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宇田荻邨―生涯と芸術(2) 森本孝

 1935年(昭和10〉,京都在住の日本画家17名により春虹会が設立され,毎年1回東京と大阪の三越で展覧会を開催することになった。荻邨も菊池契月,竹内栖鳳,土田麦僊,上村松園らとともに加わり,第1回展に「吉野山」を出品し,同年5月,京都市主催美術展覧会(市展)が開設されることになり,荻邨は展覧会委員・審査要員をつとめ,「粟」を出品している。

 翌年1月,京都市立絵画専門学校の校長兼教授西山翠嶂をはじめ教授菊池契月・西山五雲・川村曼舟の4名が辞職することになり,助教授であった堂本印象・福出平八郎・案本一洋・中村大三郎・石崎光瑤それに荻邨の6名が教授に昇格した。

 第7回帝展の「淀の水車」で特選並びに帝国美術院賞を受賞して以来,荻邨に対する評価は高まり契月も認めるところとなって,1937年(昭和12)4月,荻邨40歳のとき京都美術倶楽部と大阪美術倶楽部において初めての個展を開いている。契月は,塾員が個展を行うことについて好ましく思わず,西山翠嶂塾の門下生が派手にやっているのに,いわゆる大家の仲間入りをしつつあった荻邨でさえ容易に個展を開くことができず,長い間荻邨も悩まされたという。

 出品作は「芙蓉」「立葵」「松鯉」「春興」「時雨」「嵐山雪景」など18点で,それらの作品から菊池芳文・契月によって鍛えられた画技に,大和絵・桃山障原画の彩色,狩野派の運筆,琳派風の淡墨の技法など,荻邨の過去10年ばかりの歩みと研究の成果をうかがうことができる。

 1935年(昭和10)5月,美術界を統合させ,帝展を政府主催の美術展にふさわしい総合展にすることを目的として,帝国美術院と帝展の改革案が松田文部大臣によって発表された。ところが,美術界の統制にのりだそうとするこの構想によって,日本画は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり,京都は竹内栖鳳を中心に反対する方向に動いた。翌年2月,第1回改組帝展が開催されたが,京都のほとんどの日本画家は出品をみあわせた。ただ,日本美術院の画家と交流の深かった菊池塾からわずかに出品する者が出たが,荻邨は不出品であった。同年6月,帝展再改革案が出され栖鳳の賛同は得られたものの,日本美術院の画家,川端龍子,そして契月ら10名の帝国美術院会員が強硬に反対,帝国美術院会員の辞表を提出するに至った。11月,文部省美術展招待展が開催することになり,荻邨は展覧会委員に推されたが,師契月に殉じて委員を固辞した。昭和12年6月,帝国芸術院が設立するまでこの混乱は続いた。

 この間,満州事変の火の手は燃え広がり,日華事変が勃発,挙国的な戦時体制へと進み,軍国主義の風潮を背景に新文展が開催されていくが,荻邨は,

 昭和12年 「田植」 第1回新文展 審査員  昭和13年 「神鳩」 第2回新文展  昭和14年 「寒汀宿雁」 第3回新文展  昭和15年 「新秋」 紀元2600年奉祝美術展  昭和16年 「林泉」 第4回新文展  昭和17年 「桜」 日本画家報告会軍用機献納作品展         「水」 第5回新文展 審査員  昭和18年 「秋草」 第6回新文展 審査員  昭和19年 「御塩殿」 戦時特別文展

を出品している。このなかで「新秋」は菱田春草の「落葉」を思い出させる感がある。「林泉」は土田麦僊の「舞妓林泉」の背景と同じ場所を題材にしており,麦僊との親交の探さをうかがわせるとともに,この2人の差異を鮮かに示している。「御塩殿」は殿舎が三重県度会郡二見町にあり,伊勢神宮へ作った塩を元旦に奉納するところであるが,戦時特別文展への出品が聖戦完遂に協力できる内容のものに限られていたことから荻邨はこの題材を用いたものであろう。この頃「桜」あるいは「本居宣長」を描いていることも含め,戦争を意識しながらも,直接的に戦争を賛美する作品は描かず,むしろ軍国主義体制からの束縛のなかで許容されうる題材を求めていったように思える。

 「軍人も画家も同じだと思う。少なくともその覚悟でやるべきだろう。蓋をあけてみないとわからないが,今年の文展は,非常時のこの際だから,おそらく一生懸命な緊張したいい仕事が見られるだろう。画家としてそうあるべきであると私は思っている。」(「戦争と美術」『美術評論』昭和12年10月号)と荻邨は述べているが,子どもの頃からの本居宣長への思慕が,宣長の国学思想,忠君愛国理念のとりわけ著しい感化を受けている人物と解された荻邨の社交辞令のようなものであったろう。

 終戦に至るまでのこの時期は,荻邨のより充実した一時期となるはずであったが,戦争によって妨げられたのであろう。「御塩殿」は日本画の清澄な雰囲気を示し,戦後の作品を予感させるが,精神的な昂揚は疎外されているように思える。

五.戦後

 1945年(昭和20)11月,戦禍を免れた京都では,これまでの市展を改組し,全国から作品を公募第1回京展が早くも開かれた。武者絵や鷹・鷲などの猛禽頬,戦争を題材にした作品は姿を消し,戦時中の暗く重苦しい空気を一掃して明朗な気分に満ちあふれていた。荻邨は審査員として「栂尾」を出品している。

 1946年(昭和21),その翌年3月に日展開催を決めた文部省に対し,京都日本画家協会は制作難・輸送難を理由に5月に延期してほしい旨陳情書を提出したが聞き入れられなかったため,京都は不出品を申し合わせている。同年10月の第2回展でも京都からの出品は少なく,荻邨は審査員をつとめているが出品はしていない。

 1948年(昭和23)1月,「我々は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」と綱領に示し創造美術協会が誕生,戦後の日本画界に大きな刺激を与えることになる。創立会員として京都から上村松篁・秋野不矩らが,東京から山本丘人・吉岡堅二らが参加し,日本画の素材による新しい表現を求めていくことになる。また,前衛的な現代造形を指向するパンリアル協会が昭和24年に結成され,日本画滅亡論なども出てきている。

 昭和20年代後半は,作家が戦争による後遺症から立ち直り,徳岡神泉「池」,山口華揚「黒豹」,福田平八郎「雨」など,一斉に名作が発表された時期である。

 1947年(昭和22)より「滝」「しぐれ」「蓮」「洛北芹生の秋」「栂尾の冬」「松樹」を発表してきた荻邨も,1953年(昭和28)第9回日展に「祗園の雨」を出品,好評を博している。

 祗園白川は「かにかくに祗園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる 伽羅の香がむせぷばかりににほひ来る祗園の街のゆきずりもよし 巴里の風椽を吹くにもまがふべし祗園のかぜは青柳を吹く」と京を愛した歌人吉井勇が歌ったあたり。大正ロマンティシズムに満ちた「夜の一力」「太夫」を描いて以来,荻邨にとってこのあたりは以前より静かに暖めてきた題材であった。今回の展覧会に大正期の「黄昏の祗園」,昭和初年のスケッチ「祗園白川」が出品されており,それが確認できる。

 荻邨は題材を求め,洛中・洛外を隈無く歩きスケッチをしたという。「蓮」も洛南巨椋池近くの蓮池での写生に基づき制作したということであるが,「祗園の雨」ではその実景をさらに一気に洗練昇華させ,清爽な格調高い画境に到達している。

 1955年(昭和30)5月,東京三越本店で「宇田荻邨京洛八題日本画展」が,12月には「宇田荻邨・山口華揚・上村松篁三人展」が、そして2年後の昭和32年6月にも個展が開催されている。これらに出品された作品群ははとんど京洛のいずれかを題材にしたものである。10年後の1967年(昭和42)11月にも「京都風物を主題とした宇田荻邨日本画展」が開催され、このとき出版された『京洛画趣・宇田荻邨画集』の巻頭に荻邨は 「京都は古文化の中心であり,文学,美術,あらゆる方面の宝庫があり,静かな風格をもっている。

 古都の史跡を味わい知るうちに,いつかこの都に住みなれて,この道に入った事と思う。
 自分をものにするには個性を完成するみちであり,時代を超越して何処までも追求して,目標に進みたいと思います。
 永い歴史を通した,深い日本古来の伝統は美しい。」 と述懐している。

 荻邨が昭和29年第10回記念日展に「鴨川の夕立」を発表,円熟期を迎えようとしていた1955年(昭和30)9月9日,菊池契月は死去した。1879年(明治12)信州に生まれ,京都に出て菊池芳文に師事,その養嗣子として跡目をつぎ,いわば四条派の本流に位置していた契月であるが,彼の画風は,四条派の伝承にとどまらず,大和絵・浮世絵・仏画,そしてルネッサンスの絵画などを融合し昇華させ,いわゆる新古典的な境地に到達している。荻邨の芸術は,契月の清麗典雅な画風と冷徹澄明な制作態度に接し,鍛えられ生まれたものといえる。師であった契月について荻邨は,次のように述べている。

 「菊池先生は正に謹厳そのものと公平無私という言葉にピッタリする方でした。(略)
 菊池塾の主として指導される時は能く門下生達の個性や特色を理解され一人一人についてその特性を発揮出来るよう助言を与えられました。それが冷徹な判断の下にされるので一面厳しい感じがしたものですが,それは先生が芸術に対して己れを厳しくする態度を取っておられるところから釆ているものであります。」(「人としての菊池先生」『三彩70』昭和30年12月号) 契月の死とともに菊池塾も解散することになり,塾頭であった荻邨は10年間という期限付きで,翌年1月7日に画塾白申社を創設した。メンバーは荻邨のほか,梶原緋佐子,磯田又一郎,海老名正夫,高木勇,下川千秋,武藤彰,白岩p三郎,岩本周煕,小島英靖,辻貞則,そして荻邨の次男裕彦,三重県出身の橋本綵可らで,毎年12月から1月に東京三越,大阪三越,京都府ギャラリー(第1回展のみ京都丸物)で展覧会を開き,塾員の清明な作品群を発表,昭和41年第9回展を最後に『白申社画集』を出版し解散している。塾主荻邨の指導は,契月と同じく非常に厳しかったようである。

 なお,契月の葬儀は密葬の名目で、その実、本葬が自宅で行われ,9月23日,前年に京都市から名誉市民の称号が贈られたことから京都市美術館で市民葬が行われた。契月は東京の作家,特に日本美術院の画家たちと親交を結んでいたことから,これを期に荻邨もまた交際を深めたようだ。この年の第11回日展に荻邨は「大原寂光院」を発表しているが,その制作期に荻邨宅を訪れた安田靫彦から批評を受けた話が残されている。

 さて,荻邨は1956年(昭和31)第12回日展に「夕涼」,翌年の第13回日展には「清水寺」,翌々年の第1回新日展には「野々宮」と清澄で格調高い作品を発表,ますます円熟の境地に至る。

 1959年(昭和34),日本芸術院会員の選考にあたり,児玉希望,金島桂華,それに荻邨の3人が脚光をあびることになった。選挙の結果は,いちばん若い希望が最高得票で,桂華と荻邨は同票となり,美術部長は年長の故をもって桂華を当選としたが,鏑木清方,安田靫彦,前田青邨らの反論を受け,その結果欠員の生じたときには無条件で会員になる留保会員に荻邨をあてる,ということで治まった。荻邨は欠員の生じた2年後の昭和36年に日本芸術員会員となり,その年「雪の嵐山」を出品している。

 昭和34年の第2回新日展には不出品であったが,翌年の第3回新日展には「伊勢神宮」を発表,「この繊細で美しい墨で表現された絵は,金泥や岩絵具の使用に,日本画本来の姿が見られ,作者の郷土にある神域に対する崇高な精神が,この絵に永遠の美しさを与えている。」(大河内信敬「日展日本画評」『萌春』86)と評されている。京洛の四季を描き続けた荻邨であるが,突如として描かれたモチーフは郷里を愛惜する念に溢れたからであろうか。戦前の随筆であるが,「京都はすばらしいところ」と機会あるごとに述べていた荻邨が,「京都に住んで随分久しくなるが,景色はいいと思うても,それでも何やら変に土地になじまぬ心地がする。京都といふ土地柄が悪いといふのではない。恐らく是は自分の生得の致す処であろう。人一倍人なつっこい性格なのに,却ってそのひとなつっこさが邪魔をして結局は我一人荒野に放り出されてあるやうな気がする。前にはそれが何な苦々しくて焦っぼい気がしたものだが,今では少し不感症になった。人々と一緒に洒を飲む。勿論僕は愉快であるに相違ない。が,それからの心理過程は今は言はぬことにして,皆と別れてから,も一度口直しに自分一人で飲む,それではじめて自分を取りかへしたやうな,或はまた解散されたやうな気になりホッとして家に帰る。」〈「思ふこと二三」『塔影』15−9)と書いている。京都に長く住み馴んだ荻邨であるが,やはり松阪の人であったことを物語っているのではなかろうか。

 1962年(昭和37)3月,社団法人日展の理事となり,

 昭和37年 「紙園夜桜」 第5回新日展  昭和39年 「桂離宮笑意軒」 第7回新日展  昭和40年 「飛香舎(藤壺)」 第8回新日展  昭和41年 「杜鵑」 第9回新日展  昭和42年 「五月雨」 第10回新日展  昭和44年 「水神貴船奥宮」 第1回改組日展

と発表を続け,昭和45年第2回改組日展の「高山寺」が日展への最後の出品作で,昭和48年には日展顧問となる。

 「祗園夜桜」「飛車舎(藤壺)」には師芳文の「小雨降る吉野」を思い起こさせるものがある。自然の美を素直に受けとめる方法は芳文の感化によるものと考えられる。

 「桂離宮笑意軒」「水神貴船奥宮」「高山寺」には,緑青・群青・朱という大和絵に特色的な美しい色彩を,より純化したかたちで用いられ,清々しい諧調が生み出されている。さまざまな様相を呈する今日の日本画界にあって荻邨は,日本画の大和絵的な美しさを求め,伝統に固執する数少い作家であった。

 1971年(昭和46),「京都日本画の精華展」(京都市美術館)が開かれ代表的な作品12点が展示されたのをはじめ,昭和51年には京都市主催「日本の名匠・宇田荻邨回顧展」(京都市美術館),翌年「画業60年記念宇田荻邨展−京の四季」(大阪三越・東京三越)と相次いで回顧展が開催され,荻邨の画業が一同に展観された。

 荻邨は1972年(昭和47),松阪市から名誉市民の称号を贈られたことにより,郷里松阪との路離は急速に縮まり,松阪から荻邨宅を訪れる人も多くなっていった。「松阪城跡を描きたい」「昔を偲ばせる竹林を描きたい」とたびたび言っていたというが,それも叶わなくなってしまった。

 昭和55年1月28日,入院していた京都市左京区の日本バプテスト病院において,急性心不全のため逝去、同30日,天授庵において告別式が行われた。法名,積善院慶雲居士。

 松阪市では同年2月22日〜24日,松阪三交百貨店において郷里に残された作品群による「宇田荻邨遺作展」を開催している。

(三重県立美術館学芸員 森本 孝)

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