このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

萬鐵五郎年譜

中谷伸生・牧野研一郎 編

明治18年
(1885)
11月17日 岩手県東和賀郡十ニヶ村117番地(現・和賀郡東和町土沢),萬八十次郎(21歳,明治38年に勝衛と改名),ナカ(20歳)の長男として生まれる。9人兄弟の長男であった。

萬の家系は,はじめ和賀郡下山田村に住みつき,後に土沢の八幡沢に移り住んだ菊地長四郎(文化11年歿)が初代にあたり,二代目からは代々長兵衝を名のって米を商い,屋号を「八丁」と称して,明治初年から萬姓を名のった。鐵五郎出生当時の萬家は,祖父にあたる四代目長次郎を当主として,花巻地方と遠野,釜石地方との間の農海産物を取り次ぐ回送問屋を営み,村内きっての資産家の大地主であり,繊五郎は祖父長次郎の初孫にあたった。

母ナカは,四代目長次郎,もよの長女,父入十次郎はその婿養子で旧姓を八重樫といい,義母ヒサとともに分家していた。
明治20年
(1887) 2歳
12月6日 従弟昌一郎(祖父長次郎の長男千代吉とその妻,タダの長男,昭和18年4月9日歿)生まれる。
明治22年
(1889) 4歳
4月 市町村制施行により,十ニヶ村は,他の三村とともに統合され,十二鏑村となる。萬家の住居名称は,東和賀郡十二鏑村大字十ニヶ村117番戸となる。
明治24年
(1891) 6歳
この墳,入十次郎一家は本家「八丁」の筋向い十ニヶ村174番戸に住んでいたが,鐵五郎は,従弟昌一郎や弟冨次郎(二男,明治20年生)とともに本家の家族と暮らす。
明治25年
(1892) 7歳
4月 土沢尋常小学枚に入学する。この頃から繊五郎は絵を好み,武者絵などに見入り,めったに戸外では遊ばない内気なおとなしい子供であった。
明治26年
(1893) 8歳
6月30日 母ナカ(亨年27歳)死去する。

12月 父八十次郎は多田シワと再婚する。
明治29年
(1896) 11歳
3月 土沢尋常小学校を卒業する。

4月 東・西和賀郡は廃され,統合再編し和賀郡の名称となる。萬家の住居名称は,和賀郡十二鏑村大字十ニヶ村117番戸となる。

4月 土沢尋常高等小学校に入学する。
明治32年
(1899) 14歳
11月 この頃,日本画を独習する。和賀郡教育品展覧会(13日〜15日)に,山水画(?)を出品する。
明治33年
(1900) 15歳
3月 土沢尋常高等小学校を首席で卒業する。祖父長次郎は,将来を期待した一人息子千代吉に夭逝されたため(明治21年死去亨年27歳),初孫鐵五郎と嫡孫昌一郎を手元から離すことを嫌い,中学進学を許さなかった。このため鐵五郎は自宅において中学講義録などで勉強し,英語は,慶応義塾普通部出身で土沢在住の菊地一郎に学んだ。
明治34年
(1901) 16歳
この頃から,水彩画をはじめる。大下藤次郎著『水彩画の莱』(明治34年・新声社)を購読し,作品を送り,通信による指導をうける。
明治35年
(1902) 17歳
4月1日 祖父長次郎(亨年62歳)死去する。頑に鐵五郎,昌一郎の進学を許さなかった祖父の死去にともない,二人は再び進学への志を強くする。
明治36年
(1903) 18歳
3月 進学志望を抱いて博覧会見物を口実に上京し,東京市本郷区台町28番地(現・文京区本郷5丁目)の下宿屋北辰館に投宿する。

4月 鐵五郎を追って上京した昌一郎とともに,私立神田中学校を受験し,鐵五郎は3年,昌一郎は2年に編入学する。

6月21日 神田区駿河台袋町9番地(現・千代田区神田駿河台1丁目)の下宿屋貴臨館に転居する。

7月 神田中学校は同年12月末日をもって廃校になることが決ったため,私立中学郁文館(現・郁文館高等学校)の3年に無試験編入学する(昌一郎は2年に編入学)。

9月 夏休み中帰省していたが,上京して本郷区駒込追分町(現・文京区向丘)の下宿に引越す。

10月7日 私立早稲田中学校(現・早稲田高等学校)に無試験編入学する(昌一郎は2年に編入学)。

同月 牛込区矢来町1番地(現・新宿区矢来町)に転居する。

早稲田中学校在校中は,欠席が多く交友も限られていたが,絵画への関心は強く,淡翠会という絵画同好会(後の美育部)に加入し,たびたび展覧会を開いた。

秋,描いた作品の批評を受けるため,ヨーロッパから帰国した大下藤次郎を青梅に訪ねる。
明治37年
(1904) 19歳
1月 冬休みの間,郷里で過した後,上京して東京府北豊島郡高田村41番地(現・豊島区高田)に居住する。

この年,下谷区上根岸町117番地(現・台東区根岸2丁目)に転居する。

中学通学のかたわら,伯母タダの勧めで,臨済宗円覚寺派の僧,釈輟翁宗活禅師が谷中で営む両忘庵に昌一郎とともに通い参禅する。
明治38年
(1905) 20歳
春、牛込区矢来町3番地(現・新宿区矢来町)に居住する。

この頃から,本郷菊坂にあった白馬会第二洋画研究所(通称菊坂研究所)に通いはじめ,長原孝太郎の指導を受ける。
明治39年
(1906) 21歳
3月 早稲田中学校を卒業する。

この頃,小石川区白山御殿町127番地(現・文京区白山4丁目)に居住する。5月 宗活禅師に従い両忘庵の布教活動に加わって,昌一郎とともに,神奈川丸にて渡米。信徒,十数名からなる一行の目的は,土地を求めて開拓農業に従事し,新天地に禅を伝道することにあった。すでに前年の明治38年に宗活禅師の師釈宗演が渡米し,鈴木大拙を随行して臨済禅の布教にあたっていた。一行は,バークリーの近郊に10エーカーほどの土地を購入して入植したが財政的に失敗,鐵五郎は半年後にはサンフランシスコに行き,アメリカ人家庭にボーイとして住み込む。

12月頃,鐵五郎は,東部の美術学校にはいるため,伯母タダに送金を求めるが,その計画を反対され,やむなく単身帰国する。東京美術学校への入学をめざして,再び菊坂研究所に通学する。
明治40年
(1907) 22歳
4月 東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科予備科に入学する。同級には片多徳郎,山下鐵之輔,平井為成,熊岡美彦,御厨純一,金沢重治などがいた。

9月 東京美術学校西洋画科本科に入学する。

10月 第11回白馬会展(10月6日〜11月10日 上野公園元東京勧業博覧会第二号館)に「風景」を出品する。
明治42年
(1909) 24歳
春 浜田よ志(通称淑子)と結婚し,小石川区宮下町16番地(現・文京区千石3丁目)に居住する。浜田家は根津(文京区)にあり琴の桐材などの取扱いを家業とし,よ志は二人姉妹の次女で姉は女医であった。
明治43年
(1910) 25歳
2月16日 長女フミ(後に登美と改名,通称とみ子)が生まれる。

5月 第13回白馬会展(10日〜6月20目 上野竹之台陳列館)に「花」「雪」「夜」を出品する。
明治44年
(1911) 26歳
5月 アブサント同人小品展(20日〜21日 本郷帝大前 レストラン・パラダイス2階)に参加する。同展にはニヶ月前に夭折した青木繁の「自画像」,「黄泉比良坂」も展示された。「アブサント」は,前年末に東京美術学校在校生による文芸同好会として結成され「アブサント小集」を発行していた。

この会が発展して展覧会開催となったが,参加者には,萬のほかに同級の平井為成,山下鐵之輔,日本画科の広島新太郎(晃甫)らがいた。この頃の萬の作品にはすでにフォーヴィスム風の傾向があらわれている。
明治45年
大正元年
(1912) 27歳
1月 巣鴨洋画展覧会(1日〜5日 巣鴨町・仰高尋常小学校)に「女」ほかを出品。同展は,菊坂研究所とその後身である白馬会原町洋画研究所出身者からなり,萬のほかに松村巽,相馬甚一,近藤重一,金沢重治,三並花弟らが参加していた。

3月 東京美術学校西洋画科本科卒業。卒業制作「裸体美人」「自画像」。29日の卒業式には,平井為成,山下鐵之輔とともに欠席し画家の本道を貫く決意で教員免許状をうけなかった。卒業制作の評点は72点で,本科卒業生19名中16番であった。引き続き1年間ほど研究科に籍を置いた。

5月 山中恕亮主催美術展(1日〜7日 赤坂葵橋・三会堂)に「裸体美人」などを出品する。同展出品者の主体であった原人会は,前年3月8日に解散式をあげた白馬会研究所出身の青年画家たちによって,その年の3月22日に結成された団体であった。

同月 第1回雑草会展(15日〜19日 芝三田・統一キリスト教会)に「風景」ほか二点を出品。雑草会は,太平洋画会研究所出身の川上涼花,川村信雄らが主体となり,アブサント会同人の萬,平井為成,そして白馬会洋画研究所(葵橋研究所)にいた岸田劉生らが参加して結成された。ただし同展に岸田は出品していない。

同月28日 戸籍を岩手県和賀郡十二鏑村大字十ニヶ村174番戸から東京府東京市小石川区宮下町16番地に転籍する。

6月 雑誌『モザイク』主催第1回展(1日〜3日 本郷春木町・第一倶楽部)に「太陽」(木版)「子守」(銅版)を出品する。

同月 第3回北虹会洋画展(28日〜7月2日 盛岡市・岩手県物産館)に「板橋風景」「風の日」「泥の道」「裏道」を出品する。

北虹会は,明治41年に,岩手県内の美術愛好者によって結成された団体であった。
また盛岡市で発行されていた岩手毎日新聞紙上に,6月28日から8月11日まで10点の挿画(写真版)を掲載する。同紙への挿画の寄稿は,以後社友として大正8年まで断続的に続けられた。

9月頃,フュウザン会の結成に斎藤与里,岸甲劉生,清宮彬,高村光太郎,植原桑喜代,木村荘八,バーナード・リーチらとともに参加する。

10月 第1回フュウザン会展(15日〜11月3日 京橋・読売新聞社3階)に「静物」「女の顔(ボアの女)」「風景(煙突のある風景)」「風景・春」「赤マントの自画像」「習作」「風景」を出品する。

この頃,制作活動のかたわら,生活費を得るために,郷里から木炭を取り寄せて販売したり,また浅草の活動写真館の看板描きなどをする。また,夏頃には,池の端外国館で開かれた拓殖博覧会の台湾館の大壁画を,久米桂一郎,和田英作の監督のもとに小代為重が中心となって,近藤浩一路らと制作する。つづいて冬にも,浅草6区で御厨純一らとともに青山熊治を中心とする海底旅行のマリオラマの制作に従事する。さらに,「時事新報」に政治漫画,雑誌『文章世界』『太陽』に挿画を寄稿する。両雑誌への挿画の寄稿は,『文章世界』は同年12月号から大正9年7月号まで,『太陽』は同じく12月号から大正10年6月号まで断続的に続けられた。
大正2年
(1913) 28歳
1月1日 岩手毎日新聞に初の画論といってよい「友人への批評に答へる手紙」と題する一文を寄稿する。

3月 第2回フュウザン会展(11日〜30日 京橋・読売新聞社3階)に「日傘の裸婦」「風景」「静物」「風景」(水彩)「春」(水彩)を出品する。

同月 短期現役志願兵として,北海道旭川の第7師団に輜重兵として3ヶ月間入営する。ここで,師団ロシア語教官をしていたロシア文学者米川正夫を知る。除隊後,1ヶ月ほど各地をスケッチ旅行して帰京した。

7月頃,フュウザン会は解散する。

8月 第4回北虹会小品展覧会(6日〜9日・盛岡市・反響社)にスケッチ(札幌と旭川を描いたもの)及び絵巻物(「毒盃」と題された都会風俗30点)を出品する。

9月 斎藤与里,小林徳三郎らの勧めで,島村抱月,松井須磨子を主幹とする劇団芸術座のメーテルリンク作「モンナ・ヴァンナ」三幕の舞台装置,ポスターなどを制作する。
大正3年
(1914) 29歳
3月8日 2月末に一時帰省し,土沢の知人たちから記念揮毫を求められ,この日,土沢尋常高等小学校を会場に,日本画及び半切画70点を抽籖によって配布する画会を開いた。

6月16日 長男博輔生まれる。

6月頃,肖像画の画会をおこす。

7月2日 義祖母ヒサ(亨年56歳)死去する。

9月5日 家族とともに郷里土沢に帰り,商家本家宅前の家で電灯会社代理店を営み,店は,よ志夫人にまかせて,制作に没頭する。
大正4年
(1915) 30歳
この頃から,自画像,静物画の画面にキューピスム的傾向があらわれている。5月 第1回七光社洋画展覧会(23日〜27日 盛岡市・旧市役所)に美術学校時代の旧作2点を出品。七光社は,当時東京美術学校西洋画科在学中の清水七太郎が中心となって結成された団体で,市内の同好者が出品した。

7月 第5回北虹会展(2日〜10日 盛岡市・物産館別館)に素描と版画計3点を出品する。同会は,大正2年に会長を南部利淳伯爵とし,洋画のほかに,日本画,彫刻,工芸,図案などの岩手県出身の若い作家たちを網羅した団体として組織の拡充がはかられた。この会期中,岩手毎日新聞(7月4日,6日)に「七光会に出した絵其他」を寄稿する。

9月18日 東京,あるいは盛岡市で個人展覧会をひらく計画をもち,同時に作品頒布のための画会をおこすことも計画し,その準備のために上京する。しかし個人展覧会は実現されず,画会の配布作品を,長原孝太郎,斎藤与里ら10数名の画家から寄贈され,10月初めに帰郷する。

同月 上京中,岩手毎日新聞(9月21日〜28日)に翻訳「ビニヨン氏の狩野派観」(Laurence Binyon,“Japanese Art(The International Art Series)”,1909,London.)が掲載される。

10月『二戸教育新報』第4号に「カミユ・ピサロと印象主義」を寄稿する。また画会準備のため,しばしば盛岡市を訪れる。

11月3日 この日はじめて岩手毎日新聞に「萬鐵五郎画会」を告げる広告が掲載される。この画会は,肖像,風景,掛軸〈山水)の三部にわかれ,萬鐵五郎画会会員台帳(会費領収記入帳)によると,会費1円(肖像,風景),もしくは50銭(掛軸)を10ヶ月間(肖像の部は12ヶ月)分納することによって,作品を頒つもので,申込所は盛岡市本町の田口商店美術部とされていた。ここには,155名の申込みがあり,会費が満期になる大正5年8月の頒布に向けて,翌年の上京後も制作が続けられた。
大正5年
(1916) 31歳
1月26日 家族とともに上京する。翌朝上野駅に着いて,上野桜木町の転居先へ行くが気に入らず,28日に小石川区宮下町18番地(現・文京区千石3丁目28番)に居住する。しかし,転居癖のある萬は,以後たびたび転居する。

2月5日 小石川区原町(番地不祥)に転居する。

4月24日 小石川原町126番地(現・文京区白山4丁目7番)に転居する。

5月3日 小石川西原町1丁目8番地(現・文京区千石4丁目3番)に転居する。

6月頃,萬鐵五郎肖像画画会を興す。秋頃,12ヶ月色紙絵を会費1円で頒布する画会を興す。

11月 第2回黒耀社美術工芸展覧会(5日〜11日 銀座・玉木額縁店楼上)に「男の顔」「早春」「山地」ほか13点を出品する。
大正6年
(1917) 32歳
5月 第5回七光会絵画展(1日〜7日 盛岡市・岩手県物産館南館)に「風景」(油彩)を出品する。

5月 第2回日本美術家協会展(5月5日〜27日 上野・竹之台陳列館)に土沢で制作した「パイプのある静物」「雪の景」ほか27点出品。日本美術家協会は,斎藤与里,斎藤五百枝,川上凉花,川村信雄,恩地孝四郎,硲伊之助,藤井達吉らの発起によって,大正5年4月に結成された。

9月 第4回二科展(9日〜30日 上野・竹之台陳列館)に「もたれて立つ人」「筆立のある静物」を出品する。

同月 第4回院展・洋画部(10日〜30日 上野・竹之台陳列館)に,土沢で制作した「雪の朝」「夏の真昼」「池」「裸体」を出品する。

10月2日 次女馨子が生まれる。
大正7年
(1918) 33歳
4月 第5回日本水彩画会展(4月3日〜29日 上野・竹之台陳列館)に「風景」「枯木」「鮎をつる」を出品する。

9月 第5回院展・洋画部(10日〜30日 上野・竹之台陳列館)に「薬罐と茶道具のある静物」を出品する。

同月 第1回岩手県芸術品展(11日〜20日 盛岡市・岩手県物産館北館)に「山水」(日本画),「十和田湖」(油彩)を出品する。

この年,小石川区丸山町11番地(現・文京区千石3丁目)に転居する。

この年,雑誌「文章世界」や「太陽」に挿絵を,「中央美術」4月号に「斎藤与里論」を寄稿し,以後しばしば執筆することになる。
大正8年
(1919) 34歳
1月 第1回一月会展〈14日〜17日 日本橋・白木屋)に「山水」(日本画)など3点を出品する。

同月 第1回創作版画協会展(20日〜24日 日本橋・三越呉服店)に「仮」(木版)を出品する。

2月 第16回太平洋画会展(4日〜27日 上野・竹之台陳列館)に「顔の研究」「風景の印象」「風景」「風景」を出品する。

この頃,昼間は友人達の訪問が多く,その応接や議論に時間を費され,制作は夜になることが続き,その上,子供雑誌の依頼で附録の考案に熱中したため,過労と睡眠不足で神経衰弱気味となる。

3月14日 病状を案じて上京した父勝衛の勧めもあって,神奈川県茅ヶ崎で病気療養中の弟泰一のもとに転地療養する。家族は,よ志夫人の両親・姉の住む兵庫県姫路市竜野町に移転する。

5月 岩手県芸術晶展覧会第2回展(21日〜30日 盛岡市・岩手県物産館)に「風景」(油彩)を出品する。

9月 茅ヶ崎天王山にもと医師の家であった借家を借り,姫路から家族を呼びよせ一緒に居住する。住居名称は,神奈川県高座郡茅ヶ崎町茅ヶ崎4275番地(現・茅ヶ崎市南湖4丁目5番20号)。

同月 第6回二科展(1日〜30日 上野・竹之台陳列館)に「雪の景」「木の間から見下した町」「女の像」「庫」を出品する。
この年,二科会会友に推挙される。
大正9年
(1920) 35歳
3月 四十年社の結成に参加する。

この会は,明治40年に東京美術学校西洋画科に入学した片多徳郎,金沢重治,野元義雄,神津港人,工藤三郎,浅井松彦,熊岡義彦,斎藤素厳,佐藤哲三郎,北島浅一,清岡重一,三国久,御厨純一,萬の14名からなり,3月23日,上野精養軒で発会式を挙げた。

同月 第1回四十年社展(26日〜4月3日 東京美術学枚倶楽部)に「庭の花」「少女」を出品する。

この年,大作の制作を予定していたが,赤痢にかかり中断する。
大正10年
(1921) 36歳
2月 第2回風国美術協会展(15日〜21日 日本橋・白木屋)に「かな切声の風景」を出品する。

3月 第8回日本水彩画会展(1日〜25日 上野・竹之台陳列館)に「女」「雪の朝」を出品する。

5月 第2回四十年社展(18日〜27日 京橋・星製薬会社)に「窓」を出品する。

同月 第4回岩手県芸術品展(19日〜28日 盛岡市・岩手県物産館)に「山水」(墨絵)3点を出品する。

10月 第3回帝展「水浴する三人の女」を搬入したが落選する。当落発表の前夜,友人から入選の報が届けられ,祝電さえきていたが,発表当日には落選になっていた,という挿話が残されている。この作品は,150号の大作であったが,萬自身の手によって破られて残されていない。ただ,木炭や重などによる下図数点と,3人の裸婦のうちの一つが,「宙腰の人」「雲と裸婦」及び木版画「うしろむき」のモチーフとなって残された。
大正11年
(1922) 37歳
1月 春陽会が設立され,森田恒友の勧誘と説得により客員として参加する。

(大正12年11月に客員制が廃止され会員となる)。

1月14日 本郷・燕楽軒で春陽会結成発表会が催され,萌も客員として出席する。

2月 第4回創作版画協会展(12日〜17日 日本橋・三越呉服店)に「うしろむき」(木版)を出品する。

5月 第9回日本水彩画会展(12日〜19日 日本橋・三越呉服店)に「桑の若葉」他を出品し,会員に推薦される(後に脱会)。

同月 第5回岩手県芸術展覧会(19日〜28日 盛岡市・岩手県商品陳列所)に「春」」夏」「秋」の3点の水墨,「海ぞひの別荘地」(油絵)を出品する。

同月 第3回四十年社展(23日〜31日 京橋・星製薬会社)に水墨画を出品する。

7月 萬鐵五郎日本画展(8日〜10日 小石川竹早町・野島煕正〈康三〉邸)を開催し,「夕立つ浜」「砂丘の冬」「桑柴行人」「早春」「郊外の初夏」「水に戯れる女達」などを出品する。

この頃,南画の研究を深め,本間久雄の「近代南画の革命家菅原白龍」(「中央美術」第8巻2号 大正11年2月)から始まって萬の「本間氏に申す─氏の白龍再論に就いて」(「純正美術」第2巻8号 大正11年8月)まで,文学史家・文芸評論家本間久雄と,南画及び明治初期の南画家菅原白龍の芸術をめぐり論争をかわす。

「早稲田文学」の6月号をはじめとして,大正14年9月号まで,断続的に挿画を寄稿する。
大正12年
(1923) 38歳
1月 新築を記念する文房堂洋画展に「乳」(素描)を出品。

同月 円鳥会を結成する。

この会は,小林徳三郎とともに,児島善三郎,林武,前田寛治,恩地孝四郎,松本弘二,鈴木亜矢,などの二科会の若い画家たち,のちに1930年協会,独立美術協会の設立に参加した画家たちが多く,萬が素質を認めた若い作家たちの集団であった。

2月 第10回日本水彩画会展(1日〜27日 上野・竹之台陳列館)に「雪景」他1点を出品する。

4月29日 三女多津子生まれる。

5月 第1回春陽会展(4日〜27日 上野・竹之台陳列館)に「ねて居る人」「冬の日」「荒模様」「静物」を出品する。

6月 第1回円鳥会展(1日〜10日 京橋・星製薬会社)に「風景」4点(水彩1点),「静物」を出品する。

この頃,原精一,森田勝,鳥海青児らが茅ヶ崎に萬の画室を訪ねるようになる。
大正13年
(1924) 39歳
3月 第11回日本水彩画会展(5日〜19日 上野・竹之台陳列館)に「海へ行く道」「裏道」を出品する。

4月 第2回円鳥会展(10日〜16日 帝国ホテル・ホール)に「海岸」他を出品する。

5月 萬鐵五郎裸体十題木版画会を興す。野島煕正,石原雅夫,山口久吉を世話人として,石原求龍堂を取扱所とした。

7月 鐵人邦画展(23日〜29日 京橋・村田画房)を開催し「農舎の夏」「砂丘万松図」「江村行舟図」「海」「傾いた納屋」などの水墨画と水彩画3点を含む約30点を出品する。

8月 第1回湘南洋画会展(3日〜5日 神奈川県平塚町・平塚小学校)に賛助出品する。

10月 七光会洋画展覧会(25日〜31日 盛岡市商品陳列所北館)が開かれるのにあわせ,その南館で萬鐵五郎氏作品展を開催。油彩18点,日本画10点,水彩画10点を出品する。

11月 第3回円鳥会展(30日〜12月13日 上野・竹之台陳列館)に「少女(校服のとみ子)」「椿とリンゴ」「夏の服」「海岸風景」などを出品する。

12月 第4回四十年社展(10日〜17日 京橋・丸善)に「海岸」など水墨画数点を出品する。
大正14年
(1924) 40歳
2月 第12回日本水彩画会展(1日〜27日 上野・竹之台陳列館)に「風景」2点を出品する。

3月 第3回春陽会展(6日〜29日 上野・竹之台陳列館)に「窓外風景」「羅布かづく人」「宙腰の人」「男」「水衣の人」「雪」を出品する。

7月 第2回湘南美術会展(27日〜31日 神奈川県平塚町・県立平塚高等女学校)に「湖山舟遊図」他水墨画数点と油彩画小品1点を出品する。

この年の末頃から長女登美は健康を害し,病床につく。
大正15年
昭和元年
(1926) 41歳
2月 第4回春陽会展(26日〜3月21日 上野・竹之台陳列館)に「ほほ杖の人」「風景(湘南風景)」「静物(枯れた花のある静物)」「静物」「椿」を出品する。

3月『マロニヱ』主催諸家素描水彩展(20日〜27日 京橋・室内社画堂)に「裸体」「風景」(水彩)を出品する。

5月 聖徳太子奉讃展(1日〜6月10日 東京府美術館)に「風景」を出品する。

9月 第6回四十年社展(24日〜28日 日本橋・三越)に「海岸風景」「T子像」「椿」など20数点を出品する。

12月16日 病床にあった長女登美,膀胱結核のため自宅において死去(亨年16歳)。萬は非常に落胆し,この頃から精神的にもかなり疲労してゆく。
昭和2年
(1927)
2月 前年11月に死去した画友虫明柏太(亨年34歳)の遺作展(16日〜20日 日本橋・丸善)の発起人となり尽力する。

この頃より,健康がすぐれず床につくようになる。

4月 第5回春陽会展(22日〜5月15日 東京府美術館)に「静物(花籠と果物)」「菊花」「静物」「水着姿」「風景」を出品する。

同月末頃,結核性気管カタルから肺炎を併発する。

5月1日 午前10時30分,神奈川県高座郡茅ヶ崎町茅ヶ崎4275番地の自宅にて死去。亨年41歳5ヵ月。

5月7日 妙光寺(現・東京都品川区西品川1丁目6番地)において葬儀が営まれ,同寺の墓所に埋葬される。諡号「法雅院霊鑑居士」。
  附記

この年譜は,萬滅五郎『鉄人画論〔増補改訂〕』(中央公論美術出版・昭和60年4月〉所収の年譜(田中淳編〉に基き,加筆訂正して作成したものである。尚作成にあたり,下記の諸文献並びに,岩手県立博物館学芸員の佐々木一成氏より提供していただいた綿密な調査資料を参照した。

陰里鉄郎編「萬械五郎年譜」(日本美術館企画協議会・読売新聞社主催『萬繊五郎展』カタログ・昭和47年)千葉瑞夫編「萬鉄五郎年譜」(『萬鉄五郎作品集』岩手日報社・昭和48年)陰里鉄郎・大塚信雄編「萬鉄五郎年譜」(『萬鉄五郎画集』日動出版部・昭和49年)陰里鉄郎「萬鉄五郎──生涯と芸術」(一)〜(五)(美術研究255・258・262273・290号・昭和43年1月〜昭和48年11月)
ページのトップへ戻る