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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1990 > 高村光太郎・その前半期=留学体験前後 陰里鐵郎  高村光太郎・智恵子展図録

高村光太郎・その前半期=留学体験前後

陰里鉄郎

 高村光太郎が他界してからすでに30余年が過ぎ去った。光太郎とは、いったいどういう存在であったのか。その詩集『智恵子抄』はいまなお日本の近代詩歌のなかでもっとも愛読されている一冊だという。それだけでも大きな存在であるといえよう。世間一般では『道程』(1914年)から『智恵子抄』(1941年)、そして『典型』(1950年)にいたる詩集によって、詩人としての盛名をもって知られているといえよう。だが、光太郎自身がいく度となく繰りかえし書き、語っているように、光太郎はなにを措いても彫刻家であった。73年の生涯におけるその彫刻は極度に寡作ではあったが、「宿命的な彫刻家」(光太郎〉であった。詩作においても、その生涯の歳月にとっては決して多作ではなかった。しかし、そうであっても、高村光太郎は日本の近代彫刻ではもっとも重要な作家であり、詩歌の世界においても近代詩の支柱をなした詩人であった。さらには近代日本の芸術思想の形成にも重要な役割をはたしたことも疑いない。こうしてその存在が巨大であったことのなかには、そのどの領域においても対立する要素をおおらかにかかえこんでいて、「矛盾の大団塊といった感じ」(大岡信)をいつでも、どこにでももっていたようだ。そのもっとも典型的な例が、太平洋戦争の前後の光太郎の生き方であったといえよう。光太郎がもっていた巨大な矛盾について、その歿時(1956年)のすぐあとからさまざまなかたちで指摘され、検討され、論議されてきている。たとえば、光太郎が死去した直後に、山本健吉は伊藤信吉と今泉篤男の追悼の文章に「なかば質問のかたち」で光太郎の生き方に疑問を投げかけたのであった。山本によれば、光太郎晩年の花巻での「自己流謫」の生活を「大変残念なことに思う」として「彫刻家であるはずの氏は、どうして七年間もアトリエを棄てて、ノミを持つことを自分に禁ずる必要があったのだろうか。芸術家的人間としての彼に“倫理的人間”としての彼が、打勝ったのだろうか」と。戦争中の詩作に対しての過ちの根源を自らが探ろうとして書かれた連作詩『暗愚小伝』が厳しさを欠いた自己批判でしかなく、それを補うかのような「自己流謫」の意味を問うたのであり、さらには、そこに「近代日本の不幸」をみたのであった。『暗愚小伝』については、それが発表された雑誌『展望』の当時の編集責任者であった臼井吉見も、その詩稿を手にしたときの失望を想起しながら「言葉の強さだけに終わっているといってよい」と書き、しかし、「自己流謫という倫理的行為なしには、そのときの高村氏は芸術家的人間を生かすことができなかった」という伊藤信吉の考えを正しいと受け入れている。そしてこの詩人で彫刻家の不幸を「近代日本の不幸」とする見方、光太郎によって典型的に示されたこの問題は、一詩人、一彫刻家の「資質や才能をこえて、『日本の近代』そのものの問題であろう」と書いたのであった。以後、多くの論者によって光太郎の生き方や詩、そして彫刻が論じられてきている。それらは、いずれかといえば、彼の詩作やエッセイを通しての検討が多く、彫刻、造型美術についてはもちろん無くはないが多くはない。そしてもちろん、光太郎における詩作は余技ではなかったし、「矛盾をも容れ、どんな相剋をも包む」人格そのものの表現であった。

 光太郎によれば、「詩は安全弁」であり、「私は自分の彫刻を護るために詩を書いているのだからである。自分の彫刻を純粋であらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐために、彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである。」という。

 では、光太郎において彫刻はどのように成立し、どのような表現をもち、どのような展開をとってきたのか。光太郎の彫刻そのものによって、また光太郎の造型的な作品群によって、この巨大な存在として高村光太郎を呈示してみようとするのが本展の趣旨である。


 「彫刻は私の血の中にある」と高村光太郎(1883~1956)は書いている。いうまでもなく光太郎は、幕末から明治にかけての激動期に日本の彫刻界を代表する彫刻家であった光雲(1852-1934)の長子として東京下谷に生まれている。光雲は、のちに〈楠公像〉や〈西郷隆盛像〉といった彫像の制作にたずさわっているが、仏師の系列につながっていた伝統的な木彫家であった。維新による社会的大変動はこの木彫師を路頭に迷わせたが、光雲は当時流行の象牙彫にはいっさい手を出さず、その代わりに木ならば頼まれれば何でも彫ったという誇り高い木彫家であった。光太郎7歳のとき(1889年)、光雲は新設された東京美術学校の木彫の教授にあげられている。この父のもとで、その弟子たちのなかで光太郎はおのずと小刀を手にして成長したのである。光太郎自身がどこかで書いているように、光太郎は他の多くの人たちと違って、職業を選択する、という人生の一過程をとることがなかった。そしてこの封建的家父長として善悪を合わせもった父光雲は、子光太郎にとって、生涯にわたってきわめてオブセッシヴな存在であった。「彫刻は私の血の中にある」というとき、その彫刻の発端とその後のある部分は、父光雲にあったといってもよいであろう。それは、ただ家業の一部を受け継ぐといった類のものではなく、相剋に満ち、闘争といってよい種類のものであった。パリに留学していたとき(1908~09年)の、『出さずにしまった手紙の一束』のなかで光太郎は、つぎのように父子関係について書いている。

 親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。───僕を外国に寄来したのは親爺の一生の誤りだった。

 少年光太郎にとって父の家業をつぐことは既定のことであった。当然のことのように光太郎は東京美術学校彫刻科にすすみ、木彫をやり、塑造を学んだが、一方では読書を嫌った光雲の目を盗んでは本を読み、文学にも親しみ、また青年のつねとして宗教へも関心をいだいての彷徨を重ねている。詩歌への傾斜も美校時代に始まり、1900年には与謝野鉄幹らの新詩社に入り、俳句、短歌をつくり、また島崎藤村の詩、森鴎外の翻訳文学にも傾倒した。卒業制作〈獅子吼〉をもって本科を了えた光太郎は研究科へすすむが、当時の教授白井雨山をはじめとする彫刻科の保守的な空気にあき足らず、西洋画科に転科した(1905年)。そこには黒田清輝、久米桂一郎といった、のちに光太郎がこの時期の日本の文芸界で「もっとも進歩していたもの」と書いた人たちが居り、彼等への期待からであったろう。そしてその半年後に、光太郎はアメリカ留学の途についている。

 渡米するまでの光太郎の彫刻作品は、初期の手板肉合、手板浮彫にみられる光雲ゆずりの木彫の技術の修得から西洋風彫塑の塑造作品へすすんでいるが、日蓮をモデルにしたという「還俗せんとする僧侶」の像〈獅子吼〉(1902年)や、あるサーカス団の泣いている少女とそれをかばおうとしている少年との二人の群像であった〈薄命児〉(1905年、残されているのは少年の頭部習作〉といった作品であり、たしかこれらの作品は、「どうしても何かを語らずにはおれなかった」(光太郎)文学性のつよい彫刻であった。当時の日本の彫刻界にあってはこれらの作品はむしろすぐれた作例であったといってよいが、すでに写真図版によってロダンの彫刻を知り、その彫刻的、造型的な魅力を垣間みていた光太郎は、それは「愚劣な彫刻の病気」であることに気付いていた。美校の新鋭教授、岩村透の慫慂をうけ、さして積極的な気持ちではなかったが、光太郎は海外留学へと旅立っている。


 高村光太郎の海外留学・西洋体験の旅は、つぎのような経過をとっている

 1906(明治39)年2月 アメリカへ、ニューヨーク滞在
 1907(明治40)年6月 イギリスへ、ロンドン滞在
 1908(明治41)年6月 フランスへ、パリ滞在
 1909(明治42)年3月 パリを発しイタリア旅行へ。パリに戻り、ロンドンを経由しで日本へ。6月帰国。

 日露戦争後、日本の若い美術家の海外留学はそれ以前に比して数多くなっている。光太郎の西洋遍歴は、アメリカからはじまった。1年間余のアメリカ生活で光太郎は「ただ餓鬼のように勉強した。」(『父との関係』)。彫刻家ガストン・ボーグラムの通勤助手として週7ドルを得ながら、「社会的に弱小な一ジャップとして」の体験であったが、彼がアメリカで得たものは「日本的倫理観の解放」(同前)であった。この地で画家の白滝幾之助、柳敬助、そして荻原守衛と会っている。また、ロダンの作品の本物をみたのもニューヨークのメトロポリタン美術館においてであった。

 しかし、アメリカ滞在は、光太郎に「積極的な『西洋』を感じさせるまでには至らなかった」(同前)ようである。だが、光太郎の長詩の発生がこの地においてであったことは附け加えられてよいであろう。『西洋』を一身で体験するべく光太郎はロンドンヘ向かっている。

 ロンドン滞在の1年間、イギリス彫刻から学ぶことのほとんどないことを知り、美術舘、図書館に通って勉強している。大英博物館においても古代ギリシャ、パルテノンの彫刻群に感動すると同時に古代エジプト彫刻に魅了されている。美術の研究所でバーナード・リーチと邂逅したのも光太郎にとっては重要な出来事であったし、ニューヨークで知りあった荻原守衛の訪問をうけ、守衛の表面的な言動とは違った、彫刻家としての資質と人間を発見したことも見逃せない。光太郎は「ロンドンの一年間で真のアングロサクソンの魂に触れたように思った」し、そしてここには「一つの深い文化の特質」のあることを認識したのであった。

 「私は自分の彫刻を育てるために、もう巴里にゆかねばならなゐ」と光太郎は決意している。アメリカからロンドン、その間に光太郎は作品らしきものはただの一点も制作していない。それはパリ滞在でもそうであった。「自分の彫刻を育て」ようと意識する光太郎には、ロダンの住むパリが必要だったのかもしれない。だがそのまえに、光太郎の内部に、自己の「彫刻の発生」を感受させるものがあったにちがいない。この点に関して芹沢俊介氏は、大英博物館における古代エジプト彫刻への共感を語る光太郎に「彫刻の発生」の意識(自我)を読みとり、そのためには、「彫刻的な自我の独立を保障する普遍的な自然が出現していなければならない。」として、その契機をニューヨークからロンドンヘ向かう船上の体験を記した書簡のなかに見出している。そのなかで光太郎は、大洋を渡る最初のとき(太平洋)、「唯驚愕の眼を以て半ば戦慄しながら自然の威力を眺めてゐた。一歩も仮借せぬ厳格な姿を見た。」のに対して、今度の航海は(大西洋)、「親しむ可くして押るるべからぎる自然のTendernessとCalmness」を愉快がり、「共に自然の力の限り無く窮まり無い事」〈『水野葉舟宛書簡』)を感じとっている。芹沢氏の指摘は、光太郎における旧い日本とアメリカ社会における体験が重なり合ってのこうした光太郎の自然観の出現があり、それが自己の内部の「彫刻の発生」をうながしているとのことである。「自分の彫刻を育てるため」には、こうした光太郎の内部における意識の覚醒、自我の彫刻の発生の予感が形をなしつつあったにちがいない。

 パリ滞在について、光太郎は後年、詩作のなかに、また散文のなかに、いくどか記した。

 パリで私は完全な大人になった。考えることをおぽえ、仕事することをおぽえ、当時の世界の最新に属する知識に養われ、酒を知り、女をも知り、解放された庶民の生活を知った。そしてただもっと定心して、底の底から勉強したかった。   (『父との関係』)

 光太郎のパリ生活は、まさしく光太郎の青春であった。『出さずにしまった手紙の一束』のなかで光太郎は赤裸にいくつかの体験を記している。アメリカ生活において日本的倫理観から解放され、ロンドンで西洋というものを濃厚に一身に浴びてパリにやってきた光太郎は、父光雲との関係について冷静に、深刻に考えるし、モンマルトルの街を歩きまわるだけで酔わされてしまう。そこには「人間の赤裸々な情趣が路傍にごろごろしている」からだった。女と過ごした朝、鏡にうつった「見慣れぬ黒い男」の影に「不愉快と不定と驚愕」とに襲われ、「ああ、僕はやっぱり日本人だ。JAPONAISだMONGOLだ。LE JAUNEだ。」と頭の中の声を聞く。「僕は何の為めに巴里に居るのだろう」と孤立し、孤独に打ちしいがれる。これらのことはエトランジェの多くが経験することかも知れない。光太郎もまた深く、誠実にこれらを経験し、体験した。

 ロダンに触れなければならない。美校時代に作品写真を見て「巨匠なるかな」と感じ、ニューヨークで本物を初めてみ、パリでは本人に会いにいくことをためらい、だが、その作品を「見る時ばかりは僕の心にも花が咲く」ことを感じ、「RODINは鍬を持って土を掘って居る人だ」と思うのであった。ロダンのデッサン展をみて、女を描く線に「すうっと立ってゆく烟の美しさ」をみ、「僕の体もその女のMOUVEMENTと共に捩ぢられる様だ」という。たしかに光太郎は、ロダンに直接に師事した訳ではなかった。すでに内部に自己の彫刻の発芽を感受していた光太郎は、ロダンの作品そのものから学びとろうとしていたようだ。そしてのちに『ロダンの言葉』を訳しながら父光雲から聞かされた日本の伝統的木彫の職人的言語を重ね合わせていたように、自己の内部の彫刻の発生発芽の基底にあるものをどこかで意識していたのかもしれない。おそらくここでも父と子は対立しながら融合同化していたのかもしれない。彫刻における構造、量塊と動勢、その重要な意味を光太郎はロダンから学びとり、触知の世界の深さをしった。

 帰国後の光太郎について触れる紙白をうしなってしまったが、祖国の現状に憤りをもった彼は新しい芸術思潮の紹介者、辛辣な批評家、そして画家として活躍するが、智恵子をえてデカダンの生活から脱却し、外部への闘争からアトリエのなかでの自己の内部の彫刻への闘いへとむかう。そこで〈裸婦坐像〉〈手〉が生まれ、〈腕〉が生まれる。そして木彫〈蝉〉の連作、〈鯰〉へと展開をみる。それらは、荻原守衛の作品と並んで、日本における近代彫刻の創世となったのである。

(三重県立美術館館長)

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