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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1994 > 作品解説 田中善明、荒屋鋪透 高橋由一展図録

作品解説

凡例

  • 作品解説は以下の者が担当した。なおCat. No.95-105についての解説は、図版ページに掲載した。
       原田光(神奈川県立近代美術館)
       堀元彰(神奈川県立近代美術館)
       田口慶太(香川県文化会館)
       田中善明(三重県立美術館)
       荒屋鋪透(三重県立美術館)
       荒木康子(福島県立美術館)
       伊藤匡(福島県立美術館)
  • 作品のデータは、作品番号、作品名、制作年、材質・技法、寸法、所蔵の順に記した。
  • 《 》は作品名、〈 〉は写生帖、石版画等に含まれる個々の作品名、『 』は書籍、雑誌、新聞名、「 」は論文名を表す。
  • 『高橋由一履歴』については『履歴』、『高橋由一スケッチブック』については『スケッチブック』と略記した。
  • 註の文献の内、参考文献で紹介されるものについては執筆者と論文名、著書名のみを記した。

2
旧江戸城之図

1872(明治5)年
油彩・麻布
65.5×98.8cm
東京国立博物館蔵


 額裏右側に「江戸城之圖 横山松三郎画」との墨書があることや、列品台帳の記載からもこれまで本作品は横山松三郎の筆になるものと考えられていた。しかしながら、《写生帖第Ⅶ冊》のなかに「汐見櫓」と題したスケッチ(Cat.No.99-参-Ⅶ-27)が残されており、そのスケッチの視点,汐見櫓を見上げる視角、点景人物などが本作品《旧江戸城之図》と酷似していること、しかもスケッチに書かれた個々のモチーフに対する色指定が本作品と対応しているとの指摘や(註1)、1873(明治6)年のウィーン万国博覧会で博覧会事務局書記官をつとめた山高信離(やまたかのぶつら)が書いた目録原稿の欄外の記述に、高椅由一が《旧江戸城之図》らしき油絵を制作していて出品させるかどうかを同事務官田中芳男に問うた記述があるとの指摘(註2)があり、修榎に伴う本格的調査で由一作との見方が固まった。裏面には墨書で「墺国博覧会事務局引継品 大正四年五月美術局(ママ)より更に引き継」と記されており、博覧会事務局が博物館と改称された年から考えて遅くとも1875(明治8)年以前に描かれたことは確かであるが、制作年代は《写生帖》の使用状況などから1872(明治5)年後半であると推定されている(註3)


 この汐見櫓は1873(明治6)年破損がはげしく陸軍により撤去されたが、新政府の制度調査掛であった蜷川式胤(にながわのりたね)はこの文化財的建物を記録にとどめようと1871(明治4)年『旧江戸城写真帖』全64図を作成した。この写真帖は横山松三郎が撮影した白黒写真に由一が着色した。


(田中)


註1)萬木康博「《旧江戸城之図》と横山松三郎」。
註2)池田厚史「《旧江戸城之図》の作者について」。
註3)古田亮「旧江戸城之図」。



5
真崎稲荷社ノ景

1873(明治6)年
 油彩・麻布
 51.1×82.3cm
福井市立郷土歴史博物館蔵


 本作品は、福井市立郷土歴史博物館所蔵の《西洋雪景の図》とともに、徳川慶喜が描いた油彩画《多摩川畔の写生》として伝えられてきた。しかし《西洋雪景の図》とは画風が異なり、また高橋由一の《写生帖第Ⅵ冊》に、町立久万美術館所蔵《真崎の渡》(Cat.No.6)と本作品に描かれた、同じ風景の素描が見られることなどから、現在、本作品は慶喜筆ではない、という点で研究者の見解は一致している。


 山梨絵美子氏は、署名や印もなく、また題名も伝承以外の根拠をもたない本作品は、慶喜筆とするには疑問であり、「枝を近景に置き、遠景との対照で距離感を表わす構図は高橋由一の風景画に通う。……近景の葉の描き方、対岸のひときわ高い木の葉ぶり、その右の松の描き方など、非常に〔高橋由一に〕近い。」と述べている。作者について山梨氏は「高橋由一周辺の作家による明治10年前後の作品のなかに置く方がおさまりがよい。」としている(註1)


 歌田眞介氏は『高橋由一油画の研究』のなかで、山梨氏の説を紹介しながら、《写生帖第Ⅵ冊》の素描と本画の油彩画を比較して、そこに高橋由一固有の制作技法上の特徴を見い出している。例えば素描下絵にはない点景や雲を油彩に描き入れること、また空を先に描き手前にあるものを後に描く着色順序に注目し、本作品を、素描が描かれた1873(明治6)年制作(《写生帖第Ⅵ冊》には、「真崎稲荷社ノ景/明治六年八月廿九日写」とある)の高橋由一作としている。また歌田氏は、本作品は《真崎の渡》より以前に描かれたとも述べている(註2)


 来歴は、以下のとおり。幕末の16代若狭(福井)藩主、松平慶永(よしなが)(春嶽)の遺品の本作品を、慶永の長男で宮内大臣も務めた、慶民(よしたみ)が「春嶽公記念文庫」として保管、二代文庫主で直系の遺族、松平永芳(ながよし)氏(前・靖国神社宮司)が1970(昭和45)年、福井市に寄贈したもの。本作品は、徳川慶喜筆《多摩川畔の写生》として、松平家に伝えられてきた。寄贈時には、額は付いていなかったが、もともと額装されていたか、どうかは不明。


(荒屋鋪)


註1)山梨絵美子「徳川慶喜の油絵」。
註2)歌田眞介編『高橋由一油画の研究』。



6
真崎の渡
1873-74(明治6-7)年
油彩・麻布
67.0×97.4cm
町立久万美術館蔵


 《写生帖第Ⅳ冊》(Cat.No.99-参-Ⅳ-3)と《第Ⅵ冊》に、本図と同じ風景の素描が見られる。《第Ⅵ冊》には、画面右上に2行「真崎稲荷社ノ景/明治六年八月廿九日写」と記されている。


 隈元謙次郎著「高橋由一の風景画」には、本作品が《不忍池》(Cat.No.52)《愛宕山より品川沖を望む》(Cat.No.28)とともに、かつて伝・浅井忠であったことが記されている。また以下のような解説がある。「油彩画は、これら〔《写生帖第Ⅳ冊、Ⅵ冊》〕の素描と同構図であって、墨水をへだてて真崎稲荷付近を望み、中景に葦の生えた中洲を描き、近景画面右手に葉の茂った樹木を表わしている。しかし、異なる点は油彩画においては河に帆船と渡舟を描き、さらに画面右端に老樹の幹を加えた点である。その色調は空、家屋、樹幹など「愛宕山」にきわめて近い。」(註1)。


 歌田眞介編『高橋由一油画の研究』には、本作品に描かれた「雲」が、《写生帖》にはないことも指摘されている。同書にあるように、素描下絵にはない雲や点景を油彩画に施すことは、高橋由一の風景画制作に特徴的な方法である。歌田氏によると《真崎の渡》《真崎稲荷社ノ景》(Cat.No.5)の描写は、水平方向に弱い筆勢で描かれた「空」の筆触、樹木の描写など《旧江戸城之図》(Cat.No.2)《相州江之島図》(Cat.No.7)と共通しているという(註2)。


 《写生帖第Ⅳ冊》の風景素描は、1877(明治10)年の第1回内国勧業博覧会、および翌年のパリ万国博覧会に出品された《東京十二景》(屏風仕立六曲一双:半双には「愛宕山」「東橋」「飛鳥山」「滝野川」「橋場」「隅田川」、もう半双には「真崎」「東台月夜」「待乳山」「品川」「道灌山」「不忍池」を描く)の準備段階に制作されたと考えられている。歌田氏は、同じく《写生帖第Ⅵ冊》をもとにした《真崎稲荷社ノ景》は、恐らく本作品以前に制作されたとしている。かつて、1876(明治9)年の天絵社月例油絵展に出品された《真崎の継橋の雨の景》ではないかと考えられ、制作年を1876年や1873-76年とする諸説があった。


(荒屋鋪)



10
初代玄々堂像
1875(明治8)年
油彩・麻布
59.5×42.5cm
神戸市立博物蔵


 京都の銅版師、初代玄々堂松本保居(1786-1867年)通称儀平の肖像画。儀平が銅版画を最初誰から学んだかはわからないが、オランダ銅版画家として大成した中伊三郎あるいは井上九皐に師事したとされる。上方の名所絵や天文地理の図解、外国風景銅版画などを得意とした。二代玄々堂と称したのは初代玄々堂松本保居の長子松田緑山(1837-1903年、通称敦朝、蘭香亭、清泉堂とも号す)で、細密な刻線を特徴とした微塵銅版に関して先代よりもすぐれたものが多い。1869(明治2)年から1874(明治7)年まで紙幣や地図などの製造を明治政府に依頼され上京。これらの製造が終わると、より簡便で実用性のある石版画に力を入れはじめた。彼の工房には山本芳翠や五姓田義松、中丸精十郎などが出入りし、由一もそのひとりであった。この作品は二代玄々堂へ出入りしていた1874、5(明治7、8)年の作品で、すでに初代玄々堂は亡くなっているので写真や聞き書きに従って制作されたものと推定されている(註1)。玄々堂応接間に亀井竹二郎の描いたその妻の像とともに掛けられてあったといわれている。丹念に描き込まれたところがある一方、ぞんざいに描かれた部分もあるが、由一の代表作《花魁》(Cat.No.3)と同様、人物の内面にまで鋭く迫った表現となっている。画面裏に「高橋由一画 松田敦朝父儀平之像」とある。1898(明治31)年明治美術会創立10年紀年展に参考品として松田敦朝がこの作品を出品していて、このときの題名は《松田保居ノ像》となっている。1982(昭和57)年、神戸市立南蛮美術館から神戸市立博物館へ移管された。


(田中)


註1)副島三喜男「玄々堂一派の銅版画」。



15
雪景

1876-77(明治9-10)年
油彩・紙
54.5×85.1cm
東京国立博物館蔵


 土方定一編『高橋由一画集』には、《墨堤雪》(《墨田堤の雪》、Cat.No.14、金刀比羅宮博物館蔵)との関連で作品解説(匠秀夫・解説)がされている。「〔《墨田堤の雪》〕は長命寺の土塊ごしに遠く雪に覆われた浅草寺を望む雪後の景‥‥.〔《雪景》〕は‥‥〔《墨田堤の雪》〕より左方から墨田川を前景一杯にとりいれた雪中の景である‥‥〔《雪景》は〕白と青灰色の単純な色調でまとめられている」(註1)。本カタログ《墨田堤の雪》解説にもあるように、《写生帖第Ⅵ冊》には4枚の雪景下図が見られ、その1枚には、右上に三行「明治九年/一月卅日写/雪景」という年記がある。また《写生帖第Ⅳ冊》(Cat.No99-参-Ⅳ-2、14)にも2点の鉛筆下図が見られる(註2)


 青木茂編『高橋由一』には、「佐kらの枝につもり、画面いっぱいに入れた墨田川に降る静かな雪を、青灰色と白とによる単調な賦彩で描いたフォンタネージの影響のみられない泥絵的な風景画」と解説されている(註3)。また北澤憲昭著『眼の神殿』には、以下のような一節がある。「雪の墨田川を描いた明治10年頃の作と推定される『雪景』などは江戸以来の名所絵的な作画意識が濃厚なものである」(註4)


(荒屋鋪)


註1)土方定一編『高橋由一画集』
註2)前掲書
註3)青木茂編『〈近代美術24〉高橋由一』
註4)北澤憲昭『眼の神殿』



18


1877(明治10)年
油彩・紙
140.0×46.5cm
重要文化財
東京芸術大学芸術資料館蔵



1897(明治30)年5月26日付で《鮭》は東京芸術大学芸術資料館(旧東京美術学校文庫)に収蔵された。納入者は小林萬吾。現在のように表具仕立てになったのは1935(昭和10)年前後の時期であるが、修理記録は残されていない。修理される以前は、鮭を描いた部分以外の紙に波状の襞ができていた(註1)


 高橋由一の代表作とされているが、この作品には署名・年記がなく、決定できる資料もないため、はたして本図が由一の作品であるのか(註2)、またその制作年はいつになるのかといった問題は解決していない。今回展示されている3点の鮭以外にも近年多くの鮭が見つかり、それらは1982(昭和57)年の西宮市大谷記念美術館で開催された「明治洋画の巨人・高橋由一展」で一堂に展示された。これら3点以外の鮭は「伝由一」として展示されたが、すべての鮭について描き方が大きくまたは微妙に異なるため、このなかには天絵塾生か由一以外の誰かによる作品が含まれている可能性も十分に考えられる。


 由一が鮭または鮭らしき作品を展覧会に出した以下のような記録が当時の新聞などに残されている。


1875(明治8)年3月第4回京都博覧会《鮭》
       10月国沢新九郎が開いたわが国初の洋画展《乾魚の図》、銀座での展覧会《壁に塩鮭が釣るしてある図》(註3)
1876(明治9)年4月浅草花屋敷における油絵展《乾魚図》
1877(明治10)年12月天絵社月例油絵展《塩鮭の図》(註4)
1878(明治11)年12月天絵社月例油絵展《鮭の図》
1879(明治12)年11月京都東山双林寺の文阿弥での欧画展覧《鮭の図》
1880(明治13)年4月天絵学舎月例油絵展《魚の図》


 1877(明治10)年以前に描かれたのではないかという説もあるが、姓の切り身の部分について土方定一氏は「肉朱色の明暗があきらかにフォンタネージとの接触による明暗の調子」をもっていると述べ、また、森田恒之氏は「朱色を下層に白を混ぜた朱色で上からこするようにして描かれた、この方法がイタリア系のヴェラトゥーラと呼ばれる技法であり、このような微妙な技術は実際に手ほどきを受けないとまねができないのではないか」と具体的な意見がだされた。ものに対する集中力のみで日本の画家が外来の絵画技法をこれほどまで完璧に消化できたのか、またはフォンタネージという専門画家による指導があってはじめて実現できたのか(註5)、この作品の年代決定は非常に大きな問題を含んでいる。


 1990(平成2)年10月東京芸術大学芸術資料館で「特別展観《鮭》」と題された展覧会が開催され、《写生帖》などとともに本作品と《鮭》(Cat.No.43)《鮭図》(Cat.No.49)があわせて展示された。開催期間中同大学構内でシンポジウムが行われ活発な議論がなされた。上記森田氏の意見もその時にだされたものである。


(田中)


註1)青木茂「高橋由一の《鮭図》にまつわる鮭談義(一)」。


註2)高橋由一の甥で天絵社の塾頭であった安藤仲太郎は「明治初年の洋画研究」のなかで、本図は由一の作品であり現在東京美術学校にあると述べている一方で、彭城貞徳はこれに対して問題ある発言をしている。《鮭図》(Cat.No.49)の作品解説参照。


註3)内田魯庵『読書放浪』。追想によると、ジオラマ式に外部からの光線を遮断し、光を鈍くして作品を浮き立たせるよう工夫してあったらしい。


註4)平木政次の『明治初期洋画壇回顧』には天絵社月例油絵展の回想「この時の会場で記憶に残って居りますのは、やはり高橋先生の作品です。なかでも『塩鮭の図』は先生の傑作だと思います。一尾の鮭をつるしてその半身を切り取って肉を見せた図で、当時驚いてその写実力に敬服したものです。」とある。この一文は1877(明治10)年12月の月例展をさしているものと思われる。


註5)由一は工部美術学校へ息子源吉を入学させ、しばしばフォンタネージの画室を訪れ揮写を傍観し画説も聞き親交を厚くしたと『高橋由一履歴』に書かれている。また、フォンタネージのことについて「非常に能技なれば頗る絵画術の極埋を尽くしたる人(『油画史料』1-94)」との見解があることから、積極的に技術を学ぼうとする姿勢が窺える。



22
鴨図

1877(明治10)年
油彩・麻布
45.5×67.0cm
山口県立美術館蔵


 1878(明治11)年1月天絵社月例油絵展に出品。この作品も《鯛(海魚図)》(Cat.No.47)や《なまり》(Cat.No.21)などと同じく俯瞰構図で描かれている。色彩は以前より豊かになり主題に草花をそえて装飾性が加わわり、それ以前に描かれた《なまり》や《豆腐》(Cat.No.19)にみられる憑かれたような細密描写とはまた趣を変えている。


 日本では古くから鴨や雁、鹿肉などが贈答用に使われていた(註1)。1873(明治6)年ウィーン万国博覧会に派遣使節の随員となり、銅版画や石版画を学んで帰国した岩橋教章の作品にも病中見舞いでもらった鴨を描いた作品がある。そうした日常的なものを題材として取り入れることで油絵をより身近なものとしようとした由一の意図が窺える。


(田中)


註1)青木茂「高橋由一の《鮭図》にまつわる鮭談義(二)」。



24
甲冑図(武具配列図)

1877(明治10)年
油形・麻布
113.0×164.0cm
靖国神社遊就館蔵


 現存する由一作品のなかでも画面寸法が最大である。1989(平成元)年、遊就館14号室に展示されたとき、一部の美術関係者から由一の作品ではないかとの疑問が投げかけられ、調査したところ裏面木枠下部に「明治十年上浣写 高橋由一□(□は識か?)」の文字がみつかり由一作と確認された作品である(註1)。この作品は、水戸藩士で後の帝大教授内藤耻叟(ないとうちそう)により1877(明治10)年の第一回内国勧業博覧会に出品され、また、1878(明治11)年の名古屋博覧会に出品、褒賞を受けている。靖国神社への奉納時期は「明治12年 日記 靖国神社社務所」9月24日の条に、内藤耻叟と安田善次郎(安田財閥創始者)が奉納を願い出、この日靖国神社に持ち込んだとする記録がある。遊就館は当時建設中(1882年開館)で開館の折りには掲額する予定にあった。当時内藤耻叟の息子内藤誠は由一の門下生で筆頭格にあり、耻叟と由一の親交が推定される。由一は1871、2(明治4、5)年頃に「招魂社地展額館奉創設布告書」を書いており(註2)、靖国神社の前身である招魂社に美術館に相当する施設の建築を構想していた。実際靖国神社に《甲冑図》を持ち込んだのは内藤耻叟らであったが、由一自身も本作品の奉納を考えていたように思われる。


(田中)


註1)木下直之「甲冑図孝一高橋由一の新出作品をめぐって」。
註2)『高橋由一油画史料』1-83。



26
墨堤桜花

制作年不詳
油彩・厚紙
28.0×43.Ocm


 《墨堤桜花》(Cat.No.25)などと関連づけられる作品。土方定一編『高橋由一画集』には、「伝高橋由一作」として掲載されている。しかし、空の部分を描く水平方向の筆触や樹下の点景人物の処理など高橋由一に固有な描写が見られる。同画集には他の1点、「画面右手に墨堤の満開の桜花と花下を散策する老若男女を配している」(註1)《墨堤桜花》(1876-77年、66.5×97.2cm)も掲載されており、その作品には、毛筆淡彩下絵が《写生帖第Ⅱ冊》に見られ、1877(明治10)年5月6日の天絵社月例油絵展に出品された《花下遊歩の図》に相当するのではないか、との仮説も加えられている。


 また金比羅宮博物館所蔵《墨堤桜花》(Cat.No.25)には、鉛筆下図が《写生帖第Ⅶ冊》に見られるが、そこには「長明寺門前土坡桜花、明治七 四月第九日」と記されている。同所の風景は《写生帖第Ⅳ冊》にも描かれている。


 「長明寺」とは、現在、東京都墨田区向島にある天台宗の長命寺。山号は宝寿山、円仁の開創により初め常泉寺と称し、徳川家光が長命寺と改めた。隅田川七福神のひとつ弁財天である。


(荒屋鋪)


註1)土方定一編『高橋由一画集』(匠秀夫氏による解説)。



31
国府台真景図

1877(明治10)年頃
油彩・麻布
65.5×98.5cm
東京国立博物館蔵


 国府台(こうのだい)は江戸川東岸の丘の地名。鴻台ともいい、下総国の国府が置かれていた台地で、現在の千葉県市川市にある。中世に太田道灌はここに市川城を築いた。北条、里見両氏の古戦場でもあり、『国府台戦記』で知られる。国府台は江戸時代からの名所であり、《江戸名所図絵》や広重の《名所江戸百景》に描かれている。本作品は、現在の里見公園の高台から江戸川上流方向を遠望した風景(註1)


 土方定一編『高橋由一画集』では、描かれた場所について、《写生帖》との関連-《写生帖第Ⅶ冊》には、同じ風景の鉛筆淡彩下絵が見られるが、そこには「鐘ケ渕」と記載されている(Cat.No.99-参-Ⅶ-30)-で、本作品を「国府台」ではなく「『鐘渕図』とすべきものであろう」と解説されている(註2)。鐘淵、鐘ケ淵は、現在、東京都荒川区と墨田区の隅田川沿岸一帯の名称。高橋由一の風景画には、しばしば隅田川が登場するが、鐘ケ淵付近には、隅田川を見渡す高台がないことから、本作品は江戸名所図絵にある「国府台」風景と見る説が現在、一般的である(註3)


 ところで前掲画集の解説には、「青緑色調で克明に描かれており、この主調色と描法の類似から、……『本牧海岸』や……『愛宕山』と同じ頃、明治十年前半期に描かれたものと推定したいが、調子づけは良くなされており、特に空や雲は『本牧海岸』に比べて進境は明らかであり、全体的に空間把捉は前二作にたち勝っている」とある(註4)


(荒屋鋪)


註1)古田亮「国府台真景」。
註2)土方定一編『高橋由一画集』(匠秀夫氏による解説)。
註3)『東西の風景画』展カタログ 静岡県立美術館1986年(Cat.No.156. 《国府台真景図》解説)。
註4)前掲書、匠秀夫氏による解説。



33
驟雨図(しゅううず)

1877(明治10)年頃
油彩・麻布板貼
45.0×74.0cm


 《写生帖第Ⅶ冊》(Cat.No.99-参-Ⅶ-1)に、本作品の鉛筆下絵が見られる。土方定一編『高橋由一画集』には、以下のような解説がある。「船頭が驟雨の中へもやいを解いて屋形船を乗り出そうとしている処から見て、恐らく墨水河畔の夕暮れであろう」(註1)


 本作品裏面の裏板には何枚かのラベルが貼られているが、それらは来歴と題名について確認の資料となる。特に裏面右下「高橋由一作 驟雨/(広瀬操吉氏蔵)/文部技官 隈元謙次郎」。また裏面左の昭和35年8月23日付の文部省の預り証には「‥‥作者 高橋由一/題名 驟雨…」とあり、同年に文部省主催で開催された『明治・大正・昭和秀作美術展』出品時(No.55)には《驟雨》という題名であったことが判る。裏面上には、1964(昭和39)年4月26日から6月7日まで鎌倉の神奈川県立近代美術館で開催された『高橋由一展』のラベルが見られ、そこには「作品名 驟雨図/作者名 高橋由一……」とある。また裏面中央には「高橋由一/驟雨/明治10年頃/明治・大正・昭和 三代名画展」というラベルが見られる。


 本カタログの田中善明・三重県立美術館学芸員の解説にあるように、広瀬操吉氏は、戦前から東京銀座、数寄屋橋に三笠画廊を経営し、同画和が戦災で焼失したため、戦後は中央区銀座西六ノ一に三笠画廊を続けていた。広瀬操吉氏は東京世田谷の自宅に「日本初期洋画研究所」を開設、戦前(昭和初年~)から同氏が蒐集した初期洋画作品についての調査・蒐集を続けていた。


(荒屋鋪)


註1)土方定一編『高橋由一画集』(匠秀夫氏による解説)。



43


1878(明治11)年頃
油彩・麻布
127.5×36.5cm
山形美術館寄託


 この作品は1964(昭和39)年、山形大学の長野亘氏により秋田県湯沢市の京野兵右衛門氏のもとで発見された。 由一は1887(明治20)年10月から翌年の1月にかけて3回目の東北旅行に出た。そして、山形県北山村郡楯岡(現在の村山市)に滞在し、伊勢屋という旅籠屋に止宿した。この作品は、この伊勢尾の帳場に掲げられ「伊勢屋の鮭」と呼ばれていた。


 その制作年代について由一が止宿した上記の期間内で描かれたとの意見がある。それに対し、土方定一編『高橋由一画集』では、これほど描き込まれた本作品が旅先での短時日のうちでは制作不可能であること、天絵学舎を閉鎖し収入源を失った由一は資金稼ぎのためか今回の東北旅行では時間的にも技術的にも比較的簡単な肖像画の注文を受けた13枚のうち3枚を現地で描いた事実などから、重要文化財《鮭》が好評であったのに由一が気を好くして描いたものだと考える。そして、1877(明治10)年12月の天絵社月例油絵展の《塩鮭の図》を重要文化財《鮭》であるとすると、それからほど近い時期1878(明治11)年12月の月例展に出品された《鮭》がこの作品であろうと推測している。


 縄の描き方や切り身の表現に重要文化財の《鮭》と共通した特徴がみてとれるが、尾鰭にみられる説明的な描き方は《鮭図》(Cat.No.49)に近い。


 1965(昭和40)年山形美術館に寄託され現在に至る。1970(昭和45)年黒江光彦氏により修理がなされた。


(田中)



44
厨房具
1878-79(明治11-12)年頃
油彩・麻布
42.5×60.7cm
愛知県美術館蔵


 1977(昭和52)年、愛知県文化会館美術館が購入(註1)。愛知県美術館開館にともない移管された。署名・年記はない。
 背景に左上から右下への流れる筆の跡は明治10年代以降の由一作品で見られる特徴である。奥から手前へと順に描きすすめる方法は風景画を描く手順と共通している。おろし金や蓮華などに見られるように、左から投げかける光が落とす影の意識が働いている。本作品は、1879年(明治12)年5月の天絵社月例油絵展に出品された「器物の図」であろうか。


(田中)


註1)愛知県美術館『愛知県美術館所蔵作品選』1992年10月。



49
鮭図

1879-80(明治12-13)年
油彩・板
85.8×24.8cm



 1982(昭和57)年の「明治洋画の巨人・高橋由一展」(西宮市大谷記念美術館)で展示された9点の鮭のうち板に描かれているのはこの作品だけである。重要文化財の《鮭》(Cat.No.18)とくらべてみると、この《鮭図》は黒褐色を帯びている。前者は白い紙の地色を生かし、その上に茶褐色を薄く塗った描き方であるのに対して、本作品は板の木目を生かした描き方になっている。


 木村毅の著書『ラグーザ玉自叙伝』のなかで、由一が細長い画面を使用したことについて「油絵が、横では、床の間に掛けるわけにも参りません。そこで柱に掛けるやうに、あの頃は、よく細長い板に書いたものです」と玉は語っている。重要文化財の《鮭》が少し背景とは距離をおいて鮭を吊るしているのに対して、この《鮭図》はあたかも縄が支持体の板に釘打ちされ吊るされているように板と接近している。重要文化財《鮭》とくらべて《鮭図》が重量感と緊張感に乏しいのは題材の設置の仕方の違いによるところが大きいように思える。むしろこの作品は柱に掛けることを想定し、あたかも実物がそこにあるかのような幻影を楽しんでいるようである。


 この《鮭図》には「日本橋中洲町 美妙館より出」と読むのであろうか、縄の先端に荷符が結われている。「美妙館より出」の「より」の文字が「ま川」とも読み取れることから「川」を「つ」と読みなおせば、「まつ」となり五姓田義松か横山松三郎に関係しているのではないかとの指摘もある(註1)。そうかといえば、沖野岩三郎の『宛名印記』では彭城貞徳から聞いた言葉が書き記されていて、「あの有名な高橋氏の描いた吊し鮭の絵の熨斗をかけた方が高橋氏の筆で、肉を切り取った方は彭城氏が描いたのだという話である。」とあり(註2)、熨斗をかけた鮭の絵はこの作品しか残っていないからこの話を信じると由一の作である可能性が高い。重要文化財《鮭》と、この《鮭図》では鱗や尾の部分など鮭の各部の描き方が異なっている。しかし、支持体の違いによる粘稠性(絵具ののび具合)やその生かし方の違いを考慮にいれると同一作者として認めることもできないではない。もし、この作品が由一の作品でなかったとしても由一と同等の描写力をもった画家の手によることだけは確かである。


 裏面に「筆者 高橋由一/画題 鮭圖/東京都世田谷区上馬町三ノ九七七/日本初期洋畫研究所/電話 世田谷(42)0七八四」と書かれた紙が貼られている。日本初期洋畫研究所とは三笠画廊社長で詩人でもある故広瀬操吉氏が自宅で開いた研究所である。


(田中)


註1)土方定一『高橋由一画集』作品解説。
註2)青木茂「高橋由一の《鮭図》にまつわる鮭談義(一)」。



50
花図

1880(明治13)年頃
油彩・麻布
93.7×57.7cm
東京国立博物館蔵


 由一の肖像画以外の油画作品では珍しく縦長の画面である。以前は由一の作ということについて疑問視されていたが、この作品の額縁が他の由一作品の額縁と類似しているため(現在の額は最近新調されたものである)由一の作品と信じられている。前景の朝顔や夏草は細かく描かれているのに対し、山林など背景を暈したのは当時流行の写真館の背景画をそのまま利用したか、写真をもとに描いたのではないかという説がある。背景の描き方にフォンタネージの影響がみられるために1880(明治13)年頃と推定されている(註1)


(田中)



註1)土方定一『高橋由一画集』。



76
日本武尊

1891(明治24)年頃
油彩・麻布
65.3×51.5cm
東京芸術大学芸術資料館蔵


 1919(大正8)年5月26日星次昌より購入される。


 『古事記』によると、西方平定をなしとげた直後の日本武尊は天皇から東方十二道の神、王化を平定せよと命じられた。本図日本武尊が所持している草那芸剣(くさなぎのたち)と袋は斎宮であるおばの倭比売命(やまとひめ)から授かったものである。本図では背景に火が描かれているため、東国平定の途中の相模国で国造に欺かれ火に囲まれた場面であろう。この難は草那芸剣と袋の中の火打ち石のおかげでのがれることができた。


 1889(明治22)年5月、伝統美術復興によって排斥された洋画家たちは団結して明治美術会を結成した。しかしながら結成主旨に書かれているように明治美術会は決して国粋主義を否定する立場を取らなかった。この会の創立には由一も尽力し、第2回展へワーグマン《高輪東禅寺搏闘図》の模写を出品している。晩年に近づいた由一は本図以外にも《楠正行如意輪堂に和歌を残すの図》(Cat.No.79)や《織田信長ひそかに勅使を五老臣に示すの図》(Cat.No.80)などの歴史画を描いており、国粋主義の影響下にあったことを物語っている。


 1986(昭和61)年から行われた東京芸術大学油画技法材料研究室での調査で、下層に別の絵が描かれた可能性があること、仕上げのワニスを塗ってからふたたび加筆されているが、顔料分析の結果由一自身による加筆の可能性が高いとの報告がなされている(註1)。画面に点在する斑、ワニスの黄化、経年変化によるたるみが生じていたことなどから、1988(昭和63)創形美術学校修復研究所渡辺一郎氏により修復が行われた(註2)


(田中)


註1)坂本一道「日本武尊」『明治前期油画基礎資料集成』。
註2)渡辺一郎「日本武尊」(歌田眞介編『高橋由一油画の研究』および『東京芸術大学藝術資料館年報’89』)。



77
長良川鵜飼図

1891(明治24)年
油彩・絹
93.7×157.7cm
東京国立博物館蔵


78
鵜飼図

1892(明治25)年
油彩・麻布
93.0×146,2cm


 63歳の高橋由一は、1891(明治24)年7月6日、岐阜県に旅行、8月11日に帰京した。この間、のちに描くことになる《長良川鵜飼図》《養老瀑布図》のための写生を行なっているが、柳源吉編『履歴』には、この辺の事情について、以下のような記述が見られる。「明治廿四年三月岐阜県下有志者卜同盟シテ同県下ノ両奇観ナル養老瀑布長良川鵜漁ノノ(ママ) ニ図ヲ大幅油絵ノ掛物二調製シ 主上 皇后両陛下へ奉献スヘキコトヲ予定シ其七月六日岐阜地ニ至り二図ヲ直写シ同八月十一日帰京自舎ニ於テ更二献画ノ大油絵落成即時岐阜表へ送納シケルニ同地方大震災ノ為メ奉献延引卜成レリ」(註1)


 つまり岐阜県有志と《長良川鵜飼図》《養老湊布図》両図を、大幅油絵の掛物として明治天皇・皇后に献納を予定したが、岐阜児地方の大地震(濃尾震災)のため延期したという記述である。河野元昭氏は、現在、額装されている本作品が、本来、掛幅として制作されたことに注目し、高橋由一が洋画の普及のために軸装や屏風仕立の独特な画面形式を模索していたことを指摘している(註2)


 土方定一編『高橋由一画集』において、副島三喜男氏は、本作品と五姓田義松の描いた《岐阜金花山ノ麓長良川鵜飼ノ図》(1878年)を比較して以下のように述べている。「『長良川鵜飼図』は由一ばかりでなく、明治十一年五姓田義松も厚紙油彩の小品を描いている。由一の鵜飼図はこの義松の図柄と類似しているが、これもまた『名所絵』の定式化した枠に絵画意識がはめ込まれた結果であろう。両図とも殆ど同じ構図であるが、『長良川鵜飼図』の方が漆黒の闇での鵜飼であるのに、他方は幾らか明るい雰囲気である」(註3)


 1986(昭和61)年に神奈川県立博物館で開催された『明治の宮廷画家-五姓田義松』展カタログには、同展に出品された五姓田義松作《岐阜金花山ノ麓長良川鵜飼ノ図》について、以下のような解説がある。「高橋由一の作品にも『長良川鵜飼図』(明治24年)という晩年の大作があるが、二作を比較してみると対象に即した描写力に格投の相違があることが分かる。由一の場合、この図を制作した意図には光と影、明暗の対比の妙を油絵具で本物そっくりに描いて見せるといった生々しい部分があるのに対して、義松の場合、見えるがまま、あるがままに対象に入り込んだ素直で写実的な描写になっている」(註4)。五姓田義松は《養老滝》(油彩・麻布、49.4×33.2cm、東京国立博物館蔵)も描いている。


 本作品は、旧天絵学舎社中主催洋画沿革展覧会(1893年10月28日~11月12日、東京、京橋区新富町二丁目の旧「近源亭」跡)に出品されており、後年、高橋由一の嗣子、柳源吉により帝室博物館に寄贈された。


(荒屋鋪)


註1)柳源吉編『履歴』
註2)河野元昭「高橋由一 江戸絵画史の視点から」。
註3)土方定一編『高橋由一画集』(副島三喜男氏による解説)。
註4)『明治の宮廷画家-五姓田義松』展カタログ 神奈川県立博物館 1986(昭和61)年(横田洋一氏による解説)。



84
根津権現

1872-73(明治5-6)年
水彩・紙
東京芸術大学芸術資料館蔵
-1,島霞谷園中   17.7×25.3cm
-2,根津社前弁天之池18.0×25.3cm
-3,根津山上遠望  17.8×25.3cm


 根津権現を描いたこの3点の水彩画は各画面の上方に、描かれた場所などが記されている。それらは「根津境内 島霞谷園中」、「根津社前辨天之池」、「根津山上遠望」である。


 福田徳樹氏は「高橋由一・水絵による根津権現神社の三点の写生」のなかで、3点の水彩画の画面づくりについて、現在の根津神社の実景を取材しながら詳細に解析している。福田氏の述べるように、画面からは「非常な集中度によって」描かれた筆運びを見ることができ、「この三点共に社殿そのものを写さずに、境内、その周辺に取材していることも面白い」作品である(註1)


 3点とも同じサイズの洋紙に、墨と水彩を用いて描かれた風景。福田氏は、使用した筆も輸入品の水彩用筆ではなく、恐らく描きなれた毛筆であり、洋紙は《鮭》(Cat.No.18)を描いたものよりも厚手の紙であるという。また制作年について同氏は、1872(明治5)年前後、おそくとも77年までと推定している。


 根津権現、つまり根津神社は現在、東京都文京区根津一丁目にある旧府社。もともと千駄木にあった神社を、六代将軍徳川家宣の代に郎跡の現在地に移した。日枝神社とともに根津権現は将軍家の崇敬社。


(荒屋鋪)


註1)福田徳樹「明治洋画散歩・4 高橋由一・水絵による根津権現神社の三点の写生」。



85
山水図

制作年不詳
墨・紙(軸装)
132.5×65.0cm
東京国立博物館蔵



 土方定一編『高橋由一画集』には、本作品を、高橋由一が蕃書調所画学局において川上冬崖の指導のもと、イギリス、フランスなどの画洋書や臨本などを毛筆で臨写していた時期の作として紹介している(註1)


 「花陰逸人」の署名が画面左上にある。


(荒屋鋪)


註1)土方定一編『高橋由一画集』(副島三喜男氏による解説)。



86
洋人捕象図

1874(明治7)年頃
墨・絹(軸装)
99.0×61.7cm
東京国立博物館蔵




 《写生帖》には西洋画の模写が多くあり、本作品と同じ構図の素描も見られる。画面左上に、高橋由一が水墨画へ添える「花陰逸人」の署名がある(註1)。木下直之氏は『日本美術の十九世紀』展カタログの「まだ見ぬ外国風景」のなかで、嘉永7(1854)年に和親条約締結のために再来したペリーから幕府老中筆頭阿部正弘に渡された「ケンダル『米墨戦争』」を、蕃書調所の局員たちが見る機会がありえたのではないかと示唆している。この本は、アメリカ大統領の贈物のひとつ、ジョージ・ウィルキンソン・ケンドール著『米墨戦争誌』で、そこにはカール・エーヴェルの描く挿絵の彩色石版画が12点、掲載されていた(註2)。また蕃書調所で指導にあたった川上冬崖の旧蔵した石版画、写真が現存し、蕃書調所に学んだ島霞谷の遺品にも石版画が含まれており(註3)、高橋由一の《写生帖》に見られるスケッチも、これらの石版画や書籍、雑誌を写したものであろう。


 本作品は、博覧会事務局主催昌平坂書画展覧会(1874年5月1日~5月31日、東京、湯島聖堂)に出品されている。


(荒屋鋪)


註1)青木茂編『〈近代の美術24〉高橋由一』。
註2)『日本美術の十九世紀』展カタログ 兵庫県立近代美術館(木下直之氏による解説)。
註3)前掲カタログ解説。



87
枕橋

1875-76(明治8-9)年頃
水彩・紙
37.4×58.5cm
東京芸術大学芸術資料館蔵


 《写生帖第Ⅵ冊》には、1875(明治8)年8月の年記をもつ素描(Cat.No.99-参-Ⅵ-26)が見られるが、土方定一編『高橋由一画集』には、高橋由一の水彩画・石版画として、以下のような解説が付されている。「〔枕橋〕はこの鉛筆下図『枕橋辺』が『写生帖第四』に明治八年八月の年記を付して残るので、これより少し後のものと思われる。この『枕橋』図の右端石垣のつき出ている処は料亭八百松のあった地であり、幻の版画家小倉柳村がその光線版画にここを描いているが、由一の未だ日本画と西洋画の折衷的な水彩画は柏亭の父石井鼎湖〔日本画家〕のそれと共に日本人の描いた水彩画としては最も早いものとしてよいであろう」(註1)


 天絵社月例油絵展(1878年10月6日)には、《枕橋の図》という作品が出品されている。


(荒屋鋪)


註1)土方定一『高橋由一画集』(匠秀夫氏による解説)。ただし、《写生帖第Ⅵ冊》のこと。

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