嫁》と名づける。
◎11月、アントン・ペシュカ、シーレの妹ゲルトルーデと結婚する。
◎12月、ウィーンのアルノート画廊でエゴン・シーレ個展。のちの美術史家で、収集家ハインリッヒ・ベネシュの息子オットー・ベネシュがパンフレットの序文を書く。
◎建築家ヨーゼフ・プレチュニクはウィーンを去る。
◎ニューヨークからウィーンに帰ったハンス・ベーラーはシーレ、クリムトと知りあう。
◎ヴィトゲンシュタインは、はじめてアドルフ・ロースに会う。
◎この年の夏、第1次世界大戦が始まる。ココシュカは騎兵として出征。ギュータースローも志願兵となった戦線に出る。アンドリ、ドブロフスキー、ファイスタウアー、ユングニッケル、ヴァルデも戦場へ。アンドリ、コーリッヒ、オスカー・ラスケは戦争画家として従軍。
◎アルジェにいたフランツ・ヴィーゲレはフランス軍に抑留される。
**ドイツでは、マッケ、マルク、シュミット=ロットルフなど召集される。ワイマールで美術工芸学校長だったヴァン・デ・ヴェルデは戦争のためドイツを去るにあたってグロピウスを後任に指名したが、グロピウスも動員されたため、実現は1918年まで延びる。
*11月、ゲオルク・トラークル、クラクフの軍病院でコカインを飲み死亡。精神錯乱のすえ自殺ともいわれる。
*アルバン・バルクは『ヴォツェック』の作曲を始める。
*ウィーン工房の出資者フリッツ・ヴェルンドルファーは経済的に破綻し、アメリカに渡る。
**6月、サラエボでフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺され、翌7月、オーストリア=ハンガリー二重帝国はセルビアに宣戦布告。これが引き金となって第一次世界大戦が始まる。「クリスマスにはまた家に帰ってきますよ、と、1914年8月に新兵たちは笑いながら、母親に叫んだのであった」。「しかし、それ(1866年の対プロシア戦争のこと:編者注)は、何とすみやかな、血なまぐさくない、遠い戦争であったことか。三週間の出征、そうすればもう息もつかぬうちに、たいした犠牲者も出さずに終わっていた。ロマンティックなものへの足早な遠足であり、荒々しい男らしい冒険−このように1914年における戦争は、単純な人々に思いえがかれていた。若い人々は、自分たちが一生のうちのすばらしく刺激的な出来事を体験する機会を逸しまいかと、正直、不安さえ感じるのであった。それゆえ彼らは烈しく旗の下にひしめき、それゆえ彼らは自分たちを屠殺台に運ぶ行列のうちにあって歓呼し、高唱したのである」(シュテファン・ツヴァイク)。
**ドイツでも事情はかわらず、マックス・ウェーバー、トーマス・マン、ジンメル、ハウプトマンばかりか、社会主義者とみられていたひとたちの大部分も祖国防衛の熱狂的愛国主義一色に染まった。「われわれは、他のだれより身にしみて身の毛のよだつこの平和の世界に苦しめられてきた。それは、腐敗した悪臭を放っていた。芸術家はこの世界にうんざりしていただけに、その浄化とすばらしい希望をもとめて神をほめたたえた」(トーマス・マン)。
*「私の初期のくらい肖像画は第1次大戦前のウィーンで生まれたものである。人々は安逸に暮らしていたが、みな何かにおびえていた。私はそれを彼らの洗練された生活様式から感じたが、この様式はやはりバロック様式に由来するものであった。私はひとびとの不安で苦痛をはらんだ姿を描いた」(オスカー・ココシュカ)。
1915年
◎6月、シーレはエディット・ハルムスと結婚後まもなく召集され、プラハに赴くが、やがてウィーンにもどる。
◎ココシュカはポーランドのガリチア戦線で負傷し、ウィーンに戻って治療をうける。
◎ダゴベルト・ペッヒェ、ウィーン工房にはいる。このペッヒェの影響があらわれて、それまでの工房の厳格で単純なフォルム構成は、平面的装飾的なデザインヘと傾斜してゆく。
◎オットー・プリマヴェージが、ウィーン工房の経営者となる。
◎カール・ライニングハウスは所有するクリムトの《ベートーヴェン・フリーズ》を、シーレの仲介でアウグスト・レーデラーに転売する。
*2月、アルマ・マーラーはベルリンでグロピウス、シェーンベルクに会う。シェーンベルクはこの後、兵役に就くためにウィーンにもどる。
*8月、アルマ・マーラーはベルリンでグロピウスと結婚。ココシュカはウィーンの病院でこの報を知る。
**10月、カフカの『変身』がルネ・シッケレ編集の「白紙」に掲載。
*フランツ・シュレーカーのオペラ『選ばれたひとびと(Die Gezeichneten)』完成。
**イタリアは、オーストリアに宣戦布告。
1916年
◎9月、ベルリンの『ディー・アクツィオーン』誌でシーレ特集が組まれ、フェリックス・ハルタの描いたシーレ像もそれに掲載。
◎ミュンヘンのゴルツ画廊でシーレ展。
◎ヘルマン・バール『表現主義』、ミュンヘンで刊行。
◎1915年以来スイスにあったオッペンハイマーは、キャバレー・ヴォルテールにおけるチューリッヒ・ダダに参加。
◎クリスティアン・グリーペンケール歿。
◎マクシミリアン・クルツヴァイル、ウィーンで自殺。
◎ヨーゼフ・ホフマン、ベルタ・ツッカーカンドルのアパートのインテリアをデザインする。

**2月、科学哲学者エルンスト・マッハ(1838−)、ミュンヘン郊外で歿。
*10月、アルマ出産。グロピウスは友人でコレクターのカール・ライニングハウス旧蔵のムンク作『真夜中の太陽』をアルマに贈る。そのアルマはゼンメリンクやウィーンの館にアルバン・ベルク、シェーンベルク、クリムト、シュニッツラー、ホフマンスタールを招く。トーマス・マンやブルーノ・ワルター、プフィッツナーなども訪れ、またフランツ・ブライの手引きで詩人フランツ・ヴェルフェルにもここで出会う。
*戦争は膠着状態に入り、ウィーンでは食糧不足が深刻化、牛乳、コーヒー、砂糖、タバコ、衣服、靴などに統制令が出る。
**2月、チューリッヒ、フーゴー・バル「キャバレー・ヴォルテール」開店。第1回展にマックス・オッペンハイマー参加。
**3月、フランツ・マルク、ヴェルダン戦線で戦死。
*社会民主党の党首ヴィクトール・アードラーの息子フリードリッヒは非戦の立場をとり、参戦論の父と対立したあげく、首相カール・フォン・シュテュルクを射殺する。
*11月、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世逝去。甥のオットーの子がカール一世として即位する。
1917年
◎1月、シーレはウィーンに戻って、帝国物資配給所に配属。
◎12月、シーレのモデルだったヴァリー・ノイツィルは赤十字の看護婦として働いていたが、猩紅熱で歿。
◎ペッヒェはウィーン工房チューリッヒ支部長となって赴任。
◎ココシュカは負傷を治療した場所ドレスデンに定住する。
◎フランツ・ヴィーゲレは捕虜交換でスイスヘ。チューリッヒに住む。
◎フェリックス・ハルタはザルツブルクへ移住。
*ベルタ・ツッカーカンドルはフランスのジョルジュ・クレマンソーと密かに通じ、戦争集結の工作をすすめる。
*3月、トリスタン・ツァラとフーゴー・バルはチューリッヒにダダ画廊をひらく。4月の展示ではファイニンガー、クレー、カンディンスキーなどにまじって、ココシュカ、クビーンも出品。この期間中にココシュカの『スフィンクスとでくの坊』を上演。
*フロイト、『精神分析入門』刊。
**アメリカ、ついに大戦に参戦し、オーストリアに宣戦布告。
**2月、ロシア革命起こる。レーニンはスイスからもどって10月革命を指導。
**12月、ロシアとドイツは休戦協定を結ぶ。
*ウィーンではプロシアとの同盟から離脱しようとする動きが政府上層部にまでみえ始める。民衆にも「プロシアの思い上がり」に積年の不満が鬱積していた。新皇帝カールはフランスのクレマンソーに密書を送るが、この秘密がもれて問題になる。
1918年
◎2月、グスタフ・クリムト歿。
◎3月、分離派第49回展で、シーレの作品が多数展示され、成功をおさめる。
◎4月、オットー・ヴァーグナー歿。
◎10月、コロマン・モーザー、ウィーンで歿。
◎10月、妻エディットの死後三日目に、エゴン・シーレもまたスペイン風邪をこじらせ歿。
◎ミートケ画廊閉じる。
◎兵役から帰ったギュータースローはフランツ・ブライと『救い』を編集。
◎アンデルセンはゾンダーブントの秘書兼事務長となってウィーンの前衛画家を結集する。
*11月、シェーンベルクは私的演奏協会を創設。コンサートにはシェーンベルク直系の弟子のほか、アドルフ・ロース、アルマ・マーラー、カール・ポパーが顔をみせる。シェーンベルクがあまり自作を演奏させず、レーガー、ドビュッシーばかりプログラムに載せるというので、蔭で弟子たちは「レーガー・ドビュッシー協会」と呼んだという。
*11月、社会主義者ヴィクトール・アードラー(1852−)歿。アードラーを継いだオットー・バウアーが外相となってドイツとの併合を画策。
*12月、ウィーンではまだ無名の指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、ウィーン・フィルを指揮してブラームスの『交響曲第3番』を演奏、絶賛される。
*オペレッタの名優アレクサンダー・ジラルデイー(1850−)歿。
*リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』、ウィーン宮廷オペラ劇場で初演。これを最後に宮廷オペラ劇場は、国立オペラ劇場(シュターツオパー)と改称。この年から24年まで、リヒャルト・シュトラウスが音楽総監督。
**5月、フェルディナント・ホドラー(1853−)歿。
**12月、ベルリン、表現主義、未来派、キュビスムを総合する精神の革命をめざし、ペヒシュタイン、ファイニンガー、オットー・ディックス、ブルーノ・タウトらノヴェンバーグルッペを組織。
**ベルリン、タウトはまたグローピウスとともに芸術のための労働評議会を創設し、ノヴェンバーグルッペと連帯行動。
**ミュンヘン、オスヴァルト・シュペングラー、『西洋の没落』刊行。
*11月、皇帝カール一世はスイスに亡命退位し、オーストリア共和国成立。
**11月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世退位し、シャイデマンはドイツ共和国創立を宣言する。
**1918年の秋に来襲したスペイン風邪は、「過去数百年のあいだのどんな疫病にくらべても、最も劇的な大流行であって」、その死者は第1次世界大戦のそれ以上にのぼったといわれる。
**「第1次世界大戦を経験して、人々はヨーロッパ文明の底に潜む自己破壊の力を知ったし、それまで権威の象徴であった父親像が崩れ、不安感も増した。人々はフロイトの洞察の正しさを認めはじめたのである」(ジョンストン)。

*主要参考文献

シュテファン・ツヴァィク『昨日の世界』(原田義人訳)、みすず書房、1961/『西洋人名辞典増補版』、岩波書店、1981/池内紀『ウィーンの世紀末』、白水社、1981/ヘルマン・ブロッホ『ホフマンスタールとその時代』(菊盛英夫訳)、筑摩書房、1983/エルピン・ミッチ『エゴン・シーレ画集』(坂崎乙郎訳)、リブロポート1983/フランク・ウィットフォード『エゴン・シーレ』(八重樫春樹訳)、講談社、1984/カール・E・ショースキー『世紀末ウィーン』(安井琢磨訳)、岩波書店、1984/「ドイツ表現派」展図録、神奈川県立近代美術館他、1984/ネーベハイ『クリムト』(野村太郎訳)、美術公論社、1985/W・M・ジョンストン『ウィーン精神』(井上修一他訳)、みすず書房、1986/「エゴン・シーレとウィーン世紀末」展図録、愛知県美術館他、1986/フランソワーズ・ジルー『アルマ・マーラー』(山口昌子訳)、河出書房新社、1989/ベルント・ヴェスリング『アルマ・マーラー』(石田一志他訳)、音楽之友社、1989/「ウィーン世紀末」展図録、セゾン美術館、1989/「エゴン・シーレ」展図録、名古屋市美術館他、1991/ブルーノ・ベッテルハイム『フロイトのウィーン』(森泉弘次訳)、みすず書房、1993/「ウィーンのジャポニスム」展図録、東武美術館他、1994−5/ジョーン・スミス『新ウィーン楽派の人々』(山本直広訳)、音楽之友社、1995/ヴァイセンベルガー編『ウィーン1890−1920』(池内紀・岡本和子訳)、岩波書店、1995/「ホフマンとウィーン工房」展図録、豊田市美術館他、1996/“THIEMEBECKER/KUENSTLER・LEXIKON”/Donald E.Gordon“Modern Art Exhibitions”.Prestel・Verlag,1974


ウィーン世紀末年譜(続) 1919―1939 ひるういんどno.59(1998.1)

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