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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1983 > 宇田荻邨-生涯と芸術(1) 毛利伊知郎 宇田荻邨展図録 1983

宇田荻邨-生涯と芸術(1)

一.松阪時代

 宇田荻邨,本名・宇田善次郎は,1896年(明治29)6・・0日,三重県飯南郡松阪町大字魚町三番屋敷(現在の松阪市魚町1607番地)に,宇田春吉・たきの長男として生まれた。他に兄弟はなく,彼は一人子として育った。

 松阪は,江戸時代には紀州藩領に属し,「伊勢屋,稲荷に犬の糞」とまでうたわれた伊勢商人発祥の地である。江戸時代中期から後期にかけては,多くの商家が軒を並べて経済的に殷賑をきわめ,また文化的には文人墨客の往来も盛んで,国学者・本居宣長(1730-1801)が当地の出身であることはよく知られているはか,この地を訪れた画家の作品で現存するものも少なくない。

 このような歴史的背景を持つ町に生まれた宇田荻邨は,幼い時から本居宣長の旧宅・鈴屋を遊び場とするほどに宣長を身近な親しい存在として育ち,1903年(明治36)松阪男子尋常高等小学校(現・松阪市立第一小学校)に入学すると,図画の授業で毛筆画を学び,また定規による線引の技法を習ったと伝えられる。小学校時代の成績表を見ると,図画の成績は最高の優(10)をもらっており,少年時代から絵画の方面に非凡な才能を示していたことが知られる。

 1911年(明治44)3月,小学校高等科を卒業すると,彼は伊勢二見の画家・中村左洲(1873-1953)から手ほどきを受けることになり,翌年まで二見町の左洲のもとで生活していたらしい。

 ここで,この荻邨の最初の師・中村左洲について少し触れておこう。左洲は,二見町の漁師の家に生まれ,伊勢地方で活躍していた四条派の画家・磯部百鱗(1835-1906)に師事して画家になった(百鱗は,伊勢内宮の御師の家の出で,京都で長谷川玉峰≪1822-1879≫に師事している)。左洲も,四条派風の海景図や魚類の図を得意とし,明治後期に数回,日本美術協会展に出品したほか,1917年(大正6)の第11回文展には「群れる鯛」と題する,海中を遊泳する鯛の群を描いた作品を出品している。また,大正から昭和にかけて,やはり京都で活躍し,一時は上村松園と並ぶ閨秀画家とまで称された伊勢出身の伊藤小坡(1877-1968)が上洛前に師事したのも,この中村左洲や磯部百鱗であった。

 この松阪時代の荻邨の作品には,「魚類写生帖」や「六波羅行幸ノ図模写」などがあるが,なかでも伊勢地方で荻邨が親しく目にしたであろう海の幸を克明に描いた「魚類写生帖」は,それぞれの魚の特徴を巧みにとらえた達者な筆使いを示している。一方の「六波羅行幸ノ図模写」は,江戸狩野の一人・狩野閑川昆信所持の図を1781年(天明元)今村随学が第二模写を行い,更にその図を1887年(明治20)に磯部百鱗が写したものを,1912年(明治45)に荻邨が模写したというものである。

二.上洛と修業時代

 小学校卒業の2年後,1913年(大正2)に宇田荻邨は,故郷松阪を離れて京都に赴くことになる。荻邨は,同郷の友人・西井水華(1893-?)に伴われて上洛し,菊池芳文(1862-1918)の画塾に入塾するが,ここでこの荻邨の友人・西井水華について記しておくこととする。

 この西井水華は,三重県多気郡上御条村小藪(現・明和町小藪)の出身で,京都市立絵画専門学校に学び(1915年〈大正4〉同校選科卒業),菊池芳文の弟子であったと伝えられる。1919年(大正8)の結婚後は北村姓を名乗り,1920年(大正9)から1942年(昭和17)まで松阪市にあった三重県立工業学校(現・三重県立松阪工業高等学校)に美術の教師として勤務していたが,その後従軍画家として中国東北地方(当時の満州)に渡り,同地でなくなったようである。このように西井水華の生涯には,現在のところ不明な点が非常に多いけれども,彼が京都絵専の卒業生であり,また菊池芳文の弟子であったという事実から考えて,荻邨の上洛と菊池塾への入塾とに際しては,この西井水華の果した役割がかなり大きかったものと考えられる。

 京都に着いた荻邨は,菊池塾に通うべく七条下魚棚にいた同郷の知人の家に下宿したというが,その下宿先に関する詳しいことは不明である。

 ところで,松阪にいた時期の荻邨は,まだ「荻邨」という画号を持たず,本名の「善次郎」をそのまま署名として記していたが,上洛した1913年(大正2)から「荻邨」という画号を用いている。この「荻邨」という画号の由来について,彼自身の説明を総合すると,以下のようになろう。(披は「荻邨」の「邨」の文字には,最初「村」の字を用いていたが,後に「邨」に改めたという。「荻村」時代の作品には,今回新たに発見された「波切風景」がある)。

 すなわち,「荻邨」・という画号は,伊勢地方の海岸地帯に多く見られる浜荻にヒントを得て考えた号で,師匠等に貰ったものではないという。伊勢地方の浜荻は,『万葉集』巻四に碁檀越の妻の作として「神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅宿(たびね)やすらむ荒き浜辺に」という歌があるほか,和歌や俳譜に多く歌われて,古くから広く知られていたものであるらしい。ともかくも,「荻邨」という画号には,京都という異郷にありながらも,幼少年時代を伊勢地方で過したこの画家の,自らのアイデンティティを示そうとする懐郷の思いが込められているとも考えられる。

 さて,では当時荻邨が入塾した菊池芳文の画塾とは如何なるものであったのか。菊池芳文,本名菊池常次郎は,1862年(文久2)大阪に生まれ,滋野芳園に師事した後,1881年(明治14〉京都の幸野楳嶺(1844-95)に入門して,竹内楢鳳(1864-1942),谷口香(きょう)(1864-1915),都路華香(1870-1931)と共に楳嶺門の四天王と称された画家である。1907年(明治40)第1回文展が開催されると,芳文は今尾景年,竹内楢鳳,山元春挙らと並んで第一部日本画の審査員に選ばれ,また京都市立絵画専門学校の創立に尽力して,1909年(明治42)の同校創立に際して教授となるなど,京都に於ける中心的な日本画家の一人であった。そして,1903年(明治36)大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会出品者の塾別の一覧表等を見ても,芳文の家塾は栖鳳塾・景年塾・春挙塾と並ぶ一大勢力を形成していたことが知られ,その門下からは菊池契月(1879-1955),川北霞峰(1875-1940)や山田耕雲らが出ている。

 荻邨の芳文塾入門については,先述した通り荻邨の友人・西井水華の働きが大きかったものと思われる。後年,菊池塾への参加について,荻邨は「紹介者がいたということで,自然にそうなりました」と述べているが(『月刊ヴイジョン』6の4・1976年6月号,33頁〉,この紹介者が荻邨の友人であり,また芳文の弟子でもあった西井水華であったことは大いに考えられるであろう。もちろん,芳文という四条派の系統を引く画家への入門には,上洛以前に伊勢で中村左洲というやはり四条派系の画家に荻邨が手ほどきを受け,四条派の画風や技法に彼が親しく接していたという事実も大きく関係していたと考えられること,また言うまでもない。

 師・芳文のすすめもあって,1914年(大正3)の4月から1917年(大正6)3月まで,荻邨は京都市立絵画専門学校別科で学ぶことになる。当時の絵専には,実技の教官として,菊池芳文,竹内栖鳳,都路華香,木島桜谷,西村五雲,川村曼舟,西山翠嶂,菊池契月らがおり,また美学美術史の教官として中井宗太郎(1879-1966)がいた。

 1909年(明治42),楢鳳・芳文・春挙らの奔走・尽力によって開設された京都市立絵画専門学校は,関西における日本画家養成の拠点として,創立当初から後に京阪神を中心にして活躍することになる錚々たる画家たちが同校に学んでいた。特に,1911年(明治44)の第1回卒業生には,入江波光,榊原紫峰,村上華岳(以上本科)や土田麦僊,小野竹喬〈以上別科)といった大器が顔を揃え,また荻邨の同期生には徳岡神泉,榊原始更がおり,更にその一級下には岡本神草や福田平八郎らが名を連ねていた。

 こうした荻邨の絵専時代の足跡を辿ってみると,先ず注目されることは1914年(大正3)から文展へ作品を出品し始めたことである。しかし,文展時代の荻邨は芸術的には全く不遇で,一度も入選することがなかった。それら文展への出品作は,現在全て行方不明であり,当時の荻邨の作風を美作品によって検証することは不可能である。ただ,1919年(大正8)以後の帝展入選作や今回新たに発見された初期の作品,更には当時の荻邨を取りまく画壇の状況を考慮すると,彼が文展に応募していた作品は,恐らく初期の帝展入選作(「夜の-力」,「木陰」等)のような暗い色調の作風の前段階として「荻村」の署名を持ち,彼の親しい先輩の一人であった小野竹喬の作品を髣髴させる「波切風景」,あるいは今村紫紅の代表作の一つ「近江八景」を連想させるような「湖水風景」に見られるように,西洋画法も取り入れて近代の日本画史に於ける一つの斬新な作風を確立していた先輩画家達からの様々な影響を色濃く示す,模索的な性格の強いものではなかったかと推測されるのであるが,こうした点についての解明は今後の更なる調査をまつことにしたい。


 絵専時代の事蹟として忘れることのできない第二の事柄は,絵専に学んだ画家達の研究会「密栗(みつりつ)会」への参加である。荻邨の下級生・岡本神草の記録によると,この会は神草が絵専に入学した1915-6年(大正4-5)頃,絵専の卒業生及び在学生十数名によって組織されたもので,そのメンバーには荻邨,神草のほかに甲斐荘楠音,榊原始更,稲垣仲静,伊藤柏台,三宅篁白らがいた。この密栗会は,荻邨の絵専卒業後も続けられ,その活動を通して,彼が多くの青年画家と交わって強い刺激を受け,また当時盛んに我国に紹介されつつあった西洋の芸術思潮を貪欲に吸収していったであろうことは想像に難くない。

 ここで,荻邨の学生時代前後の住居について触れておきたい。先にも記したように,上洛当初の荻邨は,七条下魚棚の知人宅に下宿していたが,絵専在学中のある時期に東山連峰の麓・知恩院山内の崇泰院に居を移したと伝えられる。当時,東山の知恩院や高台寺の周辺には,村上華岳,小野竹喬,野長瀬晩花,土田麦僊らが居を定めて,東山連中あるいは知恩院派と呼ばれて,後の国画創作協会設立の準備をするなど,この地域は京都に於ける新しい芸術運動の中心であった。荻邨が下宿した知思院崇泰院には,1912年(大正元)それまで竹内栖鳳家に寄寓していた土田麦僊,小野竹喬の二名が居を移していたし,また1917年(大正6)になると野長瀬晩花がやはり知恩院内の真言院に住むようになり,この年から村上華岳も高台寺円徳院で新婚生活を開始した。

 後述するように,荻邨は昭和初年頃まで土田麦僊を初めとする上記知恩院派の画家速からの影響を強く受け,特に初期の帝展出品作は,知恩院派の画家達が中心となって設立した国画創作協会の出品作品との繋りを連想させるスタイルを示しているが,そうした荻邨の画風形成に関る背景の一つとして,ある期間彼が麦僊・竹喬や晩花らと極めて近い位置で生活していたことも等閑視できない事柄であると考えられるのである。

 知恩院崇泰院での荻邨の下宿生活は長く続かず,その後彼は平野鳥居前町にあった師・菊池芳文の邸宅に移り住むようになった。1918年(大正7)1月,四条派の温雅な画法に近代性を加味した気品ある作風を確立し,明治中期を代表する京都の日本画家の中心的な存在であった師・菊池芳文が亡くなると,荻邨はそのまま芳文の養嗣子で当時京都絵専の助教授もつとめていた菊池契月 (1879-1955)につくことになった。

三.初期帝展時代

 翌1919年(大正8),従来の文展が改組されて第1回帝展が開かれた。同展に荻邨は「夜の一力」を出品して初入選を果たすことになるが,ここで青年時代における画風形成に際して彼が受けた外的影響を考える手掛りとして,明治末年頃から大正中期頃に至る京都の日本画会の動向について瞥見しておきたい。

 荻邨の画風形成に大きな影響を与えた京都日本画界の動向のうち,最も重要なものとしては,1909年(明治42)の京都市立絵画専門学校の設立と,同校の教官・学生を中心として行われた幾つかの新しい芸術運動,更にはそうした運動の結論としての1918年(大正7)の国画創作協会の結成をあげることができよう。

 先にも記したように,京都絵専は,京都市立美術工芸学校の教師であった栖鳳,芳文,春挙らの努力によって,東京美術学校に遅れること20年にしてようやく開設された日本画家養成の機関である。同校が開校されると,次々に才能豊かな若い画家達が入校し,因襲にとらわれない自由な雰艶気の教育が行われたと伝えられる。当時の絵専は,本科と選科の二科に分けられ,本科では実技指導に加えて,中井宗太郎らによる美学美術史の講義も開講されていた。荻邨が入学したのは,実技のみを履習する選科であったが,多彩な同窓生の青年画家達や,また本科で行われる青年美学者・中井宗太郎の美学美術史の講義から彼が受けた刺激の大きさは,測り知れないものではなかったかと思われるのである。

 次に,明治末年頃から京都で行われていた新しい芸術運動については,既に関千代氏による詳しい報告があるが(「黒猫会・仮面会等覚書-明治末年における京都画壇の一動向-」『美術研究』232号,1964年〉,それによると19世紀末葉のパリに於けるカフェ文学運動に極似した,新しい芸術を希求する小集会が,いくつか京都で営まれていたという。それらのうち,重要なものを二・三あげれば,「無名会」(1909年〔明治42〕から1911年〔明治44〕頃まで),「黒猫会(シャ・ノアール)」(1910年〔明治43〕12月から翌年5月まで),「仮面会(ル・マスク)」(1912年〔明治44〕5月から翌年5月まで)などがある。

 そして,こうした集会の中心にあった人物として忘れることのできないのは,1908年(明治41)関西美術院考退学して渡欧し,パリのアカデミィー・ジュリアンに学んで翌年帰国した若き美術史学者・田中喜作(1885-1945)であり,また京都絵専に開校当初から赴任していた東大出身の青年美学者・中井宗太郎であった。彼らによって大いに知的・芸術的好奇心を刺激された土田麦僊,小野竹喬,秦テルヲらの日本画家もこれらの会に参加していた。

 これらの会は,いずれもささやかで短命なものに終ったが,そうした芸術運動の会を堅固に組織化したものが,前述した知恩院派の画家達(麦僊,竹喬,華岳,晩花,紫峰ら)によって準備され1918年(大正7)に結成された国画創作協会であった。国画創作協会は,竹内栖鳳,中井宗太郎が顧門となり,またその発足の宣言書は,麦僊の弟で京大哲学科に学んでいた土田杏村(1891-1934)が草稿を書いたものであった。この会は,大正7年の東京白木屋に於ける第1回展から1928年(昭和3)の解散までの間に計7回の展覧会を開き,同人らが渡欧した1921年〈大正10)以前に限っても,入江波光「降魔」(第1回),小野竹喬「波切村」(第1回),村上華岳「日高河清姫図」(第2回),同「裸婦」(第3回),土田麦僊「湯女」(第1回),同「三人の舞妓」(第2回)など,大正期の日本画の傑作が数多く同会から生まれるという極めて質の高い意欲的な会であった(国画創作協会については,河北倫明「国画創作協会と京都派」『日本の名画・近代日本絵画史19』所収,中央公論社1975年刊,『河北倫明美術論集 第2巻』に再録 講談社1978年刊に詳しい)。

 ところで,荻邨が国画創作協会と実際にどのような関係にあったのかは明らかでない。当時の荻邨の師・菊池契月が文・帝展の審査員をつとめていたことから,彼は毎年官展である文・帝展に出品を続け,国展に出品するようなことはなかったと思われる。しかし,彼の絵専の同期生や一級下には,国展に出品していた榊原始更や岡本神草がおり,また彼が一時期知恩院崇泰院に住んで,国画創作協会の中心メンバーとなった知恩院派の画家達と極めて近い位置にいたことなどから考えて,宮展に出品を続けながらも,荻邨の造型意識は国展の画家達のそれと非常に似通っていたのではないかと考えられる。

 荻邨の第1回帝展入選作「夜の一力」,第2回帝展入選作「太夫」,第3回帝展落選作「港」などを見ると,いずれも場面を夕暮から夜に設定して,そうした時刻に於ける光線の表現に細やかな情感を示し,また「太夫」の人物表現は,かなり癖のある気味の悪い相貌を描いて,ある種の怪奇性すらを観る者に感じさせ,第1回国展に出品された甲斐荘楠音の「横櫛」(広島県立美術館蔵)や岡本神草の「口紅」(京都市立芸術大学蔵)の世界に通じる,はかない悪の蠱惑的な美しさを表している。

 さて,1922年(大正11)の4月,祇園の八坂倶楽部で福村祥雲堂主催による九名会展が催され,荻邨もこの会に参加することになった。この九名会は,菊池契月,西山翠嶂,西村五雲,川村曼舟の4画家によって選ばれた9人の新進作家-伊藤草白,稲垣仲静,堂本印象,登内微笑,岡本神草,中村大三郎,福田平八郎,山口華楊,宇田荻邨-によるもので,以後も何度か研究会・展覧会を開催したという。この年,荻邨は平野鳥居前町の菊池家を出て,北野白梅町に転居しているが,翌1923年(大正12)には磯田弥栄(1902-)と結婚ている。この頃の作品には第4回帝展入選の「木陰」や九名会展〈大正11年)出品の「南座」などがある。いずれも先にあげた「夜の一力」や「太夫」などにつながる作風を示しており,この1923年(大正12)頃までが,作風上から見て荻邨の画業における前期として位置づけられると考えられるのである。

四.「巨椋の池」以降

 関東大震災のために1924年(大正13)に開催された第5回帝展へ,荻邨は「巨椋の池」と題する作品を出品している。この「巨椋の池」は,それまでの作品に比べて,画面構成や色感がかなり異なっており,この頃荻邨が自らのスタイルを変革したことを物語っている。そして,この新しいスタイルは,以後の彼の作品に基本的に共通するものであり,「巨椋の池」をもって,彼の中期の起点とすることができると考えられる。

 周知のように巨椋池は,山城盆地の中央やや東よりに位置していた周囲約16キロの池で,多くの水禽の棲息する緑豊かな場所であったが,1933年(昭和8)からの干拓工事によって現在では姿を消している。荻邨の作品では,水辺に繁茂する芦や紅蓮の華と葉を印象的に大きく配し,画面上方には翼を広げた白鷺を鮮明に描いている。

 「巨椋の池」のようないわゆる蓮池水禽図には,古く中国南宋時代にまで遡るすぐれた遺品があるが,こうした作品を制作するに当って荻邨は,恐らく中国や日本の古画を学習したものと思われる。近代の日本画家にとって,幾多の名品を生み出した中国や日本の古画と対決し,それらに対する画家自身の回答を見出すことは,西洋画法に対するのと同様,避け難い問題であったと思われるが,荻邨の場合にも,彼の昭和初期の作品には東洋の古画研究のあとを示すものがいくつかある。この「巨椋の池」には,中国南宋の蓮池水禽図研究のあとが見られるが,画中のモチーフの形態やそれらの装飾性が強い幾何学的な配置には,荻邨自身の創意工夫が強く感じられるようである。

 「巨椋の池」を描いた翌年の1925年(大正14),荻邨は京都市立美術工芸学校教諭心得となって後進の指導にも当るようになった。この年の帝展に,彼は「山村」と超する作品を出品し特選を得た。この「山村」は,前年のダイナミックな印象の強い「巨椋の池」とは打って変って,むしろ細密な描写による写生的な画であったようだが,現在行方不明となっている。


 1926年(大正15)の第7回帝展に,荻邨は2年前の「巨椋の池」にみられるような造形精神を更に発展させたと思われる「淀の水車」(大倉文化財団・)を出品して,特選となり帝国美術院賞を受けた。「淀の水車」では,画面中央に大きく淀川や宇治川の景物として古来有名であった水車を配し,また岸辺の芦をある種のリズム感すら感じさせるように描き,画面左方の鮮やかな群青の水面をバックにした2羽の白鷺の姿も,一段と際立っている。緑青や群青の明るく鮮やかな色面の対比や明晰な画面構成には,桃山時代の障屏画にも通じるような力強く大らかな精神が感じられる。

 1927年(昭和2〉の第8回帝展出品作「渓間」も,その色感や構図はかなり異なるものの「淀の水車」の系列に属する作品であろう。滝や渓流,松樹や禽鳥を主要モチーフとした画面構成は,室町時代末期に活躍した狩野元信の筆と伝える京都・大徳寺大仙院の襖絵「山水花鳥図」の一部に似通ったところがあり,当時の荻邨の制作活動に対する外的刺激源を考える上でも興味深いものである。

 ところで,上述した「巨椋の池」,「淀の水車」,「渓間」に見られるような,大正末から昭和初年頃における荻邨の作風転換は,いかなる理由によるものであろうか。むろん,彼自身の造型思考の自律的な発展・成長ということもあったであろうが,ここでは外的な影響を与えたものとして,彼を取りまく画家達の渡欧体験と帰国後の制作活動に重点を置いて考えてみたい。

 すなわち,荻邨が親しく交遊したであろう国画創作協会々員のうち,土田麦僊,小野竹喬,野長瀬晩花らは,1921年(大正10)にヨーロッパヘ渡り,また荻邨の尊敬する師・菊池契月も1922年(大正11)に中井宗太郎,入江波光らとともに欧州へ出張している。これら洋行した画家連は,彼地でイタリア・ルネッサンスの名画や古代中世の壁画,あるいはフランス近代美術に直接触れ,自らの芸術や自国の伝統的な美術を醒めた眼でみつめて帰国した。そして,彼らの多くは帰国後,ヨーロッパでの体験を基礎にして,新たな制作活動を開始するのである。

 例えば,渡欧前に「波切村」(1918年〉や「島二作」(1916年〉などのように没骨描法と濃彩を駆使して,洋画的特徴の強い作品を描いていた小野竹喬は,帰国後「冬日帖」(1928年,京都市美術館蔵)のように淡く明るい色感と,柔らかい線描の見られる詩情豊かな作品や大和絵風の作品を制作するようになった。また,荻邨の師・菊池契月も帰国後の1926年(大正15)頃からは,細くて張りのある線描と明るく透明感のある色彩を特徴とする藤原・鎌倉期の大和絵を連想させるような作品を描くようになった。

 このように,大正末から昭和初期における京都の日本画家の動向を見ると,荻邨の様式転換も他の日本画家のそれと軌を一にするものと考えられる。1923年(大正12〉の関東大震災や甘粕事件,1925年(大正14)の治安維持法公布,1927年(昭和2)の金融恐慌など次第に明るさを失っていった当時の社会状況も,荻邨や契月,竹喬らの様式転換に無関係ではなかろうが,より積極的な理由としては,主だった画家達の渡欧経験を想定し,洋行経験のなかった荻邨の場合には,契月・竹喬らからの影響を考える方が妥当であろう。

 さて,1928年(昭和3)7月には,荻邨にとっては親しい存在であった国画創作協会第一部(日本画部)が解散し,同年11月には旧会員26名によって新樹社が設立されたが,竹喬や麦僊は翌年から官展へ復帰していった。この年に荻邨は,親しい先輩・土田麦僊(後に荻邨は,北野西白梅町にあった麦僊の住居を譲り受けており,両人の関係はかなり親密であったらしい)の影響が強く認められる作品・「高雄の女」を描いている。また,彼はこの年の9月京都で開かれた大礼記念京都大博覧会第四部美術鑑査員や,国際美術協会第1回展の委員をつとめており,また帝展の審査員に選ばれるなど,この頃から彼が次第に京都の日本画家達の中でも重要な地位につき始めたことがうかがわれる。「高雄の女」は,第9回帝展の出品作で,緑鮮やかな木立の下を行く大原女を描いたものである。大原女は,麦僊がよく取り上げた主題であるが(麦僊は,大正4年と昭和2年に大原女と題する大作を描いている〉,荻邨もあるいは麦僊のそうした作品を意識して,大原女を画中の主人公としたのかも知れない。

 1929年(昭和4)8月,荻邨はそれまでつとめていた京都市立美術工芸学校から,母校である京都市立絵画専門学校の助教授にむかえられた。しかし,この年の第10回帝展になぜか彼は出品しなかった。

 1930年(昭和5)の第11回帝展には,荻邨は再び審査員として,「流江清夜」と題した月夜の汀の景を描いた作品を出品している。残念ながらこの作品も,現在行方不明であるが,雰囲気としては第7回帝展出品作「淀の水車」の持つ世界をねらった花鳥画のようである。

 以後,1934年(昭和9〉 まで荻邨は毎年帝展に出品を続けているが,出品作のスタイルには,年によってかなりの振幅が感じられる。例えば,1931年(昭和6)の「えり」と1933年(昭和8)の「梁」とは,主題の面でも,また動的な印象を強く与える構図や描線の面でも比較的近いスタイルを示す作品であるが,両作品の間に制作された1932年(昭和7)の「竹生島」は,むしろ細密な描写と柔らかな描線を特徴とする作品で,「えり」や「梁」とはかなり趣が異なっている。更に,1934年(昭和9)の「梅」は,梅の枝振の表現に主眼を置いたような作品となっているなど,当時の荻邨が年毎に変った試みを行っていたことがうかがわれる。

(三重県立美術館学芸員 毛利伊知郎)

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