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萬鐵五郎と南画

牧野研一郎

 「褐色の内から輝くようなモノクロームの心象風景1)」とも「静的で神秘的な詩2)」とも形容される「木の間から見下した町」(油彩No.89)の深い憂愁に閉ざされた画面を見てそこに浦上玉堂の「東雲篩雪図」を重ねあわせて見てしまうのは私だけであろうか。「東雲篩雪図」は玉堂の憂愁が最もよく示されている作品とされ,その「暗い空気の中で,塔は傾き,木々はふるえ,あきらめきっているようなうら悲しい画面をおおっている」憂愁は,玉堂に脱藩を決意させるにいたった徳川封建社会の矛盾に由来するのではないかと説いたのは吉澤忠氏だが3),それでは「木の間から見下した町」に漲る憂愁はどこからやってきたのであろうか。


 大正4年に書かれた「七光会に出した絵其他」という文章で,萬は自己の絵画観と,直面している問題を直截に語っている。


 我々の生活は兎も角客観対自己の問題に始まらなければならない。自己プラス客観は天然そのものであり,宇宙である。けれども視覚及内観上の進化は必然自己即客観の境地を見出ださずにはやまない。我々が風景を見る事は我々は風景であると言う意と同じでなければならない。然し我々は個々の素質を持って居るので内面に燃える情熱を放射せずには置かれない奥深い生活からの願望を持っている。そこで画家は客観の実在性と内面の情熱との苦しい戦闘に迄生活を持ち来たす処の殺伐な光景を生むべく余義なくされている。


 この文章から二元論の煩悶を越えて,禅宗でいう止観にまで達する希望を述べながらも,二元論のなかで格闘している画家の姿が浮んでこよう。そこに西田哲学や『三太郎の日記』の反映を見出すこともまたできるかも知れない。同じ文章のなかでまた現在の立場として「自己対客観の本燃の姿即ち受入による情熱の覚醒」とも言っている。先に引用した「客観の実在性と内面の情熱との苦しい戦闘」の生み出す「殺伐な光景」を説明しては次のように書いている。


 それは赤と黒とのもつれ合った複雑な巴形の渦巻的塊りが画家を圧し付ける事で形容する事が出来る。塊りはあく迄意地悪るく画家は光明と暗黒との烈しい交替及錯合に永久に亘って堪え得なければならない。しかも人格の完全な燃焼によってのみ混沌を圧搾して純化と統一とのエッキスが得られなければならない事を自分の生活から固く信じている。


 土沢時代(大正3〜大正5年1月)からはじまる郷里土沢をモチーフとした「立木風景」等の風景連作は,東京に移ってからも続けられ,大正7年には「木の間から見下した町」,「木の間から見下した町」のモノクロームとは対照的な赤と緑の原色がせめぎあう「かなきり声の風景」(油彩No.91)あるいは「木の間風景」(油彩No.90)という,様式的にはキュビズムやフォーヴィズムあるいは表現主義的といわれる異種の作品を生んでいるが,こうした作品群が既に萬のなかに受胎されているかのように,上記の文章は読める。実際「赤と黒とのもつれ合った複雑な巴形の渦巻的塊り」は,画面左下の年記から,この文章の書かれた大正4年の制作であることが知れる「山」(油彩No.75)にその混沌とした原初的形態で出現している。「木の間から見下した町」ほかの大正7年に描かれている風景画は,その出発点であった混沌としたイメージを「圧搾して」得られた「純化と統一とのエッキス」であったとも言えよう。土方定一氏は「木の間から見下した町」を評して「回想のなかで郷里のこの風景は,いつの間にか浪漫主義的に美化され造形的に純化され,萬鐵五郎の『自己の中心のなかに自然は置かれて』神秘をたたえた静謐な画面になっているのに,ぼくは拝跪するような感じを圧えることができない」とされ,また「もう対象から飛翔した萬鐵五郎の不思議で神秘な世界4)」とされたが,それはまた言葉を換えれば,二元論的煩悶のうちに苦しんだ画家が行きついた精神の深奥の光景であり,萬がその言葉に自覚的であったかどうかは別として,フォーヴィズム,キュビズムという西欧の最先端の造形思考との苦闘のなかで自得されていった東洋の山水画でいう「胸中丘壑」であったように思われる。萬が既にこの期に玉堂の作品を知っていたかどうかは疑問であるが,後の萬の「南画の時代」と呼ばれる茅ヶ崎時代でも,最も高揚して南画を描き,南・謇ニ論を書いた大正11年に書かれた「玉堂琴土の事及び餘談」で,田能村竹田の評価以後,近代に入って殆んど顧みられることのなかった玉堂の芸術を,萬がいちはやくそして深く理解し共鳴しえたのはこうした事情によるのではないだろうか。「玉堂琴土の事及び余談」のなかで萬は竹田の『山中人饒舌』の玉堂評「蓋酔中有天趣。…使人神往。掬之不竭」をひいて「即ち酔中に一種言うに言われない世界が出来上がるのであろう。それは現実をかりない世界である。無論それは外界の自然ではない。幻の世界,魂の世界である。左様にふわふわしたものを,デリケートにつかまえようとするはたらきである」としたが,それはそのまま「木の間より見下した町」の評語にもなり得よう。「洪染皴擦,深透紙背」もまたこの作品に適しい。萬はまた別に南画(山水)を「勿論南画は,決して自然を蔑如するものではない。寧ろより深き自然を求めるので,物質としての自然ではなく詩の韻律を仲介としての自然に冥合しようとするもので,より深き自然観照と見るべきである5)」としているが,この文章などは「我々が風景を見る事は我々は風景であると言う意と同じでなければならない」という「七光会に出した絵其他」で書いた文の,7年の歳月を隔てた遠い街のように聞えてくる。


 ところで萬が玉堂の作品を初見したのはいつの頃のことであろうか。「玉堂琴士の事及び餘談」の冒頭には「浦上玉堂の絵を見たのは,余程以前の事になるが,その時自分は,日本画を若しかくならこんな風にかいてみたいと思った。」と記してあるだけで分明ではない。おそらく,その初見の際の印象であろう「僕は直覚的にカンジンスキーなどのものに共通する或るものがあると思ったのであった」と同文中に記しているが,それが玉堂のどのような作品であるかも明らかでない。先に萬が,近代にはいってからはいちはやく玉堂の芸術に注目した一人であったことに触れたが,ここでその当時の玉堂の評価がどのようなものであったかを簡単に触れておきたい。


 藤岡作太郎は,明治36年刊行の『近世絵画史』の諸派角逐の章で玉堂を行数にして4行で遇し「用筆蕪雑にしてしかも天真爛漫なる,未だ巧手といふに足らずといへども,取るべきところなきにあらず」と評している。大正6年「中央美術」第3巻第7号は南画復興の機運をうけて「南画研究」特集号となっているが,沢村専太郎はそこに寄せた「日本に於ける南宗画の過去」と題した論考で「是等の作家中,特色ある画風をなしている者は玉堂であって,彼れは常に意に任かせて筆を行ゆ,筆端の粗細相結んで,風趣雑然としている。けれどもその裡に臆測すべからざる一種の情趣を湛へ,一脈の條理の自ら通じているものがある」としている。藤岡作太郎の著作から沢村専太郎の論考までの間,特に玉堂に関する著述はないようである。またこの両者ともに玉堂の図版は掲載されていない。大正8年に刊行され,萬も「玉堂琴士の事及び餘談」で参照している梅沢和軒の『日本南画史』では「浦上玉堂及び京都の作家」に一章を設け,玉堂については3頁をさいてその略歴及び頼山陽による碑文と竹田の「師友画録」を載せているがその画風については触れていない。福井貞一蔵の「山渓釣雨図」を図版に掲げている。「国華」に玉堂作品が掲載されたのは大正8年2月345号に原宮太郎蔵の「山水図」(頼春水賛)が滄涼子田中豊蔵の解説を付して紹介されたのが最初で,大正年間には369号(大正10年)に「対山撫琴囲」が,380号(大正11年)に「山渓釣雨図」が紹介されたにすぎない。萬の論考以降では,大正13年になって玉堂にとって最初の画集となった『玉堂琴士遺墨集』が白沙村人(橋本関雪)によって編まれている。翌年には永松春洋編『玉堂名画集』も出ている。また大正15年には矢野橋村『浦上玉堂』が中央美術社から,橋本関雪『玉堂』がアルス美術叢書の一冊として刊行され,玉堂評価の高まりをみせている。


 「玉堂琴士の事及び餘談」のなかで萬は玉堂に「近代象徴派詩人」を見,その作品に音楽を見出して,そこから受ける印象を「一つの統一を得たリズム,墨のリズム,無論それは人のリズムである」として,そこに近代表現派の作品との共通性を見ている。萬によれば気韻とは「人間の肉体的リズム及びそれを支配する処の精神のリズム」であり,気韻生動とは「人間的リズムをして,より優逸ならしめ,より強大ならしめようとする理想」であるという。南画を表現派と結んで考えるのは萬の創見ではない。かつて漱石はその文展評の冒頭に「芸術は自己の表現に始まって,自己の表現に終わる6)」と書き,その中でひそかにすぐれた文人画家であった漱石はフュウザン会の諸作に共鳴を覚えたことを記している。木下杢太郎は『道楽日記』の大正4年11月22日に,「文人画を丁種の神経芸術─デカダンスの芸術として観ると,観賞が自由になって甚だ愉快である」としているし,また「所謂南画的新傾向に就て」(「国華」330号大正6年)で田中豊蔵は「この(南画的)新傾向の根底を組立てる基礎を,近代西洋芸術界に於ける非写実的なる新運動と一致させて考へたい」としている。この他にも梅沢和軒の「表現主義と文人画の復興」(『早稲田文学』186号)などが南画と表現主義との関係を論じている。萬の論考より後のものでは瀧精一「文人画と表現主義」(「国華」390号)が最も詳しく比較・考証している。そこではカンディンスキーの芸術論などもとりあげられているが,論旨としては,文人画と表現主義は同じ表現Expressionを原理とすることで共通するが,それらの芸術を同一視することはできないというものであった。


 ところで,先に萬が玉堂の作品に初めて接した時にカンディンスキーの作品と共通するものをそこに認めたこと,しかしそれがいつ頃のことであったかは明らかではないことを述べたが,それを推測する材料があることもつけ加えておこう。それは岩手県立博物館所蔵の大正4年頃の制作とされる2点の同じ大きさの水墨素描で,各々「木の間風景」(墨画No.15),「構図」(墨画No.16)と題された小品である。「構図」の方は全くカンディンスキーの「即興」あるいは「コンポジション」と名づけられた一群の作品によって喚起されたものである。「木の間風景」は,大正7年の油彩の「木の間風景」(油彩No.90)の原型とも言うべき水墨素描である。萬は土沢時代にも多くの日本画を頒布しているが,上記2点はそうしたものとは全く異質のものであることが注意をひく。そして,こうした異種の水墨作品は,萬の内部でカンディンスキーと玉堂の作品とが結びついた結果として生みだされたのではないかという想像を誘うのである。この期,萬はカンディンスキーに深く傾到し,「心的な画家カンジンスキーは彼の表現主義のプログラムに於て『芸術は人格の根底より流れる響である』事を説き『真個の芸術は最高の精神を所見する所にある』事を力説して居るが,之が芸術的所産の価値如何は暫くおき自分の現在を説明しようとする矢張り同じ事を言わなければならない事を思う7)」とまで述べている。こうしたことから,萬と玉堂作品との出会いは,最大限大正4年にまで遡る可能性もないわけではない。しかし,たとえ玉堂作品との解逅が大正4年であったとしても,先に見た独特の気韻生動論や,「東洋画を按ずるに,その内容は或る種類の表現主義,其の手段としては構成主義である8)」といった結論に達する南画研究へと萬が傾斜していくのはもっと後のことになる。


 萬が神経衰弱の療養のため神奈川県茅ヶ崎に移り住んだのは大正8年3月のことであったが,萬が多くの南画を見ることで南画研究にうちこむようになったのは大正10年になってからのことであるようだ。同年の「中央美術」6月号に掲載された萬の日記「其日々々」には,萬が東洋画通のO氏をしばしば訪問し,中山高陽などの作品を見せてもらっていたことが記されている。岩手県立博物館には画帖のための自序の草稿が残されていて,それには次のようにある。


 この帖は畏友大澤久三君に呈するためにかいたものである。大澤君は静養の為めにしばしば正月の頃から此の地に滞在せられたが四月の末に戻られる事になった。此の帖をつくり贈る事にした。画材は平日散索の時目に觸るる處のものである。此ハ自分の病臥二年の後健康を得たる始めての勢筆である。其の間君の所蔵にかかるもの或は新たに得られたるものを親しく研究する事を得て得る所すくなくなかった。殊に中山高陽山人の水墨山水は最も感銘の深いものである。記念のため。


 この画帖の存在はこれまで確認されていないが,この草稿によって「其日々々」のO氏が,両忘庵での参禅のおりに知り合い,後に萬のパトロン的存在となった埼玉県行田で足袋材料問屋を経営する大澤久三であったことが知られる。大澤のコレクションには,中山高陽のほかにも,蕗が『文晁』で図版に用いた谷文晁の作品も含まれていた。「其日々々」で高陽とともに好きな南画家として挙げられた玉堂の作品もそこに含まれていたのかも知れない。おそらくこの大澤久三との交友を直接的な契機として萬は南画への傾斜を深めていったものと思われるが,その背景には,陰里鉄郎氏が指摘されたように9),西欧の造型思考を血肉化しようとして苦闘の果てにたどりついた「木の間から見下した町」(油彩No.89)や「木蔭の村」(油彩No.88)「かなきり声の風景」(油彩No.91)を制作したのち「絶句」してしまった状況からの脱出をはかろうとする萬の苦悩があった。


 萬の南画学習は,古画の鑑賞と南画の制作にとどまらず,大正11年の「本間氏の白龍論及び南画に就いて」から始まる諸論考にみえるように南画の歴史と本質への理論的探究を伴っていた。雑誌「人間」大正11年1号のアンケートに萬は目下の愛読書として『芥舟学画篇』を挙げているが,岩手県立博物館には「意訳芥舟学画編」と表題のつけられたノートが残されていて,萬の南画研究に寄せた情熱が伝わってくる。萬が南画研究・制作から得ようとしたものは,筆墨によって顕われる気韻=人間的リズムであり,それはこれ以後の油彩画に特異な生彩をもたらすことになる。瀧精一が「文人画と表現主義」(前掲)で説いたように,素朴性と諧謔との結合による文人画のとぼけた趣きがこれ以後の萬の作品の主調となり伴奏となる。しかしこうした南画による理論武装によって自己の芸術を展開させていった自覚的な南画時代の作品は,精神的な緊張を孕んだ空間をもつ玉堂作品とはかけはなれたものとなっていったように思われる。むしろそうした自覚以前の,自己様式の探究の窮極的な段階で,風景画に限って言えば,萬の作品は玉堂芸術との同質性を獲得しているかに見える。 吉澤忠氏は玉堂の「煙霞帖」の解説に「『煙霞帖』の12図は,それほどへだたぬほぼ同じときに描かれたものであろうが,それでありながら─というよりそれなるが故にいっそう─それぞれの図にかなりの変化のあることは,玉堂の内心の動きが如何にはなはだしいものであるかを,如実に示している10)」と書かれたが,萬の大正7年に描かれた「木の間から見下した町」「かなきり声の風景」「木の間風景」(油彩No.90)を見ていると,その評語をそのままこれらの作品にも適用してみたくも思うのである。


(三重県立美術館学芸員)




附記:萬鐵五郎の日本画・南画全般および南画と油彩画との関係については陰里鉄郎「萬織五郎(四)(五)─生涯と芸術─」(美術研究273・290号)および「茅ヶ崎時代の萬鐵五郎」(『萬鐵五郎画集』日動出版)に詳説されているので参照されたい。

註1)土方定一「万鉄五郎ノート」

註2)陰里鉄郎「茅ヶ崎時代の萬鉄五郎」



東雲篩雪図
浦上玉堂


註3)吉澤忠「浦上玉堂筆 東雲篩飾雪図」図版解説(「国華」706号)


註4)土方定一「万鉄五郎ノート」


註5)萬鐵五郎「本間氏の白龍論及び南画に就いて」


註6)夏目漱石「文展と芸術」(「東京朝日新聞」大正1年10月15日〜28日)


註7)萬鐵五郎「七光会に出した絵其他」


註8)萬鐵五郎『文晁』


註9)陰里鉄郎「茅ヶ崎時代の萬鉄五郎」


註10)吉澤忠「浦上玉堂筆煙霞帖について」(「国華」830号)


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