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如来堂関係資料

 如来堂は御影堂の西に南面にして立つ専修寺主要建築のひとつである(「勢州奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡絵図」・58−A)。第十七世圓猷によって享保4年(1719)の春に発願され、造営が開始された。

 建立の経過とその後の修理については、『如来堂御建立録』(津市在住の専修寺御用大工高木家に伝わり専修寺に寄贈されたもの)や『御堂方記録』(No.58−C)『圓猷上人日記』(No.58−D)『圓猷上人置書』(No.58−E)をはじめとする文書類や、昭和58年10月にはじまった今回の大修理工事とそれにともなう部分解体調査の結果発見された多数の墨書・箆書などによって詳細にわたってしられるようになり、近世の大規模寺院の建立の経過や建築の構造・技法について多くの新知見をえることになった。

 『如来堂御建立録』(以下『御建立録』と略す)によると、享保6年(1721)11月15日に釿始が行われた。棟梁工匠は近江国八幡の高木日向が当たり、下棟梁として伊勢白塚の長谷川藤左衛門、浜田の村田喜太郎が加わった(延享元年の上棟の際には、高木日向は高木但馬に、長谷川藤左衛門は重右衛門に替わっている。『御建立録』・「こけら板墨書」)。参加した大工等には出面・当直等が整然と体勢が定められていたことが発見資料からしのばれる(「如来堂身舎背面野地板」・No.58−J、「裳階東内室裏板」・No.58−Kなど)。

 用材は、柱身となる大材は美濃で切り出し、その他信州からも切り出すほか、江戸・大坂でも調達するなど、その確保にはかなりの苦心を要したとみられる。

 発願後も本格的な着工は遅れ、最初の15年ほどのあいだは、少人数の大工で組物の製作や尾垂木の彫刻等を細々とおこなっているような状況がつづいたが、元文3年(1738)になって如来堂建立を末寺が引き請けることが決まって組織的な造営体勢がととのったため、ようやく工事も軌道に乗るようになった。柱建てが済むと以降組立ては順調に進み、延享元年(1744)3月24日にはいよいよ上棟のはこびとなった。

 内陣の宮殿は、扉の刻銘によれば、京都の宮殿師桑嶋作左衛門に発注され、元文6年(1741)3月に完成し、『御建立録』によると寛保3年(1743)に寺に納められた。おなじく『御建立録』の記載では、尾垂木鼻・蟇股・持送り等の彫物の製作には京都の彫物師丸山新之丞が当たり、これも4・5年のうちにできあがった。屋根瓦は、瓦の箆書(「巴瓦」・No.58−F、同G、「のし瓦」No.58−Tなど)によると、棟梁宇田藤兵衛政光と同藤吉郎のもとに伊勢・志摩・伊賀の各地から瓦師が集められ、土を坂部(津市大里窪田)からとって焼かれている。

 寛延元年(1748)7月18日、遷仏がとりおこなわれ、これによって如来堂の造営は、発願から30年ほどを経て、一応の完成をみた。寛延4年(1751)6月15日の「圓猷上人置書」(No.58−E)には、なおかつ天井・縁高欄は未完成であった旨、記されているが、その後徐々に建物の荘厳も整えられていった。

 その後寛政12年(1800)には御影堂との間を結ぶ渡廊(通天橋)の上棟が行われ(「通天橋棟札」No.58−L)、以後も親鸞の五百五十年忌、六百年忌などの機会をとらえて修理整備が行われ、次第に昭和の修理以前の全容を整えるにいたった。

 本堂は、桁行五間、梁間四間の一重裳階付入母屋造で、正面向拝三間、軒唐破風がつく。

 間取りは浄土真宗本堂通有の方式をとり、正面一間および両側面の一間を「鞘ノ間」、正面より第二および第三の間を「大間」、第四間を「外陣」として、その間に矢来を設け、「外陣」「大間」を三間に区分して「中ノ間」「脇ノ間」にわける。堂後方では裳階部分を含め奥行二間とし、中央を「内陣」、その左右の脇を「余間」として、この部分を上段とする。その背面には梁間一間の後堂として張り出し、後堂へ約半間張り出して内陣、余間の仏壇を設けている。

 堂の正面および側面には擬宝珠柱高欄付の縁側を廻し、正面三間に木階段七級が付き、東縁側には通天橋、後堂には渡廊下が御影堂より延びる。

(山口泰弘)

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