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専修寺伝来の美術工芸品(仏画、彫刻)

毛利伊知郎

仏画

 真宗寺院では、絵画化された仏教尊像の礼拝があまり行われないために、祖師像以外の仏教絵画はあまり見られない。専修寺も例外ではなく、現在所蔵されている祖師像以外の仏画は、ゆかりの人々から寄進されたものである。

 朝鮮半島高麗時代に制作されたいわゆる高麗仏画の大作として知られる阿弥陀三尊像(No.26)には、鎌倉時代の仏像にも影響を与えた特異な図像形式と細緻な絵画表現とが見られる。もう一幅の阿弥陀三尊像(No.27)は、華やかな装飾性の強い鎌倉時代の作品であるが、色調や両脇侍の理知的な容貌には、中国宋の仏画からの影響も予想される。また、阿弥陀来迎図(No.28)は、僧尼と僧侶のもとへ雲をたなびかせて来迎する阿弥陀如来が描かれる。画中の僧尼については全く不明。平安時代後期以後流行を見た阿弥陀来迎図の形式に倣う室町時代の作。

 専修寺の仏画中、真宗寺院に固有の作品は、むしろ親鸞の肖像画〈御影(ごえい)〉や専修寺十世真慧など先代上人の肖像画である。特に、親鸞の御影は、高田派に限らず真宗諸派では信仰の対象として重要視されてきた。出品の親鸞聖人像(No.29)は、江戸時代に一身田専修寺と本山をめぐり争った越前専修寺(後に法雲寺と改称)に伝来した室町時代の画像。真慧が1496年(明応5)に、〈形見之真影〉とよばれる本図の由緒を裏書きしている。

 また、専修寺中興の祖といわれる真慧の姿を描いた真慧上人像(No.30)は、画面左に真慧自ら、本図が1499年(明応8)真慧66歳の寿像であった旨を記している。

 天竺震旦高僧連坐像(No.31)は、インド、中国の浄土祖師十人の姿を描いた室町期の作。本図は単独で制作された図ではなく、光明本尊の右幅であった可能性も指摘されている。

彫刻

 本展出品の専修寺の彫刻は、高田派での聖徳太子信仰の様を伝える聖徳太子像(南無仏太子)1体のみであるが、専修寺には本像以外にも真宗寺院特有の仏像が2・3伝存している。

 聖徳太子像(南無仏太子)は、2歳の聖徳太子が2月15日、東に向かい南無仏を唱え、掌中から仏舎利がこぼれ出たという伝説の姿を表した像。上半身裸で、緋色の袴を着け合掌する童子形に表現される通例の像容を示す。バランスのとれた体躯の構成等から見て、手慣れた仏師の作になることが予想される。室町時代前半から半ば頃にかけての作と思われる。

 出品作以外の彫刻では、「大谷最初の御影」の伝承を持つ親鸞聖人坐像や、1240年(延応2)運慶法印弟子但馬法橋慶俊作の銘を持つ対面所安置阿弥陀如来立像、「証拠の阿弥陀」と呼ばれる如来堂本尊阿弥陀如来立像などが重要。

 親鸞聖人坐像は、像高30cm余りの小像で、法衣を着けて、両手で念珠を持つ親鸞像通有の形式を示す。面部はかなり細かい彫り跡を示すが、平板な衣の表現などからみて、南北朝から室町時代前期にかけての制作であろう。

 如来堂本尊及び慶俊作の阿弥陀如来立像は、真宗寺院によく見られる、来迎印を結んだ三尺阿弥陀像。如来堂本尊像は、寺伝では専修寺十世真慧が、一身田に無量寿院を建立した際、高田派法流の正統性を認められた証拠に比叡山延暦寺から与えられた像であるという。詳細は不明であるが、鎌倉後半から南北朝頃の作と見受けられる。

 対面所安置像の作者慶俊については、詳細は明らかでないが、本像は当時流行した安阿弥様と呼ばれる仏師快慶の系統とは別系の、仏師運慶の系統に属する鎌倉後半期の基準作としての意味を持った像である。


(毛利伊知郎)

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