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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1991 > 善信聖人親鸞伝絵 山口泰弘 高田本山専修寺展図録

善信聖人親鸞伝絵

山口泰弘

 「善信聖人伝絵」と通称される絵巻は諸本が存在するが、いずれも善信房親鸞(1173~1262)一代の伝記を描いた絵巻である。

 親鸞は、日野有範の子として生まれたと伝えられる。日野家は、藤原北家の支流である。9歳のとき剃髪し、延暦寺に入って学僧として修したが、建仁元年(1201)、29歳の年に比叡山を下り、京都東山の吉水で法然源空(1133~1212)の門にはいって専修念仏の信仰に帰依するようになった。35歳の承元元年(1207)、旧仏教側からの排撃によって念仏教団が弾圧をうけた際、法然の咎に連座し、藤井善信の俗名を与えられ越後に配流となった。以後非僧非俗の愚禿とみずから称して浄土教典の研究を深めていった。禁を解かれたあとも帰京せず、建保2年(1214)には関東地方へ赴いて、常陸を中心に、農民・下層武士を主とする民衆に教えを布した。およそ20年にわたる東国滞在を経て、60歳をすぎて帰洛した。それからのちの人生はその教えを著し、東国の弟子たちを導くことに費やされ、弘長2年(1262)、90歳で、京都押小路南万里小路東の居所で亡くなった。

 親鸞の墓所は、京都東山の大谷に定められた。10年後の文久9年(1272)になって彼の墓は親鸞の覚信尼の坊に移され、そこに廟堂が創建された。これが大谷廟堂であるが、覚信尼とその系脈が留守職として廟堂の維持につとめ本願寺へと発展してゆく。

 親鸞の三十三回忌にあたり、曾孫で本願寺第三世覚如が、このような親鸞の生涯から13のエピソードを選んで詞をつくり、信濃国塩崎の康楽寺の画僧浄賀(1275?~1356)に描かせた(永仁3年・1295)のが最初といわれている。上下二巻、上巻6段、下巻7段の計13段にわたって親鸞の生涯が描かれている。

第一段
第二段
第三段
第四段
第五段
第六段
第七段
第八段
第九段
第十段
第十一段
第十二段
第十三段
出家学道 9歳の春、慈圓の坊で剃髪
吉永入室 29歳の春、法然の門に入る
六角夢想 31歳、六角堂の救世観音から夢告を受ける
選択(せんじゃく)相伝 33歳、法然から選択集と真影を与えられる
信行両座 法然門下、真不退・行不退の両座に分かれる
信心諍論 親鸞、聖信房、勢観房、念仏房論争する
師資遷謫(せんたく) 35歳興福寺の奏上により越後へ配流
稲田興法 常陸の国稲田で布教を行う
山伏済度(さいど) 山伏の弁圓、親鸞殺害を企てるが、逆に入信する
箱根霊告 京に帰る途中、箱根権現の接待をうける
熊野霊告 常陸国の平太郎、熊野権現と親鸞の対座を夢中に見る
洛陽遷化(せんげ) 90歳、京都で入滅
廟堂創立 1272年(文永9)大谷に廟堂建立される

 上巻には、親鸞が法然の門下にあって師の信仰の精神をみずからのものとし、その知遇をえたこと、下巻では、越後配流ののち、関東に赴いて布教生活をおくったこと、その帰京と遷化、大谷の廟堂造立等が記される。

 鎌倉時代の末になると、とくに浄土宗関係の宗派で、祖師の伝記を描いた絵巻の制作が盛んになった。たとえば、永仁6年(1298)に蓮行筆「鑑真和上東征絵伝」、その翌年の円伊筆「一遍聖絵」、嘉元3年(1305)の「浄土五祖絵伝」などがその代表的な作例として知られる。祖師が個性的な人間的活動を体現することによってそれに接した民衆をじかに教化し、その祖師にたいして敬虔な崇敬の感情を喚起するという、この時期の浄土信仰の性格がこうした祖師の行状を描いた絵巻の出現を招いた。それとともに当時、集団的な組織をもって地方に分在していた教団が、統一的な信仰の中核を必要とするための信仰の対象としての役割も担っていた。箱根権現や熊野権現の霊験など、親鸞に霊性を付与しようとする覚如の意向が「善信聖人伝絵」に顕著なのもこうした理由からである。

 しかし、上述の初本は現存しない。この初本に制作時期内容ともにもっとも近いヴァージョンといわれているのが、本展覧会に出品されている専修寺本「善信聖人親鸞伝絵」である。当初、初本とおなじく二巻であったとみられるが、現在は五巻本に分割改装されている。

(山口泰弘)

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